4、アネモネ:嫉妬のための犠牲/薄れゆく希望
自分自身でも行き場のない感情を抱きながら、ルシウス・コルヴィナスは劇場を出た。辺りはすっかり暗くなり、劇場のぼんやりとした明かりが建物の輪郭や石畳を照らす。内部で起きた事件など何も知らないように、星の綺麗な静かなよるだった。
「……!」
そのルシウスの視界の端に、何か赤いものが過ぎ去った。
一瞬のことだ。それは赤い薔薇の花弁を連想させ、そして同時に、劇場内の噎せ返るような血の臭いに紛れる、かすかな薔薇の匂い。それはルシウスの十六年以上前の記憶を呼び起こすだけのきっかけになった、が、それらが記憶の蓋をゆっくりと開ききる前に。その間際に、ルシウスの背後に人の気配が現れる。
歴戦の勇士も、か細い思い出、幻想の誘惑にはすぐに勝利できない。一瞬の遅れが確かにあった。それでも英雄卿と呼ばれたルシウス・コルヴィナスは背後に立った人物を敵と判断し、剣を抜いた。
「ルシウス」
しかし、その剣が振り降ろされることはなかった。いや、時間はあった。十分に。猶予はあった。ルシウスの神速をもってすれば、相手を一刀ののちに斬り伏せることは出来たはずだった。
しかし、ルシウスは、反射的に剣を振ろうとした自分の片手を、もう片方の手で押さえつけ、そして剣を叩き落とした。
「ルシウス」
己の名を呼ぶ。その相手が、再び唇を震わせる。
そっと両手をルシウスの方へ伸ばし、よろっと、ルシウスが一歩後ろに引くと、困ったように微笑んで、ルシウスの身体に抱き着いた。
ルシウスは体が動かなくなり、ただただ、その赤い髪を見下ろす。
ふわりふわりと薔薇の香り。そして人の肉の柔らかさ。
「ヴィクトリア様」
亡霊でもいい。
幻でもいい。
うたたかの夢でも構わなかった。
ルシウスはゆっくりと目を閉じ、その幻を抱きしめ返し、そして意識を失った。
*
「全くもって!!君はナンセンスだよ。才能というものが欠片もない!英雄という男は得てしてそれなりに美学というものを持ち合わせてしかるべきではないのかね?」
ブツブツと。
何かをしきりに非難する声にルシウスが目を開く。
どれぐらい意識を失っていたのかは知らないが、胃の具合からしてそれほど時間は経っていないのではないかと推測する。近くにマーカスの気配もない。あの計算高いエルフのことだから、ルシウスが襲われたのを見て「逃げよう」とそそくさと去ったのだろう。
窓の外から見える空は夜だった。つまり ほんの一時ほど気絶して、そしてどこかに連れて来られたということだろう。
ルシウスが意識を取り戻したことに部屋の人物は気付いたようだった。
「あ、やっと目が覚めたかね。ルシウス君。」
「お前は……」
「ふん、16年ぶりだというのに相変わらず顔の綺麗な男だな。年を取ってますます男ぶりに磨きがかかっているんじゃないか。嫌味かね?」
窓の近くに座らせられているルシウスを見て、男は不機嫌そうにつぶやいた。だが声ほどに本人が不快になっていないことをルシウスはわかっている。
そもそもここの男が他人如きの何かで自分の機嫌を左右されるわけがない。
「エリック・ドマ」
16年ぶりの再会にルシウスは相手の名を呼んだ。
ドマ家の当主。
16年前はまだドマ公爵家の公子だったが、黒衣の襟首についている当主の証は戦場で見た覚えがある。
エリック・ドマはルシウスに名を呼ばれ、フン、と鼻を鳴らした。
「君、センスがないぞ」
「いきなりなんだ」
「復讐者たる自覚があるのかね?」
エリックはルシウスに近づき、その黒い口元の髭をぴんと撫で付けた。呆れていることを素直に表現する仕草。だが失笑される覚えはルシウスにはない。
しかし、悪名高き、ドマの当主に捕らえられた理由に関しては一考した方がよいだろう。思い当たるところといえば、先ほどの劇場の件だろうか。 まさかくだらない乱痴気騒ぎにドマほどの貴族が関与していたのか。
「子爵と取引があったのか?」
「どう考える、ルシウス君」
元々、悪名高き悪の貴族の当主になるか、それとも教壇に立つか迷っていたという男。すぐに答えを出さないで、まず相手に考えさせる。
相手が自分の持っている素材でいかに答えを導くのか、それが誤りであれ、正解であれ、エリック・ドマという男はとりあえずは聞いてやろうという態度を示す。
少なくても16年以上前に、ルシウスが宮中で田舎者の野蛮人と後ろ指をさされないようにするため、文句を言いながらも作法を教えてくれたのはこの男だった。『仮にも偉大なる皇帝陛下の隣に立つ将軍となりたいのであれば。ダンスの1つも覚えたまえよ、若造』と、そのように言ってルシウスにワルツやらタンゴやらを教え込ませたのもこの男だった。
もちろん、結果的に彼の教育は貴族たちにルシウス・コルヴィナスを宮中の礼儀作法を弁えた涼やかな横顔の英雄と焦がれさせ、皇帝陛下のエスコートをすることに異論を唱えるものは誰もいなくなったのだが。
しかし先代皇帝陛下はドレスを纏うより常に軍衣の方であり、軍服を身に纏う己こそがこの国の皇帝であるとそのようにお考えであったから、ルシウスが踊ったのは女役であったけれど、とにかく、そういう経緯でそれなりに恩のあるのがエリック・ドマという人物であった。
ルシウスはこの男が、ヴァリニ子爵とその息子のつまらない悪事に関与しているとは思わなかった。そもそもこの男が行うなら、村娘たちの村がそのまま消滅するか、村そのものを臓器出荷の工場にでもしている。アルフレッド・ヴァリニが告白した程度の悪事はエリック・ドマにしてみれば子供の悪戯程度だろう。
では、なぜ己が捕えられたのかといえば、何かこの男の邪魔をしたのだろう。
先ほど己の行動に対して辛辣な評価を下された。
ルシウスがここ最近のことで心当たりがあることといえば、もちろん復讐についてだ。
「俺の何が問題だ」
「そういうところだよ。ルシウス君。君の復讐には花がない。わかっているかね?」
ドマの当主は呆れた。
アルフレッドを最期なぜ、あんなつまらない死に方をさせようとしたのか。当人が反省する気がないのならそれでもいいが、自分がなぜ殺されなければならないのかを、疑問疑問理不尽で絶対に受け入れられないと泣いて否定し懇願し、そこに一滴の希望を垂らしてやって舐め回した後に、しっかり痛みと絶望を与えてやって死なせるべきだろうと、エリックは助言する。
「いいかね。 君が行おうとしているのは復讐だろう。報復。因果応報。良い言葉だ。私の好きな言葉だよ。うん。さて、それで君は関係者を全て皆殺しにして、とにもかくにも血を撒き散らし、そして最後は自分が死んで終わり、そういうつもりだろう。あ、無論そうだろう。君にとって希望だったヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢、そしてその善良な夫妻は君にとってかけがえのない存在だった。それを失った君が復讐を果たした先に生きる必要などないだろうしね。しかし、それはともかくとして、君の生死はどうでもいいが、それにしたってねぇ、センスがないよ、君ぃ」
「お前に俺の何が分かる?お前が俺を評価する意味があるのか?」
「もちろんだよ。あ、無論だとも」
「なぜだ」
「分からないかね、ルシウスくん」
エリック・ドマは眉を顰めた。
「君は英雄……ではなく、庭師になったのだろう?美しい花を、それを作ったラ・メイ伯爵家という庭を君は愛していた。それを台無しにした害虫どもを根絶やしにしなければならないと、許しはしないというそれはいかにも庭師に相応しい働きだ。で、あれば君に対して私は何だ?英雄である君が庭師なら、世間に悪党と言われる私は?私は画家だよ、ルシウスくん」
美しいものを描きたいとエリック・ドマは続ける。ルシウスはもちろん「それはお前が自分の庭で勝手にやれ」と一蹴にした。
「俺の復讐の邪魔をするな」
「君の復讐?いいや、違うね!君だけがラ・メイを愛していたと思うな」
ぴしゃり、とエリック・ドマがルシウスに怒鳴った。
「君だけが、あの夫妻の善良さをこの世で最も価値があるものだと気付いていたと思いあがるな」
メラメラと燃える赤い瞳を、エリック・ドマはルシウス・コルヴィナスに向けた。常人であればそれだけですくみ上ってしまうような、威圧と死の恐怖を連想させるに足る力強さがあった。ルシウスに恐怖はなかったが、ただ驚きはあった。流行り病が流行れば麦の価格に手出しできるとワインを開けるような男が、何を言い出すのかと、驚きで反応が出来ずにいる。
「さて!それでは君は私の計画を聞いてくれるね!」
その黙ったルシウスを見て、にっこりとエリック・ドマは表情を明るくし、先ほどの憤怒の形相など目の幻だと言わんばかりの様子で言葉を続ける。
「美しい花というのはね。もちろん誰かを飾るためにあっても良いが、画家がこの世に残すために美しい花というのは存在していると言ってもいいのではないのかね。花は枯れる。それも1つの美しさだが。絵に残すことで、その美しさは永遠となる。私の言いたいことが分かるかね。ルシウスくん」
もちろんエリック・ドマはルシウスの答えなど待っていない。教え子を導く教師の顔ではなく、傲慢な貴族の顔で振る舞うエリックには何を返しても無駄だった。
ドマの当主は指をパチンと鳴らす。
すると、部屋の奥の扉を開き、そこから現れたのは赤い髪の若い女。
「……」
真紅の美しい髪は窓を通る月明かりでキラキラと輝いていた。
「美しい花、美しい乙女。画家にとって必要なものだ」
ドマの言葉を聞きながら、ルシストはガタリ、と立ち上がる。
「……なぜ……お前は何をした……」
呆然と立ち尽くし、それでもルシウスは震える唇で疑問を口にする。しかし視線は、自分の方へ向かってくる赤い髪の女から外すことができない。
「……これは、この方はヴィクトリア様では、ない………」
「無論そうだ。もちろんそうだ!だが、その答えは? 決めつけるにはナンセンスだ」
ドマの当主は椅子に腰かけ、ワインを開ける。とくとくとボトルを傾け、グラスを赤で満たす。
「我々がどれほど死にまみれた一族だと?ドマの歴史に死霊遣いの1つや2つ、ないわけがないだろう。ドマの歴史に死体防腐処理の手順書の1つ2つ、ないわけがないだろう?」
死体を元通りにするのなど大したことではなく、そしてそこに魂を込めることも可能だとエリックは語る。
「あぁもちろん、魂は適当なものだよ。猫か鼠か、あるいは憐れな自殺者か、それはわからないがね。人は生き返らないのだから当然だ。が、この体は間違いなくヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢その人の物だよ」
エリック・ドマが手元の鈴を鳴らすと、生気のこもらない瞳が揺れる。
ルシウスは信じられないものを見て、そして、激昂した。死してなお、この方は弄ばれなければならないのか。
「あの方を辱めるのか……!!」
ルシウスは怒鳴った。英雄卿の憤怒を目の前にしても、ドマの死体人形は揺れることなく、そしてドマの当主の表情も変わらない。
それどころかまたリン、と小さく鈴を鳴らした。
死体人形の瞼が揺れる、少しだけ頭を動かし、ゆらゆらとして、ゆっくりと呼吸をする。まるで生きているような姿だった。頬に赤みが差し、次第に瞳に生きているもののような光が宿った。
激高より、ルシウスは悲しみに苛まれた。なぜ、こんな惨いことばかりヴィクトリア様は遭わねばならないのか。
「やめろ。やめてくれ!」
ルシルスはかすれる声で懇願した。自分が切り刻まれることになっても、ルシウスはこんな声を上げることはないだろう。ただ、せめてもう土の中で穏やかに眠ってくれと思った最愛の少女が、死してなお辱められている。これほど苦しいことはなかった。
(これはあの方ではない。 だというのに、あの方と同じ瞳で、あの方と同じ微笑みを浮かべる。なぜ、ヴィクトリア様ではないのか……!!)
エリック・ドマはルシウスを騙すことだってできたはずだ。
これはヴィクトリア様の魂を持っていると、今はまだ目覚めたばかりでうつろだが、次第にはっきりしていくだろうと、そのために彼女をこんな目に合わせた者どもの血を捧げよと言われれば、ルシウスはエリック・ドマの下僕に成り下がり、彼の望むような復讐を行う人形になったってかまわなかった。
だがドマは、そんな淡い希望を見ることすらさせず、ルシウスにヴィクトリアの憐れな姿を突きつけた。
もう2度と、何の奇跡も起こらず、この方は2度と、ルシウスに微笑みかけることはないのだと。ルシウスは2度、ヴィクトリアを失った。
エリック・ドマが鈴をならし、死体人形に指示をする。
赤い髪の肉の塊はゆっくりとルシウスの方に手を伸ばした。
再び、その唇で名を呼ぼうとゆっくり開かれる。
その唇が何か音を発する、前に、ぴたりと人形の体が停止した。
「うん、まだ調整不足だったか」
ドマが首を傾げる。
死体人形は鈴を振っても、2、3度ほど瞬きをするが、ドマの思うようには動かない。
鈴を鳴らしすぎて混乱したのか、死体人形はエリック・ドマと、ルシウスを一度ずつ振り返り、そしてぎくり、と表情を強張らせた。
「よりによってカッサンドラ転生ッッッ!!!!!!!!!!!!!!約束された死!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!いやぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
朦朧としか動かなかった死体人形が、はっきり、妙にくっきりはっきりと、絶叫する。
その言葉の意味はルシウスにも、操っているはずのドマにもまったく意味が分からなかった。
異世界転生タグ!!!!!!!!!!!イェッス!!!!!!!!!!ハァイ!!!