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1、クローバー:幸運/約束/復讐


「ラ・メイ伯爵はとんでもない悪党だったんだよ。おれたちはすっかり騙されてたね。他の貴族たちとは違うって、あの虫も殺せなさそうな人の好い面と、表立って行ってた慈善事業は全部嘘っぱちさ」


 酒場で酒に酔った赤ら顔の男がぶつぶつと続ける言葉を聞いたとき、ルシウスは我が耳を疑った。彼が善良で善徳なメリック・ラ・メイ伯爵の領地から出て一週間目のことだった。

 少なくともルシウスの知る限り、ラ・メイ伯爵の評判を悪く言うような者はこの十六年いなかったはずだ。文武に秀でたわけではないが、先代皇帝の時代から真面目で誠実、とにかく正直な人物で、あの悪名高き悪の貴族のドマ家の当主ですらラ・メイ伯爵がにこにこと彼に握手求めると苦虫を嚙み潰したような顔をしながら嫌味の一つも思いつかずに静かに握手を返すくらいだった。


 ルシウスは伯爵に悪態をつき続ける男に周りの客たちも賛同しはじめたので自分も彼らの傍に席を移動させた。ルシウスの目的は内容の確認だったが、集まった客たちの目的は男のようにラ・メイ伯爵の悪行や自分達が彼ら伯爵家にどれだけ苦しめられたかという内容の暴露だった。


「……ちょっと待ってくれ」

「あ?なんだよ、アンタ」

「おれは最近まで伯爵家の庭師をしていたんだ。おれがお仕えしていた伯爵のご家族はそんな人たちじゃあない」


 聞くに堪えない内容に、ルシウスは彼らの間に割って入った。酒場の客たちはルシウスの身なりを上から下まで眺める。浮浪者の方がまだマシだというような貧しい姿だった。髭は伸び放題に、髪には白髪も混じっている。伯爵家の庭師と言っても、役職付きの庭師ガーデナーではなく土いじりの下男だろう。体格がかなりよく、他の男たちより頭一つ大きかった。


「そりゃ表の顔はうまく取り繕っていたのさ。伯爵家の庭は一年間枯れないほど見事だっていうじゃないか。王室の庭よりずっと立派なんだって?」

「あぁそうだ。お屋敷より広い庭の面積を生かして様々なテーマの庭が作られている。奥様が好まれるハーブを揃えた場所や、同じ薔薇でも様々な品種を集めたローズガーデン、ご家族の食卓を豊にする果樹を育むオーチャードガーデンは、力強い林檎の樹が何本も植えられていて近くにいくと林檎の良い匂いがする。色に拘ったカラーガーデンでは数年ごとにどの色の花を育てるかとご家族が集まって相談されるんだ。もちろんそれらの庭を管理するのは並大抵の苦労じゃないが、屋敷の使用人たちは誰だって、伯爵家のご家族のために労力を惜しまない」


 あの美しい庭を離れて一週間だが、まだその庭の草木の一つ一つをルシウスはしっかり覚えている。ルシウスが伯爵家に仕えて十六年。当初は素朴な、薔薇の花がわずかに育てられているだけの庭だったが、手持ち無沙汰だったルシウスが「何か育ててみたい」と言うと伯爵夫婦は喜んで協力した。伯爵家の毎日の食卓にはルシウスが育てた花が飾られ、幼いころの伯爵令嬢はルシウスが花を選ぶのを一緒になって並んで立って、ルシウスに花について質問したものだった。


 伯爵家の庭について語るルシウスの言葉に耳を傾けていた客たちは彼の説明があまりに熱心で、事細かに花の形や色、においの特徴まで伝えるのを感心して聞き入った。


「へぇ、そんな立派な庭だったのか。惜しいな」

「燃えちまう前に拝んでおけばよかったぜ」

「ははは!俺たちが伯爵家のお屋敷になんて入れるわけねぇだろ!」

「いやいや、最後はあんな状態だったんだろ?どさくさに紛れては入れたかもしれねぇぜ?」

「……なに?」

「あんたも気の毒になぁ。いや、運が良かったのか?そんなに丹精込めた庭はもう何も残っちゃいないだろうが、領民の暴動に巻き込まれて死なずに済んだんだもんな」

「…………は?」


 ぴたり、とそこでルシウスの表情が固まる。


「あんた本当に何も知らないんだね?最近辞めたっていうけど、その後どこか山奥にでも引っ込んでたわけ?」


 酒の追加を持ってきた女給が気の毒そうにルシウスに目をやり、酷く汚れた格好をしている乞食のような男だが、その汚れた顔が意外にも整っていることに気付いた。男の顔に興味がない、酒に酔った他の男たちは気付かないが。この顔の良さが女給の関心を引いて、普段なら客の男たちに関わらないようにそそくさと酒だけ置いて引っ込むが、その場に留めて彼女が知る話を語る気にさせた。


「って言っても、あたしもそれを見たわけじゃないから正直信じられないんだけど。ラ・メイ伯爵の領民たちが長いこと過剰な税金を搾り取られていて、この前の冬じゃ餓死した母親の乳を子供が吸い続けていたとか。だっていうのに、一人娘の伯爵家のお嬢様がハデなドレスで着飾ってパーティーに出たもんだから、我慢の限界に達した農民たちが伯爵家の屋敷を襲って、そこにいた使用人たちもみんな皆殺しにされたんだってさ」

「あー!その話なら俺も知ってるぜ!「民の血で輝く麗しきご令嬢」!ってな!ゴシップ紙にも出たぜ!」

「アンタ文字なんて読めたのかい」

「はははっ、挿絵がそりゃあすんげぇ見ものでよう!俺たちの聖女レイチェルさまを殺そうとしたとんでもねぇ雌犬のツラを拝んで、しょんべんを引っかけてやらにゃと思ったってわけさ」


 酔った客は立ち上がり、下品にズボンを下ろして床に放尿して見せた。新聞の挿絵に向かって実際にそうしたのだろうことはこの場の誰が想像できることで、ドッと酒場が沸いた。


 ゴッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 だがその歓声の一瞬あと、いや、時間にするとそれよりも短かったかもしれない。


 立ち上がって下半身を露出していた男の頭が床に叩きつけられる。


 何が起こったのかと客たちは慌て、しかし荒っぽい事には慣れた場末の酒場の常連たちは自分たちの仲間ではない、元伯爵家の下男という男がその突然の暴力を振るったことを反射的に受け止めて、何しやがると大声を上げながらルシウスに殴り掛かっていく。


 バギ、バギバキ、ゴゴッ、ゴッ、と、人体から発してよい音ではない鈍い音を響かせながら、ルシウスに襲い掛かる男たちが床に倒れる。酒場は大混乱だった。とにもかくにも、暴力暴力暴力の嵐だ。突然湧き出た異物に酒場の男たちはわけがわからない。

 怯える者は逃げ出し、あるいは転がったテーブルの裏に隠れる。次第に残って行ったのは、酒場で最初に伯爵家の悪評を垂れ流していた男と、その男の周りで酒を飲んでいた連中だった。彼らはこの店の常連ではあるが、評判のよくない男たちで、カウンターの隅で震えていた女給は、そういえば金払いの悪いあいつらがなぜ今日に限って他の客たちに酒を奢りながら、中央のテーブルで大声で話をしていたのだろうかとそんなことを一瞬考える。


 粗野な男たちの罵声と怒号が響く中、ルシウスは一言も言葉を発しない。無言、無表情で黙々と淡々と、ラ・メイ伯爵家の「悪い話」を吹聴していた連中を潰し、そして最後に、最初に話していた酔っ払いの首を掴んで釣り上げた。



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ドマ家に関しては、他の作品を読んでないと意味が分からないかも
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