9.覚悟の一歩
「話が逸れて悪かったな」
「いや、レイナの気持ちも最もだ」
クラースは一度深く息を吐き、表情を引きしめた。
「だが、話を戻そう。今日ここに訪れたのはヴァルター伯にロズリーヌを紹介するためだ」
その言葉を受け、ロズリーヌは一歩前に出て丁寧に頭を下げた。
「ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。サムエラ国から参りました、ロズリーヌ・エルフェと申します」
彼女の礼儀正しい態度に、ヴァルター伯は穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか。この国の救世主になるかもしれない国母とは君のことか」
その言葉にロズリーヌは目を見開いた。ヴァルター伯はクラースからの手紙で既に彼女の存在を知っていたのだ。
サムエラ国では雨女と呼ばれ疎まれていた彼女が、オニキス王国では干ばつを救う存在として希望を託されていることも。
「これから先、君は多くの人の希望と絶望を背負うことになるだろう。君がオニキス王国に嫁いできたことで、この国は変われるかもしれない。しかし、同時にそれは君にとって必ずしも良いこととは限らない」
ヴァルター伯は深い悲しみを湛えた瞳でロズリーヌを見つめ、ゆっくりと歩み寄った。
そして、まるで小さな子どもをあやすように優しく頭を撫でる。
「まだこんなにも若いのに……可哀想なことだ」
その手の温もりに、ロズリーヌの胸はかすかに締めつけられた。
憐れむような眼差しを向けるヴァルター伯の表情には、彼女の未来を案じる深い思慮が滲んでいた。
「辛い時はいつでも遊びに来なさい」
その言葉に込められた優しさに、ロズリーヌは不意に涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。
彼女は覚悟を胸に秘め、そっと微笑んでみせた。
「ありがとうございます。ヴァルター伯」
ヴァルター伯は、優しくロズリーヌの肩に手を置く。
「君がこの国に来てくれたことに、感謝しているのは我々の方だよ」
その一言が、ロズリーヌの心を温かく満たした。
彼女は感謝の気持ちを込めて微笑み、もう一度頭を下げる。
しかし、ヴァルター伯の表情は次の瞬間、一変した。
鋭い眼光をクラースに向け、その声には厳しさが滲んでいる。
「クラース陛下。彼女は今後渦中の存在となるだろう。貴様に彼女の人生を背負う覚悟があるのか」
重々しい言葉に、部屋の空気が張り詰めた。
先ほどまでの穏やかな雰囲気は消え、威厳と緊張が場を支配する。
ヴァルター伯の眼差しは鋭く、ロズリーヌと接していた時の優しさは影も形もない。
その姿は、彼がただの温厚な伯爵ではなく、長年この国を支えてきた重鎮であることを物語っていた。
クラースはその圧に臆することなく、ヴァルター伯の視線を真っ直ぐに受け止めた。
深く息を吸い込み、強い決意を瞳に宿して応える。
「もちろんだ。俺はロズリーヌをこの国の王妃として迎え入れると決めた。その責任も、彼女の運命も、全て俺が背負う」
その言葉に、ヴァルター伯はじっとクラースを見つめたまま、沈黙を保った。
まるで彼の本気度を測るかのように、微動だにしない。
やがて、重い沈黙を破ってヴァルター伯は目を細め、わずかに口元を緩めた。
「……ならば、この婚姻祝福しよう。私も微力ながら力を貸そう。」
その言葉に、クラースは目を見開き、ほっとした表情を浮かべた。
ヴァルター伯の瞳には鋭い光が宿ったままで、声を低くし、重みのある言葉を続ける。
「だが、覚えておけ。陛下の命があろうとも、私はレイナと我が領土の民を最優先する。それが例え、王宮の意向に背くことになろうともな」
その宣言は、絶対的な忠誠心よりも強い覚悟の表れだった。
クラースはその決意を受け止め、緊張感を滲ませながらも静かに頷いた。
「分かっている。貴殿の信念を尊重する」
ヴァルター伯は満足げに頷き、再び穏やかな表情を取り戻した。
「今日は貴方へのご挨拶の他に、ロズリーヌにオニキス王国での現状を知ってもらうためにここに来た」
クラースの言葉に、ヴァルター伯は眉を上げた。
「ロズリーヌ妃は昨日着いたばかりだと聞いたが?」
「ああ。落ち着いてからがいいかとも考えたが、フェアじゃない。教会で儀式が行われる前にオニキス王国の現状を知ってもらった方がいいだろう」
午後には、教会で神の加護を受ける儀式が行われる。婚姻式は後日改めて執り行われるが、今日の儀式には多くの貴族がロズリーヌの姿を一目見ようと集まる予定だ。
そして、神の加護を受けることで、ロズリーヌは正式にオニキス王国の妃であることが認められる。それは単に立場を得るだけではなく、この国の未来を共に背負う存在となることを意味していた。
「フッ。以前の陛下ならどんな手を使っても婚姻式まで隠し通そうとしただろうに」
ヴァルター伯は嘲るように笑い、クラースを見据えた。
その瞳には、かつての彼を知る者だけが抱く鋭い洞察が宿っている。
「変わったな、クラース陛下。君が彼女に真実を見せようとするとは思わなかった」
「彼女は王宮にいて贅沢が出来ない環境でも文句一つ言わなかった。それどころか、この国の苦しみを共にするのは王妃として当然だとまで言ってくれたのだ」
ヴァルター伯は瞠目した。
クラースよりも年若く、学校を卒業したばかりの娘。
公爵家に生まれ、何不自由なく育ってきたはずの彼女が、普通の娘ならば逃げ出すような現状を前にして、そのような言葉を口にするとは──。
「……大した娘だな」
ヴァルター伯は感心したように呟き、瞳に一瞬の驚きを宿した。
だがすぐに表情を引き締め、改めてクラースに視線を戻す。
「その覚悟に応える覚悟が、お前にはあるのか?」
「ああ。ロズリーヌは俺が守る。どんな困難が待ち受けようと、彼女を孤独にさせはしない」
クラースの瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
その強い意志に、ヴァルター伯はしばし沈黙を保った後、深く頷いた。
「これほどの娘を妃に迎えられるのなら、オニキス王国もまだ捨てたものではないかもしれんな」
その言葉に、クラースは同意を示した。
「ロズリーヌよ。これから歩いて民たちの様子を見に行く。薄々この国の現状は分かっているだろうが、しっかりとその目で見て知って欲しい」
クラースはロズリーヌの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「とても耐えられぬ光景も目にするだろう。それでも良ければ、この手を取って着いてきて欲しい。もし耐えられないのならば、今この場でも、現状を見てからでも、婚姻を断って構わない。サムエラ国に帰りたいと願うならば、必ず帰れるよう手配しよう」
クラースの言葉には、偽りのない誠実さが滲んでいた。彼の瞳は揺るぎなく、ロズリーヌの選択を尊重しようという覚悟を映し出している。
ロズリーヌは一瞬、胸の奥が痛むのを感じた。
彼がこれほどまでに自分の意思を大切にしてくれていることが、何よりも嬉しかったからだ。
しかし、同時に彼の覚悟を聞いた今、彼女もまた覚悟を示さなければならない。
この国の妃となることが、どれほどの責任と試練を伴うのか──。
すべてを理解しているわけではなかったが、それでも逃げるつもりはなかった。
ロズリーヌは静かに微笑み、クラースの差し出した手を見つめた。
そして、迷いのない動作でその手を取った。
「私は、この国の妃となることを決めました。どんな光景を目にしようと、共に乗り越えていきます」
彼女の手は小さくて、か弱いように見えた。
だが、その握りは驚くほど力強く、決して離さないという決意を感じさせた。
クラースは一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「ありがとう、ロズリーヌ」
彼女の強さに、クラースは胸の奥が温かく満たされるのを感じた。