18.泥に咲く誇り
自らの命を狙った罪人を救ったという噂は、瞬く間に国中へと広がっていった。
その場に居合わせた民衆たちは口々に語る。「あのとき王妃様は神の使いのようだった」と──。
刑罰は本来、火あぶりであるはずだった。だが、ロズリーヌの慈悲の言葉とともに空から降り始めた恵みの雨は、薪に火がつくのを妨げ、ついには火刑そのものを無効とした。
人々はそれを「女神の寵愛に選ばれし王妃が、自らの涙で罪人を赦した」と信じて疑わなかった。
雨はただの気まぐれではなく、赦しの象徴。
それ以来、ロズリーヌは“慈雨の王妃”として民衆の間で語られるようになる。
ロズリーヌがオニキス王国に来て、一ヶ月が経とうとしていた。
護衛付きではあるが、王宮内を自由に歩き回ることが許されるようになった。
普段は書庫にこもり、国の歴史書や法典に目を通している。ときおり、王宮の裏手に設けられた一角へ足を運ぶ。それは、彼女が提案し、罪人の男と共に作り上げた小さな畑だった。
この国で生きる以上、この国の歴史と在り方を知らねばならない。
そう考えたロズリーヌは、書を読み、民の声を聴き、現状を知ろうと努めていた。
罪人──名をエディルという若き農夫もまた、日々その畑で汗を流していた。
処罰として命を奪うのではなく、国の未来のために生きて尽くさせる。それがロズリーヌが王に嘆願した“贖罪の道”だった。
エディルは王の恩赦を受け、王宮にて働くことを命じられた。ただの労役ではない。彼に課された役目は、王宮の一角に造られたこの“模範農場”を育て上げること。
ここで育てられた作物や技術は、やがて各地の農家へと伝えられ、視察のための見本にもなる。育てた種子は、荒れた土地を立て直す第一歩となるだろう。
火刑に処されていたはずの男が、今では国の再建に尽くしている。その姿は、王宮内にあって小さくも力強い変革の象徴だった。
「土の香りは、心を落ち着かせますね」
ロズリーヌが微笑むと、エディルは驚いたように顔を上げ、少しだけ表情を緩めた。
「…ここに来て、まだ生きていていいと思える日が来るとは思いませんでした。あの時、貴女が泣いてくれなかったら、私も家族も灰になっていた」
その言葉に、ロズリーヌは少し寂しげに微笑み返す。
「私が泣いたのではありませんよ。雨が勝手に降ったのです」
互いに目を合わせ、小さく笑う。
土はまだ硬いが、芽吹きは確かに始まっていた。
「ロズリーヌ、ここにいたのか」
護衛監視の下、エディルと共に畑を整えていたロズリーヌが、聞き慣れた声に顔を上げた。
そこに立っていたのは、他でもないクラースだった。立ち上がった二人に向かって、クラースはゆるやかに歩み寄る。
エディルはすぐに跪き、静かに頭を垂れた。
「クラース様!」
ロズリーヌの声が弾む。
最近では、クラースが暇を見つけては頻繁にロズリーヌの元を訪れるようになっていた。
クラースたっての願いで、ロズリーヌは自然と彼を「クラース」と名で呼ぶほどに、二人の距離は少しずつ近づいていた。
「今日も畑仕事か?」
彼の問いに、ロズリーヌは土まみれの手でスカートの裾を軽く叩きながら、にこりと笑った。
「はい。ようやく芽が出始めたんです。ほんの少しですけど……それでも嬉しくて」
その笑顔に、クラースも自然と目を細める。彼女が王宮に来たばかりの頃には見られなかった、屈託のない表情だった。
「そうか。それは良かったな」
クラースはそっとロズリーヌのそばに立ち、彼女の頬に手を伸ばした。
指先で泥のついた顔をなぞるように、やさしく土を拭う。
「顔が泥だらけだ」
ロズリーヌは驚いて瞳を見開いたかと思うと、すぐに赤くなり、視線を落とした。
「も、申し訳ありません。このような姿で……」
慌てて言い訳を口にする彼女に、クラースはふっと笑い、小さく首を振った。
「構わん。君が民を思い、手を汚して働く姿こそ誇りに思うべきだ」
真摯な声でそう告げられたロズリーヌは、思わず言葉を失った。
自分のしていることを否定されるどころか、誇りとまで言われたことが、胸をじんわりと温かくする。
クラースの手の温もりが、今も頬に残っていた。
その時だった。
カツン、カツン──。
石畳を鳴らす足音が、静かな畑の空気を破る。王宮の回廊を歩く一組の男女が、こちらへと近づいてきた。黒い髪に紅い瞳。どことなくクラースに似た男性だ。しかし、燃えるような強い意志を宿すクラースの瞳とは違って、底冷えするような燃ゆる紅い瞳にロズリーヌはぞくりと背筋を伸ばした。
男性の隣に佇む女性は気品に溢れる公爵令嬢、ヴィオラだった。
「兄上。こんな場所で何をされているのですか。……そちらの女性は?」
冷たい視線がロズリーヌへと向けられた。
「フィンは顔を合わせるのは初めてだったな。俺の妻、ロズリーヌだ」
「……ああ、これは失礼。王妃殿下でしたか」
形式に沿った礼儀ではあったが、どこか探るような声音だった。
ロズリーヌもひるまず、静かに一礼を返す。
「はじめまして、フィン王子」
「“慈雨の王妃”──あちこちでその噂を耳にしていますよ」
その言葉に、ロズリーヌは表情を僅かに引き締めた。
だが微笑みは崩さず、穏やかに応じる。
「ただの偶然です。私が泣いたからではありません」
「人々はそうは思っていないようですわ。神の使いが涙で罪人を赦した、とまで……」
ヴィオラが言葉を添えるように笑う。けれどその笑みも、どこか作られたような柔らかさだった。
「兄上が選ばれた方ですから。民が語り継ぎたくなる気持ちも、よくわかります」
その場に漂う空気が、ふと張り詰める。
クラースがロズリーヌの傍へと一歩寄り、静かに目を細めた。
「フィンとヴィオラ嬢は何用で、ここへ?」
クラースの声は穏やかだったが、その裏にほんのわずかな警戒が滲んでいた。
フィンは少し肩をすくめ、目を細めながら応じる。
「たまたま通りかかっただけですよ。王宮の視察の一環として、ね。それと、これから母上と話があるので」
フィンの口調は柔らかだったが、その目には観察者の冷ややかな光が宿っていた。
ヴィオラが続けるように微笑み、ロズリーヌへと軽く一礼する。
「王妃殿下とは先月のパーティ以来ですわね」
「その節はありがとうございました」
先月の宴で、シルヴィアとの一件の際にヴィオラに助けられたことがある。
その恩義を、ロズリーヌは忘れていなかった。
「とんでもありませんわ。ただ、見過ごせなかっただけですもの。……シルヴィア嬢の振る舞いは、少々行き過ぎておりましたから」
その声音はあくまで柔らかい。だが、芯のある毅然とした響きが含まれていた。
ヴィオラは自信に満ち、貴族らしい立ち居振る舞いを自然と身につけていた。短い会話の中でも、聡明さと、人の上に立つ者の威厳を滲ませる。
彼女はロズリーヌの姿を上から下まで、ゆっくりと舐めるように眺めると、わざとらしく小さく目を見開いた。
「それにしても、まあ……王妃殿下。ずいぶんと泥にまみれていらっしゃるのですね」
ヴィオラは驚きとともに声を上げた。王妃ともあろう者が、民と同じように土にまみれ、汗水を流すなど、彼女には考えられない光景だった。
「まさか、王宮の奥で農作業をなさっているとは。……草の香りが、こんなにも、間近に漂ってくるとは思いませんでしたわ」
ヴィオラの言葉は柔らかだが、その中に確かな棘が潜んでいた。
フィンがそれに乗るように、口元に薄い笑みを浮かべる。
「民とともに泥にまみれる王妃。確かに、民には好まれるでしょうね。もっとも、貴族たちの目には、どう映るかは別ですが」
ロズリーヌは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに落ち着いた声音で返した。
「民の暮らしを知らずして、王妃の務めは果たせません。土に触れ、種を蒔くことは、私に多くを教えてくれるのです」
「なるほど……理想に満ちたお言葉ですこと」
ヴィオラは上品に笑った。
「ですが、爪の間まで泥が入っては困りますでしょう?その手では楽器も持てませんわ。王妃様にふさわしい趣味も、制限されてしまいそう」
あくまで優雅な言葉選びを崩さない彼女だったが、それはまるで「王妃の品位に欠ける」と言わんばかりの含みを持っていた。
フィンもまた、興味深そうにロズリーヌを見つめ、低い声で続けた。
「王妃殿下は、土に触れることにためらいがないのですね。……王宮に迎えられた方々の中には、“相応しくない”と考える者も、少なくないでしょう」
言葉の一つ一つは礼を失っていない。
しかし、そこには冷ややかな圧力が確かに込められていた。
ロズリーヌは、その冷たい視線を真正面から受け止め、真っ直ぐに答える。
「王宮に住まうことが、王妃のすべてではありません。民と共にある王であるために、私は私のやり方で、役目を果たします」
その言葉に、フィンの目が細められる。
まるで、無邪気な理想を告げる少女を、遠くから見下ろすような視線だった。
「……信念がお強いのですね。クラース兄上によく似ている」
ヴィオラもまた、仮面のような微笑を浮かべたまま、冷たく告げる。
「ロズリーヌ様。差し出がましいかもしれませんが、陛下の妻としての立場も、どうかお忘れなく。泥まみれのまま殿下の隣に立つ姿は、少々……刺激が強すぎますから」
それは暗に、陛下に恥をかかせているのだという非難だった。
ロズリーヌは気づいていたし、ヴィオラの言葉に一理あることもまた事実だった。
農作業に励む王妃など、例え善意からでも、貴族社会では異端であり、王家の威厳を揺るがしかねない。
ロズリーヌの頬がわずかに赤く染まる。だが、その瞬間、クラースがすかさず言葉を挟んだ。
「刺激が強いと言うなら、それは、彼女の誠実さと強さだ。誰よりもこの国を知ろうとするその姿を、俺は誇りに思う」
フィンの口元が、僅かに歪んだ。
「……随分と、入れ込んでいるのですね。兄上」
言葉にトゲはなかったが、その視線には確かな挑発の色が滲んでいた。
だがクラースは微動だにせず、ロズリーヌの隣に立つ。
短い沈黙が流れる。
やがてフィンは肩をすくめ、軽く笑った。
「……ふむ。民に愛される王妃とは、こういうものなのかもしれませんね。興味深い」
ヴィオラもまた、仮面のような笑みを浮かべた。
「ええ。きっと民衆の間では、この光景も、新たな伝説になることでしょう」
「では、これにて。お邪魔しました」
二人は優雅に礼を交わし、そのまま静かにその場を後にした。
石畳に響く足音だけが、しばらく残響のように耳に残る。
ロズリーヌは小さく息を吐き、肩を落とした。だがその肩に、クラースの手がそっと置かれる。
その手は、変わらず温かかった。
「……私は、間違っているのでしょうか?」
小さな、消え入りそうな声。
クラースは迷いなく、優しく微笑み、即座に答えた。
「間違ってなどいない。君がやりたいと思ったことをやればいい。どんな姿であろうと、民のことを想った末の君なら、俺は美しいとさえ思うよ」
その言葉に、成り行きを見守っていたカリーネ、アイナ、ノーラ、エディルもまた、そろって頷いた。
それぞれの表情には、ロズリーヌへの敬意と温かな支持が滲んでいる。
「私たちも、ロズリーヌ様の想いに賛同いたします」
カリーネが、やわらかな笑みを浮かべながらそっと言葉を添える。
「どんなに泥にまみれても、その心が清らかであれば、誰よりも美しいのです」
アイナが真っ直ぐな瞳で続けた。
ノーラもまた、控えめながらしっかりとした声で言う。
「民に寄り添う姿こそ、本当の王妃様だと……私は、そう思います」
最後にエディルが、静かに、しかし確かな口調で結んだ。
「王妃様の歩まれる道に、私も力を尽くす所存です」
ロズリーヌは、一人ではなかった。
それは、確かに彼女を支える者たちがここにいることを、静かに、けれど力強く示していた。
ロズリーヌは胸に広がる熱を抑えるように小さく息を吸い、そして、顔を上げた。
その瞳には、揺るぎない光が宿っていた。