11.神の寵愛
飢餓や干ばつに苦しむ人々は、ヴァルター領だけではない。オニキス王国では多くの人々が苦しんでいるのだ。
ロズリーヌはオニキス王国でやるべき事を見つけた。
王宮へ帰ると鬼の形相をしたグスタフが出迎え、雨で濡れた姿を見て呆れたように溜息を零した。
「まずは湯殿に入って来なさい。小言はそれからです」
彼の低く静かな声には、怒りよりも心配が滲んでいた。
ロズリーヌたちは、身支度を整えると午後の儀式に備え、神殿へと向かった。
「お待ちしておりました。クラース陛下にロズリーヌ妃」
神殿に着くと複数の神官とクラースの側近ヘルゲが出迎えた。
「儀式の前に巫女がお会いになりたいと奥でお待ちです」
「げっ!あー…着替えやら準備やら忙しいだろうから俺は先に教皇に挨拶してくるな」
神官の発言にクラースの表情がわずかに引き攣る。
そう言うやいなや、クラースはそそくさと何処かへと消えた。
「逃げましたわね」
侍女カリーネの呟きを筆頭にその場にいたもの達も口々に「逃げたな」と続いた。
ロズリーヌは小首を傾げながらも、巫女とはクラースが逃げるほどに恐ろしい人なのだろうかと生唾を飲み込んだ。
「ヘルゲ、妃殿下の検診ついでに、巫女様へのご挨拶を頼む」
神官の一人がヘルゲに視線を向け、淡々と告げる。
「承知致しました」
ヘルゲは短く答えた。ヘルゲの案内に従い、侍女を伴ってあとを着いていく。
「巫女にお会いする前に検診と着替えを済ませて頂きます」
「わかりましたわ」
ロズリーヌは頷き、ヘルゲの後に続いた。
案内されたのは、神殿の奥にある静かな部屋だった。薄布をかけた窓からは柔らかな光が差し込み、室内に神聖な雰囲気を漂わせている。
侍女たちが手際よくロズリーヌの衣服を整え、医師であるヘルゲが簡単な検診を行った。体調に問題がないことを確認すると、巫女に謁見するための正式な装いが用意される。
純白の儀礼服に身を包んだロズリーヌは、鏡に映る自分の姿を見つめながら、小さく息を吐いた。
「ロズリーヌ様、如何されましたか?」
ロズリーヌの憂いに気付いたカリーネが問いかけた。その時、ちょうど部屋を叩く音がしてノーラが扉へと向かった。
「あ、ごめんなさい。巫女様とはどのような御方なのかしら」
「陛下のせいで変な誤解をさせちゃいましたね。巫女様はとても素晴らしい御方ですが、なんというか…時々、変ですわね」
カリーネは人差し指を頬に当てて考え込みながら、至って真面目な表情で答えた。
「へ、変?」
カリーネの返答に瞬く。
「こらこら、カリーネ嬢。巫女様は確かに変人ですがそんなはっきりと言うものではないですよ…」
ヘルゲが苦笑いしながら部屋に入ってきた。
ロズリーヌ、カリーネ、アイナ、ノーラの四人は自分の変人発言は良いのかと思いつつも胸の内にしまった。
「昨日の衣装も素敵でしたが、儀礼服もお似合いですね。まるで聖女かと思いましたよ」
異性に面と向かって褒められたのは初めての事で、頬に熱が集まる。ヘルゲの慣れたような口調から普段から女性に対する扱いが上手いのだろうと察した。
「それでは巫女様の元へ案内しますね」
ヘルゲの後を数歩離れて歩いていると、カリーネが耳打ちした。
「ロズリーヌ様、ヘルゲ様は女性にだらしない部分がありますのでお気を付けくださいませ」
道理で異性の扱いに慣れているわけだ。
金の髪に翡翠色の瞳、世の女性を虜にする美貌は伊達じゃない。おまけに宗教的医師であり陛下の側近ともなれば、彼が何もしなくても世の女性が放っておかないだろう。
「はぁ。ヘルゲ様素敵ですわ」
「ああなってはお終いですわ」
現に、ノーラは腰砕けといった表情で前を歩くヘルゲを見つめていた。
カリーネの呆れた眼差しと注意に、頷きつつも心の中で笑いを噛み殺した。
カリーネの言うことも一理あると思うが、ヘルゲの魅力を無視することはできなかった。どこか余裕を感じさせる彼の態度と、その立ち居振る舞いが、女性たちの心を引き寄せる理由がよく分かる。
「ロズリーヌ様、カリーネ様、言い方はちょっとアレだけど、ヘルゲ様が女性に優しいのは…実は彼なりに深い理由があるんじゃないかって、私は思うんです」
カリーネの視線に気づいたノーラがふと口を開いた。
「深い理由?」
ロズリーヌは首を傾げる。
「はい。ヘルゲ様は、きっと周りの女性に優しくすることで、彼自身が孤独を感じないようにしているんじゃないかと。表向きは軽くて自由そうに見えるけど、実は色々と抱えているんじゃないかなと思います」
両手を組んで語る彼女の目は本気だった。
「くだらない」
そんなノーラの発言をアイナが一蹴する。
アイナの冷徹な一言に、ロズリーヌとカリーネは驚き、少し息を呑んだ。ノーラは目を丸くしてアイナを見返すが、アイナはそのまま無表情で歩き続ける。
「深い理由があろうと女性にだらしない事は事実。女性に優しいことと同義ではないわ。だらしないのはただの習性よ」
アイナの言葉は、冷たい風のようだった。ノーラはしばらく沈黙した後、ぽつりと呟いた。
「でも、あの方には何か他の面があるように感じるんです。…それに、優しさが全てだらしないわけではないと思います」
少し頬を膨らませて反論する様子から、彼女がヘルゲに対してただの憧れではない好意を抱いているのではないかとロズリーヌは察した。
「はいはい、そこまで。そろそろ着きますわよ」
カリーネが止めに入る。
目前には大きな扉が広がっており、その向こうには神聖な雰囲気が漂っていた。
ロズリーヌは思わず深呼吸し、気を引き締める。巫女の間に入る前に、周りの空気が重く感じられた。
「巫女様、妃殿下をお連れしました」
「お入りなさい」
ヘルゲが扉の前で声をかけると中から返答があった。
重そうな扉が内側から開かれる。
中には複数の神殿側の騎士と神官。そして、中央に豆粒のような老婆がいた。
装いや雰囲気から老婆が巫女なのだとすぐに分かった。
「お、おぉ……なんてことじゃ。そなたがこの国の妃になる娘かえ?」
巫女はロズリーヌを見るなり涙を流し、両手を伸ばしながらよろよろとロズリーヌに向かって足を踏み出した。
途中、足がもつれ転ぶが、その目はロズリーヌに釘付けになっていた。
「大丈夫ですか!?」
ロズリーヌは慌てて巫女へと駆け寄り身体を起こそうと手を差し伸べた。
巫女は、差し伸べられた手をガッシリと両手で握り拝むように額を押し付けた。
「なんてことじゃ。なんてことじゃ。」
巫女は酷く取り乱している。神官たちも慌ただしくなった。
「クラース陛下をすぐにお連れしろ!」
神官の一人が騎士に伝令を出し、部屋を出てクラースの元へと向かった。
状況が読み込めないロズリーヌと侍女たちは、目の前の慌ただしさと状況に狼狽える。
「これは……陛下の時と同じ」
「ヘルゲ様、この状況何かご存知なのですか?」
ヘルゲの呟きにカリーネがすかさず状況を把握しようと問いかける。
「巫女様が陛下に執心されているのはみんな知っているよね」
「はい」
ヘルゲの発言に、カリーネ、アイナ、ノーラの三人は頷いた。
クラースが、巫女に会いたくない理由。それは、クラースに会う度に巫女がクラースを拝み執心しているからである。
「クラース陛下が初めて巫女とお会いした時も、彼女が突然泣いて陛下を拝み出したんだ」
「と、いうことは……」
「ああ。恐らく"彼女も"なんだろう…」
それから暫くして、ようやく場は落ち着きを取り戻して来た。
ロズリーヌの隣には、騎士に呼ばれて駆けつけたクラースもいる。クラースと共にいた教皇も駆けつけ場は収まった。
「おぉぉぉ。神よ……」
巫女はロズリーヌとクラースに向かって拝み続けている。
「巫女の様子から何となく察しはついたが、詳しく説明できるか?教皇よ」
「はい、陛下」
巫女の様子から、巫女自身に説明させるのは無理だと判断したクラースは教皇へと問いかけた。
「妃殿下は陛下と同じ神に愛されし御方でございます。神の加護どころか既に神の寵愛をお受けになられていらっしゃいます」
教皇の言葉に、ロズリーヌは一瞬理解が追いつかないような表情を見せた。彼女は少し震えながらも問いかけた。
「神の寵愛…ですか?」
教皇は静かに頷くと、さらに言葉を続けた。
「はい、妃殿下。巫女様が感じているのは、神の意志の一端です。神が選ばれた者に与えられる力、それは特別なものであり、巫女様が感じ取っているのはその兆しなのです。」
ロズリーヌは自分の身体に何か異変が起こっているのかと不安になったが、すぐに冷静さを取り戻し、教皇に尋ねた。
「どうして、私が…そんな神の寵愛を受けていると?」
教皇は穏やかながらも真剣な目をロズリーヌに向けた。
「妃殿下、あなたがこの国に来られたのは、ただの偶然ではありません。古の予言において、神が選ぶ者が王国に現れると記されており、その者は王国を守り、導く存在となるとされています。その予言の通り、あなたが現れたのです。」
ロズリーヌは驚きと戸惑いを隠せなかった。自分が神に選ばれた者だと聞いて、信じがたい思いが込み上げてくる。
サムエラ国にも教会があり、何度も足を運び祈りを捧げたが、神に選ばれた者だと言われたのは初めてのことだ。
「予言…?でも、私はただの…」
教皇はロズリーヌの言葉を止め、静かに続けた。
「いいえ、妃殿下。あなたの存在こそが、予言そのものなのです。あなたはただの妃ではなく、この国を守るべく神に選ばれた存在だということを、理解していただきたい。」
その言葉に、ロズリーヌは言葉を詰まらせた。彼女は自分の存在がこんなにも大きな意味を持つことに、戸惑いながらも不安を感じていた。
その時、巫女が再び身を起こし、ゆっくりとロズリーヌに顔を向けると、涙を浮かべながら言った。
「お…おぉ…。神よ。水の女神よ。あなたをこのように迎えることができて、私は…本当に幸せです」
ロズリーヌはその言葉を聞き、改めて自分が果たすべき役割を意識せざるを得なかった。彼女は神の意志を背負い、この国を守るべく力を尽くさなければならない。その重責が急に重く感じられ、少し息を呑んだ。
「太陽の神と水の女神に愛されし方々が、我が国の両陛下になられるとは、何とも形容しがたい。妃殿下に与えられた神の寵愛は、我々にとっても大きな祝福です」
教皇や神官たちまでもが両膝をついて、両手を組み二人に向かって祈りを捧げた。
ロズリーヌはその光景に圧倒され、目の前に膝をついて祈る教皇と神官たちを見下ろしながら、言葉を失った。彼らの姿は神聖そのものであり、その瞬間、彼女は自分がどれほど大きな存在となったのかを実感せざるを得なかった。
「神の祝福を…この国に…どうか」
その言葉が、ロズリーヌの胸に深く響いた。教皇の手が組まれたまま、静寂の中でその祈りは続き、ロズリーヌの目は再び教皇を捉えた。
彼らの願いが、想いが、重圧感となってのしかかるようだ。その重さに息が詰まりそうだ。
サムエラ国ではただの娘だった。人々に嫌われ暗くて陰鬱とし、臆病な娘。
しかし、オニキス王国に来たことで変わった。自分自身、知らなかった自分が芽生える感覚が立て続けに起こっている。
「お前たち。ロズリーヌは昨日この国に来たばかりだ。負担になる行為は…」
彼女を過剰に重荷にしないようにと、クラースがロズリーヌを気遣って祈りを辞めさせようと口を開いた。
ロズリーヌは一歩前に踏み出し、クラースの言葉を阻んだ。
「私がこの国に何をもたらせるのか、まだ分かりません。しかし…私は全力を尽くします。神々に誓って、そして国民のために」
ロズリーヌの言葉にクラースは驚きに目を見開き、微笑した。
「そうか…なら、共に歩もう。だが、あまり無理をするな。君は既にオニキス王国になくてはならない人だ」
クラースはロズリーヌの隣に立ち手を握った。
ロズリーヌが顔を向けると視線が合った。クラースの燃えるような赤い瞳がロズリーヌの瞳を捉えた。
まるで吸い寄せられるようにその瞳から目が離せない。
「君が水の女神の寵愛を受けているからでも雨を降らせる存在だからでもない。ヴァルター領に行った時に国母になるのはロズリーヌ、君しかいないと確信した」
クラースの言葉が胸の奥に響く。必要な存在だと、目で、言葉で、心から訴えてくる。
握られた手から熱が伝染する。
「国民が君の姿を一目見ようと神殿に集まっている。無事に儀式を終え国母のお披露目といこう」
その言葉にロズリーヌは深く息を吸い、そして静かに頷いた。これが自分の新たな役割であり、歩むべき道だ。もう迷いはない。自分が果たすべき責務、そして国を、旦那となる存在であるクラースをこの先支えていくのだという意志が、強く芽生えていた。