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hexer

あの夜の出来事 ~エクリプスの盾はこんな人~

作者: L.Caffe

連載長編「HIMI( )~明市事件~」の主人公格の一人、人見さんのヤンチャだった頃のエピソードです。


 ヘッドセットに無線の着信を知らせるノイズが入り、歪んだ声が言う。


『どうやら、本物らしい』


 立て篭もり犯グループが居すわるオフィスビルの真向いに陣取った、倉橋と坂井は目を見合わせる。

 眉を八の字にした倉橋の顔をみて、笑顔をつくりかけた坂井は口をへの字に戻し、目標のビルに視線をやった。比較的狭い玄関ホールのLED照明は、真っ白な光を外に漏らし手前の歩道を照らしだしている。

 正面奥に見える受付カウンターの中や右に伸びている通路のどこかに犯人と人質達が居るはずだ。


 片側二車線の車道は通行が止められ、動くものはクリスマス飾りの残骸だろう、路面に落ちたデコレーションモールが風に吹かれているだけ。コーヒーの残り香が漂う書店のカフェスペースに潜む二人とは、まるで別世界のような冷たさだった。

 

「”盾”?」

「ああ、本当にエクリプスが出てくるようだ」

 

 坂井は皮手袋の音を立て、銃のグリップを握りしめる。


「盾が。助かるけど。犯人は何者です?」

「どんな奴らだろうが、危ない仕事は任せておけばいいさ」

「でも、後始末は大変そうですねえ」


 表情を幾分明るくした倉橋の声を聞いて坂井も顔を歪める。

 これが我々の仕事であり任務であり、普段の会話であり日常だ。

 それを代わりにやってくれる奴がしゃしゃり出てくる。

 つまり――今日は楽に仕事を終えて旨い酒が飲める日になるということだ。


「まあ楽した分は埋め合わせしないとな。掃除が終わったら『烏賊八』で焼きイカでも食おうぜ」

「……慣れないです。突入は」

「しかたないさ。悪い奴が居る限り」

「悪者は、居なくならないんでしょうねえ」

 

 倉橋はため息をつく。

 相手が人間である限り、どちらかが勝てる可能性・思い込み、はなくならない。敵も味方も脆弱な血と肉の塊。勝てる可能性がある限り、無謀な勝負にチャレンジする阿呆は湧いて来る。

 サブマシンガンのボルトを引いてチャンバーを確認した。


 突然、無線は「B・G」という言葉で溢れた。

 ”盾”のコードネームはブラックセブン、ブラックが行くという単純な暗号。

 しかし、それこそが殺戮の号砲であることを隊員で知らない者は居なかった。所属組織の実態もわからず、盾の姿や顔を知る者はごく限られているにも関わらずに。

 倉橋が不意に腰を上げ、坂井は慌ててそのベルトを掴み引っ張る。


「引っ込んでろ!」

「だって。……あれ」


 坂井も腰をひねり外に目を向ける。

 どう見ても少女だった。黒いロシア帽に黒いブーツ、ベルベットのような光沢ある黒いロングコートを着た小柄な女性が、長い髪と襟元のファーを揺らし、靴音を高く響かせながら街灯の光を受けて歩いて来る。防弾チョッキはおろか、ヘルメットすらつけていない。まるで昔のアニメに出てくるヒロインのような姿だ、などと思ってしまう。


「聞いたことがある。装備無しの手ぶらで、どこから見てもガキにしかみえねえって」

「本当ですか? どこかのビルから迷い出た一般人かも……」


 その時、銃を人質の頭に突きつけそれに隠れるようにして、犯人の一人が姿を見せた。 人質の女は震える手で観音開きのガラスドアを少し押し開ける。

「そこのコドモ! あぶない、どっかいく! アソビバ、じゃあないよ」


 外国訛りの怒鳴り声に反応し少女は立ち止まる。

 そして首を傾げながら、澄んだ高い声を発した。


「ええ? わたしぃ、ここで遊んでいいって言われたよー」

「エーイ、だめよ! 周り、人たくさん。コドモ、ここにいたら穴開く。はやく――」

 男は言い終わる前に絶命した。鼓膜に突き刺さる弾丸の発射音と、その僅か後に続く銃の機関部作動音、硝煙、その全てが真っ黒な少女の左手から湧き上がっていた。


「はええ……」


 坂井は、額の右側に穴を開けられた犯人が、がくりと膝を折るのを見て呟く。


「それに無茶苦茶だ」


 倉橋も頷きを返す。


「……余裕かましているのかな」


 火が付いたような悲鳴を上げながら建物を走り出る人質を、盾はほんの少し銃口を動かして誘導する。そして、非常線の向こうに集まる警察車両まで到達したを見届けると、銃を下し口笛を吹きだした。


「なんだ?」

「えーと、クワイ河マーチ」

「ふざけてやがる」

「まだ二人、人質が残ってるのに」


 言い合う倉橋と坂井の声から緊張が消えていた。

 十メートル以上離れた、しかも人質を抱えた犯人に向かって、抜き撃ちでヘッドショットを決め、今は陽気に口笛を吹いている。

 それがでかい男だろうが小柄な女だろうが、目の前に立っているこの人物があの盾でありコードネームブラックセブンであり、口の悪い隊員からはなんのひねりも無く『ビーフケーキ』だの『グリムリーパー』だのと罵られている人物であることは間違い無なかった。


 盾の右手が僅かに動き、ヘッドセットに音声が入る。上機嫌の口笛が途切れると印象より少しだけ低い声で、入る、とだけ言う。曲の続きが始まると同時に彼女はためらいなく踵を鳴らした。


「背中ですかね」

「ああ、コートの後ろにポケットみたいなもんが作りつけられているようだ」

「得物はなんでしょう」

「フルサイズオートマ。9mmだろ。よく見えんが。女だしな」

「あれだけですかね」

「どうかな、コートの下に長物でも収まってたらおもしろ――」


 突然、目標のビル上階から窓が割れる音がし、銃撃が始まった。比較的連射速度の遅い小銃弾の発射音。聞きなれたカラシニコフの音だった。弾丸が路面に当たり、僅かに火花が散る。慌てて見上げた坂井が、三階窓から、と短く報告する。


 盾は坂井の声と同時に銃撃をはじめていた。無造作にかまえられた拳銃から大きなフラッシュが三回起こり、三階の敵は瞬時に沈黙する。


「当てた? 報告いらず」

「残念でした」

「ヒーロー物の撮影かっての」


 坂井が乾いた笑いを漏らす。

 口笛と靴音は続き、とうとう盾が観音開きのガラスドアに手を伸ばす。


「ここだろ」

「です! 危ない!」


 二人の読みは当たり、カウンターから突き出た小銃が火を噴いた。玄関の照明が消え吹き飛んだガラスがアスファルトの上を踊る。慌てて頭を引っ込めた二人の近くにも数発が着弾する。坂井は、一人が受付カウンターから右手通路の奥へ逃げ込んだことを報告しながら、倉橋の頭を押さえつける。


「あっぶねえ。大丈夫か」

「はい。盾は?」


 左手の窓まで移動した二人が恐るおそる頭を突き出すと、盾は扉から四メートルほど離れた右手の柱の陰に隠れていた。


「さすが盾ってだけのことはある。ヘイト集めまくっても死なねえ」

「弾が当たらないって噂も、まんざら嘘じゃないっぽい」


『どうっすか?』

 突然、ヘッドセットから聞きなれない野太い男の声がし、銃のマガジンを三十連装のものへと付け替える盾と会話を始める。


『みえたの?』

『みえましたね』

『いける感じ?』

『いけます。プレゼントは?』

『びっくり箱T、いっこでいいよ』

『りょーかーい』


 坂井は鼻に皺を寄せて、あいつらかと呟く。

「盾が居るってことは『エクリプス』が動いてるってことだからな。当然自前のパーティ引き連れて来てるよな」

「じゃあアーチャーやウイザードもいるんでしょうね。なんです、あのなっがいマガジン。どうみたってマシンピストル用だ。グロックか」

「おもしろくなりそうじゃねえか」


 うやむやの内に設立された防衛省と公安の合同組織『国家安全保障局』。その中にあって正式名称すら明かされていない実働部隊を坂井達は『エクリプス』と呼んでいた。管轄がはっきりせず活動内容も厚いベールの向こう側に隠されたこの組織には、外国人の傭兵や犯罪者すら組み込まれているのではないか、そもそも活動自体超法規的なものなのではないか、という噂が流れ、一時は全警官が敵対感情をもったほどだった。

 

 若い倉橋は気が付いてないのだろうと坂井は思う。盾、個人のカルト的な人気や、こうやってわざわざ警官の前に姿を見せること自体が隠蔽工作の一部に違いない。確かにすごい銃さばきだが、彼女はあの組織にあってはただのアイドル、派手な動きで注意を逸らす道化役でしかないのだろう、と。


 口笛は続き、盾は再び足を踏み出した。手に持っていた銃はしまわれ、子供みたいに両手を大きく振って建物と平行に歩き出す。


「なにやってんだ?」


 坂井がそういった瞬間、二人が居たビルの上階から強烈な銃声が起こる。弾丸は夜空に光で線を引きながら正面カウンター左下に着弾した。炸裂したそれは煙をあげ、それを合図に盾は両手に銃を構える。慌てて立ち上がった犯人の一人に向かって弾をまき散らし始める盾の姿は、強烈なマズルフラッシュをバックにしてCGのようにシルエットで浮かび上がる。


「フルオートだ。二丁撃ち!」

「なにやってんだ! 犯人ミンチになっちまう」


 銃撃が終わると、無線から盾とあの男の声が聞こえる。


『あと何匹いんのこれ?』

『過剰っすねー』

『他のビビらせるためよ』

『二匹。人質も二』

『よし!』


 空になったマガジンを歩道に捨て、スペアをセットし終わると、盾は背を丸め、すっと力を抜いた。

 口笛は止み、真っ黒な少女は、枠だけになってしまった玄関扉を飛び越え建物へと踊り込む。一瞬でその姿は右手通路に消え、同時に本隊からの指令が飛んだ。


『狙撃。準備は』

『よし』

『アサルト坂井』

「よし」

『バックアップ武田』

『ゴー』

『アサルト、Bに続け!』


 坂井は倉橋の防弾ベストを二度引っ張り、胸を拳骨で殴る。


「っしゃ!」


 坂井は上階の安全を確認すると、先頭で盾の後を追った。倉橋は建物の左右に隠れていた隊員達と頷き合いながらその後を追う。カウンターから右手に伸びる通路まで行くと、まだ残っている煙越しに奥にあるエレベーターが見えた。

 すると人質の悲鳴とともにくぐもった銃声が起こる。両側に並ぶ部屋のどこかからの可能性もある。もっとも近いドアの横に背中を付ける倉橋を見て、坂井は後から来た隊員に部屋の確認を指示し、カウンターの中で転がっている犯人の死亡を確認する。

「クリア」「こっちもクリア」

 駆け付けた隊員が次々と部屋を開けるが、人の気配はなかった。倉橋はエレベーターまで走り、スイッチの光りが失なわれているのを見る。


「エレベーター壊されています。作動音あり! 登っていると思われる」

「階段だ、登れ!」

 倉橋を先頭に九名の完全装備の隊員が階段を登る。数階上がったところで装備がたてる音や足音に、ヘリの低周波音が混ざりはじめた。


『どこのヘリだ。――要請などしとらんぞ。――応答なしとはどういうことか!』


 上官の喚き声が、倉橋の不安を煽る。敵のヘリか。攻撃か。逃げようっていうのか。同じ不安を共有する隊員に舌打ちが広がる。そして間もなく開け放たれた屋上への扉が目に入った。

 全員が屋上に出、空気をむさぼり、そして立ち尽くした。

 盾は両方の銃口を下し、人質の頭に拳銃を押し付けた二人の犯人と対峙している。


――一人なら盾の餌食だろう。だが二人同時ではさすがに無理だ。敵も考えたな。


 倉橋は唇を噛んだ。


「本部、狙撃は?」

『位置取りに手こずってる。そっちの屋上はまだ見渡せん』


 アサルト隊を見て、人質に銃を向けた犯人の一人がゆっくりとした、しかし綺麗な日本語で声を張り上げる。


「お前ら、見えてるな。銃を捨てろ。そんで建物の中に戻ってドア閉めろ」

「ほら早くしろよ。こいつらあの世に送りたいのか? お前もだクソガキ!」


 犯人たちの嘲笑になすすべもなく、坂井たちは銃を置く。十メートルほど前に居る盾も二丁の拳銃を置くためしゃがみ込む。その時ヘッドセットから微かな高い声が聞こえた。


『ゆっくりやるよ』


 倉橋は迫るヘリのライトを見て盾の意図を汲み取った。乗り込む隙に事態を打開する気だと。まずは手に持ったサブマシンガンをゆっくりと置き、一度立ちあがって後退りしつつ手を高く上げて見せる。そして更にゆっくりと腰の装備ベルトを外しにかかった。それを見ていた他の隊員も彼に続く。


「ほら、さっさとしろや! うすのろのポリどもが」


 にやけた犯人たちの声には余裕すら浮かんでいる。しかし盾はどうする気なのか。狙撃で支援していたエクリプスのお仲間がミサイルでも撃つのだろうか、と倉橋は本気で思う。

 そしてとうとう、ヘリはホバリングの姿勢に入る。坂井から焦りが伝わる。


「本部、狙撃は」

『まだだ。まだ使えん』

「急がないと」

『わかってる』


 その時ひらりと盾のコートが翻った。引き締まった白い足が見えたかと思うと、いつの間にか左手には手りゅう弾が握られている。ヘリの爆音と巻き起こす風の中、安全ロックが外れる音が屋上に響き渡った。投げても届かないと倉橋が思った瞬間、盾はそれを軽く投げ上げ、右足ですくいあげるように蹴り飛ばした。


 ヘリのアクリル窓を突き破る音の一瞬後、せん光と爆音。それに続く墜落の衝撃音の中、盾は棒のように突っ立った犯人の一人に文字通り突進していた。

 慌てた犯人が盾に銃口を向けるが、彼女はその足元にすべり込み、人質もろとも足ばらいをして転倒させる。

 倉橋も考えるより早く反応していた。くるりと前転して銃を拾い、顔を上げると同時に盾がもう一方の人質の足を掴んて引き倒した。

 急にさえぎるものが無くなった犯人の一人は倉橋の放ったサブマシンガン弾を数発浴び、昏倒する。盾はもう一人が人質に向けようとしていた銃を蹴り飛ばし、人質の腕を掴んでもう一人のほうへと投げ飛ばす。そして、武器が無くなり尻もちをついた犯人を、素手のまま見下ろしていた。 

 犯人は怯えきった様子で盾を見上げている。


「手りゅう弾を蹴ったぞ」

「五〇メートル以上飛んだろ、すげえな」

「人質全員救出。繰り返す。人質は全員無事」


 緩慢な動きで装備を拾いながら隊員達は苦笑を向け合う。

 数名は人質の肩を支え、階段へと向かった。息を整えた坂井は倉橋に付いてくるよう合図すると、盾と犯人の元へ向かった。倉橋は体を固くし、犯人に銃口を向ける。坂井はかがんで、もう一人の犯人が絶命していることを確認しながら言った。


「お見事でした。ええと」

「死神?」


 無表情な白い顔が向けられると、坂井は思わず立ち上がる。声や外観とは違ってその表情は二十代後半の綺麗な女性に見えた。若干の違和感を除いては。


「いえ、そんな。ええと……ブラック」


 盾の目が少しだけ、細く険しくなったのを見て倉橋はぎょっとする。


「こいつ知ってる?」

「いいえ、おおかた大秦民国の送り込んだ活動員でしょうが」

「ざあんねんでした」


 盾の顔が崩れ、まるで少女のような笑顔に切り変わった。


「本名、葛城邦彦。れっきとした日本人。金で動いているだけの小物よ」

「え、そうなんですか」

「内緒だけどね」


 口を噤んでいた犯人が唐突に喚きだした。


「なんでもご承知ってか。お前知ってるぞ、クソガキ。俺だけじゃねえ、七龍の奴らにだって情報は渡ってんだ。こんなもんを解き放って。間抜けなポリ――」

「うっせんだよ」


 犯人を蹴り飛ばし抑え込む盾を尻目に、倉橋は緊張した面持ちの坂井へ向き直る。そこへ無線が開かれ、上司の興奮した声が状況説明を催促している。


「こいつは、こちらの案件。警察さんにも外事課さんにも関係無し、だ。ご協力かんしゃ」


 盾は無線に割り込み、そう言い放った。

 口を半開きにしている坂井を見て、盾は笑いながら自分の拳銃を拾い上げる。グロックの改造銃だと倉橋は確認した。片手でフルオート射撃をし、手りゅう弾を蹴り飛ばしヘリを落とすなんていうのは漫画でしかありえないと思うと、倉橋の頬は驚きとリスペクトで自然と緩んだ。


 盾は突然倉橋に向き直ると「面白いのみたい?」と言う。

 小さめだがくっきりとした二重に縁どられた綺麗なその目は、間違いなく倉橋の方に向いてはいるが、焦点をなくして空中のどこかをぼんやり見ていた。


「え……」

 

 それは以前、事故で一般人に銃創を与え死亡させたのを苦に自殺してしまった同僚の目に余りに似ていた。そしてその表情は瞬時にあの屈託ない笑顔に変わる。

 表情の変化が急すぎる。まともではないと思ったその一瞬後、手が反応しサブマシンガンの銃口を微かにあげてしまう。それとほぼ同時に銃を強烈な力で抑え込まれ、顎に角材で突き上げられたような衝撃を感じる。二メートルは離れていた盾の目が、突然、倉橋の顎を突き上げる彼女の二本の指の間でギラギラと光っていた。


「なにするんだ!」 


 言い放った坂井の視界に一瞬だけ盾の顔が大きく映り込み、次の瞬間大の字で倒れていた。薄れる意識を懸命に保ち、混乱してすがる倉橋に、下がれと命令する。

「ブラック……落ち着いてください」

 両腕をだらりと下げ、笑顔のままでこちらを見ている盾が妙に小さく見える。数メートル殴り飛ばされたのだ、と悟るまでに数秒かかった。


――八十キロの男をあんな小さな体で? 吹き飛ばした?


「殺さないよ。掌底で触っただけだよ」

「犯人を。もうカタはついています。逮捕を」

「ああーぁ、こっち!」


 恐ろしい呻き声が上がった。懸命に上半身を起こした坂井の目には、まるでムンクの絵のような顔に変形した犯人の顔が映った。顎が外され折られた歯から出血している。つま先を口にこじ入れて踏んだのに違いなかった。


「なにやってんだ。こ、こいつ」

「黙ってろと言ってるだろ倉橋!」

 坂井が頭を振りながらも懸命に叫ぶと、倉橋は口を閉じゆっくりあとずさる。

「顎をはずしたからぁ、手足の骨を全部折って、タマ潰してぇ。へへへへへ」


 やはり噂ではなかったのだと坂井は確信する。狂気の殺戮集団。

 道化でもなんでもない、盾もやはりその一味、中心人物だ。


「やめ……」

「やだ」


 盾は泣き叫ぶ犯人の左手を左足で踏みつけ、その肘に狙いをつけた右足を後ろに大きく振り上げた。その時犯人はやっと言葉らしき声を上げる。


「ひょうほうははる。しゃへる! しゃへるはら!」

「なにいってんだかわかんないよ」


 振り上げられた足は犯人の顎を軽く叩いた。悲鳴を上げたあと、元に戻った顎を抑えていた犯人の顔に盾は顔を寄せ、何かを言って何かを聞くと、そのまま右手を振り上げた。


「ちゃんと喋れる偉い子にはだーいサービス―! 一撃でやってあげるね!」


 盾は手刀を振り下ろし、屋上全体を揺らすような打撃をその喉に加える。

 犯人の首は文字通り潰れた。立ち上がって、ゆっくりと倉橋の方に向き直る盾は、血に濡れた手を差し出し、細い髪の毛がふわりと舞う。その時、墜落したヘリが爆発を起こし、煙と炎が立ち昇った。彼女はその光を背負い、笑っている。

 そのまま、彼女は倉橋へと向かって来る。


「痛かった? ごめんね」

「いや、あの……」

「そこ汚しちゃったけど、おかたずけ、お願いね」

「は……」


 盾は、唐突に倉橋を押し倒すと胸に馬乗りになる。慌てた倉橋は払いのけようとするが、小さな体はびくともしなかった。


「わかるでしょ?」


 彼女は顔を倉橋の顔にゆっくりと近づける。


「なんなんだよ……お前は」

「ひみつ」


 倉橋は彼女の血みどろになった右手に吸い寄せられていた視線を、ゆっくりと真上に向ける。少しだけ首を傾げた盾の、長い髪の毛が倉橋の頬をくすぐった。


「苦しいの? 楽しいの? ……寂しいの?」


 盾は口だけを動かしていた。瞬きもせず、生物らしい微細な動きも一切ない。やがて、ゆっくりと唇の隙間から滑り出た舌だけが艶めかしく動き、倉橋の顎を軽く舐めた。


「イタイのイタイの飛んでけー」


 その目の奥で、瞳孔が開いている。そこには夜空より無機質な漆黒があった。


「いい動きだった。覚えておくよ。倉橋。顔もかわいいし」


 彼女は唐突に微笑みを消すと、愛撫されるのに飽きた猫のように、なんの感情も示さず倉橋から離れ、胸元に付けられたマイクに向かって、撤収と呟く。


 倉橋はふらふらと立ち上がり、階段へと向かう盾の後を追う。行く手では、後ずさる隊員達が武器を握りしめ体を固くしている。盾はゆっくりと歩きながら左手でコートの裾を跳ね上げる。

 左だけホットパンツのように短い皮パンツの、露わになった太ももに直接巻きつけられたフォルダーには、まだ二つの手りゅう弾が吊られていた。

 明らかな威嚇に、坂井は顔を歪めながら下がれと命令し、階段を下りる盾が見えなくなるまでドアの前で立ち尽くしていた。すると突然、声が階下から湧き上がってくる。


「あんたが悪いんだよ、坂井。私のコードネームをあいつに教えるから。あんただよ。あんたが殺したんだ!」


 甲高い、はしゃいだ子供のような笑い声が階段を木霊し続ける。


「言いがかりだ、コードネームなんて。あんなの人間じゃない! でしょ? 隊長!」


 倉橋の喚き声を聞きながら、坂井は呆然と、暗い階段を見つめている。

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