ありがとう
太陽が初めて喋ったことばはたぶん「ありがとう」だった。
28歳で第一子を授かった。
特に不妊に悩まされたなどということはなく、夫と話し合っていた計画通りに、結婚から二年目の出産だった。
新婚一年目は夫婦生活を楽しみ、じゅうぶんに楽しんだ。
「そろそろ赤ちゃんが欲しい。……あたしもそろそろおばさんだし」
そう言うと、夫は同意して、聞いてくれた。
「最初は男の子と女の子、どっちがいい? よく最初は女の子のほうが手がかからなくていいっていうよね? 二番目が産まれたら面倒を見てくれることもあるし」
でも私には夢に描いていたことがあった。
「男の子がいい! 二番目が女の子だったら、おにいちゃんを追いかける妹の絵が完成するでしょ? 自分が一人っ子だったから、そういうの憧れてたの」
すると夫は色々と知識を本やネットで得、精子を濃くすれば男の子が産まれるらしいといい、一週間性行為も自慰行為も我慢してくれ、濃い精子たちが私の卵子に届いた結果、見事に男の子が産まれてくれたのだった。本心をいえば女の子でも、どちらでも嬉しかったのだが。
太陽と名付けた。
産まれてすぐは泣きじゃくるおさるさんみたいだった。戦いの末に私の手に抱かれると、おひさまみたいにあったかかった。初めて会うのにもう愛していた。
夫と話し合い、色んな名前を候補にあげていたが、結局そのどれとも違う名前に決定した。新生児室で眠るその顔をガラス越しに見た時に、私の口から自然にその名前が出てきたのだった。
この子のためならどんなことでも頑張れる。
この子のために生きていこうと思った。
楽しかった新婚生活は急に終わり、戦争のような日々に突入した。
太陽が夜泣きをするたびに私は起こされ、泣き止むまでおっぱいをあげないといけなかった。
夫はよく面倒を見てくれるけれど、私でないとできないことが多くて、苛ついた。
母乳で育てると決めていた。定期的に母乳を出しておかなければ出が悪くなるというので搾乳機を買った。
搾乳する私を見る夫の笑顔にムカついて、罵ったりした。赤ちゃんの筆を作ろうと提案したのに乗り気になってくれない夫を軽蔑した。私の心をわかってくれない夫が憎らしくて、傘の先でつついたり、暴力をふるってしまうようにもなった。
それでも心が平穏な時は間違いなく幸せだと思えて、三人で笑っていた。夫が太陽とベビーバスで戯れるのを浴室のドアのむこうに聞きながら、こんな幸せを自分なんかが味わえることを感謝した。
「ありがとう」
私は笑える時にはいつも、太陽の笑顔を見ながらそう言った。
「産まれてきてくれて、ありがとう。私のところへきてくれて、ありがとう」
太陽は笑顔をさらに笑わせて、嬉しそうに甲高い声で答えてくれた。
「かわいい顔を見せてくれてありがとーちゅっ!」
ほっぺたやお鼻にキスをすると、短い手足をハッスルさせて、『たまらーん』というように太陽は、元気な生命を花開かせていた。
最初に気づいたのは私だった。
「太陽がね、なんか痛がってる気がするの」
会社から帰ってきた夫にそんなことを言うと、彼は『疲れてるところにへんな話をするなよ』とでもいいたげな表情をしたが、それを隠すように笑い、答えた。
「定期的に産婦人科で検査は受けてるんだよね? 大丈夫、ちょっと元気がないことぐらい、気にしてたら君の体がもたないよ」
「でも……」
言いたいことはあったが、夫のいう通りだとも思った。
「──そうね。お医者さんが診てくれてるのに……心配しないようにするね」
それが太陽生後8ヶ月目のことだった。
そして彼に悪性の腫瘍が見つかったのが、それから半月後のことだ。
いきなりだった。余命2ヶ月を言い渡された。
私が医者に噛みつきそうになったり、色々あったが、あまりに醜い場面は省略する。
不治の病といわれ、私は太陽を家でお世話することを選んだ。
前よりも笑顔が少なくなり、ぐったりとしている彼を見るのは辛かったが、それでも毎日彼を見ていたかった。
「ありがとう」
私はなるべく笑顔を作り、彼に話しかけた。
「産まれてきてくれて、ありがとうね。私の子供になってくれて、ありがとう」
するといつも私の顔をまっすぐに見つめて、笑い返してくれるのだった。
「早い子は九ヶ月くらいからはじめてのことばを喋るらしいよ」
夫がそう言うので、二人で太陽にはじめてのことばを喋らせようと、その顔を覗き込んだ。
「たいよー、パパって言ってごらん?」
「ママが先よねー? ママって言ってごらんー?」
太陽は私たちの顔を交互に見ながら、キャハッと笑い声を出した。
「あんまりしつこくすると太陽が疲れちまうな」
「うん。でも喋ってくれたら嬉しいな」
すると太陽が、口を複雑に動かしたのだった。
「あいあちょっ」と、聞こえた。
「喋った!」
夫が声を輝かせた。
「ありがとうって言ったよ!」
私も声を輝かせた。
「たぶんだけど! 『ありがとう』って言った!」
二人で太陽を抱きしめた。
あったかいその体温と、そのことばを、私たちはいつまでも忘れない。
ありがとう、ありがとう。私たちの子供に産まれてきてくれて、ありがとう。
忘れない、忘れないからね。あなたはいつまでも、私たちの子供だよ。
ニコニコ太陽、ありがとう(^o^)