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そこかしこに棲む  作者: 今井葉子
9/17

9  嵐の中のお彼岸

 こんな台風の日に、妙に血が騒いでしまう男の子がいるという。どんな血か。台風の神からの血筋か。大雨と強風の屋外にわざと出て行って、踊り狂うのだという。もう誰も仁を止められない。

「じーんちゃーん、風邪ひくよー」

 トキ子は声を掛けてみた。一応。とりあえずは一応。

「ママにしかられるよー」

 ママの言うことでなければ聞くわけがない。トキ子にはわかりきっていた。でも一応言うのだ。一応。

 トキ子は仁に舐められている。もといトキ子なら許してくれると、甘ったれている。トキ子にとっては仁はかわいい。娘は十中八九、厳しく育てたが、孫は十中八九、甘く育ててしまう。だからトキ子は仁から懐かれていた。

「ばあちゃんも天然のシャワー浴びてみなって。横から雨が降ってくる」

 トキ子はおろおろとしている。

「じんちゃん、近所の目もあるし。そろそろ」

ととりあえずバスタオルを持ってくる。

 仁に向かって突き出すバスタオルがどことなく空しい。仁はトキ子の見えないところまでどこか行ってしまったようだった。

「じんちゃん、ばあばがママに怒られるんだよお」

 いなくなってしまった仁に向かってつぶやく。つぶやきは空中を浮かんでいって、強風に吹き飛ばされてしまったようだった。

 トキ子は仕方なく玄関をあがると、いつ仁が帰ってきてもいいように風呂を沸かし始める。昼間、娘に頼まれてカビ取り剤を吹き付けてきれいに磨いた風呂だった。ばあちゃんの家の風呂は古くて入れたもんじゃない、と娘と孫からクレームが来たのだった。娘が仕事に出ている間、仁を預かっているトキは、年齢的にも家事が立ちゆかなくなり、孫から要求される難題に応えられなくなっている。せめてお風呂だけはどうにかして、と娘に言われ、昼間、黒カビと格闘したのだった。

 孫の健康を考えたら家事も手抜けない。トキ子は一生懸命専念する。

 温かな湯気が立ちこめる湯室を見て、トキ子はうっとりする。ずいぶんと壁が白く光っている。昼間頑張ってよかった。

「ただいまあ」

 高らかな声が玄関から響いてくる。トキ子は玄関まで飛んでいった。

「ひー。びっちょ」

 濡れた靴を剥いで、そのまま上がろうとする。

「でも超きもちかったー」

と廊下をすたすたと歩いて行く。

「仁ちゃん、お風呂入ってちょうだい。ああ、ああ、廊下がびしょ濡れ……」

 仁は濡れた靴下をトキ子の目の前に持ってきて、

「ばあちゃん、洗濯お願い」

と破顔する。

「ああ、ああ、真っ黒になっちゃって。ここに置いて。いま擦ってやるから」

 強風が家の障子を揺らす。築四十年にもなろうというトキ子の家は、いまにも風で倒れんばかりだ。家の障子が揺れる度、仁が奇声を上げる。

「いいから仁ちゃんはお風呂、いってらっしゃい」

 押し込むように仁を促すと、ようやく入ってくれた仁に、トキ子はほっと胸をなで下ろすのだった。

 そのとき。

 トキ子の脇を通る黒い影。

 トキ子はひゃっと声を上げる。

 思わず腰を抜かし、柱につかまる。

 どきどきどき。

 鼓動が喉から出てきそうだった。

「なに……」

 トキ子はあたりを見渡す。

 なにもない。誰もいない廊下を見渡す。

 もしかして、死んだおじいちゃんが来てくれた?

 トキ子は腰をぬかしたまま、客間に飾られた遺影を思った。

 そんなわけ、ない。

 そこへ。

 勢いよく引き戸の開けられる音。

 風呂場の立て付けの悪い戸を思い切り開けたのは仁だった。

「ばあちゃーん、着替えー」

 風呂場から張り上げられる声。

「もう? 仁ちゃんはカラスの行水だねえ」

と立ち上がろうとする。

 しかし。

 腰が上がらない。トキ子はその場にへたりこんだまま、ただただ赤面するのだった。



「でね、ばあちゃん腰ぬかしてんの。で、オレが抱き起こしたら、またぎゃーって叫んでひっくり返っちゃって」

 仁はじゃがいもを頬張りながら笑う。

「だって仁ちゃん、裸ん坊でしょう。まずは服着て……」

 トキ子はまだ顔を赤らめている。

「ばあばはまだまだ乙女だから仁が気をつけてやって」

 娘はあきれ顔で味噌汁をすする。

「おばあちゃんからごちそうになってるんだから。お風呂まで貰って。ちゃんと礼を言って」

と娘の旦那は仁の頭をぐいっと下げた。

「わかってるって」

 父親の腕から逃れると、仁はずいっとトキ子の方を向く。

「で? ばあちゃんは誰を見たの?」

 目を輝かせてトキ子の言葉を待つ。

「おじいちゃんが出てきた」

 トキ子は静かに言葉を次いだ。

「だからそんなことあるわけないって」

 娘は瓜の漬物を咀嚼しながら、ぴしゃりと言い放つ。

「小さな黒い影だった……私はしっかりと見た。おじいちゃんは体の小さな人だった」

 娘に否定されてつい小声になってしまう。

「まあ、否定もしきれないよ。お彼岸でもあるし、おじいちゃんの月命日ももうすぐだろう?」

「そうは言ってもパパ、お彼岸だからって、すべての家庭にご先祖が現れるなんて、そんな不思議なことがあってたまるか、じゃない?」

 娘が小首をかしげる。

「ばあちゃんが、仏壇のおはぎがなくなってるーって騒いだんだよ。まあそれはオレが食べたんだけどね」

と仁は笑っている。

「このバチあたりめ。だからおじいちゃんが化けて出てくるんだ」

 仁はママに小突かれ、舌を出す。

「そんなことしたのか?」

 やれやれ、といった風にパパはため息を出す。

「それにしても強い風……」

と娘が窓を仰ぐ。

「明日、学校が休校になったりして」

 仁は楽しくてたまらない、といったように話す。

「残念でした。明日には台風は通り過ぎてますー」

「ちぇ。そんな意地悪く言わないでよ」

「まあまあ」

 トキ子が間に入ると、仁はトキ子に向かって、

「でもいいなあ。ばあちゃんにはおばけが見えるんだ」

「おばけなの? おじいちゃんが?」

「おばけでしょ、死んだ人だもん」

当たり前でしょ、といった風にうんうんうなずく。

「あんな優しいおじいちゃんが、おばけねえ……」

 トキ子は顎に手を当ててため息をついた。

 もう一度、会えたら。

 そしたら腰を抜かさずに話したいことを話そう。

 そう思うと胸がわくわく躍るようだった。



 娘夫婦と孫が帰って、急に静かになった家に隙間風が吹く。窓を打つ雨はいくらか小雨に変わり、逆にもの悲しさを誘う。

 トキ子は仏壇の前に座っていた。新しいおはぎを備え、お線香を立てる。

「おじいちゃん……」

 ついお仏壇に向かって話しかけてしまう。きっとあの自分に寄り添った黒い影はおじいちゃんだ、と。

 長年連れ添ったおじいちゃん。結婚四十年弱にして他界してしまった。

 おばけになって出てきたとしても、まるで生きている頃と変わらないように接することができるだろう。

 トキ子は、このお彼岸で会えるなら、と夢見た。

 すると。

 トキ子の脇を、ぬうと現れる黒い影。

 小さな黒い影。

「おじいちゃん……」

 トキ子はつぶやいた。

 あ。

 それから思いついたように台所に向かった。

「酒を出してくれ」

 そんな風に言われたような気がして。

 トキ子は引き戸を開けると、日本酒をガラスコップに注いだ。

 そして客間に戻ると、仏壇の前に座って、こんっ、日本酒を置いた。

「越乃寒梅じゃないけど、ごめんね。料理酒ですが……」

 トキ子がお供えしたお酒の周辺を、黒い影が飛び回る。

「やっぱりおじいちゃんだった。そうでしょう?」

 トキ子は微笑むと、そのとき。

 がたた。たんっ。

 外の強風でなにか倒れる音に、びくんとすくむと、黒い影はすう、と消えてしまった。

「ああ、おじいちゃん」

 トキ子は残念そうにうつむいた。が、それから、はたと外へと玄関を下りた。

 なにが倒れたのだろう。

 何か危ないものでないといいが。

 玄関の外を見ると、片付け忘れた鉢植えが転がっている。重い鉢を両手に持ちながら玄関に運ぼうとした、そのとき。

 黒い影は再び現れ、植木鉢に沿うように直立した。

「持ってくれてる?」

 心無しか鉢植えが軽く感じられる。

 難なく玄関へと移し終えると、ふうと息を吐いた。

「おじいちゃん、ありがとう」

 生前もとても優しかったおじいちゃん。困ったときはいつも助けてくれた。

 トキ子は目に涙を浮かべると、こらえきれず、うっうっと嗚咽を漏らし始めた。

 すると黒い影はトキ子の背中に回って、ふわんふわんとトキ子の肩を叩き始める。

「おじいちゃん、とんとんしてくれてるの……?」

 トキ子は目を丸くして背中を眺める。

 ふわふわん。

 リズムよく自分の肩を跳ねる影。

「ありがとう、もう大丈夫」

 そういうとトキ子は笑った。

 それから一晩中、トキ子は一人でしゃべった。

 新婚旅行で飛騨に行ったこと。そこで買ったとんぼ玉をなくしておじいちゃんに怒られたこと。でもおじいちゃんが亡くなって身の回りの整理をしているときに、そのトンボ玉が出てきたこと。あったよ、とおじいちゃんにずっと報告したかったこと。でももう言うことができなくなってしまったことに、絶望して涙したこと。

 おじいちゃんがうなずいてくれているような気がした。

 うんうん。それで?

 そんな風に相づちを打ってくれているような気がして、トキ子は頬を染めながら話し続けた。

 時々、窓を強い風が打つ。

 雨がしとしとと優しく降る。

 トキ子のお彼岸の夜は長かった。


 今日は娘夫婦と孫とお墓参りに来ていた。台風だったのは昨日までで、台風一過の影響か夏に逆戻りしたような暑い日だった。

 トキ子はお花を差すと線香を上げた。くんだ水を墓石の脇に掛けてあげる。

 一同で手を合わせた。

 あたりにはトンボが空を滑るように飛んでいた。

 トキ子は墓参りの後に、娘夫婦の家に招かれた。みんなでこちそうを食べようと、娘が用意してくれたのだった。

 敬老の日に、とトキ子の好きなバラの鉢植えを娘から貰うと、トキ子は笑顔を返した。

「僕からはこれ」

 うやうやしく差し出す仁からは額縁に入った、押し花。

「きれいだね」

 いつもとは違って恥ずかしそうな表情の仁は、

「おばあちゃん、お花、好きでしょう?」

とはにかんだ。

「ありがとう」

 トキ子もくすぐったかった。

「それでね……」

 トキ子は話し出す。

 昨日、おじいちゃんのおばけに会ったこと。

 好きなお酒をお仏壇にあげたこと。

 風で倒れた鉢植えを一緒に持ってくれたこと。

 嬉しくて泣いてしまった自分に、優しく肩をとんとんしてくれたこと。

 目を丸くする娘を前にして、でもトキ子の話は止まらなかった。

 うんうん。それで? と嬉々として聞いてくれた仁。

 娘の旦那からは優しく見守ってもらった。

 トキ子にとって特別なお彼岸を過ごせたこと。

 みんなのおかげです、と深々と頭を下げた。

 娘に抱き寄せられて、トキ子は驚く。

 こちらこそ、いつもありがとう。

 娘はそう言って涙をこぼした。

 トキ子は笑うと、娘は泣きながら笑った。

 


 台風一過で暑かったのはあの日のお彼岸の日ばかりで、急に秋めいた空を、トキ子は見上げた。

 すいーすいー。

 空を泳ぐようにトンボが飛ぶ。

 トキ子の首元には、トンボ玉の付いたネックレスが光っている。




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