7 お庭でロックなリズム響かせて
エプロンを締め、帽子をかぶる。ポケットにはスマホ。イヤホンを耳に押し込み、音楽を再生させる。曲はピアノを主体にしたロックバンド。大好きなベン・フォールズ・ファイブだ。ピアノの鍵盤が叩かれると同時に玄関を出て、庭に入っていく。叩かれるリズミカルな高音に、胸の鼓動が合わさる。
シュリは軍手をはめると右手に草刈り鎌を持つ。そしてひとつひとつ丁寧に刈っていく。ボーカル兼ピアノのベン・フォールズにあとの二人はベースとドラム。ブギウギピアノを響かせ、コーラスも心地いい。腰を折って草を刈る作業もこれならはかどる。草を取るときはベン・フォールズ・ファイブ。そう決めていた。
つい鼻歌が出てしまうが、英語はわからないから口ずさめない。上半身を軽く揺すりながらふんふん草を手に取っていく。
「かあか」
いつのまにか娘のナツメが横に来ている。手に何か握っている。
「かあか。ノリノリ、やめて、ねえ、みてこれ」
シュリは帽子のつばを持ち上げる。見上げると、夏の日差しが目に痛い。
「バジルだね」
ナツメの手にくしゃくしゃになったバジルが握られている。ナツメは縛った髪が乱れている。前髪を汗で湿らせながら、バジルの手を開いてみせる。
「ジャノベーゼ、今日も作ろう」
「ナツメは本当にジャノベーゼが好きだねえ」
シュリがにかっと口を開けて笑うと、ナツメも歯を見せて笑った。
「パン、ある? 買ってある?」
「あるよ。バケットに塗るんでしょ? いつものやつだね」
シュリは帽子を剥ぐと、短く切った髪にタオルを当てた。汗を拭き取ると、そのまま顔も拭う。汗が滝のように出る。
ついでにナツメの汗も拭いてやるとナツメは振り払うように走って行った。シュリはまた顔をうつむかせ草を刈っていく。
すぐ脇でミニトマトが地に向かって連なっている。赤いのや青いの。蔓は伸び放題に左右に広がり、いまにも隣の畝に覆いかぶりそうだ。
「ナツメがシューカクするね」
いつのまにかナツメの手にざるが握られている。ぷつんぷつん音を立ててひっぱるようにバジルを切り離していくナツメを見て、
「あーあ」
と小さくため息をついた。
でもはさみを持たせるよりいいのかな、シュリは肩で息をすると、またその場でしゃが
み込み、草に鎌を当てていった。
ミキサーの中に、ニンニクを放り込む。
「かあか。次はこれ?」
「そうそう」
続けてオリーブオイルに松の実。そして塩。
「このチーズも?」
「そう。粉チーズ。バジルは葉っぱだけ入れるんだよ」
「わかってるって」
ナツメはバジルの葉っぱだけをむしっていく。ミキサーに目一杯のバジルが入ると、
「ガーってするからね。スイッチ、オン!」
ガーという音にひるんで、ナツメが一歩後ろに下がる。
「もう何度も作ってるし平気」
ナツメは顔をこわばらせて真顔を向ける。お風呂にあがったばかりのナツメは髪がまだほんのり濡れていて、頬がピンク色だ。
長身のシュリは、膝を折ってナツメに目線を合わせると、ぽんぽんと頭を撫でた。
ミキサーを止めると消毒しておいた瓶を手にもち、できあがったバジルのソースをそそいでいく。シリコンのへらできれいにミキサーの中のソースを掻き出すと、蓋をする。
「ああん。なんでふたしちゃうの。パンに塗ろうよ」
ナツメはぶうぶうと言い出す。
「じゃあ、ナツメにやってもらおうかな」
シュリはスプーンを手渡すと、トースターにクッキングシートを敷いた。
「パン焼くのはまだ待っててね。かあかが、庭でピーマンとなすを取ってきた後に焼こう」
「はーい」
そう言って玄関を降りると、ドアを開けて庭へと向かう。生い茂るピーマンの畝に腰をかがみ込ませ、ぶら下がる大きなピーマンを手に取ってははさみで切っていく。
すると。
耳の奥でなにかが聞こえる。
ん?
顔を上げ、腰を浮かせてあたりを見渡した。
だれか、呼んだわけじゃ、ないわよね。
気のせいね。
そう思って、またピーマンを手に取る。
だけど。
また響いてくる、リズミカルなメロディー。
鍵盤を叩く音。
ピアノ?
シュリは顔を上げて、耳を押さえる。
空耳?
というより、耳鳴り?
いつもイヤフォンを耳に入れてるから耳が悪くなっちゃったのかな……
耳の中で反響する歌声。
もしかして、木霊?
青々と茂るピーマンの蔓を見つめて首をかしげる。
たしかに響くロックなリズム。
そのとき。
キーン。
耳を裂くつんざく音。
とっさに耳を押さえた。
痛っ。
なに、今の。
すると小さく鼓膜にささやく。
あーのどかわいたあ。
え?
はっきり聞こえた。
あー。あつい。水、まだ?
続く声に、え? え? と目を白黒させる。
聞こえたっ。
なんか聞こえたっ。
シュリはピーマンの隣にうずくまってあたりを見渡す。
みずだよ。みずう。
え? 水?
シュリはピーマンを凝視する。
ピーマンの葉の萎れてうなだれているのを見ていると、これ? と目を瞠る。
「ピーマンさん……」
思わずつぶやいて、
はっ! と我に返る。
わたしってば!
ピーマンさんって……なに言ってんの。
頬が熱くなるのを手で押さえ、立ち上がった。
「かあか?」
見ると、ナツメがこっちを見て首をかしげている。
「ナツメ……」
「パン焼こうよ。いつまで待たせるの」
「そうそう。ジャノベーゼだったね! ごめんっ。ナツメっ」
シュリは走り寄る。
ナツメは踵を返すと、シュリを見上げて、
「かあか、汗すごい」
「えっ。汗?」
焦って手で顔を仰ぐまねをする。
「あー暑い。暑い。あっ!」
「なに」
ナツメがいぶかしそうに見上げる。
「なす、忘れてたっ」
シュリは引き返すと、
もーっと声を上げるナツメの声が空に響いた。
「だから聞こえたんだって!」
シュリはビールのグラスをどんっと鳴らす。
「耳鳴りだろう」
セイジは喉を鳴らしながらビールをあおると、つつ、と箸でお皿を寄せる。
「あっ。お行儀悪い! ナツメが真似するじゃない」
「うるさいなあ。オレを躾ないでくれよ」
だってこどもみたいなんだもん、と恨めしい視線を送る。
セイジは顔をしかめながら、
「木霊じゃないか? 木の精霊が音を反響させて聞こえさせているとか。木霊って言ってもうちには木がないけどな。野菜の精霊だな」
となすとひき肉の甘辛炒めを頬張る。
「ねっちゅーしょう」
ナツメは冷ややかな視線を送ってくる。
「あたまがあつくなったんじゃなあい?」
にやにやと笑ってシュリを冷やかす。
「確かに今日は暑かった。灼熱地獄で草取りなんてよくないわね。体おかしくなっちゃう」
ぐびぐび。ビールを飲み干すと、
「暑かったからもう一本、飲んでいいよね?」
とセイジを一瞥する。
「酔っ払うと、また幻聴が聞こえてきちゃうぞお」
今度はセイジに冷やかされてしまう。
「幻聴とかだと思う?」
シュリは真顔を向ける。
「いや。シュリに精神疾患とかはないと思うけどな」
「かあかが妖精とおはなしたんだよーって、ココエちゃんにいっちゃおっと」
ナツメがにたにたと笑う。
「きっと空耳ね。じゃなかったら耳鳴り」
シュリが口をとがらせる。
「聞こえたって言ってたじゃない」
セイジが慌てて取りなす。
「だって二人にからかわれちゃうから……」
「シュリが庭を愛しているから、特別に妖精が聞かせてくれたのかもよ?」
「まさか」
シュリが自信なさそうにうつむく。
「シュリの野菜はうまいなあ。シュリが庭仕事をがんばってるもんなあ。」
なんだんか白々しいとは思いながらもシュリは顔を上げてにっこりする。
「夏野菜がどんどんとれるの。スーパーで全然買ってないんだよ? 肥料もそこそこなのに、立派でしょう? 草を取るくらいの手間でこんなにとれるんだよ」
冷蔵庫に入れておいたなすを見せると、
「明日は揚げ浸しだな」
とセイジまでにこにこする。
「ナツメはなす、きらーい。おつゆならいいよ」
ナツメが舌を出す。うえーと声を上げる。
「なすの中にピーマンまで入ってるのが二重苦なんだよな、ナツメは」
セイジが笑う。シュリは立ち上がると、
「陽も落ちたから庭に水をあげてこようかな。ナツメも行く?」
「いくいく」
ぴょんぴょん跳ねながら廊下を走るナツメに続いてシュリはサンダルを履いた。外は昼間の暑さが残る。冷房の室内から出た途端に汗が吹き出る。生ぬるい風が肌の上をさらっていく。
ホースを片手に、伸びた野菜たちに向かって放水していく。シャワーのヘッドがから出る水が、弧を描いて地面へと落ちていく。
「かあか、きこえる?」
「ん?」
「妖精の声、聞こえる?」
「んーそうだなあ……」
シュリは耳を澄ましてみる。
「聞こえないみたい」
へらっと笑うと、
「待って。ナツメが聞こえる……」
「え?」
シュリは目を瞠る。
「あーめあーめふーれふーれって歌ってる」
「ほんとう?」
シュリも耳を澄ましてみる。
「ぽっつんぽっつん雨がふる、ざーと雨がふるっ」
ナツメが歌う。
「そんな風に聞こえるの?」
シュリは見つめる。
「うん。歌ってる」
真剣なナツメの表情に、ふっと笑顔がこぼれる。
「ナツメにも聞こえたもんねーっだ」
ナツメが走り出す。
シュリも耳を澄ます。
するとピアノの鍵盤を叩く音。
水の跳ねる音と相まって、弾む音楽。
なにを言ってるのかわからない英語の歌詞。
すると。
鼻歌まで聞こえる。
これ、わたしの鼻歌?
ふんふんと鳴らすシュリのご機嫌な声。
思わず頬が染まっていく。
恥ずかしさがこみあげる。
そのとき。
やっとだ。やっと水もらえたー。
え?
シュリは左右を見やる。
妖精さんなの?
水、欲しかったの?
ホースからこぼれる水をみつめる。
ごくごく。ごくごく。
水、飲んでるの?
シュリはたっぷりの水をまく。
すると。
シュリの体温がみるみる冷えていく。
やがて。
「すずしーい」
ナツメはいつの間にかホースから流れる水を受けていてずぶぬれになっている。
「あ。お風呂はいったのに!」
「きゃあ。かあかがぷんぷんしてるう」
シュリが慌てて水が出ていた蛇口をひねる。
あーあ。
おわっちゃった。
そんなクスクス笑うささやき声が聞こえる。
「ナツメは家に入って。んもうっ」
シュリが怒った。
こわーい。
ナツメも水浴びしよう。
あーめあーめふーれふーれ。
立て続けのささやきにシュリはめまいがすると、
「はい。妖精ごっこはおしまい。かあかも家に入るから」
シュリはホースを巻きながら庭の野菜を見やる。
さわさわと風に揺れる葉擦れが聞こえてきそう。そこだけ冷えた空気を保ちながら夜空が、空の端っこから始まってくる。
「また水をあげようねー」
濡れた髪にしずくがぽたんと落ちる。ナツメはいつまでも歌っていた。
ナツメをもう一度お風呂に入れて、床につく。たどたどしく絵本を読むナツメの口元からジャノベーゼのニンニクの香りが漂う。
「ねえ。かあか」
ナツメがシュリの床に入ってくる。ぴたりと寄ったナツメの肌は汗が吸い付いてべたりとさせた。
「かあかとナツメの秘密にしない? 今日、妖精さんとお話したこと」
ナツメは嬉々として布団の上を転げ回る。
「かあかはね、実はこんな気がしてるの。実はね……」
シュリはナツメを抱き寄せ、耳元でささやく。
「かあかは、暑い炎天下のなか、草を取り過ぎちゃって、疲れ過ぎちゃったってことかなって」
ナツメは目を丸くしてシュリを見る。
「だからね、今度は暑いときに草を取り過ぎない。朝の涼しい時間に庭に出る」
そういって親指を立てた。
「ええー。つまんない。ほんとうに妖精さんいたんだよ。ナツメも聞こえたもん」
「ナツメもちゃんと帽子をかぶってお外に出てね」
「かあかのおばか!」
「ごめん、ごめん。ナツメの言うこともあたっているんだよ」
枕に顔を押しつけていたナツメが横目でシュリを見る。いぶかしげにみつめながら、
「ナツメのいうとおり?」
「そう。ナツメの言うとおり」
シュリは笑うと、
「一生懸命、草を取ったご褒美だよ。ご褒美にピーマンの妖精さんの木霊が聞けたんだよ。かあか、耳の奥で響いてきたあのささやき声、忘れられないもん」
「そうだよね! ナツメもだよっ」
そう言ってナツメがシュリの上に登ってくる。
「うう、重い……ナツメはもう赤ちゃんじゃないのだよ……」
「明日はナツメが水やりするからねー」
ナツメを下ろすと、ナツメは途端にまぶたを重くさせ、寝息を立て始める。ちいさく開いた口元からすーすーと息が漏れる。
そして。
やがて響いてくる叩かれる鍵盤。
フォルテッシュモで響かせて。
シュリの耳に鳴り始める。
ベン・フォールズの歌声に重なるコーラス。
シュリは小さく口ずさむ。
木霊に合わせて。
シュリ。
明日も一緒に踊ろうな。
ささやく木霊。
シュリは小さくうなずいた。
星がシュリの上に落ちてくる。
月の明かりが細く開けられた窓に差し込んでくる。
それはピーマンまでも照らして。
さわさわと風に揺れる。
水滴が、揺れる葉擦れでぽとんとこぼれ落ちる。