6 『初天神』を読み聞かせ
6 『初天神』を読み聞かせ
「ボランティア兼子」と書かれた名札を胸から下げる。美和子は職員玄関を抜けると、ちいさな声で「おはようございます」と声を掛けた。
体温を測り、手指の消毒を済ませると、記帳台に名前を記入する。顔を上げると正面の階段を二階に上がった。二階に上がったところにある図書室の入り口に手を掛けると、読み聞かせ会「きらきら」の棚の前に立った。
棚から二年二組のノートを取り出すと、ぱらぱらとめくり、最後の行に今日の日付を書く。題名のところに今日読み聞かせをする『はつてんじん』と書くと、ノートを閉じ、美和子は立ち上がった。
美和子はこの小学校の読み聞かせボランティアに所属している。 現在小学五年生になる息子が一年生の時からこのボランティアに入会してきた美和子は、今まで何回となく息子のクラスにも読み聞かせに入った。今年から娘も小学一年生になり、娘のクラスに入ることも希望しているところだ。
美和子は『はつてんじん』を脇に抱え、図書室の前のベンチに腰を下ろした。そこへ、読み聞かせベテランの崎田さんが手を上げて近づいてきた。
「おはよう、兼子さん」
「おはようございます。崎田さん、今日はどこのクラスで?」
美和子は立ち上がって軽く頭を下げた。
「今日は二の一」
崎田さんはバックの中から『にじいろのさかな』を取り出す。
「隣のクラスですね。私は二の二。隣が崎田さんだと緊張しますね。崎田さんの上手な読み聞かせが聞こえてくるから……」
「はは。兼子さんもいつもべらんめえ口調が響いているわよ」
「え? 聞こえてますか?」
「聞こえる。聞こえる」
「恥ずかしいな……」
「おとなしい兼子さんだけど、落語の読み聞かせの時はスイッチ入るわよね。落語大使、兼子美和子って言われてるくらい」
美和子ははみかみながら、
「息子のクラスの子たちからはもう覚えられてて。兼子のおかーさん、落語ばっかりって息子に声掛けてくるみたいで。落語の普及に努めてもう五年目です」
「覚えられてるんだ。そりゃそうだよね。五年も続けていたら……」
「おかげさまで」
美和子は肩までのセミロングの髪を手ですきながら恥ずかしそうにうなずいた。
「二年生の教室、行きますか!」
チャイムの鳴ったと同時に崎田さんが立ち上がる。美和子も隣に並ぶと元気よく、
「はい! よろしくお願いします!」
とぺこりとお辞儀した。
『はつてんじん』のお話には季節がそぐわない今は初夏。セミもみんみんと校舎を賑わす。時折爽やかな風がブラウスを揺らす。
今日の『はつてんじん』は反響があった。子供たちは時々笑いをあげながら、熱心に聞いてくれた。
初夏にマスクでの読み聞かせは苦しい。教室の後ろの方まで声が届くようにと声を張り上げる。幸い、クラス全体が読み聞かせの雰囲気に満ちていた。
羽織を着て天神様のお参りにいこうとする矢先、金坊も連れてっておくれと奥さんに言われ、渋々、親子でお参りをすることになった『はつてんじん』では、その親子や店の主人との掛け合いが魅力のお話だ。あれこれと「買って買って。とうちゃん、買って」とねだる金坊。「飴は毒だ」などと素通りしながらも、その親子のほのぼのとした会話につい笑いがこみ上げてしまう。
美和子は絵本をめくりながら今日の読み聞かせを反芻する。扇風機の風に煽られて絵本の紙がぱたぱたと揺れる。
金坊にねだられ、凧を買うシーン。結局とうちゃんの方が子供のように夢中で凧をあげるのを、金坊が「とうちゃんなんか連れてくるんじゃなかった」というところでオチがつ
く。首に巻いたタオルでこめかみの汗をぬぐうと、めがねを中指で持ち上げる。
「ただいまあ」
玄関の扉が開くと同時に元気のいいかけ声。娘の栞だ。
「しいちゃん、おかえり」
「どうだった? 今日の読み聞かせ。二年、聞いてくれた?」
ランドセルを放り投げながら、暑そうに帽子を剥ぎ取る。
「時々笑い声が上がりながら、集中して聞いてくれたよ」
美和子はにこにことする。
「しいちゃんも聞いてくれる?」
冷蔵庫を開け、麦茶を取り出している栞に向かって『はつてんじん』を掲げる。
「うん。読んで」
栞はこんがり焼けた小麦色の顔をしてソファにお行儀よく座った。
「『はつてんじん』」
声を張り上げる。栞がぱちぱちぱちと拍手をする。
奥さんとの掛け合いのシーン。べらんめえで調子よく声を張り上げていく。栞がにこにこしながら聞いている。と、そのとき。
ブラウスの裾を引っ張られ、美和子はしりもちをついてしまった。
「あれ?」
床に腰を下ろした状態で小首をかしげる。
「おかーさん……?」
栞が不思議そうに美和子を見つめる。
「あれ、あれれ?」
急に立ち上がった美和子はたたたっと台所まで歩いて行く。冷蔵庫の前で止まった。
「冷蔵庫?」
不思議そうにみつめていると、またブラウスの裾を引っ張られる。
すると、手が勝手に取っ手をつかみ、冷蔵庫を開けた。
「え? え?」
麦茶を取り出し、コップにそそぐ美和子。美和子の意思とは余所に注がれた麦茶を持ち上げるとリビングのテーブルにとん、と置いた。
「おかーさん? 麦茶はいらないよ? 『はつてんじん』はどうしたの? 続きを読んで?」
栞は眉間にしわを寄せながら唇をとがらせた。
「ああ。うん。そうよね……」
美和子は絵本を持ち上げるとページをめくった。
晴れてお父さんと初天神のお参りに繰り出すことになった金坊。 いいこでいる約束にいろいろと買ってもらおうとおねだりをしていると……
くいっ。
くいっ。くいっ。
ブラウスが切れてしまうくらいの強さで引っ張られるのを、つい美和子は読むのをやめると、
くくくくく。あははっは。
子供の笑う声が頭の上から響いてくる。
「……栞なの?」
ただ不思議そうに美和子をみつめている栞を真向かいにして、
(違う……栞の声じゃない)
美和子は知れず、絵本をぱたりと閉じた。
「おかーさん、続きは? おかーさん?」
美和子はこめかみに指を当てると、
「ごめんね。お母さん、ちょっと疲れてるかな。暑いし、エアコンに切り替えようか」
「疲れてるの? じゃあ、栞が読んであげる」
栞が続きのページを開くと、たどたどしく読み上げていく。
真剣な横顔をぼんやりとした様子で眺めていると、栞の声と重なって金坊の台詞が二重で聞こえてくる。
栞に被さってるこの声、男の子の声?
美和子は顔をしかめて絵本を見つめていると、
ぎょろ。
挿絵の金坊がこっちを向いたような気がした。
え?
と思った瞬間。
にこ。
金坊が美和子にほほえみかけたように思えた。
つんつん。
つんつん。
ブラウスの裾が引っ張られる。ごくりと生唾を飲み込むと、
「とーちゃん。とーちゃん!」
栞が頬を染めて声を上げる。
美和子は視界がぐわんと歪み天井がひっくり返ると同時にソファの手すりにうずくまった。
「とうちゃんなんか連れてくるんじゃなかった!」
読み終えた栞が絵本をとじると、美和子の方を向き直った。
「どうだった? 栞、上手でしょう!」
嬉々として走り寄る栞は美和子の手を取った。
「うううん……」
「おかーさん、寝てないで。ちゃんと聞いてた?」
首を持ち上げられ、覆い被さる前髪をかき上げられた美和子は顔を上げると、
「ううん、お母さん、ちょっと疲れちゃってるかも……」
「ええ? ちゃんと聞いてくれた?」
「聞いてたよ。そりゃもう」
栞がうれしそうに笑う。
「上手だった? 栞、音読いつも先生に褒められるから!」
「そうよね。うんうん」
「やったあ」
栞が跳ねる。どすんどすんと響くと美和子は顔をしかめた。
「お母さん、今日はしいちゃんが男の子に見えるな」
「うっふふ」
美和子は落ちていた『はつてんじん』の絵本を拾う。
まるで金坊がこの部屋にいるみたいな……そんな感じだった。
うつむいて表紙をじっと見つめる。
金坊、こっち見てた。
表紙に描かれた金坊のイラストは静止したままだ。
こっち見ろ。笑ってみせろ。
つん、と爪ではじくと、
(いてっ)
そんな声が耳の奥でささやくように聞こえた気がした。
金坊なの?
じっと挿絵を見て変わらない。
ふっ。小さく笑うと、ばかばかしさに声を上げて笑いだした。
「今日のおかーさん、へーん」
栞がくるくると踊り出す。
そこへ。
「ただいまあ」
息子の香がどたどたとリビングに入るなり、かぶっていた帽子を投げ出す。
「うへ。濡れた。学校の周辺だけゲリラ豪雨。超やっば。着替えていい?」
着ていたシャツを脱ぎ出すと、みるみる剥ぎ取っていってしまう。
「香……お母さん、へんなの」
着替えている香のそばで栞が、
「今日、おかーさん、へんだよー」
と叫ぶ。
「だいじょぶ? 熱中症?」
五年生なら聞いてくれるだろうか、と美和子はためらいがちに口を開く。
「んーと、なんていうか、しいちゃんが金坊に見えたり、挿絵がぎょろっとこっち見たり……」
「走って、麦茶取りに行ったりー」
栞がけらけら笑う。
「金坊って?」
「ああ。これ」
と絵本を差し出す。
「『はつてんじん』か。で? 栞が金坊みたいだって?」
「栞の声と金坊の声が重なるの。うちで『はつてんじん』を読んでたら、服の裾を引っぱられて……しいちゃんじゃないの」 「だいじょぶ? 二次元いっちゃった?」
香が眉をひそめる。
「熱中症でしょう! ばたって倒れてたよー」
栞がおおげさに倒れて見せる。
「うん、まあ、行っちゃってたかな……」
「戻ってきた?」
「うん、まあ、もう戻ってきた、かな?」
ぽりぽりと鼻を掻く。
「まじそういうの勘弁してくれよ。しりめつじゃん。意味わかんねえ。それよりこれから友達が遊びに来るよ。カブトムシくれるって。虫かごってどこに仕舞った?」
「ああ。うん。この話はもうやめよ」
「そうしてよ」
倉庫の鍵を手に取る香に、
「カブトムシ、栞の分もあるー?」
「あるわけねーだろ」
慌ただしく玄関を出て行く二人を見やって、美和子はもう一度『はつてんじん』を手に取った。夢だったのかな? そう落ち着けると、絵本を本棚に仕舞った。
今日はお母さんが疲れてるから夕飯を買いに行こう、と出かけた夕方。
香と栞と並んで近所のスーパーに向かう。
入り口を入ると、ふあっと冷房の効いた冷たい風が肌の上を撫でていく。
きもちいーとはしゃぐ栞は先をスキップで歩いて行く。そんな栞を注意する香。
パンの焼けるいい匂いを脇に新鮮な野菜のコーナーを通って鮮魚の棚へ。
「ある? マグロとサーモン。あとあれは? ある?」
「ねぎとろ!」
二人はわいわいとのぞき込んでいる。
今日は手巻き寿司かなあ……道中、つぶいやいた美和子の手を勢いよく取ったのは刺身が好きな香だった。
「もうこれで決まり! 野菜はなしね!」
はしゃぐ香に釣られるように栞も騒ぎ出す。
「はいはい」
興奮する二人を宥めつつ、トレイをかごへ。
「ねね。おかーさん」
つま先立ちをして耳打ちしようとする栞に膝を折って目線を合わせる。
「ん?」
「あれは? あ・れ。お・か・しは? いい?」
「ええ? そうなるの?」
「いいでしょう?」
腰をくねらせる栞。
「ひとつだけだぞ!」
「ええ! 勝手に!」
二人はお菓子コーナーまでダッシュ。
ん、もう!
そのとき。
くいっ。
くいっ。くいっ。
ブラウスの裾を引っ張られる。
(かって。かって)
耳の奥で響く声。
思わず耳を押さえると、手は耳から離れ、腕がのびて行った先は、チューイングキャンディ。
え? え?
勝手に手に取ったけど……
わたし、これ、買うの?
(かって! かって!)
ぽとり。
いつのまにかかごのなかへ。
あれ? あれれ?
わたし、買うなんて言ってない!
「おかーさん、栞はグミね!」
右手に持ったグミを高くあげて降ってみせる栞に、
「あ。それ高いやつじゃん。オレ、フーセンガムなのに!」
「栞、ガムできない!」
「しっかたねえなあ」
美和子は急ぎ足で、
「ねえ、もうお会計だよ。いらないもの、どんどん買っちゃう」
とレジ中央に並ぶ。
(あめだ。あめ!)
そんな声が聞こえてくる方に向かってじろりと睨むと、ふうと小さく嘆息する。
今日の私、へん。
並びながらお菓子のコーマシャルソングを歌う栞に香が一喝する。
もう、早く休みたい。
そう思いながら並ぶレジはいつまでも前へと進んでくれない気がして、小さな自分のサンダルをみつめるのだった。
「お話し会から来ました、兼子です。今日は『たのきゅう』を読みます。それではお当番さん、お願いします」
当番が号令を掛ける。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
美和子も三年一組のみんなと声を合わせて挨拶をする。
「『たのきゅう』」
声を上げる。
いつもこの瞬間はどきどきと胸が高鳴る。美和子の緊張を余所に、子供たちは期待に満ちた表情で絵本に見入る。
今日はウワバミが夢に出てきたりして。
夏の盛りの中、背筋をぞわぞわさせながら『たのきゅう』を声高に読み聞かせする。
『はつてんじん』の読み聞かせをしたあの日。
金坊がうちに遊びに来てくれたような夢みたいな出来事があった。
金坊に買わされたチューイングキャンディ。
今も美和子のかばんの中に入っている。
金坊に手を焼くとうちゃん。最後は子どもみたいに凧揚げ夢中になるとうちゃん。親子の姿は昔も今もあまり変わらないのだろう。美和子は自分の育児と重ねてつい笑ってしまう。読み聞かせすると、だれもが共通に感じるほのぼのとした光景。
金坊はあの日だけ現れて、それからぱたっと不思議なことは起こらなくなった。
次の日、図書館へ『はつてんじん』を返却しに出かけた。
ばいばい。金坊。
そう目配せしてカウンターに差し出した。
そして新しい落語の絵本。
今度、当番にあてられたクラスは三年一組。
『たのきゅう』を手に取った。
これも有名なお話。
三年一組に響き渡る昔々のお話。
美和子はこめかみに汗をにじませる。
さあ、ウワバミとの知恵比べ。
今日はウワバミが美和子の家を訪れる。
ほら、もうすぐそこにとぐろを巻いた蛇の姿が……
夢中になって読んでいる美和子はまだそれに気づいていない。