5 夢魔現る夜
5 夢魔現る夜
今日は着座のポーズ一時間。白いシャツから色味のあるものに着替える。簡単なポーズといえどそれなりにしんどい。休憩の十分間、軽くストレッチをする。
次の美術モデルのバイトは来月初旬。レオタードを着る予定だった。ピンクのレオタードに白いタイツ。もう若くないさおりに、今でもレオタード姿のオファーが来ること自体ありがたい。産後から気を付けている体重の管理も、日に日にシビアになってきている。
授乳中の今も、野菜と玄米しか口にしない。肉や魚は食べない。タンパク源は大豆製品から摂る。野菜は産地から直送する有機野菜だけを使って毎日調理している。肉汁したたるステーキを見ると、かつておいしいと思って食べていたときはいつだっただろうかと思い巡らす。今はそんなものを見てもほしいと思わなくなった。
今日は男の子の学生さんが多かった。美大予備校のアートスクールで、デッサンの時間は鉛筆の擦れる音ばかりが響く。息を飲む、ごくりと喉を鳴らすのさえためらわれる空間だ。同じ美術モデル仲間では、仕事中に眠ってしまうことも常習の子もいるけど、なんてずぶといと笑ってしまう。それでも彼女はぴくりとも動かずにいれると言う。
二階の雑居ビルからエレベーターで下りていって、通りに出ると、すぐ右に折れる。国宝のお城跡を脇に見ながら車の通りから避けるように端に寄って、体をくねらせるように歩いて行く。身長百五十一センチの小さなさおりは多分、世界を見るのも視野が低いんだろう。
人を避けて歩くのも見通しが悪く、通りの人の背中と背中の隙間越しに遠くを見据える。あと十センチ背が高かったら……。そう思ったことは幾度となくあった。
市街地の中にある保育園としては小さな園と言えるところに、私は生まれて十ヶ月の娘を預けていた。園児は年長まで含めても六十人ほどで、アットホームなのがウリの保育園だった。
園庭へと入っていく門を開け、するりと体を滑らせるように抜けて行くと、事務室の隣のバンビクラスの戸をノックする。
先生が顔を覗かせると、
「ちゆちゃん、お迎えよー」
と部屋の奥に向かって声を張り上げる。
大きな鞄と共に、抱っこされたちゆが入り口に来ると、さおりは頭を下げた。
「市井さん、今日はちゆちゃん鼻水があって、お昼寝後は機嫌が悪かったんですよ」
若い保育士がちゆを私に抱かせると、後ろにいたベテランの先生がそう言った。
「あら、そうだったんですね。ごめんなさい。ティッシュは入っていたっけ……」
「あ、それは大丈夫なんですけど、よかったらお医者さんに診てもらうといいかな」
先生は微笑むと、
「わかりました。家で様子を見ます」
さおりは会釈した。
「それじゃあ、ちゆちゃん、ばいばい」
「さようなら」
ちゆの手を取って振ってみせる。
抱っこひもに収まっているちゆを見ながら、園庭を後にする。
四月には咲いていた八重桜は葉を豊かに茂らせ風に靡いている。木漏れ日の落ちる午後、ちゆと二人で歩く道は屈折する光を受けて燦めいていた。
ちゆの鼻を拭いたのは何度目だろう。鼻の下は真っ赤に腫れている。
何度か熱を測ってみたが、いづれも平熱。病院に行くのは躊躇われたけれど、先生から伝えてもらった手前、無視するわけにもいかない。どうしようかと考えあぐねていると、ふと湧き起こる劣情に、んん、とため息をついた。
「やだ、私ったら急に……」
胸を押さえ咳払いすると、長い髪を手で梳く。
息をつくと、熱い息が漏れた。
「なんなんだろう。まったくもう……」
首を振る。
そうだ。ちゆを病院に連れて行って診てもらおう。家にいると鬱屈としてくる。
さおりは鞄のなかに健康保険証と母子手帳があることを確かめると、ちゆを抱っこひもに収め、部屋を出て行ったのだった。
さおりは身に覚えのない感覚に憤っていた。
ちゆを病院に連れて行き、二人きりでの夕飯とお風呂をすませ、薬を飲ませ、授乳しながら寝かしつけているところだった。
催された劣情に、訳も分からず腹がたっていると、ちゆはやがて眠ったようだった。
ちゆを布団に寝かせ、さおりもその隣で仰向いた。
「なんなのよ、もう……」
さながら思春期の少年少女とも言えそうな情欲にさおりは眉間にしわがよる。
それに体に触れられているような感覚。
さっきから脇をくすぐられているような不快感。
胸の辺りがもぞもぞと動く。
さおりは強く歯を噛み合わせると、大きくため息をついた。
「これって、インクブス……?」
夢魔。夜間女性の夢の中に現れて性交を行う下級の悪魔である。幻想文学を扱ったエッセイに、インクブスについての評言があったのを思い出した。さおりはヨーロッパの幻想文学が好きで、大学の卒論でテーマとして掘り下げたこともあるくらいだった。
「悪魔と交わっているってこと?」
さおりの持っている本に、インクブスに襲われている女性の図像があった。覆い被さる悪魔とのけぞる若い女。
「ああああ」
その図像と違わず、さおりを圧迫してくる物体に息が漏れる。
「ん……息が……」
けっほ。けほ。
咳き込むとさおりは起き上がって背中を丸めた。
俯くと自分の体の周りをただよう、ピンク色の靄に気づいた。
「これって……なに?」
自然とため息が漏れてしまう。呼吸が荒くなる。
「だからこの感覚、気持ち悪いって……」
靄がさおりの体を覆う。なまめかしくのけぞると髪を振り乱した。
「やめて……やめて……」
靄はさおりに覆い被さると胸の上で立ち塞がる。
なんだかひとのかたち……?
これが悪魔のかたち……?
と。そのとき。
「ふえ……んぎゃ……」
やがて、ぎゃああとちゆが泣き始めると、耳を裂くように激しく泣き出す。
「ちゆ……」
さおりは起き上がるとちゆを抱いた。背中をとんとんとあやしていると、いつの間にか靄が消えていることに気づいた。
すると一切の劣情が消え失せ、不快な感情から晴れると、はあと安堵した。
「ちゆ、ありがとう。ちゆに助けられた……」
泣き止まないちゆは赤い喉を天井に向け、体をのけぞらせる。
体が、すごく熱い。
そう気づいて、急いで体温計を取った。
ちゆのシャツの上から体温計を差し込み、脇に差した。
しばらく抱いていると、ピピッと電子音が鳴る。
すばやく引き抜くと、三十八度六分。
思わず目を瞠った。ちゆが生まれてから初めての高熱だった。
ちゆを抱きながら階下へ下りると、冷凍庫を開けた。
保冷剤をタオルで巻くとちゆの脇にさしこむ。そのまま抱っこひもにちゆを収め、泣き続けるちゆをあやした。
「水分取らなきゃ。麦茶……あ、そうか。授乳すればいいんだ」
抱っこひもからちゆを下ろしている時、夫の隼人が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
「授乳中? もう寝てるかと思った」
「ちゆ、熱があって」
自分の身に起こった不思議な出来事について話そうかと思って、逡巡する。
「熱? 風邪、引いたのか?」
「保育園のあと、病院に行って来た。薬もらってきた」
「薬、初めてだろう? 飲めたの?」
隼人が授乳しているちゆの顔を覗き込む。ちゆの喉がこくこくと音を立てる。
「飲めた。水に解いただけだけど」
「よかった。薬苦手な子もいるもんな」
隼人は安堵から肩で息をする。
「ねえ」
「ん?」
隼人のいなかった間に起こったことを説明しようとする。しかし、何と言ったらいいのだろう。隼人はネクタイをほどきながらさおりを見つめる。
「……なんでもない」
「ちゆが寝てる間にさおりも休んだ方がいいよ。一緒に横になったら」
「うん。そうだね……」
結局言えなかった。そう思うと項垂れてちゆをしっかり抱き直す。
さおりはちゆを抱きながら二階を上がっていった。隼人に秘密を抱えるさおりはなんだかうしろめたくも感じながら……
ちゆは次の日には熱も下がって、三日もするとまた保育園に通えるようになっていった。月は変わって梅雨も始まり、初夏のようなうだる暑さから一変して、梅雨寒に、長袖をまたクローゼットの奥からひっぱりだして着るような日々が訪れた。
美術モデルのバイトにとアートスクールの扉を開く。今日はレオタードを着る日だった。
更衣室などない奥の部屋で着替えていると自分の体の異変に気づく。
お腹のあたりがきつい。
下腹部がぽっこりと出ているような気がする。
私、太った……?
お腹に手をあてる。
毎日乗っているヘルスメーターの示す数字に変化はないはずだった。
ストイックなまでの食事制限は以前と変わらない。
じゃあ、なんで?
不思議に思いながら、教室へと入っていく。
生徒さんたちはイーゼルの前に座って準備もすでに終えている。
さおりはポーズをとった。
二十分間、静止したままポーズをとる。
じっとしたまま十分もたたないうちにさおりは苦しくなってきた。
口を手で押さえたまま蹲ってしまった。
「大丈夫? さおりちゃん」
「はい……ちょっと気持ち悪くて……」
塾長の長坂さんが心配そうに顔を覗き込む。
「さおりちゃん、妊娠してる? 大丈夫?」
「え?」
さおりは塾長の顔をまじまじと見た。
「妊娠……してないです」
「そう? 季節の変わり目だから体調崩しやすいよね。今日はもう帰った方がいいよ」
「いえ。大丈夫です。続けます」
さおりは立ち上がってポーズを取る。
「無理しないでね」
塾長は微笑むと立ち上がって部屋を出て行った。
さおりのこめかみに汗が伝う。
妊娠? そんな。まさか。
可能性はゼロだ。思い当たる節などない。
でもこれはつわり……?
お腹の膨らみは、妊娠のためなの?
不安が全身を襲う。
冷や汗が背中を伝う。
宿しているのは、悪魔の子?
眉間に力が入ってしまう。
だめだ。今は仕事中だ。
余計な雑念は捨て去らないと。
さおりは遠くを見るように顔を持ち上げると、静止する。
顔のこわばりを解くようにやんわりと表情を作る。
目がかすんで細めると、ピンク色の靄が見えたような気がした。
さおりは催される劣情に辟易していた。
暑さでパジャマを脱いでいた。湿気の強い締め切った部屋の中で、ピンク色の靄がさおりを包む。
ため息をつくと、胸を抱く。
下腹部はぽっこりと膨らみ、さおりはそれを撫でるとまじまじと見つめる。
あれから三日経った今、つわりのようなものはない。
本当に妊娠しているんだろうか。
そう思って妊娠検査薬を試した。
結果は陰性。
当たり前だ。思い当たることもあるはずもなく、やけにほっとする。
「悪魔の子なんて、私ばかみたい」
ふっと短く笑うと、裸のまま仰向いた。
そこへちゆがよじ登ってくる。
ちゆは乳房をふくむとこくこくと母乳を飲み出した。
乳房とちゆの周りをピンクの靄がうねうねと動いている。
さおりはのけぞると熱い息を吐いた。
「んんん」
なんだか息苦しくて、体が重い。
暑さで空気が重苦しいためか、呼吸も荒くなる。
はあはあ。
胸に乗っていたちゆを布団に横たわらせると、さおりも横になり、ちゆをみつめた。
「へんなきぶん……」
つぶやくと、ちゆから背中を向けて蹲った。
「隼人、早く帰ってきて……」
話し相手が欲しかった。一人で抱え込みたくない。隼人に相談したい、そう思っていた。
でも。
隼人に信じて貰えないかもしれない。
そしてなんといっても恥ずかしくてなんて言ったらいいものか。
そんなことを考えていると。
すると。下腹部に鈍い痛みが襲う。
痛い。
はあはあ。
ピンクの靄はお腹を包む。
お腹の上で弾むように飛び跳ねる。
「痛い……」
顔が歪む。
そこへ。階下でドアの開く音がした。
「あ、隼人……」
さおりは布団から起き上がると、急いでパジャマを着る。痛むお腹を押さえつつ階段を下りていった。
「あ、ただいま」
階段を下りきる前に隼人は上着を脱ぎつつ声を掛ける。
「あ、あ。待って。私、トイレ!」
さおりは急いでトイレに駆け込むとばたんと勢いよくドアを閉めたのだった。
「さおりでも便秘になるんだなあ」
味噌汁を飲みながら、隼人が笑っている。
「やめてよ、もう」
さおりは恥ずかしそうに口を尖らせる。
「いや、だって、あんなに食物繊維たっぷりの食事を食べてて、便秘になるなんてさ。食べる量が足りないんじゃないの?」
隼人のために別で作った鶏肉の味噌焼きを頬張りながら、首をかしげた。
「悪魔の子を妊娠したって、本当に心配したんだから」
さおりは頬を膨らませる。
「悪魔と交わるってのも、さおりは難しい本を読みすぎなんだよ」
くくく、と笑みを零すとお茶をすすった。
「でも本当に変な気分になって……こう、ピンク色の靄みたいなのに覆われて」
と手でぐるぐると輪を描くと、
「二人目が欲しいってことなんじゃない? 誘い方がまわりくどいよ」
「誘ってない!」
「分かった。分かった」
隼人は笑っている。
「産んでから体質も変わったんじゃないの。食べるものも偏食だし。疲れもあるだろうし。今までと全然違う生活をし始めて、体も悲鳴をあげているのかもよ。体調を崩してもおかしくはないよ」
今度は真面目な顔の隼人に、
「確かに生活がガラッと変わって、疲れは感じている。けど……」
さおりはなにか納得出来ないと言うようにしかし口を噤む。
「なるべく育児を手伝うし、家事だってやれる範囲で。仕事で帰りは遅いから土日くらいしか手伝えないけど、それまで家事も少しくらい溜めてもいいんだよ」
「なんていうか……違うのよ」
「違うって? また悪魔のせいだって言いたいの?」
「そういうわけじゃないけど……」
うまく伝わらない。
さおりはもどかしかった。
さおりが経験したことはうまく言葉には表せない。理解してもらうなんて不可能だ。
「バイトには行けてるんだよね?」
「うん。うまくいってる」
「それはよかった」
隼人は、ごちそうさまと、食器を下ろすと、
「じゃあ、お風呂行ってくるから」
と脱衣所へと入っていった。
残されたさおりはなんだか寂しい気持ちに覆われて、いつまでも隼人のそばにいられたらと嘆息したのだった。
さおりは二階の寝室に戻ってから、やっぱり、と項垂れた。
なにも状況は変わっていない。
パジャマの下の肌は熱く火照るようだった。
「んん」
隼人に聞こえないように小さくため息をつく。
隼人には理解できない。
自分の身に起こっていることは自分にしか分からない体験だ。
寂しかった。
一人で解決させなければいけない、と言うのだろうか。
私は、ひとりぽっちだ。
悪魔と交わる夜を余儀なくされながら、それを許そうとしている隼人に腹がたった。
隼人が助けてくれないから。
さおりは硬く目を閉じた。
心の中で隼人を何度も呼んだ。
自分の上に覆い被さる靄に向かって睨みつけた。
しかし為す術もなく。
さおりは劣情に冒される。
横で寝ているちゆの顔をのぞく。
ちゆは深く眠っているのか規則正しい呼吸の音が漏れている。
ちゆが起きて、泣いてくれたら。
悪魔を振り払ってちゆを抱くのに。
パジャマに汗が染みいる。
胸元から生暖かい空気が煙った。
夜はしんしんと更けていく。
暗闇は一筋の光も入る余地もなく、部屋の隅々に広がり溶けていく。
靄はさおりの上で跳ねる。
揺さぶられる体に痛みが走る。
朝が来ることだけを祈って。
さおりは天井を仰いだまま暗闇からみえるものを探し出そうとしていた。