4 確信だと思えるもの
権威的なものに縋って生きて行けたらどんなに楽だろう。そう思って仕事をしてしまう。今日も店長に叱責されて、鞭を打たれた馬のごとくに走り回る。琴美二十六歳。あるアパレルショップに勤める独身、女。
メーカーから届いた新作の財布を取り出しながらサンプルとして店頭に並べる。セールストークの参考にと、財布をいじり回しながら、特徴を拾い上げ、メモに書いていく。長財布の方は、カードがたくさん収納できる。折りたたみはがまくちが可愛らしい仕様になっている、色のバリエーションは二色。白は春らしく、黒は汚れが目立ちにくい……あとなんだろう、店長の富沢の怒る顔を想像しながら、財布をあれこれと眺め回す。
そんなことをしつつ、枝葉が枝からひっぱられるように伸びている街路樹を毎朝見上げるのだった。
緑の少ない街並みを抜けて、四角のコンクリートが聳えるビルの界隈を通って、琴美の務めるデパートの通用口を通る。階段を上っていって、売り場へと出るドアを抜けると、右手に琴美が勤める店舗がある。
レジ裏に入ると、所狭しと棚に並べられる、ブラウス。ワンピース。カーディガン、バック。靴、などなど。バックヤードの在庫を全て把握していなければならない。そうこないだ言われたばかりだった。琴美は肩を落とす。
「関口さん、来てる?」
富沢の声にびくんと体に緊張が走る。
「はい。おはようございます」
「ディプレイ、荒れてる。畳んで綺麗にしてから帰ってっていつも言ってるよね?」
「すみません。今すぐやります」
「今すぐやりますじゃないって言ってるの。朝来たときには綺麗でないといけないんだから」
「ごめんなさい。すぐ終わらせます」
琴美は鞄を降ろすとカーディガンを手に取った。急いで畳み直す。
「それはやらなくてもいいでしょう!」
ピシャンッ。
とっさに右手を押さえる。
「もういい。私がやるから」
そう言って背中を向ける。
「すみません……」
琴美はレジ裏に戻ると隣のパソコンの前に立った。
富沢は声を荒げる時、決まって手も叩くのが当たり前になっている。それが始まったのはいつからだろうと、琴美は思い巡らす。初めて富沢と会ったとき、決して今のような関係ではなかった。一緒に店頭に出ているうちに、小言を言われることが多くなっていった。 お客さんがいるときは、叱責できない代わりに無言で手を叩かれるようになった。夕方の、誰もいないときに、コップの水が溢れ出すように小言を琴美に浴びせかける。いつの間にかそんな毎日になっていった。
「おっはよー」
「あ。おはよー」
もう一人の社員、中田が出社したのか、富沢は機嫌のよさそうな声を出す。
「ねえ、もうあっつくない? ここ来るまでに汗びっちょ」
「うわあ。脇汗すごいじゃん」
「だろ?」
げらげらと笑う二人の大きな声が開店前の店頭に響く。
富沢さん、朝礼ーと彼方から声が掛けられると、
「ごめん、私行ってくる」
と走って行く様はまるでカバのようだと琴美は思う。
「おはよーございまーす」
小声で琴美の脇をすり抜けていく中田に、
「おはよ、ございます」
と蚊の鳴くような声で答える琴美は、中田がうらめしくてたまらない。
鼻歌を歌いながらパソコンの前でタイムカードを打刻する中田は、琴美のいるのも気にしていないといったように服を脱ぎ出す。
「あ。着替え持ってきてるんじゃん」
レジ裏に顔を出す富沢に、
「早っ。朝礼ってそんなもん?」
「そんなもんなんだよ」
「あたし、くせーな。あれ、貸してよ、あれ」
「あれ? 自分で持って来いよ」
二人を脇目に見遣りながら、琴美は店頭に出ていく。開店の準備をする。今日も始まる。琴美は肩で息をすると、馬鹿笑いの響くレジ裏を遠くに聞きながら、所在なさげに足を前へ投げ出した。
ピシャンッ。
打たれた音だけが白々しく響く。
ここは琴美の部屋だった。今は琴美の他、誰もいない。
ピシャッピシャッ。
琴美は持っていたブラウスを置くと、右手をさする。
ピシャン。
一人暮らしのこの部屋で、見えない誰かが琴美の手を叩いている。
琴美は打たれた手をじっと見つめた。
部屋に戻って、洗濯の終えた服を畳んでいた時のことだった。
自分の服をお店の服を畳むように練習していたとき、何かが琴美の手を打ったのだった。
「痛っ」
思わず顔をしかめる。
持っていた服を脇に置き、手をさすりつつ、琴美は見渡した。
なんだったんだろう? 虫?
そう思ってまた服を手に取る。
丁寧に畳んでいると、
ピシャッ。
「痛っ」
手は赤く腫れている。
じっと見つめているうち、
「店長……?」
ふと、そんなことがよぎる。
ピシャン。
思わず持っていた服を投げ落とすと、
「すみません」
と口からついと出てしまった。
それから続けて、
「すみません。すみません」
と言葉を継ぐと、服を急いでたたみ始めた。
綺麗にたたみ終え、服を重ねると、急に部屋はしんとし出し、琴美は恐る恐る、
「店長、ごめんなさい。もうしません」
と頭をフローリングに付けて土下座の姿勢を取った。
「なんでも言って下さい。その通りにします」
その姿勢のまま、語りかける。
「やれと言われたことは何でもやります。間違いは二度はしません。ちゃんとメモに取ります」
言われたことを言われたとおりにする。
それってなんて楽なんだろう。
もう悩まなくてもいい。苦しく思わなくてもいい。
言われたとおりに遂行する。
店長。
もっと正しいやりかたを私に浴びせて下さい。
私は仕事ができるようになる。
私を導いて。
琴美は打たれた右手を見つめながら、自分はなんて無責任なんだろう、と嘆息した。
無責任って、なんて楽なの。
店長に、決定権を。
手は見る見ると腫れ上がっていき、倍くらいの大きさになると、琴美は涙でそれを拭いた。
何度だって言います。
「すみません。すみません。すみません。すみません」
言われる度に何度となく打たれる右手は紫色に変わっていった。
琴美は救急箱を取り出し、包帯でぐるぐると右手を巻くと、端をはさみで切り縛った。
「これでいいですよね」
琴美は右手を押さえると、胸に抱き、息をついたのだった。
時計を見ると、十二時五十分。中田がお昼休憩に行ってからもう少しで一時間経つ。
平日のお昼でお店は人通りもなく、フロア全体としても閑散としている。
午前中に店頭に出したバックが入っていた段ボールを畳みながら、入れ替わりでお昼休憩になる中田が戻ってくるのを待っていた。
そこへ。
「ちょっと、関口さん!」
富沢はバック売り場の前で、声を荒げる。
「ここ見て! 値札切れちゃってるじゃない!」
「すみません……」
富沢は詰め寄ると、
「すみませんじゃないわよ。はさみ使うとき気を付けてっていつも言ってるでしょう? 商品、傷つけてないでしょうね?」
「傷はないと思います……」
「ないと思います、じゃないわよ。あったら困るの!」
その時。
富沢が手を上げようとした時だった。
ふと。
動きが止まった富沢は、
「なにそれ。どうしたの?」
と琴美の包帯の手をのぞいている。
「あ。これは……昨日、やけどしちゃって」
「ふうん」
琴美は手を庇うと、背中に手をやった。富沢は、
「まあ、自主性も育てないとね……」
と独り言のように言うと、
「もう中田さん、戻ってくるから、お昼行っていいわよ。値札は私が付けとくから」
そう言ってバックを手に取る。琴美は、
「あの……すみません。私がやってから休憩に入ります」
「いいから、行ってきて。私のお昼が遅くなるから」
琴美は、あ、そうか、と気づいたようにつぶやくと、
「ごめんなさい。じゃあ、休憩入ります」
とぺこりとおじぎをすると、小走りして店を出たのだった。
お弁当をつつきながら、琴美はどきどきしていた。
箸を持つ右手をじっと見つめながら、
もしかして店長、心配してた?
そんな思いがよぎる。
なんだか胸が躍る。
どきどきと、鼓動を感じていた。
詰め込むようにお弁当を食べると咀嚼するのも適当に、ぐっと飲み込んでしまう。
お茶で流すと息を大きく吐いた。
包帯を取ってみる。
ぐるぐる巻きにされた包帯がすとんと、膝の上に落ちると、
あれ。
琴美は目を瞠る。
腫れてない。
赤くもなっていない。
琴美は残念に思うと、またゆっくりとした動作で包帯を巻き始めた。
端を引っ張って角結びにする。
包帯を取ったらなにもなかったなんて店長が知ったら、もう心配してくれないかも知れない。
琴美は包帯の巻いた右手を左手で包み込んだ。
私は怪我をしている。
そう。これは店長が負わせた怪我。
怪我は多分、一生直らないものだから、ずっと包帯をしてなくちゃ。
包帯をしていたらきっと仕事ができるようになる。
失敗もしなくなる。
私は怪我をしている。
包帯を外さなければいいだけのことだ。
私がこれからも店長についていく為にも、その証が必要だ。
しかし、それから富沢から叩かれることも、見えない何かから打たれることもなかった。
右手は血色のいい肌色を讃えたまま、包帯を巻く必要などないくらいの健康そのものだった。
琴美に日常がもどる。どきどきとした鼓動も、包帯を巻くほどの腫れた右手も、全くの夢のようにはかなく終わってしまった。
ああしろ、こうしろ、と強く示してくれた富沢は、すっかり琴美への束縛を解いて、中田と馬鹿笑いする日々だ。
根拠なんてなかった。
強く指示してくれたことに。
ただのやつあたりとも言えそうなものだった。
そう思い至ると、信仰のようについていった富沢への思いも、中田のように店長と仲良くなりたいと思っていた気持ちも、全てが萎えるようであった。
富沢の、琴美に対する愛なのだと確信していたかつては。
権威に屈することで自分を獲得していっているような幻想は。
それが当たり前だった毎日は。
呆気なく終わってしまった。
戻ってきた日常には。
なんの尊敬もなかった。
相変わらず後ろ姿はカバのようだと見えてしまうし、中田はその同類の輩でしか思えなかった。
それと同時に。
琴美は自分がじつに空っぽだと自覚せざるを得なかった。
琴美自身もカバ同然だ。
そう気づいたときに、ほんの少し前の自分と富沢の関係は盲目的にも幸せだったのだと嘆息せざるをえなかった。
しかしなんとも愚かで忌まわしいとしか言えない過去に、権威があったと信じていていた過去に、反対を唱えるだけのエネルギーなんてない自分が、もともと信頼なんて学べるはずもなかったのだと気づく。
誰かについていくことも、誰かのために自分がなにかなしうることもすべて儚いのなら、どんなことに自分を見いだしていく必要があるのだろう。
空っぽの自分をまえにして、遊び尽くしたような虚しさばかりが残った。
ひとしきりゲームに興じて、ただ疲労感ばかりが残ったあの感じによく似ているもの。
そんなものが横たわっていただけだった。
琴美は巻いていた包帯を外すと、毎日、右手をさらして出社した。
滞りなく過ぎゆく日常に、琴美はなにか確信に思えるもの、信仰に近いものを探していた。
どきどきとした、非日常を与えるもの。
自分を獲得していくような実感を求めて、琴美は歩き回る。
空っぽだった自分を殴打して、新しい自分を見つける。
日々は、暗澹たる気持ちに支配される。
枝葉はまっすぐ伸びて、風に揺れる。
さらさらと音を立てて、空高く上っていくようだった。
日の差す方角を見上げる琴美は、昨日から一歩這い上がったような実感に胸をときめかせていた。