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vermilion 前章  作者: 久蘭
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知恵の蜘蛛が抱く謎1(ユルジサンド10才)


 緩やかに、雨の滴が尖塔から落ちてくる。

 イシス・クリファがノーダヴィダ大公の地位に就いた日も、こんな雨だったように思う。

 大公妃に立った少女は、イシスより二つ年上だった。

 綺麗な子だと思ったが、それ以上でも、それ以下でもない。正直、あまり親しみを持てないなと感じて、次の瞬間、忘れた。

 イシスの中に在る別の魂は、すべての者を等価とみなした。

 父も、母も、それ以外の者も、自分と他人との距離はどれも同じだった。

 それが、「身のうちに神を宿す」という事なら、そうかもしれない。

 神々は、すべての者に平等に愛を与え、そして奪う。

 だから、妃を、たとえばそれが初恋の人になるべきだとしても、恋の意識が生まれた瞬間にその他と等価となる。

 もし、彼が、普通に男として、女性を愛する事にしたら、この世界のすべてに対して、その様に愛を注がねばならない。

 神としての意識と身体を持つのであれば、この世の森羅万象に対して、そのような愛を注ぐことも可能なのだろうが、小さな心と不自由な人の身しか持たぬのであれば、それに見合う思いを持つことしか叶わない。

「ユーリは飽きませんか」

「いいえ、全く」

 薄暗い書庫の中で、少年は一心に働いている。

 今、ノーダヴィダ王国という国は無い。

 アールシャド王国が帝国となる時に、飲み込まれてしまった。

 その王にはもうアストレーデ聖典が降りないが、古家の血統は維持され、ノーダヴィダ大公という称号で呼ばれる。

 ノーダヴィダ王国の遺産。

 その大いなる学術研究機関は、現在は帝国大学と、帝国教会の学術図書院の形で残されている。ノーダヴィダ大公の職務とは、その両機関の総帥を務めることである。

 帝国の中にありながら、交易惑星にも等しい自治権を許された帝国大学は、残されたノーダヴィダ王国の最後の領土とも云えなくはない。

 その帝国大学の総帥棟に付属するこの書庫には、現在限られた者しか入れない。

「私は飽きたんだけどな」

「『フォンティラの書』を今日中に探さないといけないのではなかったのですか」

「いいよ、見つからなかったって云えばいいんだから」

「ご講義はどうなさるのですか。

 それに、窓閉めてください。

 紙製の本は湿気に弱いんです」

 返却された本を片付けながら、目的の本も同時に探す。

 実に効率のいいことをする、とイシスは感心して少年の仕事を脚立の上から観察した。

 おそらく、自分にはこの膨大な学術機関を継承させる子孫を残せる当てがない。

 だから、古家の血筋にあるこの少年に、その役目を学ばせることも、意味が無いことはないのだろう。

「おまえはなぜ、ここに居るのが楽しいんだい」

「本を読むのが好きだからです。

 陛下はお好きではないのですか。

 帝国大学の総帥でおいでなのに」

「死んだ者の記憶はおもしろくない。

 それはただの記号だ。

 今日も、昨日も、同じ物だよ」

 イシスはユルジサンドを問答ではぐらかし、時間をつぶしていた。

 まじめに働くこの十才の少年は、本来は、ファーマムール王国の第三王子である。第二夫人の子として生まれた第二王子とは双子であるが、『夢』を見る能力をもっていた。それを聖典の開示を怪しんだ第一王子の母である王妃によって、帝国教会に預けられた。

 すでにそれは、ファーマムール王国の王たる者としての、ファーマムール聖典の開示は第一王子になされており、後は継承の時満ちるのを待つばかりであった。つまり、それは現ファーマムール国王の死を意味する。開示された者がまだ即位してもいないのに、次の者への開示はあり得ないのだが、そんな事は『普通の』者にわかる訳がない。

 それが何であるかは、イシスしか知りようがない。

「私は、おまえを見ているほうがおもしろいよ。

 毎日新しい事を知り、少しずつ大きくなる。それでも、小さい頃には戻れないし、知らなかった頃にも戻れない。

 一度記されて、文字として世に出てきてしまったものは、もう変わる事がない。

 字が滲んだり、掠れたり、虫に食われたりしたほうが、まだマシだよ。

 少なくとも、書物の上を時間が通り過ぎた証だからね」

 おそらく、目の前の少年には、まだそれは分かるまい。

 人は、命があってこそ、美しい。

 その身がどれほど、罪を背負っていようと、悪徳に浸ろうと、弱き心であろうと。

 生きている者が一瞬に考える物事の量は膨大である。

 イシスにとっては、そのすべてが愛おしいのだ。

 イシスの身のうちの『神』は、時々ひどい事をする。

 イシスには悲劇が見えるのに、それをただ傍観せよと云う。

 温かい身体の中にある膨大な思考と記憶が、一瞬にして消える場面に立ち会えという。

 愛しい者が失われてゆくのは痛い。

 それが聖典魔術師シェル=ダル=シャハールの仕事なら、仕方がない。

 目の前の少年が、その仕事を受け継ぐ日、その日がきっと、少しでも幸せならいい。

 でも、そんな事はないのだと、イシスはもう知っている。

「陛下、これでございますか」

 午後になると、書庫は本当に暗くなる。

 いや、照明はあるのに、そう感じるのは、イシスのひねくれた魂のせいだろう。

「よく探せたね。

 おかげで私は、今から講義の草稿を書かねばならないのだね。

 ああ、そうだ、ユーリ。

 近いうちに、修道会の本院から、騎士団長が来るよ。

 きみと同じ年頃だから、きっと仲良くできるはずだ」

 その出会いが、始まりの一歩であるなら、イシスは彼らを出会わないままにしておくこともできたのだろう。

「騎士団長の噂は、陛下からよく伺いました。

 楽しみにしていますから、お見えになったら、絶対に対面の機会を作っていただきますよ。

 それでは、僕は帰ります。

 夕刻の礼拝がありますから」

 パタンとドアが閉まり、少年の気配が消えてしまった。

 イシスは脚立を降り、少年が置いていった書物を取った。

「いいなあ、修道士は。

 やる事があって」

 イシスは、その日の残りの時間を、十何通めかの修道宣誓書を書いてつぶすことにした。

「今度は絶対に許可してもらおう」

 でないと、大公妃が自由にならない。

 夫としての務めを果たす事ができない以上、自分が信仰の道に入るなら、大公妃の称号を残したままでも、自由に恋愛する事を世間が許すに違いない。

 整理が途中のまま、机上に置かれた数冊の本の上をハエ捕り蜘蛛が跳ねる。

 アストレーデの神話においては、蜘蛛は知恵の象徴である。

 忘れ去られ、蜘蛛の巣に守られた書庫の奥に、真の叡智は眠るものとされている。

 そしてそれは、今は巻き物の封印としてデザインされ、修道会の紋章となっている。

 修道会は、聖典魔術師の作った組織。

 その長を任ずる権限は、シェル=ダル=シャハールにある。

 だが、そのシェル=ダル=シャハールが修道士になりたいと望むのに、総教主はその願いをきいてはくれない。

「世の中は、ままならないね」

 蜘蛛がぴょん、と跳ねて、机の下に落ちた。

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