5.常に潜んでいた危険
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「ふぅ… 夕方なのにまだ暑いなぁ」
穂積山から稀莉の家へと移動中の時。
山の敷地内との気温差は天と地ほどの差があって、襲ってくる暑さに穂香は再びやられかけていた。
修行を積んだ陰陽師や、力のある神や高位の妖なら、自身の霊力を操作して気温変化による身体への負担をなくすことができるらしい。
だが、穂香は普通の人間だ。才能や霊力の量は問題ないが、修行していたわけではないのでそんなことできるわけがなかった。
「ん? どうしたの?」
穂香は肩にとまっている幻魔蝶に問いかける。人の言葉が通じているかどうかは分からなかったが、少し様子がおかしかったからだ。
ちなみに、穂香はこの蝶に「ネロ」と名付けた。安直な気もしたが、一番安直な呼び名はすでに使われていたし、かぶりたくなかった。
だが、妖相手に名付けするというのは、契約の一種であり大変貴重なことなのだが、そんなこと穂香が知るわけがない。
ネロは、契約したからには主人を守るという体で周囲を警戒していた。そして危険を察知していた。
羽を薄い刃物状に変化させ、穂香の目前にまで迫ってきていた妖を切り裂くように攻撃した。
やられた妖は、その体が粒子状に飛散して、消えた。それは妖にとっての≪死≫を意味する現象である。
一瞬のことに、穂香はただただ驚いた。自分が襲われかけたことよりも、ネロが攻撃したことよりも、今抱いた自分の感情にだった。
そっと自分の胸に手を当てる。不気味なほど穏やかだ。
目の前で起きた現象が、妖の死を意味することは穂香は知らなかった。けれどそれがそうだということは、なんとなく感じていた。
「ありがとう、ネロ」
穂香がお礼を言うと、ネロは嬉しそうにヒラヒラと舞った。
ネロの反応を見て口元をほころばせるのだが、さっき一瞬抱いた感情がほんの少しだけ恐怖に変わる。
目の前で起きた死という現象に、今更怖くなったのだ。
極端なことを言うならば、人だろうが、動物だろうが、虫だろうが同じ命で、同じ死であるはずで。人間が寄ってきた蚊を退治するのも、蚊にとっての死なわけで。
それならこの感情の乗せ方の違いは何なのだろうか。何の死ならば悼むことがあるのだろうと穂香は考える。
知った顔であるならその死を悲しむことはあるだろう。
では、涙を流すほどとなればどうだろうか?
「…大切な人……」
大切に想っていればいるほど。家族や友人、恋人など。
誰が誰をどう思うかに基準なんてないし、人それぞれだろう。
穂香だって、家族や稀莉がそうなってしまえば悲しくもなるし、泣きもするだろうと思っていた。
心とは、何だろうか。
自分が自分であると思っているのに、穂香は最近の自分のものではない “何か” が入り込んでくることに、少しずつ不安を募らせていた。
けれど実際に何かがあるわけではないので、まだ様子見の段階でとどめている。
「…って、えっ!? ネロ!?」
考え事をしながら歩いていたせいか、穂香は自分の周りの状態に気づくのが遅れた。
一言で表すなら「惨劇」だった。
妖の死は先程穂香も見た通り、粒子状になって飛散して消える。…というのが通常だ。
一部例外がなくもないが、それでもそれが通常なわけで。
ならばこれは、どう理解すべきか。
穂香の周囲には、粒子状になって飛散したであろう妖が。しかも大量に。これでもかというくらい。
普通に考えれば、先程のように穂香を襲おうとした妖がネロに阻まれ、返り討ちにあったということになる。
そこまでは穂香も納得できるし、感謝の思いも湧くのだけど…
問題は、粒子状になった妖たちの多さだ。穂香の周りにあるそれらはまさに異常としかいえない。
考え込むと周りが見えなくなるという悪い癖があるとはいえ、目の前で繰り広げられていることに気づかない穂香も、異常といえば異常だ。
けれど今はそういうことではなかった。
穂香が狙われるようになったのはつい最近なのである。ただ単に、魂の質とか、霊力の多さとかだけの理由ではないのは、気づいた者にとっては明らかなこと。
そうなるにしても何かきっかけがあったはずなのに。
「きっかけって… 穂積山に関する何かとしか…」
歩きながら自問自答を繰り返しつつ、時には声も漏れる。
その間もネロの撃退は止まらない。これは、1秒でも早く稀莉の家に辿り着く必要があると思い、穂香は早足で急ぐ。
走らないのはこの暑さの中で走って余計に疲れたくないからだった。
とはいえこのままネロにばかり任せるのは申し訳なかった。穂香も、自分が何かできればいいのに、と少し悔しく思う。
「穂香ちゃん!」
穂香を呼ぶ声と同時に、強い風が吹き抜けた。
あの時と同じだ、と穂香は思った。文月丸と初めて会った時のあの荒々しく吹く風と。
助けに、もしくは迎えに来てくれたのだと思い、穂香の中の焦りが安堵へと変わった。
その風によって穂香の周りは一掃され、一仕事終えたと言わんばかりにネロはゆっくりと穂香の肩にとまった。
「よかった、無事で。稀莉ちゃんが嫌な予感がするって言ってたから… 見に来て正解だったよ」
珍しく焦った様子で、上空から地上へと下りてきた黒羽。
黒羽のその言葉から、黒羽だけじゃなく稀莉にも心配かけてしまったのだと思い、穂香は今後の在り方を改めて考えさせられた。
今回はネロと黒羽がいたからこそ、この程度で済んでいた。妖と関わりあい、普通に見えるようになった穂香には、この先も今回以上のことが起こる可能性だって十分にあり得るのだ。
護身術程度の、守護の術を習ってもいいのかもしれない。もっとも、それを誰に習えばいいのか、そこが問題でもある。
「これは… 何か1つでも身につけておくべきだね。幻魔蝶の守護があるとはいえ、限界はあるわけだし」
「そうは言っても… 誰が教えてくれるっていうの?」
「そこだよねぇ…」
「独学でやるにしてもそういう資料とか…」
「あぁ! そういう方法なら稀莉ちゃん家にならあるんじゃない? そういう資料」
「……ほんと、雪宮家って…」
穂香は、雪宮家に関わりがあるわけではない。あるのは稀莉と、稀莉の祖母だけ。個人とだけなので家の内部までは知らない。そういったものはあるだろうなとは思っていたけど。
別の理由とはいえ、雪宮家を訪れる穂香は目的が増えたので、今夜は寝られるだろうかと思っていた。別に夏休みだし、寝ようが寝まいが自由なのだが、人の家、ということもあるので悩ましいところだった。
「…クロや、文月丸様はどう対処しているの?」
黒羽はとても驚いていた。
自分はどうかと聞かれたことに対してではない。穂香が、「文月丸様」と言ったことに対してだった。
ほんの数時間前まで… 穂香はあの男の名を知らなかったのに。
会いに行っていたのは知っていたが、あんなに頑なだったのに、文月丸が自分で言うはずがない。
「クロ…?」
急に黙った黒羽をキョトンとした顔で見上げる穂香。その瞳の奥がゆらっと揺れた。
その瞳を見た黒羽は内心ゾッとした。そして直感的に思った。この子の中に何かが… 誰かがいると。
憑りつかれているのだろうか。それとも守護霊的な何かか。
可能性として考えられることはいくつかあるけれど、その程度の事ならば文月丸が必ず気づくはずだし、穂香自身も少しは自覚していてもおかしくないはずだった。
だけど文月丸は気づいていない。穂香も何ら変わった様子は見受けられない。
とりあえず黒羽は、自分が近くにいる一晩だけ様子を見てみることにした。
「俺や文の兄貴は… 守護の術はもちろん使えるよ。まぁ、俺は攻撃の術の方が得意だけどね。攻撃は最大の防御って言うじゃん?」
「…人それぞれってことね」
「ざっくり言っちゃえばそうかな。中には幻魔蝶のように、幻を扱う特異型もいれば、文の兄貴みたいな万能型もいる」
「万能型って?」
「そのままの意味で何でもできる、だよ。攻守両方できるし、修行次第で幻術も扱える」
「それ、全部ってこと…?」
「それも修行次第。まぁ、ぶっちゃけ修行さえこなすことができるかどうかになってくるんだよね。適正自体は誰にでもあるから」
その言葉通りなら、修行のやり方と種類をどれにするかで、穂香にも習得可能ということになる。
この常に危険にさらされている状態は非常に良くない。このままでは自分はおろか、家族にまで影響を及ぼしてしまうかもしれない。
そう思った穂香は攻守共に勉強することにした。まずは「守」を重点的に。
自分の事すら守れない者が、他人をどう守れようかということだ。けれど独学でやるという現実が不安を生み、穂香の心を埋めていく。
教えてもらうという選択肢がないわけではない。ただ、その相手が相手なだけあって師事を願いづらいのだ。
「いっそのことネロみたいに契約して使役する妖を増やすのも1つの手だね」
「うーん… なんか違くない?」
黒羽の言う契約も使役も術の一種なので、手段としてはアリなのである。だが穂香はお気に召さなかったようだ。
自分が何をどうしたいかは稀莉の家に着くまで、穂香は歩きながらずっと考えていた。