4.文月丸
今回は少し長めです。
前後編に分けられず詰め込みました。
~*~
あの不思議なことがあった日から数日。
季節はすっかり真夏となり、穂香たちの学校も夏休み真っただ中。学校内で響く声といえば、部活で学校を訪れている生徒たちくらいだ。
あとは… 期末テストで成績が悪かった人が補習授業に来ているくらいだろうか。
「管原は… 希望としてはどっちで考えてるんだ?」
「…………」
「まぁ、管原だったらどの道に進んでも大丈夫だとは思うけどな」
穂香は部活に入っているわけでも、成績が悪く補習授業を受けに来たわけでもない。3年生に上がる時の、進路に関する個人面談のために学校に来ていた。成績が優秀でも、たまに穂香のように進路が決まっていない人がいたりするのだ。
穂香自身、進路というものにあまり関心がなかった。
特別やりたいことがないというのもあるが、今一番興味のあることが進路に全く関係がないのも理由の1つ。
そもそも進路だなんだという前に、穂香の頭の中はお狐様であるあの男のことでいっぱいだった。
翌日から、穂香はさっそくあの男に会いに行っていた。ほぼ毎日と言っていいほどで、今日もこの後行くつもりなのである。
行って特別何かをする、というわけではなく、ただ話しているだけ。
穂香が一方的に話しかけているだけなのだが、男は無視することなく会話にちゃんと応じていた。
普通に会話はしてくれるのだが、未だに名前を教えてもらっていない。
帰り際に何度か聞くのだが、その度にはぐらかされてしまう。知られたくない、言いたくない理由がそれほどなのか、または別の理由なのか穂香には分からなかった。
そんな状態だったが、会話に応じてくれるだけまだマシだと言えるのかもしれない。
「本決定には時間はあるからゆっくり考えてきなさい。ちょうど夏休みだし、旅行とか行ってみるのもいいかもな」
そう言われても、そういった予定は穂香にはなかった。
毎年夏頃に行っていた家族旅行は冬に延期された。理由は親の仕事の都合というやつだった。
穂香も、穂香の弟も今年は無くてもいいと言ったが、そこは両親が譲らなかった。来年こそ、2人とも受験だから行く余裕があるのかどうか分からないのだからと。
担任との面談が終わり、廊下に出て歩きながら考える。自分の進路、未来について。
そこでふと思った。穂実は、自分の未来をどういうように思い描いていたのかと。
愛する者がいたのに失われた命。
穂実がどう思っていたのかはあの男なら知っているかもしれないが、それを聞くのはなんとなく気が引けた。
「あっつ……」
外に出れば容赦のない日差しが穂香を照りつける。
暑いのが苦手というわけではない穂香だが、この暑さではさすがに体調に影響が出てしまう。
汗は出るし、熱気でクラクラする。さっさと帰るかすればいいのに、穂香の足は穂積山の方に向かっていた。
山だから、というのもあるが、穂積山は涼みに行くのに最適な場所でもあった。
穂積山はお狐様による霊力の結界が張られていて、そもそも外界との気温の差が大きくあった。
とくに本人のいるお社周辺は、生物が住むにあたってちょうどいい気温が保たれていた。
季節によって景観は変わるが気温は変わらないなどという、まさに快適空間がそこにあるのだ。
それに、安全面においてもあの場所は優れていた。結界とあの男の存在で、悪さをするような妖は入ってこれないのだから。
だけど今のままではそれも時間の問題だと、黒羽が言っていたのを思い出す。
あの男の力が弱まっている今、このままでは結界が消えてしまうか破られるかしてしまうらしい。
それらをどうにかしたいと思った黒羽を初めとする妖たちの前に現れたのが、これまた都合よくあの男に興味を持った穂香だった。
「あ、ホントにいた」
「え…? …?」
「わー… 予想通りの反応だねぇ」
「…なんだ、クロか…」
街中でいきなり知らない人に声をかけられたと思ったら、数秒してそれは黒羽だと認識した。
穂香がすぐに認識できなかった理由は、黒羽の姿と雰囲気にある。
穂香たちと何ら変わらぬ服装と、髪型も少し変わっている。一番の変化は羽がないことだ。
あの羽はしまえたのか、などと思いながら歩いていると、いつの間にか黒羽は穂香の隣を並んで歩いていた。
はたから見れば、なかなか雰囲気のいい交際前の男女に見える。
「一応聞くけど、人の姿になってまで何しに来たの?」
「いや、まぁ… いろいろあるけど、穂香ちゃんに会ったのは偶然だよ」
「…情報源は稀莉ね」
「正解っ!」
穂香は今日、穂積山に行った後は、稀莉の家にお泊りの予定となっている。
その目的は穂香が今、知りたいことの大半がもしかしたら雪宮家にあるかもしれないからだった。
雪宮家は、その道にいる人には有名な巫女や陰陽師の家系で、稀莉の祖母はけっこう徳の高い人間であったとか。
稀莉の祖母を頼って、人外の者が訪れることもたまにあった。
そういう家系であったからか、人外の存在の事や不可解な出来事に関する資料が、今も残っているのだという。
稀莉はもしかしたら、穂香の知りたいことがその資料の中にあるのではと推測を立て、それを穂香に伝え、探すために家に来ないかと提案したのだった。
そして、稀莉の家に行く日が今日。
穂積山に行ってから夕方には着くと伝えてあるため、穂香がどの時間にどこにいるか、稀莉なら予想ができる。
でも、それがどうして黒羽も知っていることになるのかが穂香には分からなかった。
「え、だって俺、最近は稀莉ちゃんの家で寝泊まりしてるから」
穂香の考えが聞こえていたかのように話す黒羽。黒羽の言葉を聞き流すことに慣れてきた穂香だったが、さすがにそれは聞き流せなかった。
「よく稀莉の家に行けたね」
「あの家の結界のこと言ってる? でも、妖であっても客として招待されたなら大丈夫みたいだよ」
「……まぁ、何も問題ないならいいけど」
雪宮家にも、穂積山同様に土地の主による結界が張られている。
正しくは密かに継承される当主となった人物が力を込めているのだと、穂香は稀莉の祖母から直接聞いたことがあるだけ。
軽く聞いただけなので詳しくは知らなかったりする。
今ある情報量でも満足しているので、特別知りたいとも思わなかった。知りたくなった時に聞けばいいかと軽く考え、穂香は今はそれを考えるのを止めた。
「これから文の兄貴のとこに行くの?」
「うん、そうだよ」
「ならさ、これ渡しといて」
そう言って黒羽が穂香に渡したのは、何も書かれていないただの紙の束。
普通に見れば、何の変哲もないただの紙。穂香も最初は何だこれはと思ったが、すぐにそれが何かを理解した。
「別に、見てもいいよ? 穂香ちゃんが気になるなら、だけどね」
穂香はその言い方が若干気になったが、見てはいけないものだと思い、無言で首を横に振った。
黒羽はそんな穂香を意味ありげに見つめる。試したのか、または本当に見てほしかったのか…
なんにしても、穂香は直感で見てはいけないものだし、知らなくてもいいことなのだと判断したのだ。ただ頼まれたようにあの男に渡せばいい、そう思った。
「じゃあ俺は稀莉ちゃんとこに戻るから」
そう言って黒羽は去っていった。稀莉の家で寝泊まりしていると言っていたことを思い出した穂香は、会話と状況次第では黒羽からも何かしらの情報が得られると考えた。
知りたいことがあるとどこまでもどん欲になる穂香は、使えるものは何でも使う性格をしている。
今更だし、自覚もしているので穂香も気にしない。むしろ開き直っている。
そんなこんなで、黒羽と別れてから数分で目的地の穂積山へと到着した。
山に入る前に、改めて下から木々を見上げてみる。
木もそうだが、石や足元の植物。その1つ1つから神々しさを感じられて、とてもこの場所の主が弱っているとは思えなかった。
原因は聞いたが、はたして本当にそうだろうか。それだけだろうかと、穂香はこの山に通うようになって数日でそう思い始めていた。
別の何かがあるような気がしてならないのだけど、本当にそんな気がする程度の感覚なので誰にも話していない。
むやみに話してしまったことで、状況が悪化してしまうのも困ると。だったら確信を得られるまでは言わない方がいいと、改めて心に刻んだ。
「なんじゃ、今日も来たのか」
「っ!? ど、どうして…」
山へと入って社へと歩いている時だった。
突然真横から声がしたので、勢いよくそちらを見やってその姿を視界に捉えた。
普段なら、こんな山中で見るはずのない姿がそこにあることに、穂香はただただ驚いた。
同時に嬉しくもあった。いつもより早く、この男に会えたことに。
男は素早く穂香の傍まで来て、ぐっと顔を近づけじっと見つめていた。
その行動は、まるで何かを探っているよう。
「この気配… 黒羽に会うたか?」
「すごいですね、分かるんですか?」
「あやつのは分かりやすすぎるだけじゃ」
「(信用してるってことかな…)」
「…なんじゃ?」
「…いえ……」
急に黙った穂香を訝し気な眼で再度見る男。2人の顔の距離は近く、口と口が触れてしまいそうなほどだった。
わざとなのか、分かっていないのかどちらとも言えない様子の男とは違い、穂香の反応は対照的で顔を真っ赤にし、口をもごもごさせている。
妖とはいえ、今の姿は人のもので耳や尾が無ければ、妖と思う人は普通であればいないはずで。
けれどたとえ妖であっても、ほとんどの者が見惚れるであろう端正な顔立ちをしているのがこの男であった。
そしてそれは穂香も例外ではない。
そういうことに耐性のない穂香にとって、この男の近寄りすぎる行動は心臓に悪かった。しかも無意識下による行動なので、まぁまぁたちが悪い。
「そ、それよりも狐神様!」
「………なんじゃ」
「クロから狐神様にとこれを預かりまして…」
「…………」
少し渋い顔しながらも、穂香から離れて差し出されたものを受け取った。
この男は穂香に「狐神様」と呼ばれるのを、不満に思っている節がある。
不満に思うくらいなら、ちゃんと名前を教えてくれと言いたくもなる穂香だったが、その言葉と気持ちをぐっと飲みこんだ。
知りたい気持ちもあったが、このままでもいいかという気持ちもある。自分はこの男とどうなりたいのか、どういう関係でいたいのかまだ分からなかったのだ。
無言で紙束を見る男を、穂香はじっと見つめる。男が紙束に手をかざし、ほんの少し光ったように見えた時、やっぱり、と思った。
男が持つその紙束は、霊力を込めて作られた紙。普通であればただの紙だが、今のように少しの霊力を流すとそこに書かれていることが浮かび上がってくるというものだった。
穂香はそれを知っていた。いや、学ばされたと言った方が正しいだろうか。
昔に、残しておくべき大切な事柄を、簡単に人に見られぬように工夫されて作られたのがその紙で。妖同士だったり、妖と人との間で使用されたり…
この男にわたったそれは… 一体誰からのものなのだろうか。
「クロから… ですか?」
「…お前、これがどういうものか知っておるのか?」
「はい、昔ある人に教えてもらいました」
「……」
「あの…?」
「いや、なんでもない」
考え込むような顔だったり、驚いた顔だったりと今日のこの男はいつもより表情が豊かだった。
少なくとも、ここまでころころと種類多く変わるのは穂香は初めて見る。
少しずつ、少しずつ… 良い方向に変わってきているのではないか。自惚れかもしれないが、穂香はそう思いたかった。
「そろそろあやつらがしびれを切らしそうじゃな。…行くか」
「え… ちょっ!? えぇっ!?」
男は軽々と穂香を脇に抱えた。
一瞬にして揺らぐ景色。襲う浮遊感。
あやつらとは何のことかとか、連れて行くにしてももうちょっとマシな方法があるだろうとか、ぐるぐると色んなことが頭の中を巡る。
周りの音なんて聞こえなかったけど、ボソッと呟いた男の声は聞こえた。
「さっきのだが… あれは黒羽からのものではない。今言えるのはそれだけじゃ」
穂香にだけ聞こえるように発せられた言葉。
本人は無自覚だったが、さっきまでのやりとりで穂香は何を疑問に思っているかが顔に出ていた。
それに気づいた男が、言えるところだけを穂香に教えた。
現代の手紙とも言えるあの紙束、この男にとっても大きな衝撃を与えていた。
これの送り主は知っていた。男の力が何故弱まっているのか、どうすれば回復できるのか。
それには穂香が必要であること。
けれど男はまだ迷っていた。自分の力の回復に穂香が必要であることは、出会った当初から分かっていたことだったが、実行には踏み切れなかった。穂香の姿を、顔を、目を見るたびに重ねて見えてしまう。違うのだと言い聞かせても… どうしても。
「相変わらず早いですね…」
「慣れぬか?」
「そりゃあ……」
気づけば目の前にはお社。
今この男が使ったのは空間転移で、以前黒羽が使ったものと同じもの。高位の妖なら使えてもおかしくない術。
弱き者たちが力を出し合って使う場合もなくはないが、そちらの方が稀である。
そうやって連れてこられて穂香がお社に姿を見せたことで、今まで隠れていた妖たちが我先にと集まるように姿を見せた。
「ホノカだ!」
「みんなー! ホノカが来たよー」
抱えられた状態から地に降ろされた穂香は、集まってきた妖たちに囲まれた。
昨日よりも数が増えているような気がしつつも、妖たちの相手をしていく。
妖、といっても低級なので、穂香が何かをされることはまずない。
そもそもここの主である狐神がいるし、穂香には幻魔蝶が傍にいるのだ。手を出す行為は命を捨てることと同義である。
何かをされることがまずないと言える理由はもう1つある。
それは、ここのお社に集まってくる妖たちは、みんな穂香が大好きだからだ。
「ねぇねぇ! ホノカはどうして天狐様と仲良いの?」
「仲が良いかどうかは… って、天狐様?」
「うん、天狐様ー!」
にこにこしながらそう言って、少し離れた所にいる男を指し示す妖たち。
男の方も、自分に寄ってきた妖たちの相手をしている。男に表情はあまりないが、元々面倒見はいいのか、適当にあしらうこともしていなかった。
その様子を見ながら穂香は考える。
天狐という名前くらいなら穂香も知っていた。いつのことだったか、調べたことがあったからだ。
けれどもそれは、あくまで人間が持つ知識量内でのことであって、妖たちの間での認識はどういったものであるかまでは分からなかった。
天狐様と呼ばれたことに、穂香は自分が予想していたよりも高位な存在ではないかと思った。
けれどそこで、穂香の頭の中に1つの矛盾が浮かんだ。
自分が本やネットで見て知った情報と、目の前にある情報とでは一致しない点があることに気づいた。
それは今もなお、妖艶に揺らめく男の9本の尾が、そうなのだと示しているかのよう。
正確な情報と、今の男の姿や状態に矛盾が生じているなか、その原因は約千年前の出来事なのだろうか。
「…!」
不意に、頭の中に直接響いた声。
穂香だけに聞こえたようだが、だからといってどうすればいいのか分からなかった。
だけど行かないといけない気がした。そう思うよりも先に足は動いていたのだけど。
穂香が動くと、周りにいた妖たちもついてくる。
どこへ向かっているかなんて、穂香自身も分かっていない。けれどこういう時の穂香の直感というものは、わりといいものだったりする。
少数で、しかもかなり上手くお社前から移動したため、男は穂香がいなくなったことに気づくのに数分かかった。
穂香が何も言わずに帰ることは絶対にないため、男が非常に焦ることになったのは、穂香の知るところではない。
普段は静かなお社前を少し騒がせることになった当の本人はというと、その歩みは止まることなくどんどん進む。
どこに行きつくのか、穂香は途中で分かった気がした。だって見覚えのある道だったから。
穂香の順応性は結構高く、もうお手の物といった感じで山道を歩いていく。
だからその場所にもすぐ着くことができた。
「ここ、穂実さんのお墓ー?」
そう、穂実の墓。穂香にとっては、怖い思いをすることになった始まりの場所であるのだが、あの時とは違うのでいくらか安心している。
何故だかここに足が向いた。穂香はそっと、墓石に触れた。
初めて来た時は、手を合わせて目を閉じた。お墓だから、というのもあったが、そうすることが礼儀だと思ったからだ。
だけど、今日は違う。
今日は… 聞かなければいけない気がした。何を、とかではなくて、なんとなくだ。
目を閉じて墓石にそっと触れて少しした時、穂香は自分の中に何かが流れ込んでくるのを感じた。
匂いも、感触も、心も。それら全てをひっくるめた記憶が。
「…っ! 名前…」
流れ込んでくる記憶の中に、ある人物がいた。
穂香もよく知っていた。けれどそれは、今とは違い、優しい笑みを浮かべる男の姿。
そのような表情を見たことがない穂香にとっては、まさに衝撃的だった。
バチンッ… と、何かにはじかれたような気がして、思わず穂香は墓石から手を離す。
最近よく見る夢より鮮明だった気がした。
「あ、天狐様ー!」
「…!」
周りの妖たちがそう言ったことで、穂香は自分の背後にあの男がいるのだと気づいた。
無言。とにかく無言。男は穂香の姿を見つけ、一瞬だけ安堵したような表情をしたものの、すぐに無表情になり声をかけることもなかった。
一方の穂香は顔を俯かせ、上げようとはしなかった。いや、上げることができなかったという方が正しいだろうか。
何故かというと、穂香の中に流れ込んできた記憶は、穂香の体力をごっそり奪っていた。
なので今の穂香は、体力を使い果たし、立つことすらできない状態なのである。
普通に生活していれば、1日のうちで体力を使い果たすなどそうそうないはずで。
けれど穂香は1日どころか、ほんの一瞬で無くなったのだ。少し休めば帰るころには歩くぐらいの体力は戻るだろうが、それにしたって不可解な現象だった。
「立てぬのか」
「…すみません」
「お前はほんと… 一体何をしたのじゃ」
何をしたというか、されたというか… どう説明したらいいか分からなかったので、穂香はあったことそのまま話した。
一部分を、のぞいて。
それを言ったらどんな顔するのか、どう思われるのか。それだけが穂香の頭の中を埋め尽くしていた。
話を聞き終えた男は、座り込む穂香の隣に並び立ち、なんともいえない顔をしながら穂実の墓石を見下ろしていた。
どこか懐かしむような、悲しむような……
「あの…」
意を決して穂香は口を開いた。
この先どうなるのかなんて分からない。でもどういう方向に転がったとしても、事を進めなければと思ったのだ。
次の言葉を待つように、男は墓石を見つめたまま眉一つ動かさなかった。穂香も同様に墓石を見つめたまま。
「……文月丸様?」
目を大きく見開いただけだったが、男は反応した。
確かに穂香は、穂実の記憶という名の映像を見たことを話した。けれど男は、その名前を言われるとは思っていなかった。
だってその名前は、かつて愛した人が付けてくれて、呼んでくれた名前だったから。
男にとっては特別な名前であり、自身の名。
「ご… ごめんなさい! その、いきなり…」
男が何か不快な思いをしたのだと思い、穂香はすぐに謝った。
けれど、男は別に怒ってなどいなかった。
元々、感情表現が苦手ではあるが、今回は違う。怒ってはいない。
嫌でもなかった。むしろ懐かしさと、心地よさを男は感じていた。
穂香に名前を呼ばれるのが嫌だったわけではない。けれど、穂香が知ってしまう今日まで名前を告げることができなかったのは、男の中である葛藤があったからだった。
穂香は穂実と同じだった。別人ではあるけれど、要所要所が穂実を思い出させることにつながり、それが男にとって余計に苦しかった。
でも、そんな苦しさの中でも、この男… 文月丸の中には1つの変化が生まれていた。
それは文月丸にとって、救いとなる大きな変化。
「……別によい」
「…え?」
「好きなように呼べばよい」
そんな風に言ってもらえると思っていなかった穂香は、思わず呆けたような声を出した。
なんとか上を向いて文月丸の顔を見ようとした。…が、穂香が上を向くよりも先に顔を背けていたため、見ることはできなかった。
そのかわりに不規則に揺れ動く尾が見えた。なんだか落ち着きないなぁ…と、そう思うほどに。
少しして穂香は気づいた。それは文月丸の照れ隠しなのではないか。
その感情表現の仕方は犬や猫のそれと、とてもよく似ていた。
「文月丸様」
「…なんじゃ」
「…………ふふ…」
「…何を笑うておるのじゃ」
穂香が試しに名前を呼んでみると、ほんの少しのぶっきらぼうさを含んだ返事が返ってきた。
その時にこう思った。あぁ、この人は、不器用なだけなんだなと。
可笑しさと、微笑ましさと、愛しさが溢れて思わず笑みがこぼれる。
思いがけず名前を知ることになったり、その名前を呼ばせてもらえること。その全部に穂香は幸福感を覚えた。
嬉しそうに、幸せそうに笑う穂香を見て。
文月丸は穂香の頭へと手を伸ばし、そっと撫でた。無意識だった。
突然のことに、穂香はキョトンとしながら少しして文月丸を見上げる。
「あの…?」
「……」
「えっ!?」
文月丸はその問いには反応せず、無言で穂香を抱き上げる。今度はちゃんと、横抱きで。
体力が戻らず、動けなかったので手を貸してくれることはありがたかったのだけど、すごく、すごく恥ずかしかった。
でも動けないのは事実なので、恥ずかしいけれどせめてもの抵抗で、穂香は赤くなった頬で文月丸を見ないようにそっと顔をそらした。
自分が、文月丸に対してどう思ってるのかは、早い段階から分かっていた。分かっているのに気づいていないふりをしていたのだ。
夏の暑さのせいだけじゃない。けれど夏の暑さのせいにしたくなるほど、思考回路はぐるぐると回り、ショート寸前なほど熱を発している。
気温調節が完璧であるこの場において、暑いと思うのは完全に顔が火照っているせいだった。
「(せめて自分で歩ければいいのだけど、まだ全然動けないんだよね…)」
こんな、明らかに… 今の状況を意識していますと言っているような顔は、見られてしまっているだろうと穂香は半分諦めていた。
せめて…と、何度も思いながら顔をそらすので精一杯。
だから、気づかなかった。
文月丸の目が、何かの選択を迷うような目をしていることに。