2.ウェスとジェシー 旅の始まり
暗く長い長いトンネルを一人の少年が歩いていた。年頃は10代半ばくらいか、髪は銀色に輝いている。
「ウェス! ウェス! ジェシーはお腹が空いたよ」
少年しかいないはずのトンネルで少女の声が響いた。
「もう少し待ってくれよ、ジェシー。ほら、向こうに光が見えるだろ? あれが出口だよ。外に出たらなにかまともなものを食べさせてあげるからそれまで待ってくれよ」
「ジェシーは別にそこにあるお石さんでもいいんだな」
「ジェシーはそれでもいいかもしれないけど、そうしたらなんだか僕の気分が優れないんだよ」
「もう、ウェスの体は本当に弱っちいな」
「それとこれとは関係ないと思うんだけどな」
ウェスと呼ばれた少年は苦笑いしながら鼻の頭をカリカリと掻いた。
「なんでもいいから、早くジェシーのお腹を満たして欲しいんだな」
「わかったわかった」
ウェスは困ったように笑いながらそう返事して歩をわずかに速めた。
「見てごらんジェシー。ここがキーブクロイス王国だよ」
長く暗いトンネから解放されたウェスは両腕を大きく振り上げ体を伸ばした。
キーブクロイス王国、人口6000万人を誇る大陸1の大国である。しかし、今ウェスの目に見えているのは木々だけであり、とても大国に入ったようには見えなかった。
だが、事実として、今、この瞬間、ウェスそしてジェシーは確かにキーブクロイス王国に戻ってきたのであった。そう、戻ってきたと表現するのが正しいのである。しかしジェシーにそんな些細な事はは関係ない。
「そんなことはどうでもいいんだな。それよりもはやく食事をしたいんだな」
「もう、それはわかってるよ、だって僕もお腹が空いてるからね。今からなにか食べれそうなものを、あっ、間違えた、食べるのに適したものを探すからちょっと待っておくれ」
「匂う、匂うよ。ここから左斜め前方少し先。美味しそうなお肉の匂い」
「少し先? 地図を見る限り暫くは森だね。なんだろう? 鹿とかかな?」
「ううん、この匂いは熊」
「熊か。うん、熊なら問題ないかな。よし、それを食べてから例の村を目指そうか」
「あっ、近くにお肉がもうひとつ」
「そっちも熊かい?」
「ううん。こっちは人間」
ジェシーはいつもと変わらぬ調子で答えた。
ウェスはぎょっとしてからすぐに駆け出した。
「それを早く言ってよ。ジェシー道案内よろしく」
「うん。わかったよ、ウェス。とりあえず逆」
ウェスは急ブレーキをかけ、綺麗に回れ右をして再び走り出した。
※
ひとりの少女が森にいた。少女の髪は金色でとても長く腰にまで達していて、毛先に近い部分はくるりと丸くなっている。碧く澄んだ目は大きくぱっちりとしていて少女を可憐に見せる。
服装は森だというのに歩きにくそうなピンク色のふわふわしたドレスであった。
少女の名前はマリー・シンクレアは。彼女こそがジェシーが嗅ぎつけた人間である。
その少し後方にもう一体。ジェシーの食指を動かしたお肉、冬眠から目覚めたばかりの腹を空かせた熊がいた。
マリーはその存在に気づいてはいなかった。熊はのろのろとマリーに近づく。一歩、二歩、三歩と。その時熊は地に落ちた木の枝を踏んだ。パキっと枝が折れた音がする。それに気がついたマリーはゆっくりと振り返った。
そしてようやく己を喰おうとしている熊の存在を知った。体長2mを超える熊を目の当たりにしたマリーは「まあ」と少し驚いたように声を漏らしながら上品に口元を手で押さえた。
しかし、マリーは全く怯えておらず、それどころが笑みをこぼしていた。ただ、相手が怯えていようが笑っていようが腹の空かした熊には全く関係ないことであった。
熊はようやく見つけた餌に飛びかかった。
だが、次の瞬間喰われたのは熊の方であった。
マリーの目の前で熊はゆっくりと崩れ落ちた。何が起きたかわからないマリーであったが、熊の左腹が獣に喰われたようにえぐり取られていることに気が付いた。
そして、熊が完全に倒れるとマリーの視界には右手に包丁を持つ黒いコートを着た銀髪の少年の姿が現れた。
「ハアハア、大丈夫……ですか?」
黒いコートの少年、ウェスは呼吸を整えながら手に持っていた包丁を腰に付けたホルダーに収めた。
この少年が助けてくれたことを理解したマリーは、
「はい。大丈夫です。助けていただきありがとうございます」
と、笑顔でそう答え丁寧に一礼してまっすぐとウェスを見た。
マリーの碧い目に見つめられたウェスは頬を赤めて硬直してしまった。不思議そうな顔をしながらもマリーはウェスを見続け、ウェスはウェスでマリーに焦点を置いたまま固まり続けた。
しばしの沈黙の後、ジェシーの呼び声でウェスはようやく我に返った。
「そ、それはよかったです。あ、あの、僕はウェスといいます。もしかしてあなたはフローズン村の人ですか」
「はい、そうですよ」
「丁度、今、フローズン村に用事があって目指してたところなんです。良かったら案内してもらえませんか?」
「あら、そうなのですか。このような辺鄙な村に用事なんて珍しいですね。勿論宜しいですわ、案内いたします。付いてきてください」
マリーはそう言って自信満々ゆっくりと歩き始めた。ウェスはマリーの横に並ぶようにしてついていった。
「ところで、えーっと……」
ウェスは言葉を詰まらせマリーの顔をみた。
「なんですか?」
マリーは少し首をかしげて言う。
「あの、あなたのお名前は?」
「あら、自己紹介するのを忘れていましたね。わたしはマリー・シンクレア、15歳、乙女座のAB型、好きな食べ物ははちみつ、嫌いなものは煙草の匂いです。気軽にマリーと呼んでくださいね、ウェスさん」
変に慣れたマリーの自己紹介にウェスは「はあ」と気の抜けた返事しかできなかった。
「それで、なんでマリーさんはこんなところにいたんですか? 地図で見た限り村からはかなり遠いと思うんですけど?」
「ウェスさん、気軽にマリーと呼んでください。わたしは言い直しを要求します」
ウェスは変な娘だな、と思いながらも素直に要求に応じた。
「マリーはなんでこんなところにいたんですか?」
「敬語も使わなくていいですわ」
マリーは微笑みながらウェスを見た。言葉を続けないマリーを見てウェスは再び言い直しを要求されていることを悟った。
ジェシーが「変な娘だね」とウェスにだけ聞こえる声で愉快そうに言った。それを聞いてウェスは深く頷いた。
「マリーはなんでこんなところにいたの?」
ウェスの問いにマリーは満足そうに笑う。
「そうですね……なんででしょう? これといってなにかをしていたわけではありまでん。ただ、ふと森の方を見ていたら冬が終わったんだなと思いまして。そしたら、なんだか嬉しくて。それで森の中を歩き回っていたらここにいてクマさんにであったんです」
「そ、そうなんだ。この時期は目が覚めたばかりの腹を空かした獣たちがたくさんいるから山とか森に入るときは気をつけた方がいいよ」
「承知してます。でも、私は大丈夫なんです」
自信満々にマリーは答えた。
「えーっと、どういうこと?」
「実は私クマさんに会うのは今日で五回目なのです」
「五回? それで今までなんともないの?」
マリーは嬉しそうに笑って首にかけられた銀色のペンダントをウェスに見せた。
「私、守られてるんです」
「守られてる? そのペンダントに?」
「はい! それにこのペンダントは私だけではなく私の母、祖母、曾祖母、その母……えーっと、なんて言うのでしたっけ?」
マリーは首を傾げた。
「要するにそのペンダントは君の家で代々受け継がれているお守りか何かかい?」
「はい、そうです。だからわたしは大丈夫なんです。……ところで、ひとつよろしいですか?」
「なんだい?」
「どうやら道に迷ったみたいです」
マリーはそう言った時も笑顔だった。ウェスは小さくため息を吐いてからジェシーにだけ聞こえる声で「ジェシー、わかる?」と訊いた。
「わかるよ、ここから左上に700m美味しそうな匂い。これはシチューかな?」
「左上ってどっち?」
「こっち」
ジェシーはウェスを引っ張った。そのせいで、ウェスは思わずよろける。マリーはそれを見て不思議そうな顔をした。
「いや、その、こっちだと思うよ」
今度はウェスが先導するように二人は歩き始めた。だが、実際に先導しているのはジェシーである。
獣道を抜け3人は線路のある道に出た。
「ああ、この線路、この線路を辿っていけば村に戻れます。行きましょうウェスさん」
マリーは自信を持ってそう言うとウェスを追い抜いて線路沿いに進んでいった。ウェスがそれに続こうとしたところで声がかかる。
「ウェス、逆、逆」
ジェシーに言われてウェスは思わず転けそうになる。
「マリー、逆だと思うんだけど」
マリーはぴたりと足を止めて左右を何度か確認した。
「あら、本当ですね」
マリーはぐるりと回転して先程とは逆方向に足を進める。自信たっぷりな歩き方は先程と変わらない。
「大丈夫かな、この娘? どこか抜けてるんじゃない?」
そう呟くジェシーをウェスは素早く叩いた。「いてっ」っとジェシーが思わずマリーにも聞こえる声で言った。
「どうかしましたか?」
マリーが振り返って言う。
「ううん、なんでもないよ。早く行こう」
ウェスはそう言って誤魔化した。
線路を辿って行くとやがて視界から木々が消えて代わりに白い花が溢れていた。その光景にウェスは感嘆の声を出した。
「すごい綺麗な花ですね」
「気に入りましたか? この花はポプラと言いまして国を象徴する花なんです。ポプラは国を守ってくれると言われています。キーブクロイス王国のどこでも見ることができますよ」
「へー、そうなんだ。とても気に入いったよ。きっと、前からこの花は好きだったと思う」
「えっ?」「あっ、ううん、なんでもない」
そう言ってウェスは遠くを見つめた。
「なにか思い出したの?」
ジェシーが問う。
「うーん、難しいところだな。具体的にはなにも思い出せないけど……」
「けど?」
「懐かしい感じがする。ジェシーは?」
「別に」
手応えを感じるウェスとは相対的にジェシーはそっけなく言った。
「見えますか? あれがフローズン村です」
マリーが指差す先にいくつかの民家が見えた。
「ようこそフローズン村に」
マリーは大袈裟に両手を広げ満面の笑みで言った。