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Donuts ~君のためなら何度でも~  作者: 鏡春哉
第二章 落ちた先
95/249

幕間

 ハウベル侯爵家の現当主は、エルマー・リアトリス・ハウベルである。苦労性の彼は、ここ数年の間に幾つもの不思議体験を目の当たりにしてきた。


 一つは、娘が娘でない娘であったこと。


 一つは、その娘のステータスが壊れていたこと。


 一つは、娘がいつの間にか剣術を体得していたこと。


 一つは、娘が冒険者稼業を営んでいたこと。


 一つは、娘が服飾ブランドを立ち上げていたこと。


 一つは、娘がいつの間にやらジャム作りに励んでいたこと。


 一つは、あの可憐な娘が凶悪なドラゴンを討伐してしまったこと。


 一つは………………。


 数え上げればきりがなく、そしてまた、エルマー自身の手に負えるようなことでもなかった。第一王子から学院卒業後には娘がこの世界を去るだろうと聞いたところで、最早驚きはしなかった。寧ろ、何故ここに留まり続けているかと問うべきであり、しかし問うたところで答えが返ってこないことは百も承知だった。


 そして今、エルマーは新たな不思議に出くわしている。


 内でも外でも常に無表情のままその辺りをうろうろとし、時々姿を消す娘が、騎士団の指導へと向かった日の翌日から、ずっと呆然とした表情で彷徨い歩いているのだ。いつもマイペースに、人の迷惑を考えない彼女のことを考えると、奇妙と思わざるを得ない事態だった。


 そこでエルマーは、時間の空いた夜に、一度娘と向き合って話し合ってみることにした。エルマーの執務室に呼ばれた彼女は、素直に部屋のソファへと腰を下ろした。エルマーは彼女の真正面に座り、虚空を映した琥珀色の瞳を見詰める。


「何があったんだ、ミア」


 声を掛ければ、宝石の様な瞳がぬらりと移動する。心ここにあらずという状態ではあったが、彼女の耳にはエルマーの言葉が確と聞こえているらしかった。


「無くなるというのは、虚しいものなんだね」


 凡そ答えにならない答えを呟く。エルマーはどう返事をすればよいのか分からず、歯を食いしばってしまった。そんな父親の心境を知ってか知らでか、娘はぽつり、ぽつりと言葉を零していった。


「私にとっては、実在さえしていれば、それが何処にあろうと、いつの時代にあろうとも、関係のないことだった。でも、肉体に囚われている人間にとっては、見て聴いて触って、五感で触れ合わないことには、幾ら実在していようともそれは『無い』ものになる」


 彼女が顔を傾けると、それに沿って繊細な銀糸が揺れ動く。


「だから、『淋しい』と感じる。あることは分かっているのに、或いはあったことは知っているのに、自分には感知できないから。驚いたよ。そして、気付いたんだ」


 エルマーを真っ直ぐに見返してくる瞳には、明白な意志が灯されていた。


「それが、『執着』に繋がるんだ、ってね」


 随分と大きくなった娘は、美しく成長していた。このままこの世界に居続ければ、引く手あまたであっただろう。しかし、それは叶わぬ未来だった。


「私は確かに、『執着』をしている。でも、同時に相手も『執着』しているんだ。その複数の『執着』はお互いを捕え合う故に、絡み合った糸のように複雑で、解き解すのが困難になる。それが、今の私がここに居る理由で、上手く事が運ばない理由でもある」


 彼女は完成された端正な顔に、柔和な笑み浮かべる。


「でも、私が当事者である限り、事態は歪み続けてしまう。だから、私はあるべき場所に戻らなければならない」


 不意に、彼女から笑みが消えた。その瞳からは、何の感情もはかり知ることができない。


「そんな私が、一つだけ我儘を聞いて欲しいと言ったら、あなたは聞いてくれる?」


 エルマーは息を呑んだ。今目の前にいる娘は、娘としての意見を問うているわけではない。娘の本質たる〝アルマ〟として問うているのだ。エルマーは逸る鼓動を押さえ、ゆっくりと息を吐いていく。


「あぁ、聞くよ。そうでなければ、割に合わないだろう」


 麗しい唇が、愉しげに弧を描いた。


「ありがとう。あなたは、私の誇らしい父親だった」


 そう言ってほほ笑む娘の姿は、どこか、エルマーの愛した妻と重なって見えた。

第二章、終了です。次話から新章に入ります(*´ω`*)

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