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Donuts ~君のためなら何度でも~  作者: 鏡春哉
第一章 失われた記憶
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αSide10

 谷崎から逃れた奏多は、誰もいない住宅街の道路までやってきていた。電柱の傍で立ち止まるや否や、荒れていた呼吸を整える。民家のコンクリート壁に背を凭れ、濃淡の掛かった灰色の空を見上げる。


 首筋や背中にうっすらと纏う自身の汗が、どうにも不快だった。第三者の一言によって谷崎から逃れられたものの、対処療法のようにその場凌ぎにしかなっていないような気がして、奏多は焦燥感を抑えきることができなかった。今でも背後を取られないように、背中を壁に預けている。民家と道路を隔てるだけの壁故に、その壁の薄さには多少の不安が残るとはいえ、背後に何もない状態を晒しているよりかは幾分もマシであった。


 奏多は視線を空から地面のアスファルトへと移した。次第に整理されていく思考の中で、先程の一助の声を思い出す。


 どう考えても、あの数学教師の声だった。どの数学教師と言うまでも無く、十数分前まで奏多のクラスで授業をしていた、あの数学教師である。黒目黒髪の、軽い雰囲気を纏った、教師らしからぬ教師だ。


 奏多は右手のひらで額を抱えた。自身の黒髪が重力に従い、下向きに垂れさがる。


 どこかの誰かなら、何を今更と呆れた声でいうのだろう。しかし、今まで奏多は彼の顔を、いや、あまり奏多と関わり合いの無い他者の顔を、真面目に見た事がなかったのだ。だからこそ、奏多は驚かざるを得なかった。


 髪や瞳の色は違えど、あの数学教師は奏多の知るあの男と姿形がよく似ていたのである。双子だと言われれば、奏多は間違いなく信じてしまっていただろう。それ程に、二人は瓜二つであった。


「それに、あのピアス」


 奏多は授業中に見た光景を思い返していた。数学教師は確かに、左耳にピアスを付けていたのである。通常ならば厳重注意されるか、最悪の場合は生徒の保護者かどこかから、告発されるかも知れない。そのような危険を冒してまで、わざわざ聖職者たる教師がピアスを付けてくるなど、考えられないことであった。もしも外し忘れでそのまま学校へ来てしまったのだとしても、生徒間との交流も多いあの教師が、午後まで気付かれずにピアスを付けたままでいられたことも、どこか奇妙であった。


「見えない、のか?」


 普通の人間には。普通に暮らしている人間には。普通にアカシックレコードへの接続権限を持っている人間には。


 そうでなければ、教室後方からでも見えるサイズのピアスを、前方にいる生徒が見逃す筈が無いのだ。幾ら授業に集中していたのだとしても、休み時間に彼と接する生徒ならば、寧ろ見つけられないという方がおかしかった。


 組織のトップたるレオナードと同じ顔をした数学教師。彼もまた、レオナードのように他人とは一線を画した思想や得体の知れない能力を持っているのだというのだろうか。天使たちを裏から粛清でもしているのだというのだろうか。


 奏多は顔を顰め、深く息を吐いた。


 それにしては、彼はあまりにも人間社会に溶け込み過ぎていた。天使どもも社会に溶け込んではいるというものの、レオナードの開発した装置をもってすれば、天使と人間の区別など容易かった。現に、同学年にも一人、厄介な天使が紛れ込んでいることは奏多も知っている。無論、アルマではない。それ故に、アルマが天使だとリックに告げられた時、これまで巧妙に隠され続けたのだという裏切りへの絶望と憤慨と憎悪の念で己を失ってしまったのである。


 閑話休題。あの数学教師が何者なのか、奏多には分からない。ただ、人とも天使とも違うだろうことだけは理解できた。


 そう、まるで――。


 そこまで考え、奏多はふと顔を上げた。


「まるで、〝彼等〟のようじゃないか」


 刹那、頭上から何かが降ってくるような気配がした。ひだスカートの影が見えるや否や、それは奏多の目の前で着地する。奏多は咄嗟に電柱の陰に隠れると、間を開けずに次の影が飛び降りてきた。その影は目の前の少女が着地した場所に向けて、大きく振りかぶりながら武器を振り下ろす。それは、奏多が良く目にしている武器であった。


 妖しく煌めく刀の刃。奏多が譲り受けた刀とは違い、最新鋭の技術が盛り込まれた代物である。故にその刀は空振りした後、アスファルトを深く切断する程の威力を見せつけた。あの一撃を喰らえば、あらゆる生命活動が停止させられることだろう。


 奏多は逃げ惑っている少女を見遣った。死の刃が空間を切り裂く中、少女はその太刀筋を華麗に避けていく。その様は、奏多にあの時のことを思い出させた。


 憎しみに駆られ、暴走した奏多がアルマを斬らんとした時のことだ。弱い太陽光ですら彼女の銀糸を輝かせ、底知れない琥珀色の瞳が全てを見極めるように見開かれている。


 無表情ですら美しい、人形のようなヒト。人ではないヒト。


 全てを知っているヒト。


 奏多は思わず目の前にいる彼女に魅せられていた。その場から動くことなど、到底できなかった。否、動いてはいけないような気がしたのだ。


 黒服に身を包んだレオナードは、隙の無い攻撃をアルマに向ける。対するアルマは、軽やかにステップを踏みながら、その攻撃を躱していった。


 奏多が息を呑んだ時、アルマの顔が苦痛に歪められた。その数秒後、彼女の斜め後ろ側に向けて、何かが落下していく。


 細長い雫型のピアスが付いた、右耳だった。それは零れる血液と共に地面と衝突し、二、三度跳ねる。アルマは一歩後退りながら右耳辺りを手のひらで覆った。溢れ出る鮮血が彼女の陶器のように白い肌を染めていく。途中で石に躓いた彼女は、バランスを崩して背中から倒れていった。


 まるでスローモーションのように、奏多は間の延びた時間間隔の中で起こっている事象を眺める。レオナードは血振りをし、倒れ行くアルマを余所にして彼女の右耳を拾い上げた。その足元の近くに、人ひとりが抜けられそうな大きさの、真っ黒に染まった虚無のような穴が開く。


 あ、という声が、アルマの口から発せられた。そこで漸く奏多の思考が蘇り、運動神経へと命令伝達が行われた。しかし、彼女が穴に落ちそうになった瞬間、奏多は誰かに肩を強く掴まれ、助けの手を阻まれた。アルマは虚無の中に消え去り、その穴もすぐに閉じてしまった。レオナードはアルマのいなくなった場所を一瞥すると、興味を失ったかのように無表情になってその場を去っていった。奏多は彼の名を叫ぼうとしたが、乾いた喉からは枯れた声しか出ずに、彼を呼び留めることは叶わなかった。


「あぁ、そういうことだったんだぁ」


 奏多の邪魔をした張本人は、呑気な声で呟きながら奏多を後ろから抱きしめる。どさくさに紛れて奏多を拘束した彼に、奏多は全力でもって抵抗した。けれども、力の差が覆るようなことは起こらず、奏多は固く厚い胸板と、思った以上に筋肉のある腕によって雁字搦めにされるに留まった。


「やめろ、殺人犯」


「決めつけは良くないよ、奏多君。でも、俺の選択は間違ってなかったみたいだ」


 上機嫌な様子で顔を奏多の頭に埋めてくる彼に、奏多は背筋の凍る思いを抱いた。


ただの独り言。

顔とか頭のパーツが削り取られるって、なんだかホラー感が強い。

カウント21……だっけ?(´・ω・`)

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