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Donuts ~君のためなら何度でも~  作者: 鏡春哉
第一章 失われた記憶
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βSide2

 百智がベッドから立ち上がった時、室内にノック音が響いた。彼女は息を呑み、早鐘の如く脈を打つ心臓を服の上から掴む。首筋から、やけに生温かい汗が一筋伝っていった。


 百智は独り暮らしである。彼女が借りているマンションも、この寝室とリビング、キッチンとバス、トイレしかない。目の前に見えるドアからは音が聞こえてこなかったため、この家に誰かが入り込んでいるわけでないことは理解できた。しかし如何せん、ここは十五階なのである。寝室の窓はリビングのものより半分しかなく、当然その先は絶壁であった。


 再び、ノック音が鳴る。


 今度は、彼女の後方から確かにその音が聞こえてきた。ゆっくりと振り返っていくと、目に入るのは締め切られたカーテンのみ。


 百智は生唾を飲み込み、意を決してその窓に近づいた。カーテンを掴み、勢いよく開く。


 百智は目を見開いた。


 窓の外側にいたのは、彼女がここ最近に出会った青年であった。彼は口パクで「開けて」と伝えてくる。百智は彼が必死に壁の凹凸にしがみ付いて腕が震えているのを見て、咄嗟に窓を開けてしまった。後悔した時には既に後の祭りで、青年は好機とばかりにするりと部屋の中に入り込んできた。ご丁寧にも靴を脱ぎ、何処からか取り出した袋の中に仕舞う。


「どうもー、百智さん。ご無沙汰ですー。あ、俺のこと覚えてます? 奏多君は酷いことに俺のこと忘れちゃってたんで、ちょっと心配です」


 心霊現象のように登場してきた彼は、快活に話しかけてくる。百智は顔を顰めながら、彼から距離を取った。


「いくら知り合ったからと言って、こうやって人の家に押しかけてくるのは良くないわ。下手すれば、罪に問われるわよ。……それに、危ない真似はやめなさい。ここは十五階よ」


 彼女は当然と言えば当然の事を指摘したのだが、動揺して彼を中に招いた彼女にはあまり説得力がなかった。青年は愉しそうに笑っている。


「俺のこと心配してくれるんですかぁ? 優しいですね、百智さんは。あ、でも、単純に用事があって来ただけなんで、あなたのストーカー予備軍になる予定はないですよ」


 安心してください、と場違いな笑みを浮かべる彼に、百智は頭痛を催していた。


「それなら連絡してくれればよかったのに。そうすれば、ちゃんと玄関から迎い入れたわよ。この前、連絡先を渡したでしょう?」


 百智の返しに、青年は「あぁ」と視線を逸らした。


「まぁ、そうなんですけどね。でも、わりと急を要することだったんで、ちょっとショートカットさせてもらいました」


「ショートカットって」


 最近の若い子はこんなにも斜め上方向を行く思考回路をしているのだろうかと、百智は呆れに呆れ返っていた。彼女は、突飛な言動をしてくれる彼から何を言われるのだろうかと重い頭を抱えながら、さっさと事を終わらせるべく彼から用件を聞き出した。


「えーっと、この前、清見清羅の『Wisdom, Vessels, and Doughnuts』っていう小説を奏多君に紹介したのはどうしてって聞きましたよね」


「えぇ。それで、私は面白かったからと答えたわ」


 突如として、彼の顔から表情が消えた。常時笑みを携えている彼が真顔になることに、百智はどこかしら恐怖を覚えた。


「どうして読めたの?」


「え?」


「だから、どうしてあの本を何事も無く読めたのかって聞いてるんだよ」


 百智は彼に気圧されながらも、件の小説にまつわる世間的な評価や批判について思い出していた。確かに、『一切読めない小説』として何故か話題になっていたものの、それは心無いネットユーザーが広めたガセネタであると彼女は思っていた。故に、目の前の青年が射貫くような視線で彼女を見据えてくる理由が見出せなかった。


「あ、あれは悪質な悪戯でしょうに。勘違いも良いところよ。あなた、ちゃんとあの本を読んだの?」


「うん、読んだよ」


 そう返す青年は、一層冷ややかな目を百智に向けた。


「でも、読めなかった」


 簡単には、ね、と嗤う彼に、百智は背筋が凍るような思いを抱いた。彼が冗談を言っているのでなければ、件の小説は世間が表している通り、本当に『一切読めない小説』なのかも知れなかった。しかし、そうであるのならば、そのように評されている小説を百智が読むことができたのは、一体どうしてなのか。単なる誤植で済まされるような事態でないことは、百智の第六感が告げていた。第六感が、教えてくれていた……。


 思えば、彼女の勘は良く当たることで職場でもプライベートでも有名だった。とはいえ、その勘が件の『一切読めない小説』の内容を翻訳してくれたというのも、現実的におかしい。ならば何故、読むことができたのだろうか。


 百智は再び激しさを増した鼓動を感じながら、荒く息を吐いた。瞬きするのも忘れて、真っ直ぐに見詰めてくる彼を凝視する。


「ねぇ、どうして読めたんだろうねぇ」


 妖艶に嗤う彼は、徐々に百智の元へと近寄ってくる。百智は得体の知れない恐怖に駆られ、無意識に後退って行った。


「みんな読めないのに、おかしいねぇ」


 おかしい。その通りであることを否定できない百智は、彼の右袖から妖しく光るものが見え隠れしているのを横目で見ながら、乾いた息を呑んだ。支離滅裂に錯綜する脳の中で、不意に自分が小説を勧めた甥の存在が思い浮かぶ。


「か、奏多は!」


 叫ぶと、青年の動きが止まる。これ幸いにと、百智は捲し立てた。


「奏多はどうだったのよ。読めたんじゃないかしら? 私と同じ血筋の子だもの。なら、何もおかしいことはないわ。きっと、何らかの作用が起こっているのよ。それも、人智を超えるような何か」


「奏多君は」


 百智の言葉を遮るようにして言った青年は、大きく目を開きながら彼女を見据えた。


「読めたよ」


 安堵する百智。しかし、彼は尚も口を開いた。


「でも、途中から読めなくなった」


 壁が背に当たる。百智は固く唇を結びながら、手探りで何か身を守れるものを探る。


「本当だよ。途中まで読めた奏多君は、途中から読めないことに随分と狼狽してた」


 床に転がっていたコントローラーを手にした瞬間、百智はそれを青年に投げつけた。彼が投げられたものを振り払っている隙に、百智は寝室の外に出る。廊下にはワックスが丹念にかけられている故か、靴下を履いている彼女は覚束ない足取りで暗い廊下を進んでいく。その後ろからは、闇の中で笑みを湛えながら彼女を追いかけてくる男が一人。百智は玄関へ逃げ込み、震える手つきで鍵の開錠を試みた。焦りが思考低下させているせいか、鍵はなかなか開かなかった。


 嫌な汗が背中を流れる。自分のものではない息遣いが聞こえてきて、百智の思考はさらに錯乱する。


「なんで逃げるの、百智さーん。俺は唯、おかしいねって言っただけだよ?」


「お、おかしいだけなら、その手に握っているものを振り回したりなんかしないでしょ!」


 なかなかドアチェーンが外れず、彼女はドアノブをガチャガチャと無理矢理押し遣った。


「握ってるものって、これのこと?」


 暗闇の中、金属光沢により僅かに光るナイフが浮かび上がってくる。彼はにやにやと笑いながら、百智を角に追い詰めた。「なんで……」と荒く息を吐く彼女を余所に、青年は無慈悲にもその刃を振り下ろした。金切り声の様な悲鳴が、深夜の廊下に響き渡る。







 力を失った肉塊を見下ろしながら、青年は頬に付いた返り血を右手の甲で拭い取った。無表情で凶器を仕舞い、独り、呟く。


「なんでって、あんたが鍵の子だからでしょ」


 不確定要素は潰しておくに限るよね、と彼は上機嫌な足取りで寝室へと向かい、彼が入って来た窓から部屋を出て行った。生の気配が完全に消え去った寝室には、無残に砕け散ったゲームのコントローラーが残されていた。

百智の出オチ感がハンパないが、メインキャラです。

メインキャラです((((◌_◌;))))

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