表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Donuts ~君のためなら何度でも~  作者: 鏡春哉
第一章 失われた記憶
27/249

18恢復

 加絵と真奈が立ち去った後、部屋に残されたアルマと榎本は向かい合って互いを見詰めていた。その行為に大した意味は無く、唯、アルマ自身が何から切り出せばよいか分からずに、相手を窺っているだけであった。

 先に口を開いたのは、榎本の方だった。


「あいつから話は聞いてるよ。僕らの正体を知りたいみたいだけど。……単刀直入に言って、アルマさんはもう、知ってるよね?」


 確信を持った笑みを浮かべて問うてくる榎本に、アルマは虚ろな視線を向ける。


「あの小説が史実だというのなら。知ってることになるね」


「あぁ、まだ思い出してはいないんだ」


 呟くように述べる榎本。アルマは彼の言葉を聞き流しながら、言の葉の書いた彼の小説の内容を思い出していた。


 狂人と化していく三人の少年のうち、一人は叡智を、一人は器を、一人はドーナツを以て、各々がそれぞれの内容を極めていった。この中で、元から脳に異常を来していた少年がいるのである。


 叡智を極めた少年だ。


 彼は凄惨な家庭環境の中で生まれた先天性の天才児。元から他人とは異なる世界が見えることに加えて、彼に置かれた過酷な環境が、彼の中にある人格を四つに分割させたのだ。医学用語でいえば、解離性同一性障害(DID)、俗にいえば、多重人格障害と呼ばれる病を患うこととなった少年。彼がとある少女と出逢ったことをきっかけにして、一人分の脳内で主人格から乖離して存在していた三つの別人格のうち、二つが各々体を持つことを欲したのである。そして、彼らの中の二人が叡智を極めたことにより、狂人と化したもう一人の器の少年の協力も相まって、物理的な乖離に成功したのである。


 一人は眠りを欲した主人格と共にオリジナルの体の中に留まり、一人はオリジナルと全く同じ姿形をした器の中へ。一人は異国の目と髪の色をした器の中へ。合計三人の、同一人物にして別人が出来上がったのである。


「酔狂なことをするよね」


「でも、主人格がそれを望んだんだ。僕らがいる限り、彼の心に安寧は来ないからね。本来なら別人格が主人格の中に吸収されて人格統一するのが一番いいみたいなんだけど、主人格自身が意識を持つことを拒んだんだ。それ故の分断。元々僕らに仲間内みたいな意識はなかったからさ。別の身体に移り変わろうって発想に至るまで、そんなに時間はかからなかったよ」


 その発想が酔狂なのだと言おうとして、アルマは口を閉ざした。彼がその酔狂な行いに同意した人格の一人だったからである。そんな彼に酔狂だと言ったところで、暖簾に腕押し、糠に釘であることは想像に易かった。


「それをいうと、加絵もなかなかに酔狂だったか」


 先程の加絵と榎本の会話を思い出しながらアルマは呟く。その呟きに呼応するように、榎本も声を漏らした。


「本当にね。ここだから言うけど、ちょっと怖かったなぁ。でも、あれが天野君のいう今のところの最高傑作らしいから、完成品の天使は理性が百パーセントなんだろうね。歴史的人物が天使のことを理性の生き物と評しているのも、あながち間違いじゃなかったのかも」


 人間だったらこうはいかないよね、と呟く榎本は、新たに淹れた紅茶を啜った。アルマは頬杖を付いて彼の様子を眺めながら、ふと脳裏に浮かび上がってきた言葉を口にする。


「……先生って、結構お喋りなんだね。それでよく口を滑らせないなと思うんだけど」


「今更感はあるけど、これでも口は堅い方だよ?」


 榎本に冷ややかな視線が送られる。彼は幾度か咳払いをして、あからさまに話を戻した。


「う、うん、それでね。僕らはその別人格ってことになるんだけど、別人格故に、身体が分断された後はあんまり記憶の共有ができてないんだよね」


 心の広いアルマは、素直に話題転換に応じた。


「それで、引き籠りとチャラ男が出来上がったわけか」


「いや、言い方よ。まぁ、否定はしないけど、肯定もしないよ? (なま)の記憶共有ができていないだけであって、お互いの事情は把握してるんだから」


 言い訳無用と語るアルマの真っ直ぐな視線に、榎本は黒目を泳がせる。震える手で指弄りをしたり、紅茶を飲んだりと、忙しなく動揺した後、彼は諦めた。半ば悟った眼を遠くに向けながら、彼は話を続ける。


「でね、肝心の三人目の人格なんだけど、アルマさんはまだ会ってないよね?」


「会ってないどころか、知り合いですらないんだけど」


「うん、それはまぁ、今は置いといて。その三人目の人格……、レオって言うんだけど、そのレオの持てる記憶の大半が、周りに虐げられてきた過去なんだよね」


 アルマの表情が固まる。彼の小説を読んだ限り、叡智の少年は、ネグレクト、家庭内暴力、重労働、罵倒、執拗な期待、裏切り、蹴落とし、搾取と、肉体的弾圧ばかりではなく、精神攻撃をも受け続けた人生を送っており、彼に叡智の世界が垣間見えていなければ、早い段階で現実世界に絶望し、命を絶っていたかも知れなかった。

 その記憶を、一旦に引き受けたレオという別人格。同じ体の中にいる間は、彼がその過去を担うことによって、主人格にかかる負担を軽減させてきたのだろう。しかし、その過去を主人格から取り除くという形で体から離れれば、凄惨な記憶と体験だけが残されてしまった彼は、どうなってしまうのか。



 甦る記憶に耐え切れず、発狂してしまうのではなかろうか?



「あぁ、だから、消してしまおうって思ったんだね」


 アルマの呟きに、榎本は初めて悲痛な顔を浮かべた。彼の口角は上がっていたものの、無理矢理表情筋を動かしているように見えた。


「もう、何度も滅んだんだ。何度も何度も何度も何度も。その度ごとに、やり直す機会を貰ったよ。でも、彼だけは救うことができなかった。何度繰り返しても、説得しても、彼だけは主人格のために同じ選択を取り続けたんだ。ならいっそのこと、僕ら別人格が生まれないような、そんな世界にすればいいんじゃないかって考えたけど、僕らが持てる能力を駆使して低次元世界に干渉してしまうと、そもそも僕らが存在している時点で空間の辻褄が合わなくなって、世界そのものが消滅してしまった」


 赤紫がかった窓の外から、冷たい風が入り込んでくる。アルマは無意識に冷めた紅茶を温め直し、その液体を喉の奥に流し込んだ。彼の左耳に付けられた、金の細長い雫型のピアスがゆらりと揺れる。


「だから、歯痒い思いをしながらも、ゆっくりと楔を打っていくっていう選択肢を取るしかなかったんだ。そこに、あなたを巻き込むことに否やは無かった。寧ろ、進んで協力してくれた。そのことには感謝してるし、嬉しくも思ってるよ」


 でもさ、と儚げに笑う榎本は、今にも山の端に隠れんとしている夕日を眺めた。


「歯痒いものは歯痒いものでしかないんだ。頭では分かっているのにね。もう、自分の中に歳なんて概念は無くなってしまっているのに、まだ、自分が人間だった頃の感覚と感情が尾を引いてるんだよ」


 時と共に、夕方の空は青みがかった紫へと変化してゆく。室内にも翳りが差し、次第に互いの顔が見えなくなっていく。榎本の紅茶が冷めている一方で、アルマの紅茶からは一筋の湯気が立ち上っていた。テーブル中央に置かれたクッキー缶は、何者にも干渉されずに鎮座している。

 静寂が支配する空間が、ただ、そこに在り続けた。


「私は」


 最後の光が窓から差し掛かった時、アルマが呟いた。暗がりの中で、妖しく光る琥珀の瞳が浮かび上がってくる。


「忘れてしまったんじゃなくて、意図して忘れたんだね」


 そう続けるアルマは、慈悲深い笑みを榎本へ向けた。洗練されたその表情は、最早人間のそれを軽く凌駕していた。


「鍵の子に会わせて」


 変わらぬ調子で願い出るアルマ。突如として雰囲気の変わった彼女に、榎本は惚けた顔を向けていた。アルマはその柔らかな表情の中に、僅かに悲哀の色を滲ませる。


「もう、時間がない」


 陽の光が室内から消え去った。


多重人格+器=成長過程無しの増殖???

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ