15予言
机上の皿に残された一つのドーナツ。チョコレートでコーティングされたその半分の側が、黒い光沢を放っている。アルマが食べかけていたリングドーナツは、双子によって仲良く二分され、彼女たちの胃の中に納まった。
圧し掛かる重たい沈黙。あれからまったく口を開こうとしない選帝侯に、アルマはほとほと厭きれ返っていた。思い返せば彼を呼んだのはアルマの方であったものの、それはあの文庫本について訊きたかったからであり、決して彼と気まずい空気を作り出すためではなかった。何が悲しくて押し黙っている選帝侯を眺めていなければならないのか。ここに双子が居なければ、アルマはとうの昔に『向こう』側へと帰っていたことだろう。
暫く続いた無言の領域を、一つの声が打ち破った。
「来たわよ」
素っ気なくも艶のあるアルトの声。アルマが声のした方を向くと、その視界にギリシャ神話の中にでも登場してきそうな見た目と身なりをした、一人の女性を捉えた。烏の濡羽ともいうべき見事な髪が、踝のあたりまで波打ちながら拡がっている。彼女は質の良いゆったりとした白いドレスを身に纏っており、その裾はなだらかに地面を引き摺っていた。
彼女の淡藤色の瞳は選帝侯を捉え、高所から冷たく彼を見下ろしている。彫りの深く形の整った顔は、さながら神話の一幕を切り取った絵画のようであった。
「あぁ、間に合ったか」
「九割方はあなたのせいでしょうに。急ぐことに同意はするけれども、もう、いい加減、失言や失敗は許されないわよ」
「すまない。どうにもうっかりしてしまうのは、人間の頃の悪い癖だ」
「過去のせいにするのは如何なものかしら。まぁ、今となってはもう、仕方のないことなのだけれども」
アルマに向かって「御前を失礼します」と頭を下げ、彼女は選帝侯の隣に座った。次いで、長い髪を横に流し、地面に付かないように長椅子の上に置く。アルマは唐突に出現した外国人顔の女性を、呆けた顔をして眺めていた。
不意に無意識の海から脱出したアルマは、彼女に飲み物とドーナツを勧める。彼女は包容力のある笑みを浮かべ、紅茶を所望した。アルマは持てる知識でアッサムティーを再現する。
「残り物で申し訳ないけど」
アルマは一言詫び、大皿にぽつねんと残されていたチョコ掛けのオールドファッションドーナツを、アンティーク調の小皿に移して彼女に差し出した。空になった大皿を消滅させ、アルマは女性を見遣る。彼女は礼を述べた後、優雅な所作で一口、ドーナツを食した。
「それで、あなたが言の葉なんだよね」
紅茶を飲んで一息ついていた女性に、アルマは声を掛ける。言の葉と呼ばれた女性は艶やかな唇を両端に引き延ばし、アメジストの様な瞳をアルマに向けた。
「えぇ、左様にございます。僭越ながら、彼の小説を執筆させていただきました」
選帝侯との会話とは打って変わり、堅苦しい言葉を使う言の葉。アルマは慣れない扱いに一種の接し辛さを感じながら、先を続けた。
「あれにノンフィクションって書かれてたんだけど、本当に、実際にあったことなの?」
言の葉は流し目で選帝侯を見遣ってから、アルマに視線を戻した。
「えぇ、史実にございます」
「じゃあ、普通には読めない言語で書いたのは何故?」
「史実だからこそ、そのように致したのでございます」
アルマは目を細め、彼女の言葉を咀嚼した。すなわち、直接的な表現で綴ってはならないような何かしらの制限があり、且つ大衆に広める必要がある、ということを示しているのだろう。そうでなければ、わざわざ印刷して出版する必要などなかったはずである。
ならば何故、彼の小説を公の目に触れさせる必要があったのか。いや、そもそも読めない言語を利用してまで伏せて書かなければならないような史実とは、一体何なのか。
疑問を林立させたところで、アルマは首を捻った。小説の内容を思い返してみると、そこに綴られていたのは、如何にもフィクションじみた三人の少年の人生であった。この三人がそれぞれにそれぞれの方面へと狂人化していく様が、まるで彼らを隣で見てきたかのように事細かく描写されていたのである。
それは、文章の形態を除けば、偉人の伝記ものであるようにも感じられた。彼らが偉人であったか否かについては、この荒唐無稽な内容からは、アルマにも判断の付きようがない。しかし、史実如何にかかわらずとも、彼らの人生、否、歴史が描かれている以上、彼ら個人の中で話が閉じる筈もなく、彼らを取り巻いている社会にも、少なからず影響が出ているということになる。
小説の中に出てきたその最たる現象は、世界を股に掛けた戦争であった。現実世界でも幾度か世界的な戦争があったという事実が広く知られているとはいえ、アルマの記憶の中に、飛び交うレーザー光線や不思議な現象が伴う攻撃といったような、SFと魔法の世界が入り混じったカオスな戦争が起こった史実は存在していなかった。寧ろ、ファンタスティック宜しくオーバーテクノロジーな兵器が未だ存在していないこの世界で、そのような戦争が過去に勃発したという方がおかしいのである。
とはいえども、アルマはこの小説の中に、一つ気になる点を見つけていた。
〝天使〟というワードである。この言葉はアルマの記憶にも新しく、尚且つ世界で起こっている水面下の事柄を知る一つのきっかけでもあった。
『他者から創造された人工的な種族である彼らは、人間よりも高度な技術を持って生活を営んでいる。』
アルマは人差し指の甲を下唇に当てながら、思案する。
すなわち、この先人類は、近いうちに魔法とも呼べる技術を手に入れる可能性がある。若しくは、もう既に見えないところでその準備が始まっているのやも知れなかった。
それは、真奈が暗に示していた、人間側による〝天使〟の弾圧という事実からも、容易に推測できた。もしこの弾圧が宗教的意味合いの裏に隠れて、実は人間が天使の技術を取り入れるための布石だったのだとすれば。人間社会はその急激な技術進歩により、混乱を招くこととなるだろう。政治であれ、経済であれ、社会であれ、家庭であれ、人間の生活における常識が世界規模で覆され、非力な一人間にはどうしようもない『時代の波』とやらに呑まれることになるのだから。
現に、言の葉の小説の中にも、時代変遷の描写が為されていた。そこから戦争へ発展していく過程には、メインの三人のうち、一人が大きく係わってくることになるのだが、アルマとしては、それがどうにも小説仕様になっているように思えてならなかった。
兎にも角にも、今までの考察から導き出される結論は、『この小説は、過去から未来にかけての事実を書き連ねたもの』であると言えよう。故に、言の葉がこれを「史実」だと表したことは、些かアルマと認識の食い違いがあるように思えなくもなかったが、これから起こる出来事を彼女が知っていたから、もっと言えば、彼女の中では既にその出来事が〝起こって〟いたからこそ、それを「史実」として記したのだとすれば、納得できないことでもなかった。
ここまで考えて、アルマの脳内に浮かび上がってきた言葉が一つ。
「予言の書……」
アルマの呟きに、選帝侯も言の葉も、表情に陰りを見せた。それが肯定を示しているのか、否定を示しているのか、アルマには察することができなかった。
「恐らく、人々はそのように捉えるのでしょう。実際、私どもも、そのことを意識するように出版したという思惑が無かったわけではございませんゆえ」
「けれども、言の葉は歴史を綴る者なのです、アルマさん。彼女は不確定要素に満ち満ちた未来の一筋を、あたかも正解の道として書き記すことなど、到底できません」
言の葉に続けて、暗く沈んだ声で選帝侯が告げる。アルマは、下手をすれば相手が惹き込まれてしまうような摩訶不思議な瞳で、食い入るように二人を見た。
選帝侯ですら、この小説は「史実」であると断言したのである。アルマが混乱するのも、仕方のないことであった。言の葉は苦しみを押さえるようにして微笑む。
「今はまだ、無理に理解しようとなさる必要はございません。もとはといえば、いずれあなた様のお役に立てるよう、世に散りばめさせたものなのですから」
彼女は紅茶を啜り、不意に表情を和らげた。その幻想的な淡藤色の瞳で、彼女はアルマを見据える。対するアルマは、妖しく光る琥珀色の瞳でその視線を返していた。
「だから、周りが『読めない』という中で、私はあの小説を読むことができたんだ」
アルマは探るような視線を言の葉に向けるも、彼女は表情一つ崩さなかった。
「なら、私一人に渡せば済むことだったんじゃない? わざわざ世間にばら撒くような真似をせずとも」
頬杖を付きながら気だるげに指摘するアルマに、言の葉はゆっくりと首を横に振った。
「それでは、あなた様の記憶に残らない可能性がありますでしょう。故に、記憶という曖昧な媒体ではなく、物質という、三次元世界において何かしら確実に『残る』可能性のあるものによって、留めておかなければならなかったのです」
言の葉はたおやかな身のこなしで背筋を整える。柔和な眼差しは確かにアルマを捉え、儚げな笑みを湛えていた。
「遺跡から発掘された石板のように」
彼女の麗しい唇から紡がれた言葉を、アルマは冷めた思考を以て聞いていた。その言葉の示す意味を考えたアルマは、炭酸の抜けきったジュースを飲み干した。
刺激の無くなった黒い液体は、間の抜けた風味と共に、舌の上に甘ったるいシロップだけを残していった。
新キャラクター登場のカウントが為されました(´-ω-`)
ここの一場面の登場だけで終わってくれればいいなと未来の自分に望む。




