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Donuts ~君のためなら何度でも~  作者: 鏡春哉
第一章 失われた記憶
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13小説

 師走。曇天模様が続く今日この頃。先月末から始まった期末テストラッシュから解放され、アルマは久々に安眠を確保していた。勉強の合間に少しずつ読み進めていた件の小説も、つい先ほど完読し、彼女は密かにやり切ったと自画自賛した。


 内容自体は彼女の興味を惹き、面白くないというわけではなかった。しかし如何せん、ページ数が多い。上下巻に分けることをお勧めしたいところだったが、それはそれで持ち運びが不便であることにアルマは気付いた。取り敢えずのところ、この読み終えた文庫本を如何様にして選帝侯に返そうかと考えたところで、部屋の扉が開かれた。


「ちょっと、休日だからって、ダラダラしないでよ」


 現れたのは案の定というべきか、彼女の母親であった。母親はアルマの断りなく部屋に入り込み、カーテンを開けるや否や、窓を開ける。一段と冷えた冬の午前中の空気が、先程まで布団によって温められていたアルマの熱を奪い去っていく。


「寒い寒い寒い、閉めてよ」


「駄目。部屋の換気はちゃんとしないと、病気になるんだから」


 アルマに有無を言わせぬ母親は、一度入り口の向こうへ消え、掃除機を携えて再来した。アルマの部屋のコンセントにプラグを差し、けたたましい音を立てながら掃除を開始する。せめて自分の部屋は自分でさせろとアルマは言いそうになったが、基本的に怠惰な生活を送っている彼女は、結局口先のことだけになりそうだと自ら予想し、ならば勝手に掃除させておく方が楽かと口を噤んだのである。


 典型的な駄目女になりつつあるな、とアルマは寒さで委縮する思考の中で考える。今一度布団の中に潜ることも考えたけれども、母親が目の前で掃除をしている以上、口煩く小言を言われることは目に見えていた。仕方なく、アルマはスクールバッグの中から古典の課題を出し、騒音の中で独り、問題を解いていった。


 嵐が去った後、アルマはそそくさと窓を閉めた。ベッドの上でゴロゴロとしていた時よりも幾分か部屋の気温は下がっているものの、直に冷気を浴びるよりかは何倍もマシであった。アルマは勉強机の椅子に座り、机上に置いていた件の本の表紙を一撫でする。


 この小説の内容を一言でいうと、ガールにミートしたボーイズたちが、次第に狂人化していくお話である。具体的にどのように狂人化していくのか。一人は尋常ではない程の執着で叡智を極め、一人は人形という名の器作りに狂おしい程没頭し、一人はドーナツという存在を変態的なまでに愛した。

 何故ドーナツ。どうしてここだけドーナツ。否、何故一人だけ固有の存在を対象に狂人化させたのか。近頃ドーナツに良い印象を持っていなかったアルマは、ことさらに作家へその意図を問い質したくなった。恐らくこの作者はドーナツが好きなのだろう。作中でドーナツの美に関する文章が幾度も幾度も描写され、それはもう、鬱陶しい程に描かれていたのだから。


 したり顔をする選帝侯の顔が、アルマの脳内で再生される。アルマは悩める灰色の脳細胞をフルに回転させ、再生された彼の顔を完全に消去した。彼女は溜息を吐き、小説を手に取る。一度読んだそれをパラパラと高速で繰っていくと、最後の厚い表紙に指が当たり、パンッと小気味良い音を立てて本が閉じた。アルマの動きが止まる。


 彼女は最後辺りのページをもう一度捲った。今度は確認するように、ゆっくりと。すると最後から三枚目の右ページに、ある文章を見つける。


『この物語はノンフィクションです』


 アルマは笑う。フィクションという単語の前に否定を表す接頭語が付いているが、アルマは誤植か何かではないかと勘繰った。彼女は制服のポケットからスマートフォンを取り出し、この本のタイトルを入力する。


「何で出てこないの」


 しかし、画面には小説とは無関係の情報ばかりが表示され、求めている情報が一向に出てこない。アルマは巷で噂になっているといった選帝侯を勝手に恨めしく思いながら、作者の名前に変えて検索をし直した。すると、今度は不可解な文字列や非難の言葉が出るわ出るわで、収拾がつかなくなってしまった。アルマはその中の一つのページを開き、中身を確認する。


「は?」


 アルマが苛立ち交じりに声を漏らしたのも無理はない。そこに書かれていたのは、『作家名以外一切読めない小説』という文章だったからである。


「どういうこと」


 アルマはスマートフォンを持ったまま、頭を抱えた。試験明けにもかかわらず平凡な女子高校生を悩ませる事態が発生するとは何事か、とアルマは思いつつ、スマートフォンの電源を切った。これ以上見ても不毛であると判断してのことであった。


 選帝侯は、この小説を『最近、巷で噂になっている稀代の作品』と称した。これだけ聞けば件の小説が何かしらの話題に取り上げられているだろうことは容易に想像がつくものの、それが肯定的な意なのか、それとも否定的な意なのかまでは分からない。アルマは彼に言われるままこの本を読んだとはいえ、この小説に対する世間一般の評価を知ってしまった今、アルマが何故、この小説を読むことができたのかを考えなければならなかった。


 それとも、世間一般の評価の方が間違っているのだろうか。アルマは椅子から立ち上がり、分厚い文庫本を持って階下のリビングへと赴いた。中央にあるソファでは、掃除を終えたらしい母親が煎餅を摘まみながらテレビ画面を眺めている。アルマは後ろから彼女に声を掛け、文庫本を差し出した。


「ねぇ、これ知ってる? 巷で噂になってるらしいんだけど」


 娘の声を聴いた母親は、齧りかけの煎餅を皿の上に置き、手を払って煎餅のカスを落としてから振り向いた。


「何それ、小説? そういえば聞いたことがあるわね……。確か、全く読めない小説ってことで話題になってた本かしら。どうしてそんなものを公にして売りに出してるんだって、かなりの批判を浴びていた気がするけど。……それでその本、どうしたのよ。アルマちゃんも気になって買ったの?」


「いや、知人がお勧めって言って貸してきたんだよね。一応読んではみたんだけど」


 母親は素っ頓狂な顔をして、アルマと文庫本を交互に見遣った。


「お勧め!? その人も変わってるわね。読めるわけないのに」


 母親の反応に、偽ったところはみられない。寧ろ素で反応しているように見えたアルマは、困ったように首を傾げた。


「ちなみに、お母さんにはこの本のタイトル、何て見えてる?」


 突如として奇妙な問いかけをする娘を訝しがりながらも、母親は素直に読み上げた。


「えーっとね。『5丸jる#ノ‐か*jj*Qj‐無$る 瑠#ぎヲ%$ぎxj』って、本当に意味が分からないわね、これ。……読んだけど、どうしたの、アルマちゃん」


 立ち尽くしていたアルマは、母親の呼びかけで現実に引き戻される。彼女は「ありがとう」とだけ告げ、リビングを出て行った。娘の終始意味不明な行動に振り回された母親は、首を捻りながらアルマの後姿を見送ったが、すぐに興味を失ったのか、再びテレビ画面に意識を向けた。




 自室に戻ったアルマは、もう一度小説のタイトルを見た。彼女に見えるのは、『Wisdom, Vessels, and Doughnuts』の文字。先程母親が読み上げたような、奇怪な文字の羅列ではなかった。単語一つ一つに意味があり、現にアルマはその意味を理解できていた。


 それでは、アルマと母親との間に隔たっている違いは何なのか。


 アルマは顔を顰める。そのようなものは考えずとも明白であった。明白であるからこそ、認めたくなかったのかもしれない。


 アルマが二度だけ行った、別次元の世界。そこへ行くには必ずドーナツの穴を覗くという行為が媒体としてなされており、チャンネルが切り替わると共に、そのいずれの時でも選帝侯と顔を合わせることとなった。

 すなわち、選帝侯の居座っている世界。その次元空間へと行くチャンネルを持っており、同時に持っていないのがアルマであった。チャンネルを持っているにしろ持っていないにしろ、どちらにせよアルマはその次元空間へ行くことができるのであり、その理由は些か不明であるものの、少なくとも母親とアルマとの間にあるだろう、大きな相違点ではあった。


 アルマは一度深呼吸をしてから、もう一度本の表紙を見た。今度は、その表紙に書かれていること、否、表紙に印刷されている文字乃至記号がそのまま見えるように意志を込めて。


『5丸jる#ノ‐か*jj*Qj‐無$る 瑠#ぎヲ%$ぎxj』


 浮かんできた文字列に、アルマは失笑した。確かに、これが実際に紙面上に印刷されているのならば、普通には読めまい。ネット上の好事家たちの意見も少しばかり目にしていたアルマは、彼らがこの本の解読に勤しんでいるらしき旨が呟かれていたのを思い出す。曰く、記号配列にある程度の規則性が見られる故、この本は滅多矢鱈な文字列を印刷しただけのものではなく、きちんとした意味があるのだ、とのことであった。事実、アルマは無意識ながらもこの本を読み、意味を理解していたために、彼らの意見を否定することはしなかった。しかし、否定はせずとも、納得はいかなかったのである。


 この意味不明な文字列に意味があることは、アルマも了承している。問題は、この小説が実は小説然としていたということではなく、アルマにとってはこの本の中身が通常の言語で理解できたという点にある。


 あの別次元の世界に存在するような非人間じみた者、或いはあの次元空間へ行くチャンネルを持ち合わせている者ならば、誰でもこの本を読めるのだというのだろうか。現に、選帝侯は読めているような雰囲気を醸し出していたものの、それが嘘か真かは本人に聞かねば判断の付きようがなかった。


 つまり、だ。アルマは片手で額を覆い、溜息を吐いた。


 『あちら』に行ってあの片眼鏡と会わないことには、今のアルマでは謎解きを放棄する以外に解決の道はないということを、暗に示しているのである。


 暫く事の七面倒くささに渋っていたアルマは、渋っていても仕方がないという考えに行き着いた時、漸くその重たい腰を上げた。十一月に新しく買ったコートを羽織り、愛用している薄紫の肩掛け鞄に件の文庫本を入れて自室を出る。家を出る前に冷蔵庫へ寄り、そこで母親の声を聴いて朝食を取り忘れていた事実に気が付いたものの、然程腹の空きもなかったため、「要らない」と言って玄関を出た。


言葉は他者との共通理解がある故に、意味を持って意思伝達されるというお話。

とはいえ、作中に出てくる謎羅列の翻訳は至極簡単です(*´Д`)カンガエルノメンドクサカッタ

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