エージェント・センシティブ
現実世界に垣間見えるファンタジーを舞台にしています。
「いってぇ……」
目覚めた瞬間、首の痛みと吐き気とで、ドニスは柳眉を歪めた。
自身の身に何が起きたかは、もちろん鮮明に覚えている。
バリツの訓練中に、年下の女の子から急所に手刀を食らって、見事に気を失ったのだ。
「大丈夫かぁ?」
のんきな物言いで横になっているドニスを覗き込んだのはセルジュである。彼は救護室で、あろうことかカップ麺をすするという暴挙に及んでいる。
「何の真似だよ? おまえ、俺が心配でここにいるんじゃないのか?」
「いやぁ、腹が減っちまって」
育ち盛りだしよ、と悪びれた様子は微塵もない。
「おまえも食うか? もう1個あるぞ」
「冗談じゃない」
吐き気がする上、カップ麺臭まで食らったドニスは、それでも小さくうめきながら上半身を引き起こした。彼は18歳である。体力に恵まれ、運動神経もよく、周囲から一目置かれている青年であった。
その彼が、昏倒したのである。
「それにしてもおまえがKOされるなんて、こりゃ語り草になるぜ」
「うっせー」
セルジュは勢いよくすすりながら、追い打ちをかけるように揶揄した。
「その張本人が、おまえの見舞いに、ここへやって来たぜ」
「なんだって?」
ドニスは思わず頓狂な声を上げた。
「悪いことしたって、すっげー謝ってたな。おまえが目ぇ覚ます様子がないから、また改めて出直すってさ」
「冗談じゃねえ!」
「かわいい子だったじゃん」
セルジュは最後の一滴までスープを飲み干すと、ニカッと笑った。「見てくれにだまされたのか? 油断したな。いつもとは逆パターンだ」
確かにドニスの容貌は、ハニートラップとまではいかないものの、任務中にたびたび利用されることがあった。
「そんなんじゃない」
ドニスが顔を引き締めたので、セルジュは眉をひそめた。
「と、いうと?」
「あの子はカナリアだ」
「おまえと同じ? ああ、だから、わざわざ手合わせを?」
ドニスはうなずいた。セルジュがわずかに身を乗り出す。「それで?」
過去を振り返るのは嫌いだが、ドニスは珍しく回顧に耽った。黒髪にエメラルドグリーンの眼をした少女は、およそ不向きな気質の持ち主であった――格闘技という相手にダメージを与え、優劣をつけるといった世界。ただでさえ神経が高ぶりやすいのに、集団の中で手が抜けず、常に緊張状態にある日々。
「繰り出す技を、事前に頭の中で思い描いて仕掛けた。全部かわされたよ。つまり、確証を得たってわけさ」
「かわい子ちゃんの方は、おまえに勘づいたのか?」
「いや、それはないと思う。今の俺は、ほぼ完璧にコントロールできるし」
「つまり、マデリンは発展途上か」
「おそらくな……って、マデリン?」
「かわい子ちゃんの名前だよ」
そのくらい覚えとけよ、とセルジュがあきれたように言う。「歳からいって先々、一緒に働くことになるかもな」
「1チームにカナリアは2人もいらないだろう」
「いやいやいや」
セルジュが首を横に振る。
「通信手段が絶たれても、カナリア同士なら連絡が取れるんだって? そういった話を小耳に挟んだことがある」
セルジュは少し得意げだ。
ふん、とドニスは眉間に皺を寄せ、両の腕を組んだ。
「いかにも上の連中が考えそうなことだよな。通信手段だって? 意思の疎通といってもらいたいね。インカムで話すのとはわけが違うんだ。言葉じゃない。思考で会話するんだよ。思念のやりとりがどれだけ当事者に負担になるか、考えたこともないんだろうさ」
「へぇ~。じゃあ、ダチになればいいんじゃね?」
「はあ?」
セルジュはしたり顔のまま続けた。
「俺とおまえみたいに、お友達になればいいってことさ。そうすりゃ、ある程度、考えてることの目星はつくだろ? ちなみに俺が今、何考えてるか、おまえ、わかるか?」
間髪を容れずドニスはニヤリと口角を上げた。
「残りのカップ麺を食うかどうかだろ?」
「ご名答」
友人たちは肩を揺らして笑った。
雨上がりの肌寒い街を、1匹の犬が歩いていた。野犬にしては身綺麗で、体毛は黄褐色である。垂直に立った耳が、終始、あちらこちらに向きを変え、時折、恐れるようにして曇空を仰ぎ見た。通勤に急ぐ人々に犬をかまう余裕はない。誰もが襟元を掻き合わせ、足早に歩道を過ぎ去った。犬は頭を低く下げ、やがてうらぶれた路地へとそれていく。そこは平生、晴天でも昼間から薄暗い。
狭く入り組んだ町筋には家々がひしめき合っている。民家以外にも工房や昔馴染みの軒店が見受けられた。犬は気前のいい肉屋からソーセージを授かった後、雑貨屋で外に並べられている絵葉書に鼻を寄せた。
逆光で暗い影の差す納屋で人が話し合っている。陽気なおしゃべりとは程遠い。声をひそめて談じている。犬は立ち止まり、興味深げに納屋の前で立ち止まる。人相の悪い老女と白皙の美青年である。
「評判は聞いてるよ。助言をもらいたいんだ」
見た目は20代前半か、金髪碧眼の青年は煙草に火をつけながら甘く微笑んだ。それは自分の面持ちが相手にどんな心理的影響を与えるか、充分承知している者の毒を含んだ笑みだった。
「高くつくよ」
老女は卑下たような微笑で顎をしゃくって見せた。手足は枯れ木のように細いが、腹はせり出している。小柄で白髪は短く、香水のにおいをぷんぷんさせていた。青年は平然としていたが、犬は鼻に皺を寄せている。
「かまわないさ」
青年は背広の内隠しから紙切れを差し出した。犬は期待に首を伸ばしたが、あいにく小切手である。
「手付け金だ。占いが当たれば、それとは別にまた礼をするよ」
老女のしかめっ面が、たちまち愛想よく変貌した。舐めるように金額を確かめ、猫撫で声で青年にうなずく。
「いいだろう。何が知りたい?」
青年は口から煙草を離すと、眼鏡の上の隙間から眼を鋭くした。
「南シナ海、それに東ヨーロッパの紛争について、本格的に起こる正確な時期を知りたい」
「あんた、武器商人かい?」
「まさか。ただの投資家だよ。損失を避けたいだけ」
青年も老女も物騒なことを意にも介さず話している。犬は尻もちをついて座ると、後ろ足で耳を掻き出した。
「じゃ、明後日の今頃にもう一度来るといい。結果を伝えよう」
「よろしく頼むよ」
青年が通りへ出ると、犬は待っていたように近づいた。激しく尾を振る犬に、青年は腰を落として頭を撫で回す。その様子を納屋の裏手の窓から少年が見つめていた。窓といっても光を入れるだけの平べったい明かり窓である。
青年は「ちょっと待ってろよ」とポケットの中をしきりと探ると、「こんなものでもいいかな?」とチョコレートを1枚取り出した。丹念に包み紙をはがして丸ごと犬にくわえさせる。青年は気をよくした様子で振り返らずにそのまま立ち去った。
「やめろよ。食うんじゃない」
少年が明かり窓から眼もとだけをのぞかせてたしなめた。犬はチョコレートをくわえたまま窓の下へ来て首をかたむける。
「これをやるから、そいつはよせよ」
少年は狭い窓から細い腕を精いっぱい伸ばし、やっとの思いでどうにか一切れのパンを投げ落とした。その時、ドア越しに少年を呼び立てる老女の声がした。勢いづいた足音が2階から騒々しく下りてくる。
「ラケシ、ラケシ、仕事だよ! さっさと禊の支度をおし!」
「まずい、ばあちゃんが来た」
犬は少年の様子に何か不穏なものを察したらしい。パンをくわえると、チョコレートには見向きもせずに退散した。遠くで繰り返し少年の名を呼ぶ老女の声を耳にしながら。
同じ頃、やはり人相の悪い男が街を歩いていた。金髪を角刈りにした大柄な中年層である。黒いサングラスに、紫のダブルスーツ、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ姿は、周囲にただならぬ威圧感を与えずにはいられない様相である。
男は通勤する人波に逆らうように歩いていた。がに股で遠慮する様子はなく、あてもなく四方を眺めている。誰一人、眼を合わす者はなく、間違っても肩などぶつからぬよう、極力気を遣っているにもかかわらず、当の男はまるで無頓着である。
「おい、そこのガキども」
男は黒の革靴に濡れた地面の水が跳ねるのもかまわず、車道を斜めに横断して子供たちを呼び止めた。通学中と思しき3人の男の子たちは一瞬、怯んだ様子を見せたが、リーダー然とした1人が心持ち胸を反らして応じた。
「何だい、おじさん?」
「ここの住所、わかるか?」
男が差し出したメモを3人が恐る恐るのぞき込む。どうやら思い当たったらしい。おのずと得意顔になった。
「助かったぜ。ありがとな。これで菓子でも買えよ」
教示を受けた男は感謝のしるしにと、チップを手渡した。思わぬ幸運を手にした子供たちは「ありがとう」と声を弾ませた。
「ええか、学校が終わったら、まっすぐ家へ帰るんやで」
3人は手のひらのコインを見、次いでお互いを見回した。「でもそれじゃあ買い食いできないよ?」と1人が代表で不平をこぼす。
男は額をピシャリと叩いて、「それもそうやな」と笑った。その手で子供たちを手招きすると率然と真面目な顔になる。
「せやけど世の中は物騒やからな。俺みたいに、ええ奴ばっかとちゃうで。お前らみたいな子供をさらって、売り飛ばす悪い奴らがおるんや」
子供たちは「嘘だあ」「平気だもん」「そんな奴やっつけてやる」と述べた。男はチッチッチッと立てた人差し指を左右に振って、人の悪い笑みを浮かべた。
「嘘ちゃうて。ほんまの話や」と、男はその場にしゃがみ込み、目線を子供たちの高さに合わせて、わけもなく声をひそめた。
「山奥の貧農へ売られてな、一生そこで働かされんねん。飯もろくにもらえへんし、学校へも行かれへんのやで」
「学校行かなくてもいいの?」と、子供の1人が眼を輝かせた。
「そうや。おまえ、読み書き計算、出来へんでもかまへんのか?」と、男は鼻息荒く、語気を強めて釘を刺した。「字がわからんだらマンガも読めへんし、メールも打てへんで。迷子になっても地図看板読めへんから家へも帰れへん。薬飲むんも命がけや。注意書きがわからんのやからな。買い物も無理やで。勘定出来へん奴は詐欺に遭うんがオチや――ええっと、何の話やったかいな?」
「人さらいの話だよ」
「おお、そうやったそうやった」と、男は再度、額を叩く。「売られんのはたいがい異国や。逃げとうても自分の居所がわからん。当然、金も持ってへんし、幼いと記憶も薄れてく。そうなったら大人になっても祖国がどこかさっぱりや。家族のこともあやふやで、もはや帰りようがないわな」
子供たちは顔を強張らせ、ことごとく押し黙った。男は満足の態で姿勢を戻すと改めて言い含める。
「気ィつけや。知らん奴には絶対ついてったらあかんで。うまい話には裏があるのや。よーく覚えとき」
子供たちは何度もうなずいて、まるで逃げるように駆けて行く。男はそれを見送ると再び軽快に歩き出した。
「緯度の高いところは五月でもまだまだ寒いなあ」
男の地声は大きく、独り言の域を超えている。近くのカフェに入り、エスプレッソとパニーノを注文した。他の客に漏れず、カウンターで素早く済ませようと試みる。「こいつぁ、うめぇ」と思わず声が出て、ひとりでに周囲の笑いを誘う。
男はカフェを出ると、すくいあげるように辺りをねめ回し、ズボンのポケットに両手を入れ、前屈みに歩を進めた。時折、メモを取り出しては立ち止まって眼を通す。目的の路地を見つけると、たちまちひとり悦に入った。
「やっと見つけたでぇ」
通りの両側には背の高いアパートメントが建ち並び、空を見上げるとロープを渡して洗濯物が干してある。男はレモン色のアパートメントの前で立ち止まった。口の端がニヤリと持ち上がり、迷うことなく階段を昇り出す。
男は遠慮会釈もなく、部屋のドアを蹴破った。4階では中年の夫婦が朝食の真っ最中だった。妻がかん高い声を放ち、夫も狼狽しながら席を立つ。「何だ、おまえはっ」と、声をうわずらせて、妻をかばうように立ちはだかった。
「ええ暮らししとるなぁ」と、男は部屋をぐるりと見渡した。「前とは雲泥の差やろ」と、余裕綽綽で当てこする。
「出て行け、警察を呼ぶぞ」
夫が唇を震わせ、妻が電話機に手を伸ばした。男は近くのソファーに腰かけ、「やめときや」と恫喝した。
「警察呼んだら困るんはアンタらの方やで。俺は人身売買業者を紹介してほしいだけや」
夫婦は総身を凍りつかせて真っ青になった。
「何を言ってるんです。人違いじゃありませんか。わたしたちは――」
「ばっくれんじゃねえぞっ」
男は身を乗り出すと脅迫的に罵った。夫はびくりと身を震わせ、怖気づいて口をつぐむ。妻はその背に隠れ、震えおののくばかりである。男は懐に手を突っ込んで拳銃を取り出した。
「俺もアンタらみたいにガキを売って大もうけしたいのや。アンタらがこっちへ来る前に近所のガキさらったんは知ってんのやで」
男は黒い奥眼に凄みをきかせて夫婦を見下した。かすかな嘲りを浮かべながら拳銃をクルクルともてあそぶ。
「2歳ゆうたら、まだドアも自力で開けられへんわな。顔見知りやし、自我もまだやし、言葉巧みに連れ出したんやろ。確か動物園へ行こう言うて、騙くらかしたんやな。そいで車の中で睡眠薬入りのジュースを飲ませたんや」
夫婦の顔は強張り、膝はがくがくと震えていた。互いに身を寄せ合いながらその場に根が生えたように動かない。やがてへなへなと床に座して、口をわななかせて滂沱した。男は満足を覚えて棘のある口調で先を続ける。
「うまい汁はみんなで分かち合わな不公平や。俺もぜいたくして、車とか家が欲しいねん。紹介してくれたらアンタらのことは口が裂けても言わへん。アジアの農村では貧乏でも子供だけは買うてくれるでな」
夫婦は追いつめられて、あえぎながら白状した。男は「邪魔したな」と、上機嫌で立ち去った。
ラケシは暗い部屋から中空の月を眺めていた。その眼差しは憂いに沈み、込み上げてくるものを抑え込んでいる。もっとよく見ようと椅子を離れ、狭い窓枠に手を添え、何気なく目線を下げると、思いがけずつぶらな瞳とぶつかった。
「昼間の……!」
少年の心は犬の出現におおいになごまされた。暗く沈んだ面やつれに、生き生きとしたものが頬を差す。犬は嬉しそうに尻尾を左右に激しく振っている。少年は届かないのを承知で懸命に細い腕を差し伸ばした。
「ごめんよ、今は何も持ってないんだ。でも明日の朝には必ずパンを用意しとくから、また顔を出してくれよ」
ラケシは犬を相手に取り留めのない話をした。夜は星や月の輝きが唯一の慰めであること、物心がついた頃から外出を許されず両親がいないこと、祖母の占いの仕事に協力せざるを得ない身の上について。
「ばあちゃんに内緒で、秘密の日記をつけてるんだ。そこでいろいろ想像するんだよ。親きょうだいのいる自分とか。学校へ行って、友達とサッカーしたり、ゲームやったり。夏は川で泳いで釣りをするんだ。休みの日には母さんがビスケットを焼いてくれてさ」
犬はラケシの話に耳を傾けているように思われた。立ち去る気配はまるでなく、窓の下でおとなしく座っている。「今夜の日記にはもちろんおまえのことを書くよ。おまえはきっとこの街の古き善き女神ラトの使いなんだ」
にわかに外のドアを乱暴に叩く音がした。ラケシは小さく身を震わせて、たちまち押し黙ってしまう。2階の老女がしわがれた声で、「誰だい」と外に問いかける。「警察だ」と返され、老女は不意に口をつぐんだ。
慌ただしく階段を下りて老女が部屋に入ってきた。ラケシは「あっ」と驚いて、恐怖のまじった声を漏らす。老女は少年に向かって何か唱えると手振りを翻し、その途端にラケシは気を失って床に崩れ落ちた。
「何だい、これは?」
老女は少年のそばに落ちていた冊子を拾い上げた。何とはなしに読んで、底意地の悪い笑みを浮かべる。出し抜けに窓の外から獣のうなり声がした。不審に思い、明かり窓をのぞくと犬が牙を剥いている。
再び表のドアが鳴り、警官の怒号が飛んだ。「うるさいね、今、開けるよ」と、憎々しげに罵倒する。老女は日記を鷲掴みにすると、縦横に引き裂いた。部屋のロウソクを吹き消し、平然とラケシをまたいで部屋を出る。床に散らばった紙片には老女の黒い足跡がついていた。
「何かご用ですか?」と、老女が2階のドアをようやく開けると、制服姿の警官が2人、苛立たしげに立っていた。
彼らは両腕を組んで、小刻みに床を踏みつけている。背の高い方の警官が「夜分に悪いね」と口火を切った。それをもう1人が待ち切れぬように勢い込んで身を乗り出す。顎を上げ、眉間に皺を寄せ、疑念を込めて老女をねめつけた。
「お宅にはお孫さんがいるそうですが、お目にかかれますか?」
「ええ、確かにいましたよ。昨日まではね」
「昨日?」
「親もとに帰りましたよ。一時的に預かっただけですから」
老女はいけしゃあしゃあと余裕の話しぶりでうそぶいた。気後れの気配もなく、横柄で見下すような態度である。「おい」と、背高の警官が相棒に何やら耳打ちする。その間も老女は傲然として不遜な眼つきのままである。
警官たちは脇腹に両手を当てて、わざとらしくふんぞり返った。
「タレ込みがあったのだ。子供はあんたの孫じゃない。人買いから買った子供だと。今すぐ調べさせてもらおうか」
「ここにはいないよ。言っただろ。聞こえなかったのかい」
「嘘だ。人買いは逮捕した。おとなしくそこをどけ!」
2人の警官はそろって老女に拳銃を突きつけた。
「嫌だね。ここはあたしの家だ。勝手は許さないよ」
老女が右腕を高くかかげて宙を薙いだ刹那である。空気が熱を帯びてうなると、ボッと鈍い音を立てた。気がつくと警官たちの服が炎でめらめらと燃えている。あっという間に袖の部分が焼け焦げて黒い燃えかすがこぼれ落ちた。
警官たちは恐怖で半狂乱に陥った。火を消そうと躍起になって、我知らず拳銃をほうり出す。手のひらで叩いて消そうとするが、火は無情にも背中に燃え移り、取り乱して何かをわめくうちに一方が足をすべらせた。
「あっ」
咄嗟に腕を掴まれたもう1人が声をうわずらせると、2人はひと塊となって階段を転げ落ちていく。老女は一笑に付して勝ち誇ったように独りごちた。「あの子は大事な依り代だ。そう簡単に手放すものか」
警官たちは階段の下でしばらくうずくまっていた。怪我の功名か、落ちた衝撃で背中の火は消えている。じきにかすれたあえぎ声を上げ、かろうじて腰を据え置いた。互いに血の毛の失せた顔で助かったことに安堵する。
「おや、くたばりそこねたか。次はぬかるまい」
階上から老女があざけりながら警官らを哄笑する。彼らは老女と目が合った途端、泡を食って絶叫した。恐慌をきたして一散に先を争うように逃げていく。月夜に響き渡った悲鳴に老女は腹を抱えて笑った。
「ふん、まったくいい気味だよ。こいつは戦利品にもらっておこう」
老女は二丁の拳銃を両手で拾い上げた。
白いベンチで2人の女性が談笑している。ちょうど広場から遊歩道が伸びる境目である。1人は白髪の老婦人、1人はあどけない顔の少女である。2人の足もとには1匹の犬がだらしなく寝そべっている。
犬のリードを手にしているのは少女の方である。左脇には飲みかけのフレーバーウォーターが置かれていた。雨はすでにやんでいたが、濡れた広場は少し肌寒く、そこへ青年が両手に何かをかかえて歩み寄ってきた。
「あら、お連れさまがいらしたのね。これで失礼するわ」
老婦人は犬の頭をなでると、青年に会釈して立ち去った。
「誰だ?」と、ドニスは腰を下ろしながら紙袋をマデリンに手渡した。まだほんのりと温かい。パニーノとエスプレッソだ。犬が頭をもたげた。三者は頬張りながら、ドニスは再度「誰だよ?」と、老婦人の小さくなった背中を顎でしゃくった。
「通りすがりの人。フィルに話しかけてきたの。今はもう高齢だから飼えないって寂しそうだった」
「ふぅん」
三者はしばらくの間、食べることに専念した。ベンチのかたわらにはスイカズラの茂み、正面には石の神殿がある。広場の中心部には小ぶりだが見事なオベリスクも見受けられる。共にパンテオンや偉人たちが祀られた塔である。
マデリンがおもむろに口を開いた。
「さっきの人が言ってた。二世紀に造られたものなんだって。あのミケランジェロも絶賛した歴史的建造物だそうよ。昔は日曜ごとに子牛やヤギの売り買いもあったみたい」
ドニスはコーヒーをすすりながらぼんやりと仰ぎ見る。広場を行き交う人々に立ち止まる気配はない。もはや珍しくないのだろう、足早に通り過ぎていく。中にはIT操作に熱中するあまり前すら見ていない。
「この土地の先住民はエトルリア人だったかな? 今から三千年前にこの街を築いたとか。確かにモザイクやレリーフの装飾は素人目にもすげーと思うけど、この有り様じゃ、せっかくの情緒も嘆かわしいに尽きるぜ」ドニスは別段どうでもよさそうに、広場の隅にひしめき合うバイクを眺め入りながら述べた。
「昔、ああいう三角破風の部屋に憧れたんだよね。あ~あ、もう食べちゃった」
「うまかったか?」
青年の問いかけに少女はにっこり笑った。
「うん、大満足」
「そりゃよかった。エージェント・パウンドのおすすめってやつだよ」
「ビスケットのおいしいお店も教えてもらえると助かるんだけど――それで警察は?」
マデリンの問いかけにドニスの顔が急に面白くないものに転じて、異変に気づいたらしいフィルがそっと見上げてきた。その視線が不思議と先行きを懸念するかのように映り、人間臭い顔をする犬だな、と青年は小さく苦笑する。
「地元警察に手柄を、という予定だったんだが、当の警官たちはとても証言どころじゃない。ただ、取り乱しながらも火が本物だったのは間違いなかったぜ。チーフと確認してきた。制服のへりが黒くなってたよ」
ドニスが忌々しげに言う。マデリンが現場に引っ張り出されるわけだ、と。
「アジアの大国じゃ、子供を買った側は罪に問われないそうよ。誘拐された子供の親は神経がまいってしまうのに」
マデリンのやるせない物言いに、ドニスは熟考した末に切り出した。
「子供は労働力なのさ。仕事や老後の世話のな。驚いたのは、買われて成人した被害者が繰り返し子供を買うことだ。自分の子のパートナーや家を継がせるために……信じられるか?」
「あー、それちょっと覚えがあるかも」
「ええっ!?」
ドニスは仰天して、マデリンをまじまじと見つめた。
「老後のために最低1人は子供作っとかないと――って、面と向かって言われたわ」
「だ、誰に?」
「お母さん」
「マジかよ……悪い」
ドニスはどうしていいのかわからず、マデリンから眼を逸らした。
「ごめんね、わたしのほうこそ余計なことを言ったわ」
「なんでおまえが謝るんだよ……」
ドニスは心底後悔した。
彼には時折、感性のコントロールがひどく効かなくなることがある。今がまさにそれで、懸命に自身を立て直そうと深呼吸を繰り返す。
下手したら印可返上だな。
一方、マデリンの方は淡々としたものだった。
「倫理観にひどく欠けたまま親になった人だったのよ。子供を買う人たちもきっと同じね」
幾分か落ち着きを取り戻したドニスは顔を正面に戻した。まだ向き直るのは無理だった。なんとはなしに空模様を見やりながら慎重に話を引き継ぐ。
「村人たちは貧しく、教育水準も恐ろしく低い。読み書きもできないし、善悪の判断――子供を買うことが犯罪だということがわからないんだろう」
「そうだね」
ドニスはフィルを抱え上げ、膝の上にのせた。サイズが合っていない。じきに足がしびれてくるだろう。
「チーフはダリボたちと人身売買業者を抑える。こっちは俺たちの領分だからまかせるってさ。ただし、無理して捕縛する必要はないそうだ。いつものように身の安全を最優先にしろとのお達しだ。現場は久しぶりだろ。くれぐれも油断するなよ」
青年は胸中になにやら陰惨なものを抱えた眼つきで、「あの火が本物だったことを忘れるな」と、念を押すように付け加えた。
マデリンは小さくうなずいた。自分が現場に駆り出される時は大抵、厄介な案件であることは覚悟している。
「ダリボさんはうまくやったのね」
「ああ、そいつは結構なんだが――あのおっさんの格好を見たか?」
マデリンは首を横に振る。ドニスはフィルをのせたまま、前かがみの姿勢になって、思い出したように、くくっと笑った。
「髪が金髪なんだ」
「へっ?」
マデリンは唖然とした。
ダリボ・パウンドは本来であれば彼女と同じ黒髪である。
「俺はちょっと髪形を変えて、眼鏡をかけただけだけど、あの人ときたらまるでゴッドファーザーさ。黒のサングラスに、紫のダブルスーツ、足りないのは中折れ帽くらいだ。おまけに街の子供らにちょっかいを出して、こづかいまでくれてやってたぜ。気前のいいマフィアだな」
少女は吹き出した。
「形から入るタイプなの」と、マデリンは笑いを噛み殺す。「ノリが良くて凝る人だから。以前もチョコバーを葉巻に見立てて、口にくわえてたっけ。そう……紫のスーツかぁ」
マデリンもついつい口もとが緩んで笑ってしまった。ガタイがよくて、彫りの深い顔立ちは、ドニスとはまた違う意味で関心を集める。2人は演技派で変装を得意とする。ダリボは気の弱いサラリーマンにもなれるし、ドニスは詐欺師や悪徳ブローカーを見事に演じ切る。
「踏み込んだと同時に」青年のにやにや笑いは止まらない。「悪漢とまとめて一緒くたに取っ捕まったに違いない。賭けてもいいぜ。次の任務はきっと救出作戦さ。駆り出されるのはセルジュだろうよ。あいつも気の毒になぁ」
「チーフがいるから大丈夫よ。それより――」マデリンが唐突に腕を組んで片眉を吊り上げた。
「ドニスだって人の事とやかく言える立場じゃないでしょ。フィルにチョコを渡すなんて。中毒を起こしたらどうするのよ」
「食べるなと耳打ちしたさ。どうすればよかったんだよ? 上着からスペアリブでも出せって? 明らかにおかしいだろ。俺の今回の役どころは冷徹な投資家なんだぜ。気まぐれで食べ物をやる――あれはそういうシチュエーションだったはずだ」青年は強固に弁明した後、両手でフィルを掲げた。「だいたい、こいつも野犬にしては綺麗すぎるだろ。チョコを渡す時、妙にいい匂いがして驚いたぞ」
自分でも滑稽だったらしく、マデリンは笑い出した。
「やっちゃったなぁ……って思ったよ。だってしょうがないじゃない? 運悪くサロンへ行った後、招集されたんだから」
マデリンの笑顔にドニスは安堵した。
ダリボのおっさんに感謝だ。今度、一杯おごらないとな。
例の老女の住む町筋は、下町の元祖とも呼ばれ、子供や年寄りが多く、建物も昔とさほど変わらない。資料によれば他の地区では見られない独特な人間が目立ち、その筆頭こそ、くだんのふてぶてしい齢90の嫗である。
夜の帳が訪れ、マデリンとドニス、そしてフィルの三者は、色褪せた柿色の家を前に息をひそめていた。1階の納屋の裏手からフィルが忍び足で戻ってくる。「下には誰もいないみたい」マデリンが通訳する。
「この家は妙な作りで、1階の部屋には2階からでないと出入りできないようになってるんだ」ドニスが渋面を作る。「悪趣味な家だよ。にしても、いつも思うんだが、どうしてフィルの言葉――意思といったほうがいいのか――が理解できるんだ?」
「わかるわよ。一応、飼い主だから」と、マデリンは軽快に述べる。ドニスには動物を飼った経験がないため、見当もつかない。それに彼女は「飼い主」という言い方を好んでいない。便宜上、仕方なく用いているにすぎないのである。どんな命も誰かが所有することはかなわない、というのがマデリンの主張で、ドニスは感銘を受けたのを覚えている。
「2人とも上だな」
ドニスが先頭に立ち、マデリン、フィルの順で続く。足音が漏れぬように極力注意を払って歩を向ける。ドアの前にたどり着く。マデリンとフィルが追いつくのを待つ。ドニスはグロック42の拳銃を手にすると、「錠が下りている」と身振りで指し示した。
妖異に銃や刃物が役に立つとは考えにくい。昨夜、老女は武器を持つ警官らに火をつけて蹴散らせた。相手は妖術使いである。見た目は老躯でも侮れない。今回、拳銃はアミュレットのようなものでしかないのかもしれなかった。
マデリンが神霊を装い、老女を退けるつもりである。少年を眠らせ、声色をつかって、憑依したように思わせる。老女が畏怖の念に打たれて悔い改めれば良し。それが功を奏さねば、報いを与え、罪を償わせる。
三者は身をかがめつつ、余念なく耳をそばだてた。ドア越しに人間とは判じ得ない陰鬱な声が聴こえてくる。呪文のようだが、抗い難い妖力を含んだ調べである。フィルの鼻に皺が寄り、妙な香が漏れ滲んできた。
ロウソク以外の明かりはなく、部屋の中は薄暗い。老女は神霊を招くべく一心に呪文を念じている。目の前には着飾ったラケシが身を硬くして座っていた。少年は震えおののきながら唇を引き結んでいる。
どこからともなく突然に霧のようなものが立ち込めた。波打つように漂うと、徐々にラケシの四囲を取り巻いていく。朧な霧が濃くなり、少年の意志とはまるで関係なく、全身が激しく揺れ出し、両手で顔を強く押さえつけた。
老女はさもおごそかな儀式を執り行うかのような所作で、朗々と声を張り上げ、白い眼を剥き出しにした。名状しがたい脅威に息も絶え絶えの面持ちになる。さまざまな手振りを交えて、大きく仰け反るたびに吠え猛る。やがて少年の周りを獣のようにしなやかにめぐり出し、最後には正面にひざまずき、敬虔に頭を垂れた。その一連の動きはおよそ自然の身のこなしとは言いがたく、眼はぎらぎらと輝き、見るからに忌むべき形相を醸し出していた。
ラケシはやにわに顔を上げ、何事かを鋭く叫んだ。たちまち首が前に折れ、全身がぐったりと弛緩する。老女はわずかに頭を上げ、いかめしくにやりと笑った。少年は虚ろな表情で今にも椅子から崩れ落ちそうである。
「大いなる神ラトさま、ようこそお出で下さいました。どうか、どうか、わたくしの願いをお聞き届けくださいまし」
老女のくぼんだ眼窩に、よこしまな光が燃え上がった。
ラケシの頭がもたげ、光の失せた眼で老女を見た。まったく焦点が合っていない、思考の欠けた気色である。少年の心身に人智を超えた戦慄すべき力が宿り、唇を振動させて、おもむろに言葉を鳴り響かせた。
「かねてより懸念していたが、しかしもう限界の極みである。昨夜、おまえは罪のない2人の男を恐怖に陥れた。そして長きに渡り、依り代をむごく扱っている。おまえに力を授けるのは今宵限りである」
老女はカッと眼を見開き、弾かれたように顔を上げた。思いもよらぬ託宣に、全身がわなわなと震え出す。無意識に後ろへ足を引き、尻餅をついて固まった。衝撃と破滅の予感に、激しい戸惑いを覚えて声も出ない。
「老いてよるべのないのを不憫にこれまで大目に見てきたが、おまえに与えた恩顧は誤りであったと言わざるを得ん。もはや勘弁ならぬ。心して思い起こすがいい。かつて抱いた絶望と自棄、零落して身を堕とせしは――」
「黙れ、黙れ!」
老女が突然、頭を抱えて狂ったようにわめき出した。
「おまえは違う。ラトじゃない。ラト神であってなるものか! そうだ、ラケシだ、おまえだよ。あたしを騙そうって魂胆だろ!」
老女は身を翻すとクローゼッドに飛びついた。「嘘だ。どこだ。違う」と、まくし立てながら中をかき回す。その動きが一瞬、止まって、老女はたちまちほくそ笑んだ。取って返す俊敏さは、さながら大きな猫のようだった。
「覚悟をおし。おまえは今夜でお払い箱だよ」
老女はラケシのこめかみに拳銃を突きつけた。酷薄な笑みを浮かべ、躊躇なく撃鉄を起こす音がする。少年が意にも留めぬ表情で老女の顔を見た。虚を衝かれ、老女が怯む。拳銃にラケシの手が伸びる。
「あっ……」
少年がわけなく弾倉部分を鷲掴みにした。
老女はあんぐりと口を開けて大いに面食らった。これでは引き金が引けない。まさにのっぴきならない事態だった。その間隙を縫うように、勢いよくドアが開いたかと思うと、若い男が敵意もあらわに、拳銃を手に押し入ってきた。
「その子から離れろっ」
老女はぎょっとした。相手には見覚えがあった。先日、占いを依頼してきた気前のいい若い投資家である。
「何だい、約束は明日だよ」
青年の背後には若い娘と犬とが控えていた。老女はフィルのことはまったく失念していた。無論、若い娘の方には面識がない。にもかかわらず、マデリンをひと目見るなり露骨に動揺を表した。
「おまえ……あたしと同じだね。そうか、おまえの仕業だったんだ」
「どうかしら。わたしは貴人の恩に汚名はそそがない」
マデリンが険しい表情で重々しく口をきく。フィルが歯を剥いてうなり、青年も老女に銃口を向けている。
「なるほど。こいつは罠だったのかい」
老女は力なくつぶやくと、拳銃から手を放した――と思いきや、目にも留まらぬ動きでラケシを羽交い締めにした。
ドニスはポーカーフェイスを貫いていたが、内心は憤怒と焦燥とに駆られていた。
なぜか引き金を引けなかった。指先が思うように動かない。超常がらみの案件になると、やはり武器の使用が首尾よく行かなくなる。
「撃てばこの子に当たるよ。さあ、武器を捨てな。掻っさばくよ」
老女は少年を盾にした。のどにハサミを突きつけている。どうやら隠し持っていたらしい。刃渡りが普通の物より長い。
ラケシがうめき声を上げ、その手から拳銃が抜け落ちた。ドニスが歯ぎしりを立てる。老女は卑しい笑みを刻んだ。
「あたしは負けない。負けるもんか! あたしを見下した連中に――」
言い終えぬうちに尖った牙が老女に襲いかかった。矢のような速さでフィルが飛びかかり、猛然と腕に食らいつく。老女が「ぎゃっ」と悲鳴を上げ、少年が椅子ごと床に倒れ、宙に弾かれた銀の光がヒュンとうなりを立てて跳んだ。
ドニスが飛び出し、少年を抱え込む。マデリンが「フィル!」と声を張り上げた。フィルが老婆から飛び退いた矢先、それは狙い澄ましたかのように身を躍らせた。
老女は前のめりに昏倒し、それきり動かなくなった。うつ伏せの顔の下から瞬く間に血が広がっていく。
ドニスは少年をマデリンに預けて、警戒しながら近づいた。仰向けにすると、老女は額の生え際に一撃を受けて死んでいた。それは先刻、少年を攻め立てていたハサミのやいばであった。持ち手まで突き刺さっている。彼は束の間、息を呑んだ。
「更生の余地がなかったの」
マデリンが伏し目がちにつぶやくと、「そうだな」とドニスは首肯した。老女の面は苦悶に染まり、尋常な死に顔ではない。彼は目を閉じさせようとしたが、程なくあきらめた。その瞼は呪われたかのように、どうやっても落ちなかったのだ。
「大丈夫?」
マデリンの問いかけに少年の瞳に光が戻った。少年は微笑んでうなずくと、フィルの頭を撫でさする。「おまえが助けてくれたんだな。覚えてる。意識の奥で全部見てたんだ。あんたたちとラト神のことも」
少年は身を起こすと、おのずから老女に眼を向けた。ドニスが「哀れみは無用だぜ」と乾いた口調で言う。「自業自得ってやつさ。おまえが最初とは限らない。依り代の才能を持った子供ならきっと他にもいただろう」
ラケシはぞくっと身を震わせた。
ドニスはマデリンを瞥見する。
引導を渡したのはまず彼女に違いなかった。
自分が手を下すべきだったのに。
ドニスは忌々しげに拳銃をホルスターに収めた。
フィルが少年に寄り添い、つぶらな黒い瞳で見上げた。たちまちラケシの強張った気色が微笑に近いものになる。少年はフィルに向かって無言のまま一つだけうなずいた。その様子を見守っていたマデリンが、今度はドニスへと視線を移した。
困ったような顔をして首をかたむける彼女を見た途端、ドニスは自分がひどく不作法な真似をしているような心持ちになった。あれはラト神とやらの仕業だ。断じて天罰である。神は物理的な干渉ができないから、執行人としてマデリンの手を借りたのだ。
「さあ、とっとと引き上げようぜ。おまえさんを家まで送らないとな」
ドニスの言葉にラケシは思いがけず息を詰まらせた。呆然と眼を見張り、ものも言えずに青年を凝視する。次第に表情がなごみ、込み上げる喜びに胸が高鳴った。「ありがとう」と、今にも泣き出しそうな声をふりしぼる。
「紹介が遅れたけど、俺たちはエプレメイ財団の者だ」と、ドニスが少年に挨拶して、緊張の解けた笑顔を見せる。「世界中のさまざまな事件の調査を請け負っている組織で、誘拐児童被害者支援団体の依頼で来たんだ」
老女の悪趣味な家を後にし、道すがら青年が説明する。少年はいちいちうなずいて、安心のため息を漏らす。
「僕、あの人のことを本当のばあちゃんだと思ってたよ」
「無理ないさ。被害者が養い親に育ての恩を感じて、処罰を求めないケースは珍しくない」
「そっか……」
ラケシは困惑の態で、ぎこちなく相槌を打った。ドニスが気遣うように少し間を置いてから再び口を開く。
「養い親が被害者の子供を買ったことは犯罪だ。厳しく罰しないと児童誘拐はなくならない。おまえさんのように健全な家庭に生まれた者はいい。でも捨て子や孤児となると世間の関心も残念ながら低いんだ」
「ひどいよ……そんなの」
少年が涙ぐむ。
「毎年、把握しているだけでも二万人の被害がある」と、ドニスが一連の事情を付け加えた。「警察のDNA鑑定やマスコミを多く招いたりして、少しでも世間の関心を喚起する努力をしているんだよ」
少年は我が身の幸運をひしひしとかみしめた。澄み切った夜空には白い無数の星々がきらめいている。「空ってこんなにおっきかったんだね」と、ラケシは感嘆する。あの小さな四角い明かり窓だけが、少年と世界との接点だったのだ。
少し前を行くマデリンが「あっ」と、小さく声を上げた。小走りにラケシのもとへ駆け寄り、鞄の中をまさぐり出す。
「何だよ?」
ドニスが小首をかしげる。
マデリンは「あった!」と、茶目っ気いっぱいに微笑んで、ラケシに差し出した。かたわらでフィルが「ワンッ」と力強く嬉しそうに吠え立てる。
「新しい日記帳よ。それと街で評判のビスケット。フィルからのプレゼントよ」
少年は破顔した。
「これはドニスに」
「えっ、俺にも?」
「わたしとフィルを守ってくれたわ」
青年は苦笑まじりの照れた様子で後ろ頭をかいた。
「俺は……何もできなかったぜ?」
「そんなことないわ。とても心強かった。わたしが現場でも平気でいられるのはあなたのおかげよ」
ドニスの心臓が一瞬、大きく跳ねた。
「調子狂うなぁ」
「そう? 正直な気持ちだけど」
エメラルドグリーンの瞳が不思議そうにドニスを仰ぎ見る。
「俺たちは異質な存在だ。助け合わないと」
さまよいそうな視線を落ち着かようと、ドニスはそっと眼を伏せる。
「あなたは大丈夫よ。わたしは……自信ないけど」
「よく言うぜ。人をKOしたくせに」
ドニスは一転、眼をすがめて憎まれ口をたたいた。
マデリンが失笑する。
「あなたが挑発するからでしょ」
「案外、いい性格してんじゃねえか」
「限られた人にはね」
青年は冷静を装うとしたが、うまくいかなかった。動転している……それを振り払うかのように受け取った包みをいそいそと開けた。
芥川龍之介の『アグニの神』を参考にしています。