第二話
荒れる海は歪な形をした白い花の園のようだった。
押し寄せてくる白波は空に舞い散る花びら。海の花びらは風に乗って雨に混じっていく。
その塩っ辛い雨を全身に受け止め、荒れる海をじっと見つめていた。
良く晴れた日には漁船がたくさん繋いでいる細長い波止場も今は海にさらされる分厚い命綱にも見えた。
その道に、しかも頂点に涼志はいた。
海の向こうはまるで擦り切れたガラスのように不鮮明で、灰色以外何も見えなかった。
「これが、海というものか。この世全てを洗い流す洗濯機のようだな」
風と海の音しか聞こえない。大音声を上げる風に耐え切れず少しよろめく涼志。
それに追い討ちをかけるように一際高い白波が涼志の身体を襲った。
その波は波止場を乗り越えて涼志の足を奪っていった。
「う、わ」
水で濡れた背筋がさらに冷たくなった。
涼志には全てがスローモーションに見えた。波に押される涼志の身体。冷たい水の手が腹から足まで満遍なく撫でられた。目は驚愕で見開かれている。腕は顔を覆うようにクロスさせている。今、まさに涼志はその波の向こうにある白い壁に視線を無くしていった。
(なんだ、この白い壁は…ああ)
涼志はその白い壁をコンクリの床と見間違えた。
今涼志は波止場にまだ踏ん張っていた。
涼志が思ったのは波止場を形作るコンクリートに倒れこんだのだろう。
ふと、涼志は思う。
(なら何故俺は立っているんだ?)
その白い壁は手を伸ばせば届きそうな距離にまで迫っている。
ついに白い壁にめり込むように、涼志はその白い波に呑まれていった。
そこで、やっと涼志は白い壁が波だという事に気づいた。
強烈に叩きつけられる水。まるで鉄板にぶち当たったかのようだった。
身体を撫でる感触が水そのものだと気づいても涼志は慌てもしなかった。
身体はこわばって思うように動かない。
(このまま溺れてお陀仏か)
と、水を脳に流し込んだかのように冷たくそう思った。
海の中に投げ出されてもうねる滝のような水圧の流れに涼志の身体は翻弄されていった。もみくちゃにもまれる。まるで無重力空間に突然重力がかかったかのようだった。海上に出ようともがくことも出来ず、口元から酸素が逃げていく。口の中に塩っ辛い味を感じると咄嗟に口を閉じた。しかし、全身の身体は酸素を欲している。口を開いて酸素を取り入れろ、と体中が叫んでいた。
このまま溺れてお陀仏か、と思いきや。
突然強烈な水の流れが涼志を襲った。今までの流れとは比べ物にはならない。全身満遍なく強烈なパンチをもらったかのような圧迫感と痛みが一瞬涼志に襲い掛かった。脳が揺らされ、意識が薄れていく。口に塩っ辛い味が………それっきり動かなかった。
赤い闇の中を涼志は見ていた。
涼志はその赤い闇をひどく懐かしいな、と思った。
どこで見たっけ? と考える。答えは見つからなかった。考えるのをやめた時、閃いた。
(あ! これ、太陽を見ながら目を閉じているんじゃないか?)
恐る恐るまぶたを開いた。ひどく感覚がおかしかった。ずーっと目を閉じていて、まぶたが錆びてしまったかのようだった。
まぶたを開ききると、思ったとおり、太陽の光が目を突き刺した。慌てて目を閉じて、身体を起こそうとした。それも錆びているかのように、緩慢な動きでゆっくり起こした。
改めてまぶたを開く。
ぼんやりとした視界が目に飛び込んでくる。横に二等分したかのように、水色と黄色が見えた。上に水色、下が黄色だった。
目をこすると水に濡れた触感がした。泣いていたのか? と思ったがそうでなく、手が濡れていただけのようだった。
どうして濡れているんだろう、と思っていると、波に呑まれたときのことを思い出した。
「あれ? おれ死んだんじゃなかったのか?」
そう呟くと、ぼんやりとしていた視界が鮮明さを伴って次第に晴れていく。
水色だと思っていたのは空で、雲一つないからっと晴れた気持ちのいい空だった。
黄色だと思っていたのは……。
「…金色?」
金色に輝く大地を呆然としている涼志はこすっていた手を地面に下ろす。手に水の触感がして、次に砂を押し付けているかのような触感がした。
驚いて手のほうに振り向くと手の甲まで水に浸かっていた。その手が触れているものを握って取り出すと、指の隙間からさらさらとこぼれていく金色の粒が見えた。
「…砂?」
見渡す限りの真っ青な空と白色に煌く水原と金色に輝く砂浜があった。
「ここ…どこよ?」
その問いに応えるものはいなかった。
代わりに風が水原に小さな波を作っていく。風は肌寒くなく、太陽の光で暖められた心地のいい風だった。
そこは海王の地…ユグドラジルの一葉にして、シー葉と呼ばれる世界だった。
世界樹ユグドラジル。涼志はこの別次元宇宙にさらわれた。
世界樹ユグドラジルは宇宙の別名で、涼志がいた宇宙ではない宇宙であり、星を葉と呼び、銀河を枝と呼ぶ。
全ての葉は繋がっており、枝から行き来ができる宇宙である。
一枚の葉から物語が始まる。
すべてはユグドラジルが宇宙の子に興味を持ってしまったことから始まる。
涼志がいる砂浜よりも深く深く海の奥底で泡玉が浮かぶ。
泡玉の中に声を震わせながら上に昇っていく。
淡い光を伴った青い大広間の中で一際高く置かれた、ぼんやりと光る水色の玉座に一人の男が座っていた。
男の目には青いフードを被った、顔も見えない人が手を合わせてこちらに頭を下げている。
静かに、フードの男の口から無感情な泡がこぼれ出た。
「一時間前にウィンドの葉門の他に未確認の”枝”が発生致しました」
「…未確認? 詳しく」
玉座に座る男はその報告に眉を潜めると続きを促した。
「は、発生時刻は昼12時34分、ウィンドの葉開枝から4分後。発生地点は聖域の3キロ東です」
「聖域の目の前ではないか!」
聖域の近くに門が発生した。その報告に玉座に座る”海王・リヴェローグ”はここ何年かぶりの驚きの大声を発した。
「はい。今まで確認された枝の発生地点と全く符合しません」
「うむ。では転送されたのは?」
「…分かりません」
ここで初めてフードの男が戸惑いの感情を伴って言葉にした。それにリヴェローグは驚いた。目前にいる男は海賢の一人で、十人いる海賢の中で飛びぬけて聡明で、余り感情を表さない男だった。
「分からんのか」
「はい。しかし枝から何かが転送されたのは確実です」
「…こういうことか? まず未確認の枝が開かれ、そこから何かが転送されたが、それを確認できなかったと」
「はい。その通りでございます。この枝について今直ぐにでも調査をしたいと思います。つきましては許可をと」
フードの男は一礼して王の言葉を待っている。
「うむ…そうした方がいいだろう。転送されたものが確認できなかった件だが…なぜ?」
「申し訳ございません。原因不明のエラーが出てしまいまして。これも究明していきます」
珍しく焦っているようで、フードの男は深く頭を下げていた。
「分かった…原因不明の、エラーねえ…今動けるものを集めて直ぐ調査しろ。だが、聖域には気をつけろよ」
「承りました。聖域には近づくな、ですね?」
「分かってるならいい」
フードの男が一礼して大広間から消えるとリヴェローグはため息を一つ吐いた。
「なにもなければよいが……」
ありがとうございます。
第二話書けました。