第一話
青年は気を失っていた。
青年が横たわるのは雲一つない青空、砂漠のような海原。
青年を支えているのは透き通る水と黄色い砂。
やがて青年は目覚め、異世界で物語を紡ぐ。
まずは、海王の地から。
物語を語る前に青年がここにやって来た経緯を。
七尾涼志。
それがこの物語の主人公だ。
涼志はバイトでかろうじて生活をつないでいる一人暮らしの男性。両親から独立してちょうど一年になった時から物語は始まった。
布団の上に胡坐をかいて座り込んでいる男。
黒い目、黒い髪、目は細く、口元が引き締まっていて、喜怒哀楽が分かりにくい顔立ちをしている。クールないい男にも見えなくもない。それが涼志の特徴だった。
今、涼志はいささか不機嫌そうに見える顔で窓を睨んでいる。
外は嵐だった。せっかくの休日を、と恨みながら涼志は窓の外を睨んでいた。ガラスを激しく叩きつける雨粒で外の様子が知れなくなっている。今一歩外に出ればあっという間に水浸しになる事間違いなしである。
家が少し揺れているのを涼志は感じると、立てかけてあったモップを握った。それは部屋全体を支えるにしては無力だ。でも、もしかしたら部屋が潰れた時、天井が落ちてもモップが支えてくれるかもしれない。と、そこまで考えて、涼志はモップを投げつけた。
「ばかばかしい」
住んでいるアパートが潰れることになったら一階の部屋を借りている涼志はぺったんこだろう。モップはまさしく無力だった。
「ふぅ…」
ため息しながら窓に顔を向けた。風雨は弱まる気配もなく、相変わらず雲も、町も見えない曇ったガラスがあるだけだった。
台風は夜には通り過ぎるという。地球温暖化の影響なのか、台風はここ近年巨大化している。今の台風は日本全土を覆うほどのでかさである。大きくなって動きも鈍いのだ。まるで亀だ。
雲は時速60kmで動くというらしい。台風はどうだか分からないがあまりにもでかいのでそれ同等と動いていても晴れ間は荒れる海の向こうの水平線を見てもまだ見えないのかもしれない。
とここまで考えると、涼志は荒れる海を思った。
(荒れた海はどんなんだろうな…閉じこもってるのも暇だし、見に行くか)
早速涼志は立ち上がってがたがた揺れているドアに手をかけた。いつもは楽に開く筈が、今日このときに限っては開きづらかった。ドアを全開にすると隙間から漏れていた風の唸り音が突如として蛇のように涼志の身体を巻きつけ、部屋へ押し戻そうとする。
それを押しのけるとドアを閉めるために手をかけると部屋からもう来るな、と言わんばかりに勢いよく音を立てて閉まった。
たちまち雨が涼志の白シャツに降り注ぎ、たちまち灰色に染まっていく。青いデニムだけ雨に打たれても色は変わることはなかった。傘を取ろうと涼志は閉じたドアノブを手にかけた。しかし、面倒臭いと思ったのか、ドアは再び開けられることなく涼志は門扉の方へ傘も差さずに歩いていった。
今は九月。それも全身が蒸発してしまいそうな八月が終わってすぐの頃だった。明日は日曜日で休みだった。涼志は今日はとことん濡れて、天気の良い明日に服を干そうと考えていた。
幸い、雨はそれほど冷たくはなかった。
黒いアスファルトに雨が容赦なく叩きつけられ、水しぶきが飛び散る。元々黒かったアスファルトに幻のように消えていく花が咲いているようだった。
道路には道行く人も、車の影すらも見えなかった。それを確認した涼志は道路の中央を歩いた。随分と気分が良くなってきたのだろう。涼志の顔には薄い笑みを浮かべていた。誰もいない道を我が物顔で歩き、雨に打たれながら微笑するさまはまさに裸の王様のようだった。
海に繋がる商店街に差し掛かっても出歩く人はおらず、車も通らなかった。ひっそりとしており、レジで暇そうに座る店主がどこもかしこにも見受けられ、かなり寂れた商店街に見えた。涼志はその風景を意外に思いながら誰か出歩く人はいないものか、とあちこち視線を走らせていた。皆家の中に閉じこもっているようだ。ある一軒家の窓からは四人家族が仲良くカレーを囲っているのが見えた。
その向かいの時計屋を見ると時間はちょうど正午を指していた。涼志は昼に何を食べようか、と考えていると時計屋の主人らしき人が涼志に話しかけてきた。
「おい、こんな嵐の中どこへ行く」
その声に反応した涼志はその鋭い目をした白髪の主人に向き合い、会釈を交わすと少し笑って言った。
「ああ、ちょっと濡れてみたくなってね」
年老いた主人はひとしきり頷くと、だんだん語気を荒げていった。
「ふむぅ…今は近年まれに見る大嵐。貴様は死にたいのか」
その言葉遣いに涼志は驚いた。とても老人のそれとは思えないほどはきはきしていて大雨の中、良く通る声だった。
「じーさん…かなり元気そうだな。それをいうならこの店の連中もそうだろ? もうすぐ暴風域に入るってのにまだやってる」
「ふん…褒め言葉として受け取っておく。少年、名は何という?」
剣呑としていた目が治まると共に好奇の目が青年を貫いた。少年呼ばわりされたことにちょっとむかついた涼志だが、同時に主人の事がなんとなく好きになれそうだった。
「七尾涼志。七尾は七つの尻尾で、涼志は涼しい志って言うんだ。今年で19歳だ」
主人は眉間に皺を走らせて、鋭い眼光で涼志を貫いた。たじろいた涼志は何事か、と焦った。
「七尾? もしや…キミちゃん?」
涼志は首を傾げ、次第に驚きの目で主人を見つめた。
「ああ、違う違う。キミちゃんとは無関係だよ。それにしても、有名なタレントの名前なんてよく知ってるな?」
涼志が否定しても主人は訝しげだった。
「むぅ…違ったか。キミちゃんと顔立ちが似ているような気がしてな…苗字も同じ。本当に無関係か?」
「そうだ。よく言われるけど…キミちゃんとは妹でも姉でもないし、妻でもない。ほんっとうに無関係だよ」
「そうか…」
主人はひとしきり頷くと涼志を手招いた。
「ところで、何か時計買っていかないか」
「は?」
「は? じゃないだろう。ここは時計屋だ。覗いたなら何か買え」
「冗談じゃねえ…」
「今なら半額じゃぞ」
「時計なら間に合ってるから。またな」
それだけ言って立ち去ろうとした。だが後に続く主人の言葉に涼志は振り返った。
「…タダ、なのか?」
「男に二言はない」
「いや、今ので二言目じゃないか?」
「…三言目はない」
そうきっぱりと告げる主人の顔は真剣そのものだった。
訝しげに思いながらも操られるように時計屋の中に吸い込まれていった。見回すと大小の置時計、腕時計、壁掛け時計、はてには柱時計まであり、店の中で所狭しとひしめき合っていた。時計は多かったが肝心の色は少なかった。ほぼ木製で出来ており、全体的に薄暗かった。そのなかでひときわ目立つように主人の両隣に置かれた二つの置時計があった。
一方はやけに黒い置時計で、不思議な事にその黒い時計は針から盤、全てが黒く染まっていた。かろうじて分かる針の中黒ならぬ中白がその存在を知らしめていた。それにひきかえ、隣にあった白い時計はこれでもか、というほど白かった。まるで真っ白な布で作られているようにも見えた。
対称的な置時計に興味をそそられ、指さしながら主人に聞いた。
「なあ…おっさんあれは何だ?」
「おっさんではない。…ワシの名、言ったか?」
「言ってない」
「岩田権蔵。岩の田んぼに権化の蔵」
岩の田んぼってどんなんだよ、と心の中で突っ込みをいれる。顔には出てはいないが心の中では笑っていた。涼志はあまり笑いを顔に出さないが、その代わり心の中では小さなことでも笑うのだった。
「で、あれは何だ? 売り物か?」
「ああ、双子時計か。高いぞ。二百万円だな」
「高い、な…でもタダなんだろう?」
からかい半分に聞くと、主人は慌てた様子もなく頷いたのを見て涼志はあっけにとられた。そして主人をじっと見つめ、念を込めるように言った。
「本当に、いいのか?」
「ああ、構わぬよ。しかしこの雨じゃ二つとも持って帰れんだろう? 晴れた時に来い」
「…二つ?」
「二つで一つなんだよ。気に入ったなら二つとも持っていけ」
不十分な説明に騙されてるのでは、と思う。しかしタダでは騙される筈もないだろうと思い、涼志は頷いて、好奇心が言葉を作って口から這い出た。
「でも、どうしてなんだ? 二百万もする時計がタダなんて…」
「この時計のどこに二百万って書いてあるのか?」
「…?」
不思議に思った涼志は双子時計をもっと良く見ようと近づいた。その時計には値札は置かれておらず、まるで飾り物のようにも見えた。
「かかかか。二百万は嘘」
主人は先ほどの真剣な顔とは打って変わって愉快そうに笑い出した。その様子に涼志は若干引きながらも「そ、そうか」と呟いた。
「ま、晴れたらここに来い」
「ああ、分かった。またな」
「ところで、涼志。どこへ?」
まるで昔ながらの友人に声をかけるように涼志の名を呼んだ主人を驚きの目で見張った涼志はつっかえることなく行き先を告げた。
「ああ、海を見に行こうかと思ってる」
「死に急ぐような真似はやめろ」
歩き出した涼志に制止の声がかかる。
「大丈夫」
何の根拠もなくそう呟くと主人は何も言わず、ただじっと涼志を見つめていただけだった。
涼志の姿が見えなくなると主人は頭を掻きながら誰ともなく呟いた。
「まったく、近頃の若者は…来なかったら警察でも呼ぶか」
初めまして。
頑張って連載していきます。
みなさん、ありがとうございます。