Scene.5
金曜の練習を無断早退した修哉は、土曜日、帳尻合わせだと豪語する極悪非道部長の命令で、朝から晩まで延々と走らされた。
その後の帰り道、部活中は平静を保っていた祐樹が、突然「どうなった?」だとか「やっちまったか?」だとか「青春だなー」とか、そんな言葉を連呼して、修哉を質問責めにした。
無愛想に「何にもない」とだけ言い通して、その詰問を切り抜けると、修哉はマンションに着いていた。
昨日、郁美には部活で間に合わないと言っておいたので、堤防で彼女を見掛けることはなかったが、いつぞやのように、どうにも修哉は落ち着かなかった。
郁美に聞いた電話番号を幾度となく見て、何も話すことが無いのに気付き、携帯を閉じる。それの繰り返し。
そう。自分は祭へ一緒に行く事を約束しただけで、恋人同士なんかではないのだ。
修哉は、再び携帯の電話帳を開いて郁美の番号をまじまじと見つめると、ため息を一つ吐いて、携帯を閉じ、机の上にそっと置いた。
修哉は部屋の電気を消すと、ベッドに仰向けに倒れる。
ここ数日で怒涛の更衣ラッシュに見舞われた朝倉家は、敷布団や掛け布団も夏のそれに変わっている。忘れかけていた、でも何度も触れたことのある感触が修哉を包んだ。
いつもとかわらない夜空の姿が見える。一面の黒。ちりばめられた無数の光点。穏やかに吹く夜風。近くで泣いた虫の音と遠くで聞こえた森のざわめき。
心を空にしても受け切れないほどの、無数の要素が体に飛び込んで来るような、そんな感覚。
「夏か……」
どうせ今年も、例年と変わらない部活漬けの毎日だろう。それでも少し、ほんの少しだけ違う気がした。
星空に帯のように一際明るい一部分。
あと二日で、彦星は川を渡り終えるのだろう。愛する人に会える、そんな希望で心を満たして。修哉もそれに似たような、同じような、充足感を感じていた。織り姫と彦星のように、大きくも美しくもないけれど、二人の心は限りなく近い場所にある。修哉は素直な気持ちで、そう考える事が出来た。
唐突に携帯の呼び出し音が鳴り響いた。
修哉は跳び起きる。手を伸ばして携帯を取ると、サブディスプレイには山田郁美の文字。
修哉は急いで開けて通話ボタンを押した。
『もしもしー』
優しくて、愛らしくて、どこか間の抜けたそんな声が聞こえて、修哉はなぜか安心した。
『かけちゃった』
修哉は携帯をもったまま再度ベッドに寝転んだ。
「何だよそれ、なんか掛けたくなかったみたいな発言だな」
『そんなことないよ。なんか最近ゆっくり会ってなくてさ、落ち着かなかったんだ。なんか今夜は喋っておきたいなーと思って』
郁美も自分と同じように考えている事に修哉は驚いた。一方的ではなくなっている。そう感じた。
『ねえ修哉君……』
郁美が君付けで呼ぶと、修哉は何故か煩わしさを感じた。
「君なんか付けずに修哉で良いよ」
『え?』
「俺も郁美って呼んでるだろ? だから郁美も修哉って呼んでみなよ」
『でも……』
恥じらいがあるのか、郁美は押し黙る。
「ほら。修哉って呼んでみ」
数秒の沈黙が続く。
『……修哉』
その言葉に修哉は笑顔になった。
「そうそう、もう他人じゃないんだし、それで良いじゃん」
『……うん』
郁美はか細い声で呟いた。
「それで、何?」
『……え?』
郁美は、ほうけたように言った。
「何か言いたかったんじゃないのか……?」
『……あー。もう修哉が変な事言うから話しづらくなっちゃったよ』
「そう? ごめん」
『うーん……。じゃあ謝る変わりにあれ着て来てよ』
「あれって?」
『えー。覚えてないの?』
修哉は黙考する。心当たりにぶつかってそれが何かを冷静に判断すると、身震いがした。
「……待てよ。まさかお前……」
『そのまさかだよ。頑張れ夏男!』
修哉は部屋を見回した。隅にあるソファの上にきちんとたたんで置いてあるのは、あの日郁美に貰った水色のTシャツ。
「嫌だって言って良いですか……」
『拒否します』
「お前には羞恥心という物が無いのか……」
『とにかく着て来てね。六時に家で待ってるから』
「善処します……」
『それでよろしい。じゃあね』
「……わかった。迎え行くよ」
そう言って二人は電話を切った。修哉は嬉しいのか悲しいのかわからない、そんな複雑な心情のまま、床に着いた。
郁美に言われたとおり、修哉は夏男Tシャツを着て、財布と携帯を確認すると、扉を開けて外に出た。
郁美と共に居る時間はどうしてこうも夕暮れ時が多いのだろう。修哉はマンションの階段を下りながら、遠くに見える夕日を見て思った。夜の様に寡黙な自分と昼のように明るく快活な郁美には、ちょうど中間の夕焼けが似合うのだろうか。
修哉はのんびりと道路を歩いていく。余裕を持って家を出た分、郁美の家まで物思いにふけりながら歩を進める。昨晩も聞こえていた祭りの喧騒が、次第に大きく活気付いた物となっていた。
修哉は、郁美の家に着いた。
八日前。自分はここで背中に大きな怪我を負いながら、郁美の涙を見ていた。それまでは女性に対してなんとなく可愛いとか、綺麗というような意識しかもっていなかったのに、その涙を見て、修哉は初めて女性の事を愛らしいと思った。
修哉は、ためらうことなく呼び鈴を鳴らす。家の中で軽妙な音色が流れた。
思えばこの10日間、本当にたくさんの事があった。全く交わることのなかった二人が、偶然に偶然を重ねて、こんな風に気兼ねなく出会えているのだから、修哉は驚かずにはいられなかった。
玄関の引き戸が少しだけ開く。その隙間から、郁美が顔を出した。
「あ、修哉! ちょっと待っててね」
一度中に戻り、家族に行ってきますと声を掛けた後、すぐに郁美は外に出てきた。小走りで門へと近づき、修哉へ寄り添う。
「お待たせー」
郁美は修哉を見てはにかんだ。修哉は郁美の浴衣姿に、思わず目を奪われてしまっていた。長髪をポニーテールに束ね、水色の浴衣を羽織る郁美は、誰が見ても可愛らしかった。
「いこっか」
「お、おう」
修哉は郁美の声に慌てて返事をすると、堤防へ向かって歩き出した。
「着て来てくれたんだね」
「……え?」
「そのTシャツだよ」
「ああ、まあな」
「ありがと。この浴衣と色がお揃いでしょ? だから着てきて欲しかったんだ」
郁美が嬉しそうに言う。いまさら気付いた修哉は、心底感心していた。
「そういう意味だったのか」
「当たり前だよ」
郁美は修哉の数歩前を歩いていく。ひらひらと風になびく浴衣の袖が、可愛らしかった。
「でも、わざわざ夏男にしなくても……」
「まあそれは、しょうがないね。男子が着れる水色のTシャツが家になかったんだもん」
「じゃあ、今度買いに行こう」
「ホントに? 行く行く!」
二人の笑い声が道に響く。沈みかけた陽は、暗澹とか陰鬱のような暗い感情ではなくて、明日への希望のような明るい感情を湛えていた。
祭り会場は人でごった返していた。
東岸と西岸では、その様子に大きな差異はなく、延々と続く屋台の群れと、たびたび見かける休憩場や特別企画のスペース以外は、一点して売りに徹しているらしかった。
修哉は郁美と屋台の群れを見て回る。二人とも小さい頃から祭りには参加しているので、同じような話題で盛り上がった。
焼きそば、みたらし、りんご飴、チョコバナナ、ポップコーン。祭り特有の甘い香りと、太鼓の音色、人の波。今まで毎年のように見ていた景色、犬崎市民にとって夏の始まりとも言える燈野祭りが、今の修哉にはまるで違っていた。
笑う郁美、頷く修哉。流れていく時間が愛おしくて、修哉はこんな時間がずっと続いて欲しいと本気で思っていた。
「なあ、郁美」
何度も郁美と会ったあの階段で、修哉は隣に座る郁美を見る。
「うん?」
綿菓子の最後の一欠けらを食べた郁美が修哉を見返した。
「どうしても、見せたいものがあるんだ」
「何?」
怪訝そうな表情で郁美は修哉を見る。
「着いてきてくれるか?」
修哉の質問に郁美は笑った。
「もちろん」
郁美の即答に安堵した修哉は、立ち上がり郁美の手を握った。同時に郁美も立ち上がる。階段を登って、遊歩道を歩く人波を掻き分けながら、修哉は燈野大橋を目指した。
その間二人は終始無言だった。郁美にも修哉が見せようとしているものが分かっていた。だからこそ嬉しかった。
犬崎に住む者なら誰もが夢見る、あの場所へと二人は歩を進める。
大橋へたどり着いて、さらに多くなった人垣を分け入るように進み、橋の中頃にまでたどり着いた。
そして修哉は瞳を閉じた。
ただ、その時を待ち続けた。
燈野川の上流から、無数の燈籠が流れている。緩やかに、そして穏やかに流れ来る数多の灯は、黒々とねる川面をその光で満たしていく。
燈野川はその姿を変えようとしていた。
織り姫と彦星が一年の時を経て夜空で巡り会うこの夜に、燈野は幾千もの燈籠と共に大地に光溢るる大河を作り出す。
人の営みを忘れるほどの静寂と暗闇と輝きの中。燈野を横断する橋の上で、二人は手を握りあっていた。
目の前を流れる圧倒的な自然の芸術に呑まれてしまいそうで、無意識に、互いの手を握りあっていた。
気付けばもう、燈籠の群れは大橋を越え、視界に入る燈野の川面、その全てを埋め尽くそうとしている。
「……郁美」
聞き逃してしまいそうなほどに、小さくて力のある声で、修哉は言った。
「……」
郁美は何も言わなかった。何も言えなかった。数秒とも永遠とも感じられる沈黙の時を、山林のざわめきがとりつなぐように小玉する。
「ずっと前から、郁美を見てた。郁美のことが好きだった、だから……」
言葉を紡ぐことが、こんなにも難しいのかと修哉は焦った。でももう止まろうとは思わなかった。
「これからもずっと、郁美の側で、郁美の隣で……」
握る拳が強くなる。胸を打つ鼓動が早くなる。咄嗟に修哉は郁美を見た。郁美も同じように修哉を見ていた。自分を見つめる瞳に修哉は思考が吹き飛びそうになる。
そして、込めるように言う。
「これからもずっと、郁美の隣で、郁美のことを好きでいさせてほしい」
初夏の夜を涼んだ風が駆け抜ける。それは二人を包み、その思いを、その意識を、遥かなる天へと舞い上げる。
永遠の静寂と深遠の漆黒。その中で、大地に象られた天の川の灯が、巡り会った二人の掌をいつまでも、いつまでも繋ぎ留めていた。
二人の夏は、まだ始まったばかりだ。
Fin.