Scene.2
次の日、修哉は午前中に土曜練習を終えて、早々と家に帰った。簡単な昼食を取った後は何をするでもなくだらだらと無為に午後を過ごすと、五時にはジャージ姿で外に出た。
両親が共働きの朝倉家は、日中家に修哉以外の人間がいることはほとんどない。用心の為に鍵をかけて、扉の前でシューズを履くと、一目散に階段を駆け降りた。肌に纏わり付くジリジリとした空気が、やけに欝陶しかった。
マンションを出て空を見上げると、そこには昨日と同じ大きな入道雲が浮かんでいた。朱く色付いた雲は、微妙に形を変えながら流れ、どこか悲しげに、周囲の夕空に輪郭が溶け込んでいる。
燈野川には昨日を超える多くの人の姿があった。
修哉は速度を緩めながら大橋の方へ走っていく。スポーツに精を出す人は少年から老人まで多様で、買い物帰りの婦人やちらほらと補修帰りの学生まで見える。
修哉は土手の斜面を、誰かを探すように注意して見ていった。すると、遊歩道から河川敷へ下りる階段に郁美を見つけた。今日は長い髪を束ねていなくて、そのまま下ろしている。側にはもちろんカムナの姿も見える。
修哉は内心で安堵すると、近寄って声をかけようとした。
そして、立ち止まった。
突然に、唐突に、言葉がでなくなった。 額を冷や汗が流れ出す。
何と言って呼べばいいだろう、何と言って会話を続ければ良いだろう。自分との会話ではきっと郁美は笑ってくれない。
芽生えた不安は、直ぐさま修哉の心を覆ってしまう。大きくなる不安に、身震いがした。
結局自分は奥手だ。祐樹の様な人間が側にいなければ女性に話し掛けることすら出来ないのだ。
遠目で郁美を見るだけで、結局何も出来ていない、何も伝えようとしていない。なんて都合のいい、無責任な思いだろうか。郁美を思って勇気を出す事もできないのだ。祐樹なら出さなくても良いような勇気でさえも。
自己嫌悪に苛んで、この場所からいなくなりたいと思った。二人の間を埋める大きくて見えないこの距離を、修哉には飛び越えることが出来なかった。
修哉は前へ向き直り、駆け出そうと足に力を入れる。
そのときだった。
「朝倉君!」
唐突に自分を呼ぶ声に驚いて、修哉は後ろを振り返る。
「こっちこっちー」
そこには笑顔で修哉を呼ぶ郁美がいた。突然の出来事に状況が掴めない修哉は、どうしていいか分からず、呼ばれるままに郁美に近寄った。
「今日も会うなんて奇遇だね」
「あ………、そうだな」
しどろもどろ話す修哉を気にもかけずに、郁美は笑顔を崩さなかった。リードに繋がれたカムナが、訝しげに修哉の臭いを嗅いでいる。
「毎日ここで走ってるの?」
「……ああ。土日だけだけどな、いつもはもうちょっと遅い」
「ふーん、そうなんだ。自主練だなんて偉いね」
「そうか? 皆やってたりしてるけど……」
修哉は郁美の隣に少し距離を開けて座った。眼前に夕日に輝く燈野川の川面がある。
「そうなんだ……、皆偉いなー。 朝倉君はテニス部だよね?」
「ああ、それな。高校入ってから陸上だよ。テニス部入ろうとしてたけど、同好会みたいなレベルでさ、祐樹が嫌だ、ってな」
「そっか、昨日ラケット持ってなかったから、変だなーとは思ってたんだけど、そういう理由だったんだ」
目の前でカムナが尻尾を振りながら右往左往していた。野球ボールが飛ぶたびにそれを追い掛けようとし、小さな子供の甲高い声に敏感に反応している。
修哉は二の句が継げなくて、必死に言葉を選んでいた。相手が喋ってくれれば話すことが出来るのに、自分から話題を振ることが出来ない。
近づいて来たカムナを柔らかく撫でながら、修哉はようやく口を開いた。
「山田はしないのか? そういう、運動とか」
「……うん。私体弱いんだ。小さい頃から喘息もちでさ、中学からずっと美術部でーす」
郁美は微笑む。純粋で悪意を見出だせない、無垢な笑顔。
修哉は何てことを聞いてしまったんだろうと酷く後悔した。郁美が病弱だということは知らなかったけれど、何か体が弱いことで嫌な思い出があるのかも知れない、郁美の笑顔を見るとそんな気がしてならなかった。
「……ごめん、悪かった。そんなこと聞いてさ」
「え? 何で朝倉君が謝るの?」
郁美は怪訝な顔で修哉を見る。
何をやっているのだろう、そう修哉は自分を侮蔑した。自分が謝れば一層場が悪くなるのに、謝らなければならない状況を作りだしてしまっている。
そろそろ帰ってしまおうか。弱気な自分にはこのいたたまれない空気をやり切る自信がなかった。
ふと、南から勢いのある風が吹く。七月の温かい風は、川面を走り、土手を駆け登り、彼女の長い黒髪をさっと撫でる。
修哉の思考はそこまでで止まった。
視線が郁美に固定されて、逸らすことが出来なかった。きらびやかに舞い踊る郁美の長髪は、どこまでも麗しくて、どこまでも輝いていて、そして美しかった。
心臓が早鐘を打つ。恍惚としてぼやけた視界をどくん、どくん、と打ち付けるように。
「カムナ、待って!」
自失した意識を押し戻したのは悲鳴にも似た郁美の叫び声だった。
反射的に上を見上げると不安に顔を青ざめた郁美がいた。目を瞠り、視線は怖れに凍り付いて、今にも泣き出しそうに表情を歪めている。傍にいるはずの仔犬の姿はなく、郁美の手に赤いリードだけが握られている。
カムナは、堤防の道を、風に流されるブルーの風船を追いかけ疾走していた。カムナの進む先には、車が激しく往来する燈野大橋が在る。
郁美は鬼気迫る状況に病弱な体を厭うことなく、カムナを追い掛け始めた。
走る郁美。動かない修哉。遠ざかるカムナ。広がる互いの距離。流れ去る状況が修哉の心臓を思い切り叩いた。驚きや不安や焦燥や緊張が、激しい衝動となって心臓を突き上げる。
悔しかった。今まで幾度となく卑下を繰り返してきた自分が。
情けなかった。今、この状況を見逃そうとしていた自分が。
恐ろしかった。動き出すことに躊躇っている自分が居ることが。
でも、今は思う。
郁美の為に悩む必要も、理由も、時間も、自分には無いんだと。
修哉は覚悟を決め、猛然と走り出す。
すぐさま郁美を追い越して、前を走る白い仔犬を遮二無二追い掛けた。
息を絶やして立ち止まる郁美。河川敷で練習していた野球少年達。風船を手放してしまった子供とその母親。彼らに見つめられながら、それを意に介さず、修哉はただただ走った。
仮にも相手は人間より足の早い犬だ。かといって修哉に負ける気はない。進む足に、振るう腕に、渾身の力をかけ、カムナへと突き進む。
しかし、どれだけ走ろうともその差は縮まろうとしない。修哉は引き離されないようにするのがやっとで、距離を重ねればそれだけ疲労に速度が落ちていく。そんな修哉をよそに、無情にもブルーの風船は流れていく。
二人の距離はおよそ20m。大橋との交差点とは100mを切っている。カムナが交差点へ突っ込めば、間違いなく無傷では済まないだろう。助かるには風が止むか、カムナが止まるか、修哉が捕まえるか、三つに一つ。
しかし、50mを切ってしまったこの距離では、風が止もうとさして意味は無いだろう。惰力で風船は流れるだろうし、カムナが急に止まるとも考えにくい。もうすでにカムナの安全は修哉の足にかかっているのだ。
「……くそっ」
そう悪態をつくほどに、修哉は切羽詰まっていた。100m以上を全力で走った足に余力は無く、明らかに速度は落ちている。止まれ、止まれ。カムナに向かってそう心の中で思えば思うほど最悪の結果が脳裏をよぎる。
修哉の視界に大橋を行き交う鉄塊の群れが映った。今止まらなければ、自分も巻き込まれる事になる。あれだけ走り込み、あれだけ鍛えた足でさえ、一つの命を救うには足りないのだ。もちろん、そのために鍛えたわけではない、でも、今となっては、その努力さえも無意味な物に思えてくる。
もう駄目だ。そう諦めようとしたとき、
「カムナ!!!」
再び、今度はより大きな声で、背後から郁美の声が聞こえた。
その声に反応してカムナが後ろを振り向いた。途端にスピードがガクンと落ちる。
今だ、と思った。今しかない、と思った。
修哉は最後の力を捻り出し、カムナへと飛び込んだ。
「本当にごめんなさい……!」
郁美は、大橋の手前で何度も何度も修哉に頭を下げていた。その腕に激しく息を吐くカムナを抱えている。舌を出したその顔は、あまり悪びれていないように見えた。
「もう大丈夫だから、そんな謝らないでくれ」
「でも……」
郁美は泣きそうな目で修哉を見る。それもそのはずで、修哉の着ていたシャツは無惨にも破れ、そこから覗く肌にはいくつか擦過傷が見えていた。
「大丈夫だって言ってるだろ? シャツなんてまだまだたくさんあるし、部活なんかやってるとかすり傷なんて日常茶飯事だ」
修哉にとっては人生初のダイビングキャッチがあんなに上手く決まった事の方が重大だった。カムナを抱えて胴体から着地したときには、頭が一つ車道に出ていた。後数十センチ飛び込むのが遅かったら、修哉もカムナも擦過傷では済まない。
「そうだけど……、ごめんなさい!」
また郁美は頭を下げる。謝罪以外の言葉を知らないのかこの娘は。修哉はどうすればいいのかわからず、困惑顔で郁美を見ていた。
「お前が謝る事無いだろ、強いていうなら、悪いのはあの親子……あれ」
そう言って修哉は辺りを探す。人の数はそれほど変わっていないが、風船を手放してしまった親子の姿はどこにも見えない。
「まあ。とにかく郁美のせいじゃないんだから、そんな謝んな」
気付かずに郁美と呼んでいた事に、自分の事ながら驚いて、修哉は一層困惑した。
郁美は思案顔で下を向いていると、突然合点したように修哉を見上げた。
「そうだ! 私の家に来て!」
「……は?」
修哉は郁美の言っている事の意図が掴めず、首を傾げた。
「いくつか出血している所もあるし、何にもせずに帰すのは嫌だから、家に寄って行って欲しいの」
修哉は無意識に周囲を見回した。郁美は今自分と喋ってるんだよな。そんな訳のわからない自問をしていた。相変わらず奥手だと思う。
「……いいよね?」
「……あ、あぁ」
修哉が曖昧に同意すると、郁美の表情は幾分明るくなった。
「ありがとう!」
言って、郁美はカムナを下ろす。今度はしっかりリードを握っている。
「駄目な子なんだから、本当に……!」
郁美はカムナの頭を平手で軽く叩いた。そして立ち上がる。背の高い修哉を見上げると、微笑んだ。
「じゃ、行こっか」
修哉は釈然としないまま、先を歩く郁美に着いていった。
郁美の家は、中学が同じだったのだから当然の話だが、修哉の家から数分の近場にあった。
しかし、修哉の様に集合住宅ではなく一戸建てで、庭も広い和式の家だった。
「広い家だな……」
生まれてこの方一戸建てに住んだことの無い修哉は、広い家や、しっかりした造りの建物に思わず感嘆を漏らした。
「この辺りの家は、殆どが何十年も前に建てられた家ばかりだから、家だけ大きいって所は多いよ。当時はここもかなりの田舎だったらしいし、土地は安かったって」
郁美は門扉を開けて庭に入った。玄関までの十メートル程の道を、修哉を連れてゆっくりと進んでいく。
二人が玄関まで進むと、郁美はすぐ脇にある犬小屋の前でカムナのリードを外した。カムナは一つ身震いをして、皿に注がれた水を飲むと、勢いよく庭を駆け出す。
「どうぞ、上がって」
郁美は玄関の引き戸を開けて修哉を招き入れた。
「お邪魔します……」
畏まりながら玄関に入ると、木材独特の香りが修哉の鼻をくすぐった。風通しが良いのか、部屋の中には涼しい風が吹いている。
「そこの居間で待ってて、消毒薬とか持ってくるよ」
修哉は玄関から上がって、すぐ左の部屋に入った。畳部屋で、部屋の隅に床の間があり、その逆にはテレビが置いてある。部屋の中央には少し大きめちゃぶ台も置いてあった。修哉はちゃぶ台の前であぐらをかくと、不慣れな場所だからか周囲を見回す。
南側の窓からは広い庭が見えた。今は使われてない小さな池や、松や梅の木が植えられている。
「簡単な事しか出来ないけどごめんね」
郁美は救急箱を持って入って来た。それをちゃぶ台の上に置くと、慣れた手つきで蓋を開けて、次々と薬品を取り出した。
「消毒してからガーゼ当てるね、右腕出してくれる?」
「お、おう」
修哉はぎこちなく返事をした後、右腕をちゃぶ台に乗せた。力を入れると刺すような痛みが走り、修哉は気付かれない程度に顔をしかめた。
修哉自信はたいしたことないと言っていたが、その怪我は擦過傷の中でも重度と呼んでいい物だった。飛びながらカムナを抱えた後、頭からの落下を避ける為に、左に体を回転させたため、右腕から背中辺りまでの範囲の広い傷になってしまっている。また、着ていた服が薄手の半袖Tシャツだったことも怪我の悪化を手伝っていた。
「本当にごめんね……」
郁美は伏し目がちに言った。
「何度も謝るなよ。郁美だけが悪い訳じゃないんだから」
「でも……でもね………ごめん。やっぱりそれしか言えないや」
郁美の声は、涙声に聞こえるほど弱々しい物になっていた。修哉は、どうして気の利いた事が言えないのだろうと、一層自分を蔑んだ。
「じゃあ、じゃあさ……」
修哉が必死に言葉を選びながら、ゆっくりと言う。
「ありがとうって言ってみろよ」
「……え?」
郁美が手を止めた、大きな瞳でほうけたように修哉を見上げる。
「だから、謝ってばかりじゃなくて、ありがとうって感謝もしてみろ。俺はカムナを助けた。その事に何度も謝られても、やっぱりこっちは気分が悪くなっちゃうだろ? それならありがとうって言った方が、俺も助けがいがあったなって、そう思えるだろ」
発した言葉は、自分でも驚くほどに生意気で高慢な、正論だった。
郁美は衝撃を受けたように目を瞠って、すぐに俯いた。涙が出るのを必死に堪えている。そんなそぶりだった。
「お、おい。大丈夫か?」
「……うん。大丈夫だよ。駄目だね私。修哉君に迷惑かけてばっかりだ」
郁美は処置を再開した。消毒薬をピンセットで取って、ぺたぺたと傷口を濡らしていく。そうする腕に力は入っていなくて、時々痛みがないか修哉に尋ねていた。
郁美は処置を終えるとおもむろに立ち上がった。
「替えのシャツ持ってくるね、お父さんが買ったやつで新品があるから」
そう言って畳部屋を出る郁美を、修哉は立ち上がって止める。
「そこまで気使わなくてもいいって」
「使わせてよ」
「いいから大丈夫だって」
「嫌だ」
郁美はそう言って、強行的に押し問答を切り上げると二階へかけ上がった。
まさか嫌とは言われないと思っていた修哉は、郁美の言葉に面食らって、その場に立ち尽くした。その後、一つ溜息をつくとよろよろと畳部屋へ戻る。
ぼうっとしながら外で転げ回るカムナを見ていると、郁美が階段を駆け降りる音がした。
「はい! 修哉くんにピッタリの爽やか夏男Tシャツ!」
振り返った修哉に郁美が手渡したのは、水色地にデカデカと白で『夏男!』と書いてあるTシャツだった。
「これを俺に着せるのか?」
「大丈夫。似合ってるよ」
郁美はいたずらっぽい笑みを浮かべた。それを見て修哉は盛大に溜息を吐いた。
門扉を開けて修哉と郁美が外に出ると、太陽は既に地平線に姿を消していた。履きかけのランニングシューズをちゃんと履くと、修哉は郁美を見た。
「それじゃあな」
「うん。バイバイ」
修哉はゆっくりと歩を進めていく。そうするごとに背中に郁美の視線を感じていた。
「修哉君!」
少し離れた所で郁美が修哉を呼んだ。修哉は立ち止まって郁美の方を振り返る。
「ありがとう!」
満面の笑みで郁美が言った。修哉も自然と笑みが零れる。
「おう!」
そう言って、修哉は今度こそ力強く駆け出した。肌に纏わり付くジリジリとした空気が何故かしら気持ち良かった。