Scene.1
この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは関係ないほか、作中で登場する自治体や行事などすべて架空の物ですのであらかじめご了承ください。
西に傾く太陽が、世界に淡いオレンジ色の陽光を投げかけている。次第に薄く、長くなる幾筋もの影が、東の空、広がり始めた夜の帳へと伸びていた。
吹く風にも、見える景色にも、梅雨時の湿っぽさは無く、真夏を想わせる熱気も有りはしない。世界は人々に安息をもたらすように、つかの間の清々しさに溢れていた。
東西に長い校舎の南側に、開けたグラウンドがある。下校時間が迫るこの時間になると、いくつかの運動部が用具を片付けて、帰り支度を始めていた。
そのグラウンドの北側、東西に真っ直ぐ伸びる100m走用コースに数人の人影があった。
スタートライン上にいる二人の男子は、手足を伸ばすように軽く跳びはねた後、おもむろに位置についた。二人の脇には、もう一人小柄な男子がいて、ゴールライン脇にいる女子生徒となにやらアイコンタクトを取っている。
小柄な男子は、女子に向かって大きく一つ頷くと、スタートラインへ向き直った。
「位置について……。 用意……」
その呟きに、すかさず二人は腰をあげる。今にも飛び出してしまいそうな程につま先に力を入れて、耳を可能な限りそば立てた。
準備が整ったことを確認した小柄な男子は、一際大きく息を吸い込むと、
「どん!!」
思い切り声を張り上げた。
犬崎市立第一高等学校は、犬崎市の西側、ただただ家屋が立ち並ぶ住宅地の中にある。
県内でも有数の生徒数と進学実績を誇り、開校当初から現在まで続く男子校としてその名が知られる高校は、生徒はもとより市民からも一高という愛称で親しまれている。
そんな一高も、ようやく学期末テストが終わり、三年生は受験に向けて本腰を入れ始め、一・二年生は運動部も文化部も夏の大会や展覧会のために最終調整に入っていた。
そんな中、男子陸上競技部も例に漏れず、夏休み初日から始まる地区予選へ向け、練習にも熱が入っていた。
50m付近まで並んでいた二人は、そこからじわじわと差がつき、ゴールから見て左側の男子が体一つ前に出ていた。
体一つの差は少しずつ広がり、二人は疲労に顔を歪めていく。落ちそうになるスピードを懸命に維持して、それでも落ちるスピードに焦りを感じずにはいられなかった。
近づくゴールラインに微かな望みをかけると、二人は最後のスパートをかけた。
結局二人は、前のめりに倒れるような形でゴールした。
「ハァ……。 ハァ……。 やっぱ……、短距離選手に……、勝とうってのが無理な話か……、なあ修哉」
あお向けに倒れ、ぜえぜえと息を吐きながら遅れてゴールした男子が言った。修哉と呼ばれた男子も、その脇で同じようにあお向けになり、盛んに息を喘いでいる。
「馬鹿言え、祐樹。負けたら負けたでまずいんだよ。レギュラーかかってんだ」
修哉は肘をついて上体を起こした。祐樹は苦い笑いを浮かべて修哉を見る。
「それも……、そうだな」
そう言って祐樹は立ち上がった。ゴール脇にいた女子――マネージャーに近寄って、彼女の持っていたストップウォッチを覗いた。
「タイムは?」
「11.6と12.5だよ」
「そんなに差があんのか!? 約一秒じゃねえか……」
予想外の結果に祐樹は肩を落としてうなだれた。くやしそうに眉をひそめる。
「高校入りたての頃はそんなに変わらなかったのにな」
「まあ、朝倉君は短距離選手だからね、当たり前と言えば当たり前だよ」
「そうだけど……。 おい修哉、聞いたか?」
祐樹は修哉を振り返った。しかし修哉は座ったまま、ぼんやりと遠くを見つめている。
「どうした……?」
物憂げな修哉の表情に祐樹は怪訝そうに聞いた。
「あ? あぁ……、聞いた聞いた、タイム落ちたわ」
「落ちたって前何秒だよ、これ以上速かったら俺泣くぞ」
「盛大に泣いてろ、11.0だ」
「うそー!! お前がそんな速いわけ――」
「おい!! テメーら何やってんだ!! さっさと片付けて着替えろ!!」
祐樹の嘆声を遮って聞こえたのは、陸上部の部長、三年生の怒声だった。
「やべ……。霧島先輩怒らしたらメンドイぞ、急げ修哉」
祐樹は駆け足で部室へと向かう。修哉もそれを追いかけて走り出した。
下校時刻を告げるドボルザークの『家路』が、校舎屋上のスピーカーから流れ出した頃には、修哉と祐樹は校門を出て、燈野大橋へ向けて長い坂をのんびりと歩いていた。
「そういやあそろそろ燈野祭りだな」
祐樹が、電柱に張られた祭りの広告を見て言った。
「そうだな……」
「今年は誰と行こうかねー、去年は中学のやつらと行ったけど、一年もするとメールもしにくくなるしなあ」
「陸上部で行かないのか?」
「駄目駄目。 陸上部のメンツはノリが悪い。 行っても面白くない」
「間違いないな。 確かに面白くなさそうだ」
燈野祭りは、犬崎市を流れる燈野川で開催される七夕祭りの事で、毎年七月の第一土曜日と日曜日を使って全国から約50万人もの観光客が訪れる県内屈指の巨大イベントだ。祭りのメインイベントは灯篭流しで、川面を埋め尽くす数万の灯篭が闇夜に作り出す光と水の幻想は、見る者を感動させて止まない。これを見るためだけに祭りに来ても損はしない、小さい頃から祭りに参加している修哉はそう思っている。
修哉と祐樹は、燈野川に掛かる橋では最大の、燈野大橋へ差し掛かった。車道をひっきりなしに流れる車に少々嫌気が刺しながらも街の東側を目指す。
人口20万人を有する中都市犬崎は、住宅の立ち並ぶ西側と、繁華街として栄えている東側を、北から南へ流れる燈野川で大きく二分している。二人は東側のマンションに長く住んでおり、中学までは東側で育った。高校進学を機に西側へ行くことになったが、それほど大きい町でもないので、新鮮味というのはあまり感じられなかった。
ただ、男子校ということもあって色恋沙汰なんて物は中学の時より一層減った。修哉にとってはそんな男子校のリスクも、元々が女子に好かれる性格でも無いので気にならなかったが、自分の隣を歩くこの遊び人にとっては重大な事らしく、度々愚痴を聞かされていた。
そんな背景があるのか無いのか、燈野祭は一高生にとって、恋愛を見付けるためにも成就させるためにも、必ず通らなければならない、そして最も大きなポイントらしい。
「修哉ー、可愛い娘知らない?」
制服のポケットから携帯を取り出して、忙しくメールを打ち始めた祐樹が言った。
「俺が知ってると思うのか?」
「いやー、いつもはクールな朝倉君も裏では数多の女性を掌で……」
「やめろやめろ、それ以上言うな」
祐樹の発言を遮る。祐樹はさも面白そうな笑みを浮かべた。
「あれ恥ずかしいの?」
「馬鹿言え」
「そうか恥ずかしいのかー」
「阿保言え」
「大丈夫だ、君ならきっと出来る」
「何が出来るんだ、川底に突き落とされたいか」
「ひどー、俺がカナヅチなの知ってるだろ?」
「いや、だから突き落とすんだろ? 待ってろ今ここで積年の恨みを晴らし、お前を藻屑に……!!」
「ごめんなさーい、許してー」
二人の笑い声が夕暮れに響く。空に登る入道雲が、夕日を浴びてどこか淋しげに輝いていた。
二人は大橋を過ぎて、堤防を北上する。燈野川の堤防は上下二段に分けられていて、上段には自動車が往来する一般道がある。その一つ内側の下段には遊歩道が設けられていた。
河川敷で汗を流す少年や、買い物帰りの親子、ジョギングする男性。なんでもない人々の営みが確かにそこには在って、二人もそれに溶け込んでいる。なんとなく幸せでなんとなく充足した時間。
「あれ……? 修哉、あそこにいる人って……」
不意に呟いた祐樹の視線を目で追う。すると、堤防の土手に体操座りで座る女子が見えた。
「……山田郁美さん?」
「だよな……」
中学の時の同級生だった。長い黒髪を一つに束ねて右肩から下ろしているけれど、その後ろ姿に修哉は見覚えがあった。
「へぇー、久しぶりだな。 結構可愛くなったじゃん」
「女子に会うたびにそういう目で見るな」
「すいませーん。でも本音だぞ」
「わかってるって」
それを聞いた祐樹は酷く驚いたように目を瞠った。相変わらずの喜怒哀楽の激しさで、修哉は内心でうんざりした。絡みづらいとはこの事を言うのかもしれない。
「わかってるだって……? 修哉さん……、あなた、もしかして女性に対して可愛いと思う感情があったんすか?!」
「ばっ! 俺を宇宙人か何かと思ってんのかお前は、一応これでも人の子だ」
「えー、イメージが……、崩壊だ」
「何で一言言っただけで崩壊するんだ」
そういう間にも、互いの距離は縮んでいく。話し掛けるべきかそうじゃないのか修哉が逡巡していると、祐樹が先手を打って声を上げた。
「おーい、山田さーん」
周囲の人がその大声に振り向いた。修哉にしてみれば、これだけでも目を背けたくなるのだが、祐樹は気にもかけていない。祐樹のその明けっ広げな性格に若干の羨望を感じつつ、修哉は郁美を見た。
「……?」
当の郁美は不安げに周りをキョロキョロと見回している。やがて修哉達を見つけると、途端に笑顔に変わった。
「あっ! 朝倉君に渡辺君!」
立ち上がった郁美は急ぎ足で近づいてくる。右手に赤いリードを持っていて、散歩に来ていたのだろうか、その先には仔犬が繋がれていた。
「久しぶりー。 毎日散歩で使ってるの?」
一年振りだと言うのに祐樹は臆さず話しだす。修哉には傍から見ていることしか出来なかった。
「うん。今日はちょっと部活が長引いたから、こんな時間かな、そういえば土日ももうちょっと早いな」
「へー、そっか、どうりで今まで気付かなかった訳だ……」
祐樹は納得したようにそう言うと、しゃがみ、リードに繋がれていた仔犬に寄り添った。
「こいつ。名前なんていうの?」
「カムナ。去年から飼い始めたんだ。メスだよ」
「メスか、それにしては元気なやつだなー」
祐樹が体を撫で始めると、余程嬉しかったのか、カムナが飛び付いた。
「はははっ、やめろやめろ、舐めんなー!!」
それを見て、郁美が少しだけ笑った。
脇で傍観している修哉は、なかなか話しが切り出せなくて、祐樹を見ている郁美の横顔にチラチラと目を送っていた。整った面長の顔は、中学の時の清楚さをそのままに、随分大人っぽくなっていた。
修哉は言葉を選び続けて、二人の間には長い沈黙が流れている。堪らなくなった修哉は視線を逸らしながらどうにか口を開いた。
「二高、だよな……」
郁美が聞いていてくれて良かった。そう思うほどに小さな声だった。
「うん」
「どうだ? 高校の雰囲気は」
「共学になってまだ日が浅いからね。女子ばっかで楽しいよ」
「そうか」
二高というのは、犬崎市立第二高校のことだ。三年前まで女子校だった二高は一高ほどでないにしろ進学校で、犬崎市の東側、周りを高層建築に囲まれた市街地にある。犬崎に二つだけある市立高校で、女子校だった経緯から、一高と一緒に恋人高なんて呼ぶ人もいる。
「朝倉くんはどう?」
「どうだろうな、まあ、あのうるさい奴がいるから退屈はしてないな」
郁美は軽く吹き出して破顔した。華奢な肩が小刻みに揺れる。
「学校での光景が目に浮かぶよ。 中学の頃から仲良かったもんね」
「まあ、腐れ縁って奴だ、時々なんでこいつと仲良いんだろうと思う」
当の祐樹は、顔やら手やらを舐められながら、カムナとじゃれあっている。人間を含めて基本的に生き物の好きな祐樹の事だ、相当楽しいのだろう。
「そうかなあ……。十分親友みたいに見え――」
「うぉっ!! ちょい待ち!! 落ちる落ちる!!」
郁美が言い切ろうとした所で、カムナが祐樹を前足で押し倒した。祐樹の頭が土手へ飛び出した。
「こら!! カムナ止めなさい!!」
すかさず郁美がリードを引っ張った。リードが首に食い込んで、カムナが奇妙な声を上げる。
「ごめん。大丈夫?」
郁美が心配そうに祐樹へ声をかけた。
「大丈夫大丈夫、ちょっと倒れただけ」
制服に付いた砂埃を払うと、祐樹は立ち上がった。携帯の時計を確認するとぐるりと周囲を見渡す。
気付けば太陽は地平線に沈みかけていた。東の空は一層暗くなり、うっすらと星がみえはじめている。
「そろそろ行くか、修哉」
「おう」
「じゃあね山田さん」
「うん。 じゃあね」
荷物を持ち直して、祐樹は歩きだした。
「……それじゃあな」
「バイバイ」
修哉も祐樹を追い掛け歩きだす。二人が少し離れると、郁美も反対方向へカムナと一緒に歩きだした。
結局二人がマンションに帰ったのは陽も沈み切った8時前の事だった
「やっぱまだ郁美の事好きなのか?」
マンションの階段を昇りながら、ふと祐樹が尋ねた。
「おいおい、えらく唐突だな。 いつ俺がそんなこと言った?」
コンクリート張りの階段は、冷めた夜風に当てられて、鍾乳洞の様に涼しかった。スニーカーが階段を叩く音だけが、不思議と大きく聞こえる。
「中学の時からバレバレだったぞ、修哉。 ずっと超が付くほど奥手だと思ってたのに。 お前山田さんの前になると途端に顔が赤くなるもんな」
「……」
「まあ、何でも聞くぞ」
「あぁ……じゃあな」
修哉より下の階に住む祐樹と踊り場で別れると、修哉はとぼとぼと階段を登り始めた。
こういう重い話になると、囃し立てずにしっかり話してくれるのは友人として誇れる部分だと修哉は思う。でも、それ故に辛かった。早く教えて欲しかったと言われている気がして。やっぱり、それだけ自分は頼りないのだろうか。手伝ってあげなければと思われてしまうのだろうか。
「ただいまー」
緑色の鉄扉を開けて中に入る。無意識に発した帰宅の挨拶には、重苦しいため息が混じっていた。
「お帰り、ご飯出来てるから冷めないうちに食べちゃいなよ」
キッチンから顔を出した母が言った。しかし覇気の無い修哉の顔を見て途端に閉口する。
「わかった。ちょっと荷物置いてくる」
言って、自分の部屋へ入る。ドアをきつく閉め、荷物を放り投げた。おそらく母に整えられただろうベッドへのそのそと近付いて、身をなげうつように倒れた。
泥になったように、体がベッドに沈み込むのを感じた。疲労という疲労が下腹部から重力にしたがって抜け落ちていく。
数秒の間そうしていると、修哉はおもむろに寝返りをうった。
窓から夜風が流れている。遥か空の先には無数の星々が煌々と瞬いている。
中学の修学旅行で東京に行った時、ホテルの窓から眺めた夜空に、恐ろしいほど星がなくて拍子抜けした覚えがある。ここも田舎とは呼べないけれど、市の西側にはまだまだ多くの自然が残っていて、修哉も何度か天体観測にいったことがある。
ふと修哉は、中学の時三年間郁美と同じクラスだったことを思い出した。三年の時は祐樹とも同じで、修学旅行の東京散策でも一緒に行動していた。
意外に一緒にいることが多いのに、少しも近くなった気がしない。二人の距離は燈野川の両岸のように平行で、この思いは交えぬままだ。
もう一度、今度はしっかりと夜空を見上げた。一面の星空に、帯のように一際明るい部分がある。一年に一度だけ、永遠の愛を誓った男女が、その激流を越えて会うことを許される。伝説の大河。
彼らはまた今年も巡り会うのだろう。そして人はその虚構の物語に美しいだとか感動的だとか、ありきたりな形容を付け加えて、思いを馳せるのだ。
結局虚構は虚構のままで、現実になりはしない。修哉は一つため息をつくと立ち上がり、扉へと近寄った。薄明かりの中、修哉の背中は、闇に溶け込むほどに暗い影を落としていた。