喧嘩を売る
「おい!何時だと思ってんだ。もう朝だぞ。とっとと起きて飯食え!」
「…………………………」
次の日の朝、母親から起こされた俺は布団から出ることが出来なかった。
昨日の晩、帰宅してすぐにベッドに潜り込んだ。心と頭をすさまじく疲弊していたし、何かを考えようとするのすら面倒くさかった。
そして朝、残念なことに疲れそのものは回復してしまっている。疲れているから考えることができない、という言い訳をすることが出来ない。たっぷり睡眠をとったおかげだろう、覚醒しきってしまっている。
「…………今日は休む」
扉を開けてベッドの前で仁王立ちをしている母親にそう伝える。
「風邪でもひいたの?」
「いや」
「お腹でも痛いの?」
「いたくないけど」
「まさか……学校でいじめられてるとか」
「んなわけないだろ、いいから部屋からでてけよ」
瞬間仰向けに寝ていた背中に強い衝撃を受けた。
「ゲェッ」
そんな蛙をつぶしたような音を出しながら、ベッドから転げおちた。
「っ!何すんだよ!」
うちの母親は身長が145センチ程度しかなく、俺と二人で歩いていると、兄妹と間違われることもあるくらい若い見た目、少女のような容貌をしているのだが、そんな容姿とは裏腹にムチャクチャ身体能力、特に腕の力が強い。
腕相撲ではもちろん勝ったことはないし、純粋な肉体闘争、いわゆる喧嘩でも一度だって勝った事がない。
「あんた!そんな中途半端な理由で学校を休めると思ってるの!」
目の前で腕組みをしている母親は、一見まるで掃除をさぼろうとしている同級生に相対する女子小学生のようであったが、その迫力はまるで屈強な格闘家のようであった。
「うるせーな。行くよ。行きゃあいいんだろ」
そんな風に文句を言いながら立ち上がる。母親はそんな俺に対し
「全くこの子は……。二年生になってから急に髪も染めちゃうし、反抗的になったし…
あんた!反抗期なんて今時ダサいのよ!流行んないわよ!」
と言ってきた。
いいかげん寝起きにそんな風に言われるとイライラしてくる。イライラしても直接的な戦闘力では圧倒的な差があるので、何をどうすることも出来ない。
「うるさいよ。行くからいいだろ。飯くうよ、飯」
母親を押しのけて部屋から出ようとすると
「そういえばあんた、一之瀬さんって知ってる?」
心臓が、どきりとした。
できるだけ無表情、無反応を繕ったが、それを気付かれたかどうかは分からない。
「名前くらいなら知ってるけど」
数少ない友人の一人、とは言わない。
当然昨日のことも言わない。というかそもそもそんなに母親に対していろいろなことを相談したりするタイプではない。
「なんでそんなこと聞いてくるの?」
「弓子から聞いたのよ。その子、援助交際で補導されたんでしょ」
弓子というのは俺の妹の名前である。学年は一つ下であり、身長は母親と比べてかなり大きめである。スタイルがいい、とも言える。
うちの学校のような進学校において、援助交際の容疑がかかるというだけでも相当めずらしい、しかもそれをやっていたのが、あの一之瀬なのだからそれはそれはセンセーショナルなニュースとして学内に知れ渡っているのだろう。
当然、妹だって知っているだろうし、アイツはとんでもなく口の軽い人間なので当たり前のように母親へと伝えたのだろう。
「あんた童貞捨てたいからって援助交際なんて絶対ダメだからね」
「朝イチで親から聞くにはあまりに耐えがたい一言だな…」
「そんなことするぐらいならアタシで捨てさせてあげるから」
「死ね」
「胎内へ帰るだけだから安心しなさい」
「やっぱ俺が死ぬ」
椅子に座り置かれた朝食を平らげると、俺はすぐに学校へと出発した。すぐに出発はしたのだが、その足は重く、学校に着く頃にはいつもとそんなに変わらない時間になってしまっていた。
校門も前には御手洗が立っていたが、いつもと違いなんら障害なく、スムーズに横を抜けた。「おはよう」と言われ「おはようございます」と返しただけだ。
教室へと着いたが一之瀬はそこにいなかった。いつもならば俺よりも確実に早く登校しているはずなのに。
そしてそのことにざわつくクラスの人間たちを横目に見ながら席についてしばらくすると、御手洗が入ってきた。
簡単なホームルームを終えると、すぐに教室から出て行った。一之瀬がいないことに触れなかったところをみると、きっと連絡は入っていたのだろう。
そうやって一之瀬がいないまま午前の授業を終え、昼休みを迎えた俺が購買で買ったパンをいつもの場所で食べようと歩いていると、部室棟の横で一之瀬の声を聞こえてくる。
「…アイツ教室には来なかったのに部活の練習はするのかよ」
聞こえた瞬間はっとして、そんな悪態も口をついたが、少し笑ってしまった。
アイツは学校に来ている。
教室でクラスの人間たちの衆目に対するのはもしかしたらキツイのかもしれないが、しかしそれでも部活の練習をするぐらいの元気はある。まぁ、もともと学校での立場が少し変わったりしたぐらいでへこんだり、元気がなくなってしまうような人間だとは思えない。
部室の前へ行き、昨日のように窓からこっそりと部室内を覗く。
中で見たものは。
中で見てしまったものは。
土下座し、号泣しながら許しを乞う、普段とはまるで違う姿の一之瀬だった。
俺が部室棟の前で聞いたのは、練習によって出された声ではなく、一之瀬が咽び泣きながら許しを乞う際に出されたものだった。
「ごめんなさい!
ごめんなさい!
ごめんなさい!
本当に申し訳ありません!
すべての不注意はわたしにあるんです。
おねがいします。なんでもしますから」
そして最後にこう言った。
「私を捨てないでください」
きっとその男は一之瀬にとって大切な男なのだろう。
俺は恥ずかしくなっていた。
心のどこかで、一之瀬は俺に気があると思っていたのかもしれない。
ほとんど友人のいない俺に、理由は分からなかったが声をかけてくれた。話してくれた。
朝、登校してからホームルームまでの時間、二人で、なんとない雑談をするのが日課となった。そしてそれは、俺にとって大切な時間となり、なぜ俺とこんな風に話すのかということを考えるようになった。
俺はその疑問に対して、もしかしたら一之瀬は俺に好意があるんじゃないかと考えるようになったのかもしれない。無意識だとしても。だから、この光景にたいし、自分でも驚くぐらいショックを受けているのかもしれない。
それを聞いていた相手の男は、ぴくりとも動かずに一之瀬を見下したまま。
そして俺も、動かない。
一之瀬は土下座から形を変えると、その男の足もとにすがろうと手をのばす。それに対する男の対応は、非情だった。
一之瀬の手首を掴んで壁に対して、投げつけた。
ばしん。とすごい音がする。一之瀬は痛みのせいだろうか。声も出さない。出せない。
「おまえ、何やってんだよ」
俺が何を考えて声をかけたのか、それは分からない。熱いものを触ったときに、反射で腕をひっこめるように、光を鏡に当てると、即座に反射するように。
反射だった。ただ、好きだと気付いた女の子がキズつけたれたことに対し、反射的に声をだしていた。
一之瀬にとって俺はなんでもないかもしれないが、俺にとってはなんでもある。
そしてその男が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「君は………」
低い声だった。低くて迫力のある声だった。
その声に対して俺は、一瞬身体が固くなる。
しかし固くはなったが、声が出ないわけじゃなかった。
「だから、何やってるんだって聞いてんだよ」
何やっていたかなんて、わかりきっていた。
わかりきっていたけど、聞かずにはいられない。
「何って……見てわかりませんか」
「……わかるからムカついてるんだよ。そんな風にむりやり壁に打ち付けるのが、練習かよ!」
その時、倒れたまま動きの無かった一之瀬が動いた。「片山くん……やめなさい」
まだ、起き上がることは出来ないのだろうが顔だけをあげて俺に目を合わせる。その目にはいつもの力強さも正しさもない。俺が昔飼っていた、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルとそっくりだ。
「やめてほしいなら、その男に言えよ。俺は自分の行動が間違っているとは思わない」
窓を飛び越えて道場の中へと入る。外から見るのと中で立つのは違う。板張りの壁も床も固かった。こんな床に叩きつけられたら、そりゃあ痛い。動けなくもなるだろう。
「……何をやめるんですか?彼女は私に許しを乞うてきているんですよ。それをやめろ、というのは彼女の望みの実現をあきらめろと言っているのと同義ですよ。どちら様か知りませんが……あなたは誰の味方のつもりなんですか?」
「俺は……」
俺は一之瀬の味方…といいかけて口ごもってしまった。確かに本当に一之瀬の味方なのだとしたら、事情もよくわかっていないこの状況でいきなり二人の間に入るべきではない。
俺のこの行動によって、一之瀬の考えの邪魔をしている可能性だってある。さっきまでの一之瀬の許しを乞う姿からは、この男にどうしても何かを許されたいであろうことが読み取れた。そして、俺のこの行動はそれを邪魔してしまうかもしれない。だから、本当に一之瀬の事を本当に思うならば、ここで二人の間に割って入るようなことをするべきではないのかもしれない。
だから俺は……一之瀬のことを別に思っているわけではないのだろう。一之瀬のことを思っているわけではなくて一之瀬の味方というわけでもなくて。
「………俺は、誰の味方でもない。俺は、ただ」
「お前がムカつくだけだ」
目の前に立つ、この男がむかつく。目の前にたつ、おそらくは一之瀬と深い関係の、この男がむかつく。俺が思うのは、それだけだった。
「むかつく……なるほど。とても単純明快で、わかりやすい」
ただ、と男は続けた。
「そこからどうするつもりですか?」
目の前の男にむかついてはいるが、じゃあそこからどうするか。それを考えながらも、視界の端では一之瀬が倒れている。俺は考えていたことを言った。
「同じ目にあわせてやる」
「同じ目……それは一之瀬と、ということですか」
「当たり前だ」
「それはつまり、お前を打倒し、這いつくばらせてやる、ということでしょうか」
むかつくから暴力で解決するなんて、とても褒められるものではない。しかし、ある意味不良らしいといえるかもしれない。
「わかりやすく説明してくれて助かるよ」
「いえ……、しかし、それが分かるのと、それが出来るかどうかではとても差異があるのですがそれは理解しているのでしょうか」
目の前にいるこの男がとてつもなく強いことは理解しているし、きっと俺よりも強いことは分かる。分かるが分かるだけだ。目の前の男に、勝てないと理解したわけでは、ない。
「いや、劣等生だからな……。あまり理解してないよ」
そう言うと共に俺は前へと駆け出した。おそらくふつうに戦ったのではこの男には勝てない。しっかり何かをやりこんでいる人間にはやりこんでいない人間が勝つことは難しいこと。それは日常的に繰り広げている母親との闘いで理解している。
しかし、何か武道や格闘技を習得したわけではない俺にとって、右の拳をくり出そうとして、実際には蹴りを出すというような高度な動きが出来るわけがない。右の拳をくりだそうとして、実際に出されるのも、右の拳なのだ。
その右の拳を表情を少しも変えることなく躱した男は、俺のブレザーの襟と袖をつかむと「では、しばらく眠っていてください」と言った。
瞬間、投げられる!と思った俺は伸ばさた右腕で何かを掴んだ。何を掴んだのかはよく分からなかったが、すぐに伸ばしたままでは何も出来ないと考え、腕を戻す。戻そうとした動きの途中で、それは命中した。
俺が掴んでいたのは、木刀だった。この部室は剣道部と合気道部との共用で使われている。剣道部が竹刀ではなく木刀で普段いったいどんな練習をしているのかは知らないが、たまたまそこに置いてあった木刀を俺は掴み、そしてそれは男の後頭部に命中した。
いくら身体を鍛えていようと、いくら強靭な精神があろうと、後頭部を木刀で強打されて平気な人間はきっといない。
事実、男は俺に対してもたれかけるように倒れこんできて、そしてよりかかった。倒れこんできた男の身体から力が抜けていると感じた俺は、一歩後ろへと下がると支えをなくした男の身体は板へと落下した。
これまでに人を殴ったことならば何度もあったがさすがに木刀で殴打したことはなかったので少し心配になったが、倒れた後にも男はわずかに声を出していたので、少し安心して一之瀬の方を見ると、一之瀬も同じように伏せ、倒れていた。
この場において立っている人間が俺だけで、しかも木刀を持っているのだから誰かに見られたら誤解されてしまうな、なんて考えていると後ろから女子生徒の悲鳴、そして男子生徒の「先生呼んで来い!」という声が聞こえた。俺は、どうしていいかわからず、呼ばれた先生達が来るまでその場で立ち尽くしていた。
手に持った木刀を離す事なく。そのままで。