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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

子供から大人へ、大人から子供へ

 産まれた時から世界は絶望に満ちていた。死は約束されたものだった。大人はそれを恐れ、子どもたちに負わせる。だが、子供は声を上げない。知っているから届かないことを、意味が無いことを。諦めた子供はこの世界で日常を送る。



 朝、土の焼けた匂いと焦げた血の匂いでリンスキーは目を覚ました。この匂いで目を覚ましたのは五回目だった。木で作られた窓を開き、大きな欠伸をした。彼の朝はここから始まる。簡単に身なりを整え、階段を降りて一階のリビングに顔を出す。

「おはようございます」

 食事中の男と女にリンスキーは挨拶をした。男はコーヒーを飲みながら借用書を見ていた。女は大きなチキンを口いっぱいに頬張り、リンスキーには見向きもしなかった。それがリンスキーの日常だ。彼は棚にある乾パンと少しの水を手に取り、少しだけ男と女の顔を見て家を出た。

 目の前には大きな橋が、その先には関所がある。彼はその先にある中心街アラムートに向かった。関所の役人に通行手形を見せ、関所を通るとニザール公国の繁栄の全てがあった。最初に目に映るのは巨大な凱旋門。初代ニザール公の栄光を称えるために建てられたこれは、高さ二十メートル、横幅二十五メートル、奥行き七メートルと巨大なものだ。凱旋門は特殊合金で作られており、装飾として歴代ニザール公を称える浮彫が施されている。凱旋門を通り過ぎると、道が三つに分かれる。中央の道は商業区、左右の道は住宅区になる。商業区に入ると、ニザール公国の経済状況が伺える。ほとんどの店が暖簾を下げていた。唯一商業区の出口付近にパン屋が一軒あるだけだった。一本道の商業区を抜けると、行政区に辿り着く。そこには国の中枢があり、その一つに軍学校がある。リンスキーはここに通うことになった。

 三階建ての四角い学校に入ると、軍服を着た女が出迎えていた。

「名前は?」

凛とした声でリンスキーに問う。リンスキーは敬礼し、自分の名前を述べた。

「私は貴方の教育担当のリンマ・イマーム。この道を右に行きなさい、大きな教室があるから。そこが貴方と仲間の教室よ」

 リンマの言うとおり、大きな教室があった。リンスキーはリンマとともに教室に入った。教室の大きさに比べて人数は少なかった。男女合わせて七人、男は三人、女は四人。みんな喋ることなく、姿勢正しく着席していた。リンマが教壇に立つと全員が一斉に立つ。一番前にいる男が大きな声で、

「敬礼」

 ロボットのように全員揃って敬礼した。それを見たリンマは静かな敬礼を返した。そして、

「諸君の新しい仲間が今日、加わる。リンスキー!」

「リンスキーです。出身はゲルドクーフ。よろしくお願いします」

 こうして、リンスキーの軍学校生活が始まった。


 転入生のリンスキーに積極的に話しかけるものはいなかった。ここに子供が来る事は珍しくはなかった。三十年前ならば、騒がれていただろうが戦力低下が著しい現在、地方から人を呼び寄せることは必然となった。さらにリンスキーの出身ゲルドクーフは敵国のシーア共和国にきわめて近い位置にある。一ヶ月前、ゲルドクーフにあった唯一の学校がシーア共和国の餌食となった。生き残ったのはリンスキー一人だった。このことを知らない人間はこの国にはいない。だから、出身を聞いた人間はリンスキーがどういう境遇なのか察することができた。午前はニザール公国についての勉強だった。これも担当のリンマが教科書を用いて説明した。ニザール公国はすべてニザール族で構成されており、建国してからまだ日が浅い。ニザール公国はアトラス大陸で二番目の勢力であるシーア共和国から独立した国だ。独立する前はスンニ帝国を倒すために共に戦っていた。それが、停戦と共に独立運動に変わった。主に動いたのはニザール自治区に住む六十歳以上の男と十代の男女。リンマはこの歴史を教える度に思う。せっかく平和になったというのに、この国は戦争を望んだ。

「なぜニザール公国が独立したか説明しなさい」

 リンマは一番勉強ができるナタリアを指名した。

「先祖代々の土地を取り戻すためです」

ナタリアは落ち着いた声で答えた。

ニザール族がシーア共和国に属する前、この大陸の南部にニザール族が住んでいた。そこにシーア共和国が全民族の団結を名目にニザール領を侵略。占領された後文化と歴史は荒廃していった。その長い歴史の中で、シーア共和国に属することを良しとする声が多くなったが、スンニ帝国とシーア共和国の停戦がニザール族を変えた。シーア共和国に協力させられてスンニ帝国と戦った先祖はなんの為に死んだのか。そう言ってシーア共和国相手に戦争を始めた。

「なあ、次二階に行こう」

「……うん」

 リンスキー前の席にいるワレリーがローザに話しかけた。中心街の学校は他の学校とは違い、教育以外にも二つの目的を有してる。しかし、リンスキーはそれを聞かされてはいなかった。二階に行くことが何を意味するのか、それを考えていると、

「セックスよ」

 リンスキーの隣の席のアナスタシアがリンスキーの疑問に答えた。アナスタシアは白い髪を弄りながらさらに説明する。

「ここに娯楽なんてないから。みんな寮に強制的に泊まってるし。まあ、私みたいに選ばない人もいれば選ぶ人もいるわ。ワレリーとローザは後者」

「教官は?」

「暗黙の了解よ。軍の男が慰安婦を使っていいなら、私達だって許されるわ」

「それって両親が知ったら……」

「ねえ、君の親はまだ生きてる?」

 その言葉でリンスキーはここにいる人間に親がいないことを悟った。ニザール族の性文化は厳格なものだ。男女ともに産まれた時から結婚相手は決まっている。それはシーア共和国に統合される前の名残であった。結婚するまで、性行為や自慰行為といったものは禁止されている。しかし、ここだけは別だ。彼らの好意を咎めるものは誰もいないのだから。

「ごめん」

「いいの、みんなそうだから」


 午前の時間を終えると、昼食の時間になった。リンスキーは持参した乾パンを唾液でふやかしながら食べていると、ふくよかな体型のルスランと片目が潰れたベルナントが声をかけに来た。

「お前、パートナーは決まったのか?」

 ベルナントは小麦粉団子を食べながらリンスキーに聞いた。ルスランも小麦粉団子を食べていたが、彼は水を含ませて腹持ちよくしていた。

「パートナー?」

「聞いてないのか。あの教官も人が悪い。教えてやるよ」

 ベルナントはそう言って、片手を出した。リンスキーは少し考えて乾パンを半分やった。

「みんなここに入る前にパートナーを決められる。アナスタシアが説明したような事を、やらせるためじゃない。娯楽のないこの場所でせめて友人関係を作らせる。リンマ教官が説明する内容だ」

「実際は違うってこと?」

「俺らの文化を考えるとわかるだろ?」

「じゃあ、どうして?」

「戦争をしてるってことは必然的に人口が減る。人間はどうやって増えるか、それを考えれば新入りのリンスキーでもわかるはずだ」

 リンスキーは確認のためにルスランを見た。彼は口に団子を含みながら頷いた。

「パートナーってことは二人一組?」

「最初だけだよ。俺達にだって選ぶ権利はある。男はだいたい、アナスタシアに行く。あいつは選ばないからな。そして、選ばれない女もいる」

「それは?」

 ベルナントは残った乾パンを口に含むと、左側前列にいる黄色の女を見た。女は孤独だった。団子を食べながら、写真を見ていた。

「レイラ。顔はいいが、それだけだ」

 黒みのかかった金髪が特徴的なレイラが見ている写真は、今は亡き父の写真であった。十歳の時、レイラの父は軍人として召集された。三ヶ月は手紙が届いていたが、それ以降届くことはなかった。レイラの母は若く、娘を一人で養えるほどの経済力もなかった。当時慰安婦が不足しており、賃金も良かったためレイラの母はそこに務めた。精神的、肉体的疲労は日々蓄積され、相談する相手も癒やしてくれる相手もいなかった。母親が壊れたのは、レイラが十二歳の時。レイラの母は男を求めるようになった。五人目の男の時にレイラは自らこの軍学校に入った。

「理由は教えてもらえるのかな?」

「百聞は一見に如かずだ。そして忠告、あいつは必ず質問する」

「どんな?」

 リンスキーの質問にベルナントは笑顔で返した。答えてくれそうにないと思ったリンスキーはルスランを見た。

「僕は……少ししか、しゃべったことない、から知らない」

 自信のない声でリンスキーの質問に答えた。ルスランはリンスキーと同じように通っていた学校が潰れてここに来た。彼は自分に自身がなく、大人しい性格なので前の学校ではいじめられていた。だから、彼はあまり喋ることはない。

 リンスキーは写真を見るレイラの前に立つと、

「それは親?」

「そう。今はいないけれど」

「女は爆弾と飢え以外で死なない。母親は?」

 レイラは写真を見ながら応える。

「知らない……」

「友達は?」

「貴方性格悪いって言われたことあるよね」

「うん、自分でも思ってる」

「友達は」

「さっき」

「嘘つきなんだ」

「君は嘘をつかないね。生きづらいよ」

「ええ。ずっと一人だわ。聞いていい? 私みんなに聞いてるの」

「知ってる。親の話ならできない、知らないから」

「知ってる。ねえ、私を一人にしないで」

 そう言ってレイラは顔を上げた。目は青く、デコに大きな傷がある。リンスキーは彼女を顔を見た時、昔遊んだ犬を思い出した。最後は首だけになったが可愛かった、懐かしい記憶を思い出しながらリンスキーはそう思った。黙っているリンスキーを促すようにレイラは、

「できることなら、するわ。複数の男ともヤッた」

 そう言って、レイラはシャツのボタンを上から外していく。程よく実った胸がリンスキーから見えた。レイラはそこで手を止め、リンスキーを見る。それをベルナントは笑いながら見ていた。ベルナントも初めてここに来た時、レイラに誘われた。彼はレイラが可愛いという理由でセックスをしたが、深く関わっていくうちに面倒くさくなってレイラから離れていった。

「見てろルスラン、あいつは首を縦にふる」

「そうかな……」

「お前はどう思う」

「わからない」

 リンスキーの出した答えは、ルスランの予想を外した。

「僕の条件を聞いてくれる?」

 そう言って、二人は教室を出た。

「めったに人が来ないところを知ってる?」

 リンスキーは手頃な場所を探しながらレイラに聞いた。

「三階は人が来ない。二階だけで事足りるから」

「じゃあ、そこで」

階段を登ると、甘酸っぱい臭いが二人の鼻腔をクスずった。決して気分の良いものではなかった。

「換気はしてないの?」

「しても、同じだから」

 二人は急いで三階に向かった。三階は二階と同じように一室だけだった。違うのは、布の仕切りがないのとホコリまみれなところだった。窓を開け空気を入れ替える。二人して窓の外を見ながら、

「条件って?」

「僕の愛情を受け止めてほしい」

「どんな?」

 リンスキーとレイラは互いの顔を見る。レイラの目は潤んでいた。リンスキーは興奮し己の下腹部は盛り上がっている。リンスキーはレイラの髪に触れる。水のように髪はリンスキーの手を流れる。そして顔、唇。リンスキーは無言で首に手をかけた。レイラを見たが、彼女はただじっとリンスキーを見つめている。だからリンスキーは手に力を込めた。最初は我慢していたが次第に、顔は歪みレイラの手がリンスキーを掴む。顔から血の気が引き、口の端から涎が垂れる。リンスキーを掴む手はどんどん強くなる。それでもリンスキーは首を絞めるのをやめなかった。

「これが僕の愛だよ」

 レイラの手の力が弱まったところでリンスキーは手を離した。レイラは崩れ咳込んだ。落ち着きを取り戻したレイラは立ち上がると、

「私を一人にしないで、約束」

「もう一つ、僕については嘘をついてほしい」

「わかってる」

 二人は誓いを立てるようにそっと、くちづけをした。


 教室にリンスキーとレイラが戻ってきた時昼食の時間はとっくに終えていた。教室にはリンマ教官の姿はない。リンスキーとレイラはそれぞれ自分の席に戻った。ルスランとベルナントはまだリンスキーの席に居座っていた。

「何をしてきた?」

「それより、リンマ教官は?」

「あの人は午後からいない。俺らの拘束は午前だけだ。それほど大人も暇じゃないってことだ。それで?」

「何もなかったよ」

「……そっか」

「でも、嬉しそう」

 ルスランは笑った。リンスキーもベルナントも。リンスキーは少しだけ、嬉しかった。愛情を受け入れてくれる人間が、程よく喋れる友人ができたから。それでも長くはなかった。この国は戦争をしているのだから。



                 ☆☆


 リンマは軍務局に呼ばれていた。これで呼ばれるのは十回目だが、未だにリンマは緊張していた。軍務局長の通称ハゲが鏡で自分の頭を見ながら、

「兵が足りなくなった。君が担当する学校から一人出してくれ」

「あの、最近も……」

「どこも一緒だよ。我々は窮地に立っているのでね。選り好みしている余裕はない」

「ですが、訓練すら……」

「教える機材も人間もいないことは元補給兵の君ならわかるだろう。君が戦地に復帰しなくていいのは、私のおかげだということを忘れたか?」

「いえ、感謝しています。出発は?」

「明日だ。急げよ」

 リンマは軍務局から出ると、自分が担当する軍学校とは違う学校に入った。規模と実状は大差なく、どこも同じだった。リンマは教官室に入ると、若い男がいた。

「ヤン、ハゲに会ってきたわ」

「俺は昨日会った。そこ座って」

 来客用のソファーに座らせ、ヤン・ヤシンはコーヒーを淹れる。

「どうした? また気に病んでるのか」

 リンマはコーヒーを受け取り、一口飲む。ヤンはコーヒーには手を付けず、作業に戻った。相手にしてくれないヤンにリンマは少しだけ怒りを感じた。

「それは?」

「君の所はやってないんだっけ。俺の所は日記を書かせてるんだ。それを見て管理してる」

「その管理って言い方やめて。ねえ、この仕事って戦艦に乗ってた時より嫌だわ」

「贅沢はやめたほうがいい。そのほうが長生きする」

「私達、子供を殺しているのよ」

「そんなこと言ってたら死ぬぞ。俺も悩んでた時期はあったが、開き直ってる」

「生きるため?」

「ああ、君と一緒に。だから深く考えるのはやめるんだ」

「でもね、あの子たちって可哀想。家畜と同じ扱いなのよ。知らずに性行為を楽しんでるでしょうけど、あれって目的は子供を作らせることなのよ! だから避妊用具もまともな性知識も与えてない」

「ああ、わかってる。落ち着いて。僕たちは仕方なくやらされてるんだから」

不安定になっているリンマをヤンは優しく抱きしめる。リンマは三回ヤンの胸の中で深呼吸する。落ち着いたのを確認してからヤンは、

「誰を出すか、だいたいは決めてるんだろ?」

「そういう仕事だから。でもね、割り切ったら私達異常よ。そんな風になりたくないわ」

「ああ。この異常な世界で俺たちだけはまともであり続けよう」


 リンスキーが軍学校に来て早一ヶ月。午前の勉強はリンマ教官不在ということで、午後に回された。その間彼らは自由な時間を過ごしていた。ワレリーとローザは常に二人でいた。出会いは親が死んだ時だった。近くに住んでいたが、交流はない。その関係を一発の爆弾が変えた。親の死体の前で二人は寄り添うように生きていたが、ある日軍務局の人間が訪れ、二人をここに連れてきた。二人に不満はなかった。どこにいても死ぬ可能性はある。だから、後悔をしないように残された時間を精一杯共有している。

「私、夢を見るの」

 学校の二階で二人は寝ている。ワレリーの腕に体を預けながらローザはワレリーに夢の話を。

「大きな家をね、麦畑の真ん中に建てて、貴方は農作業をしているわ。汗だくでね。私は赤ちゃんがいるの。生まれる前よ、お腹がパンパン。二人で麦と空を見ながらご飯も食べたわ。なんの料理か判らなかったけど、貴方はそれを美味しいって、私はそこまでじゃなかったけど好きだったと思うわ。そんな夢を、見たの」

「そうなる、きっと」

「戦争に行かないわよね」

「行かないよ。ローザを残して死ぬなんて、身勝手じゃないか」

「死にたくない」

「うん」

 不安を抱える二人を誰も慰めはしない。だから、毎日二人はお互いを慰めなんとか生きている。

 アナスタシアはこの軍学校で一番性行為をしている。アナスタシアと寝たことがない男はワレリーとリンスキーとルスランだけだった。アナスタシアは何度かリンスキーを誘ったが、リンスキーは断った。三度目の誘いを断られてから、アナスタシアはリンスキーを誘うのをやめた。ワレリーは最初からローザといたので、誘わなかった。暇な時は暇そうな男を適当に見つけては、よく遊ぶ。そんな毎日を過ごしていた。そんな彼女を時折見つめる男がいた。ルスランである。彼はアナスタシアと初めてあった時から惚れていた。理由はない。突発的な事故のように偶然がそうさせたのだ。その視線に気づかない女ではなかった。最初は他の男と遊ぶのに夢中で無視していた。ルスランに対して性的好奇心が湧いたのはここ最近だ。だから相手をしてあげようアナスタシアは思った。

「ねえ、今時間ある?」

 そろそろ昼時という時間に、アナスタシアは読書をしているルスランに話しかけた。ルスランは彼女から話しかけられるとは思っておらず、言葉を返せなかった。アナスタシアはもう一度聞いた。それは聞き取ることができた。

「……うん」

「二階に行こうよ」

 ルスランにとって願ってもないことだった。ただ気になることもあった。

「どうして、僕を?」

「一番暇そうだから」

「でも、僕はそんな」

「貴方の自信なんて、気にしない。私がやりたいの。それじゃダメ?」

「……わかった」

 二階に着くと、ワレリーとローザがいることは声でわかった。ルスランは一度一階に戻ろうとしたが、アナスタシアに引っ張られ布で仕切られた簡易室に入る。アナスタシアは無言で服を全部脱いだ。

「どうした? 脱がないと汚れるよ」

「初めてだから、わからない」

「そう」

 そこから言葉はなかった。アナスタシアはルスランに軽くキスを、そして貪るように彼の口腔を犯した。ルスランは驚き、アナスタシアに行為に合わせることができなかった。それでもアナスタシアは気にしなかった。キスをしながら、ルスランの服を脱がしそのまま押し倒した。

 みんながみんな空いた時間に性行為をするわけではなかった。リンスキーはレイラと会話をしていた。特別な会話ではなかった、彼らにとって普通の会話をしていた。レイラは家族やここに来る前のことを、リンスキーは家族と前の学校について話した。ただ、全てではなかった。レイラがここに来る最大のきっかけは母親の五人目の男。この男にされた行為と友人に言われた言葉に、彼女は深く傷つき、そして逃げ出した。リンスキーは自分の本質を語らなかった。生まれてから愛情というものを与えられてこなかった彼は、それがどういうものか知らない。十歳の時、家に帰るのが億劫で廃墟で時間を過ごしていた。そこで出会ったのが、一匹の犬だった。所々毛は抜け全身泥だらけだった。一人と一匹は孤独だった、孤独同士で支えあった。しかし孤独故に愛情を与えることはできなかった。愛情とは何か、リンスキーは己の体験を思い出し、実行した。手頃な木を手に取り犬をおもいっきり叩いた。犬は鳴いたが、リンスキーから逃げなかったし、抵抗もしなかった。むしろ彼の手を何度も、何度も舐めた。それをきっかけに彼は愛情を理解し犬にそれを注ぎ続けた。そして彼は愛情を与え過ぎると死ぬということも学んだ。それがリンスキーという男の本質だ。

「ねえ、寮って男女で分かれてないの。理由はわかる?」

 レイラが少しだけ顔を赤くしながら言った。

「知らないけど、たぶんわかる」

「私面倒かしら?」

「面倒なのかな? まだ、わからない。構わないよ。約束したんだから」

 その言葉を聞いてレイラの顔は明るくなった。無邪気な笑顔だが、額に描かれた大きな傷は彼女の過去を語らせる。

「時々だけ?」

「僕の部屋においでよ」

「今日、適当な荷物を持っていく」

 二人は関係を隠すことはなかった。恥ずかしいことではなかったし、隠す必要もなかったからだ。ただ、リンスキーの愛情表現に関してだけは誰にも言わなかった。

よくベルナントにからかわれていた。彼はここでは珍しく、交友関係が広い。誰とでも仲良くなったし、ここにいる人間特有の暗い過去も持ち合わせていなかった。彼もまた両親をなくしていたが、一人ではなかった。軍に召集されたが、彼を支えた兄がいた。それ故に彼は比較的まともな人格を有していた。男の中で彼が一番女に人気があった。アナスタシア以外は、彼に対して好印象を抱いている。

「お前ら、いつから仲良くなったんだ?」

 リンスキーとレイラにベルナントが話しかけてきた。リンスキーもレイラも悪い顔一つせず、対応する。

「いつの間にか」

「ええ」

 レイラが笑っているのを見て、ベルナントは驚いた。彼女はいつも陰鬱としていて、笑うことを忘れた女だと思っていたからだ。珍しいことではなかった。それが多数を占めているのだから。ベルナントは少しだけ後悔しつつ少し会話すると、

「邪魔したな」

 そう言って、彼は他の友人のところに顔を出しに行った。

 唯一、この教室にいないのはナタリアだけだった。彼女は自由時間の時教室にはいない。彼女はよく学校から抜けだしていた。彼女の父は建築家だった。あの凱旋門はナタリアの父によって七年前に新しく作られた。父の影響で彼女は建物が好きになった。建てることには興味を示さなかったが、建物を見ることに興味をいだいた。そんな生活を送っていく中で、別の軍学校に通う男と出会った。その男もまた建物に魅入られた仲間だった。二人はすぐに打ち解けた。キスをする関係にまで発展した。一度、男から性行為を誘われた。その時ナタリアは学校での経験を語った。

「何度かセックスをやったことがあるのだけれど、痛くて感じるどころじゃないわ」

「俺とやれば、変わるかも」

「体は覚えてる。だから怖いの」

「そっか。お互い若いんだ。ゆっくりやっていこう」

 優しさを持つ彼にますますナタリアは惹かれていった。今では毎日のように会う。 

 みんなバラバラで、好き勝手で、それなりに生きている。大人たちは戦争をしている。それでも、子どもたちは何も言わない。声を上げることの無力さを知っているから。



 午後、リンマが教室に姿を見せた。教室にはナタリア以外全員いた。形式的な挨拶を終えると、リンマは円筒の容器を取り出した。それを見たみんなの反応は、それぞれだった。無関心な人もいれば、神にすがるように祈る人もいる。ただ、リンスキーだけはこれが何を意味するのかわかっていなかった。容器を開けると、片方はコップにもう一方には注ぎ口ができた。そしてリンマ教官は口を開く。

「ベルナント、前に!」

 みんな彼を見た。彼は笑った。醜い笑顔で精一杯の笑顔を教室にいるみんなに向けた。深呼吸してから、ベルナントはリンマ教官の前に立った。ベルナントはコップを持ち、リンマは注ぐ。緑色の液体がコップを満たす。草の匂いが教室を満たす。零さないように気をつけながら、ベルナントはみんなの方を向いて、

「何深刻な顔してんだよ。男の門出だぞ? 喜べよ」

 ベルナントの声はいつもの調子だった。みんな、ベルナントの言葉に笑わない。リンスキーはベルナントの言葉と場の雰囲気で、これが何を意味するのか理解した。

「また会えるさ。その時またここに戻ってくるから。そしたら、土産の一つでも持って帰ってくる。だから、元気でやれよ」

 そう言って、ベルナントは飲んだ。リンマとベルナントは教室を出た。教室を出た後、リンマはベルナントに、

「誰を見送らせる?」

「いらないです。俺、そういうの苦手なんで」

「わかったわ」

 学校の外では、移動用の小型輸送艦が待機していた。男が数名、ベルナントを出迎える。淡々と進んでいく中、リンマはベルナントに言う。

「ごめんなさい……」

 ベルナントは振り返らない。それでも、足を止めて言葉を返す。

「みんなにそう言ってるんですか?」

「私じゃどうすることもできないの」

「わかってますよ、みんな。俺達は子供だから、大人が何をやってもどうすることもできない。産まれた時からそうだった」

「生きて帰って!」

「はは」

 ベルナントは笑った。そしてゆっくり小型輸送艦に乗った。リンマはベルナントの背中を見ながら、涙を流していた。同情の涙。リンマ・イマームの自己満足の涙。それで彼女は自分を保っている。

リンマとベルナントが消えた教室では、みんなで昔話をしていた。ベルナントという男の昔話を。誰もが喋った。誰もが笑った。新入りのリンスキーも途中から入ってきたナタリアも、思い出を共有し合った。この軍学校では、そういう習慣がある。大人に殺される友人の昔話をして過去にする。いつまでも泣いていたら、壊れてしまうから。


 次の日教室はいつもどおりだった。誰も泣かず、落ち込まず、いつものように過ごしている。リンスキーとレイラは三階に行って、互いを愛し合う。その度に、レイラの体は傷を負っていた。性行為をしながら殴られ、首を絞められ、肉を噛まれる。それでもレイラは嬉しかった。その行為が彼の愛情の証であると知っているから。リンスキーも過去の教訓から加減を覚えた。愛情を与え過ぎると簡単に死んでしまうからと、血を流す行為を極力控えた。ワレリーとローザのように、二人にも確かな愛が芽生えた。幸せだと、二人は心の底から思っている。

 アナスタシアは自室にいた。机の引き出しに置いてあった手紙を取り出し、彼女はそれを破った。送り主はベルナント。彼女の誕生日に彼から貰ったものだった。アナスタシアは手紙の内容をほとんど覚えてなかったが、一つだけ気に食わないことが書かれていた。【あんまり無理していると壊れるぞ】ゴミ箱に手紙を捨てるように、その記憶も消した。

 一週間後、中心街にある軍学校の子供全てが召集された。軍の出陣を見送るためだ。凱旋門の両端に子供が並ぶ。一番中央になる行政局から見ると、凱旋門への道を子供がつくっているように見える。程なくして、大きな音とともに空を飛ぶ戦艦が地上から姿を見せた。数は十。大きなものが二、それより少し小さいのが三、一番小さいのが五。大きい戦艦を先頭に上空に上がると、綺麗な列を作って戦艦は敵国であるシーア共和国に向かった。

 その後、ニザール公国の勝利を願って神事が行われた。戦艦を模した木に草の煮汁をかける。神官は現代風にアレンジされた祝詞を木に向かって叫んでいる。なんども煮汁をかけ、何度も祝詞を叫んだ。

 その光景をニザール公国の権力者と眺めているリンマは、ヤンに問う。

「こんなことしたって、子供は帰ってこない。そうでしょ?」

「しないよりは、いいさ。無力だから神話に出てくる意味もわからない儀式をやる」

「今日、ベルナントという子を送り出したの。泣かなかった、最後は笑ってた」

「強いな」

「最近はそうなの。誰も泣かない。諦めてる」

「俺達がこの仕事に慣れるように、子供も順応しているのか」

「寂しい時代……」

 リンマはそっとヤンの手を握る。ヤンも包むように握り返す。子どもと同じように、彼らも支えあって生きている。ただ違うのは大人は多くを望み、子供は多くを望まない。それだけだった。


 ニザール公国は戦争の初期こそ勝っていたが、圧倒的な国力を持つシーア共和国にとってそれほどの脅威はなかった。戦争の初期こそ、都市を三つ奪ったが今ではニザール公国の領土は、旧ニザール自治区のみとなった。しかし、そんなことは子供には関係なかった。軍学校で好きなように、生きていた。ルスランはあれ以来、アナスタシアに誘われるようになった。話すことも多くなった。

 何度目かの性行為のあと、アナスタシアは自分の過去をルスランに語りたくなった。

「私、産まれた時から父親の存在を知らない。母親だけだったから。あの人、学がなかったから私を育てるために軍人相手に股を開いてた」

「辛かった?」

 ルスランはアナスタシアの背中に聞く。二階で話している時ルスランはアナスタシアの方を見るが、アナスタシアはルスランを決して見ない。

「いいや、私は辛くなかった。別に食べ物に困ったわけじゃなかったし。ただ、普通にはなれなかったなあ。大人は不貞が嫌いでしょ? そして育てられた子供も。学校行くの、嫌になって私もあの人の後を追った」

「それでセックス、好きになったんだ」

「違う。嫌いだった。男って馬鹿だから、女のことなんてこれっぽっちも考えてない。男に突かれた後は立てなかった」

「じゃあ、どうして?」

「ここって子供しかいないじゃない? だから自分の好きなようにできたし、力も強くなかった。やってることは一緒だったけれど、軍人より断然良かった」

「僕もそうなのかな……」

「あんたは気が弱くて、人の機嫌ばっか伺ってるから」

「それってどういう」

「どうしてそういう性格なの?」

 ルスランの質問を遮るようにアナスタシアは質問した。

「わからない」

「じゃあ、ここに来る前は何やってたの?」

「落ちこぼれのルスランが僕の名前だったんだ。何をやっても上手く行かなくて、だからからかわれてた。本当のことだから、何も言わなかった。そしたらね、次第に暴力や暴言になって。学校に行くのをやめたんだ。一週間後だった。学校がなくなったのは。ほとんどが死んで、半分くらいが今も病院にいる。僕の過去はそれくらいだよ」

「親は?」

「朝、死んでた。学校がなくなって次の朝にお母さんもお父さんも死んでたんだ。僕は未だにそれがわからない」

「怖かったのよ」

「怖い?」

「幸せを知ってるから、幸せから離れることが怖くて堪らなかったんだと思う。あんたが生きてるのは、親の身勝手ね」

「アナスタシアは幸せかい?」

「この国じゃあ、私達は幸せだと思う」

「もし、僕が召集されたら君はどうする?」

 その質問にアナスタシアは鼻で笑った。そして、

「私、気軽な関係が良いの。一生誰かとだなんて嫌。誰にも縛られずに自由に私らしく生きてやる。あの人みたいにはなりたくないから」

「だから、僕は君が好きなんだ」

 アナスタシアは言葉を返さなかった。ルスランは落ち込まなかった。アナスタシアのような人間に惚れられるような人間ではないと、思っているから。この関係はアナスタシアが言ったように、友達の延長線上のできごとだ。だからこの関係がずっと続けばいい、ルスランはアナスタシアの傷ついた背中を見ながら、願った。


 この軍学校にも休みというものがある。それは空中戦艦がニザール公国に帰ってくる日だ。リンマとヤンは朝から行政局に出ていた。行政局には五代ニザール公やその重鎮もいる。皆、表情は堅くニザール公国軍の勝利を確信している者はいない。それでも、戦争をすることをやめない。ニザール公やその重鎮は戦争後の事を一番に恐れていた。シーア共和国による粛清だ。自分たちニザール族はどうなるのか、底知れない不安が彼らにはあった。

 大人のように子供も不安を抱えているのかといえば、そうではなかった。子どもたちにしてみれば、今日は自由の日なのだから。それを一番に喜んだのはナタリアだ。彼女は朝早く寮を出て、男にあった。男と手をつなぎ中心街を散歩する。中心街のインフラ整備、住宅建設はここ十五年凱旋門を除いて行われていない。だから彼らの父や母から聞いたことのない建築物を目にする。一般的な住宅建築は戦艦で使われる合金を正方形に立てて、それを軸に造られる。民家のほとんどは一階だけだが、砲弾が降ってきた時のために屋根は装甲板を利用している。その下には何重にも重ねた緩衝板がある。

 ナタリアは住宅区の端で珍しい物を見つけた。外見は円筒。高さは民家三個分くらい。入り口に扉はなく蛇が木に摑まっているように、階段が造られている。

「あれはなんだと思う?」

「シーア共和国時代の民家だよ」

「どうしてあんな……」

「土地が少なかったんだと思う。ニザール自治区って元はこんなに大きくなかったんだよ。中心街より少し狭い感じ。それを初代ニザール公が広げたんだ」

「詳しいのね、建築物だけかと思ってた」

「うちの学校本があってさ、暇な時は読んでるんだ」

「セックスはするの?」

「前はね。やることがなかったから。でも、今はやってない」

「今度、うちの学校に来て」

「わかった」


 学校ではワレリーの誕生日の話で盛り上がっていた。ベルナントの代わりを務めるように、ベルナントとよく交流のあった男が仕切る。渡せるものは限られていたので、話はすぐに終わった。色紙とパン屋の一番大きなパンをあげることになった。色紙と言ってもただの紙だった。みんな簡単なメッセージを順番に書いていく。パンはみんなで少しずつお金を出して、買うことになった。その間、ワレリーとローザは外に出ていた。

「中心街の外に行ってみない?」

 ローザは違和感のないように誘った。みんなで話し合って決めたことだ。中心街にいれば、ワレリーにバレる可能性がある。だから適当に中心街の外を回ることになっている。

「いいけれど、いい噂は聞かないよ」

「外の治安は公国守備隊が守っているから平気。それに、外に出るのは久しぶりだから」

「そうだね、久しぶりだ。……行こうか」

 関所で軍学校の手帳を見せ、二人は外に出た。直ぐ後ろに中心街があるのに、歩きながら、外を見回す。家はある、小さな麦畑もある。草も生えている。それでも火薬と血が入り混じった臭いが地面から臭う。それが二人に過去を思い出させた。

「中心街に移って、ご飯は美味しくないけれど、お腹もいっぱいにはならないけれどもう戻れないね」

「戻ったら、僕ら本当に死ぬんじゃないかって思う。今が幸せだから」

 しばらく歩くと、老人がたむろっていた。外にいた人間なら誰でもわかる。戦争で住む家を失くした人たちだ。兵士として使えない老人は、政府から無視される存在だった。中心街に入ることも許されない。老人たちは中心街から流れ出てくる生活ゴミを漁り、野菜の芯や腐った肉を食べて日々を生きている。治安の問題や衛生上の問題もあり、中心街から老人たちを追い払わなければならない。それを行うのが、公国守備隊だった。小型艇に乗った守備兵が一人やってきた。手には一世代前のカービン銃が握られている。老人たちは守備兵の存在を確認すると、蜘蛛の子見たいに散っていった。二人は遠くでそれを眺めていると、守備兵が近づいてきた。ワレリーはローザを背にして前に出る。

「ここで何をしている?」

 守備兵の手に力が入っているのをワレリーは見た。刺激しないように物腰やわらかく対応する。

「僕達軍学校に所属しているのですが、少し外が恋しくなってそれで、教官と関所に許可をもらって外に出させてもらったんです」

 ほとんどが嘘だった。何でも良かった。子供は大人が納得する事を言えば、許される存在だから。大人はそうやって子供を支配している。案の定、ワレリーの言葉を聞いた守備兵の手から力が抜けた。表情が柔らかくなり、

「俺は五年くらい郊外を担当していてな、最近の中心街とやらを知らない。お茶しかないが、話を聞かせてもらえないだろうか?」

 ワレリーとローザは少しだけ下がった。守備兵に聞こえない声でローザが囁く。

「どう?」

「わからん」

 疑われていることをわかった守備兵は地面に座り、ちょっとした話をする。

「俺も軍学校の出なんだ。俺が5歳の時に軍に召集されたのが両親。ここまで育てたのが、教官ってわけだ。君たちと昔話をしたいんだ」

「二階と一階と三階、過ごした場所は?」

 ワレリーが問う。

「二階だ」

「誰と」

「君たちと同じだよ」

「食べ物はありますか?」

 ローザが聞く。守備兵は立って尻の土を払うと、

「守備兵が腹を空かすと仕事に支障が出る。クッキーならあるぞ、乾燥してるやつが」

 小型艇は少し狭かったが、三人乗って中心街から二キロ離れた駐屯地に来た。駐屯地と言っても、小さな小屋だ。中は簡素だった。机が真ん中に一つ一番奥にソファーが部屋の右側には通信設備と武器。左側には扉が二つあった。

「まあ、そこに座って」

 守備兵は二人をソファーに座らせると、部屋の左側の扉の一つに入っていった。少ししてお茶とクッキーの缶を持って出てきた。

机をソファーの前に移動させ、守備兵は椅子に座る。お茶とクッキーをそれぞれ手に持つと、昔話が始まった。二人は見たことを素直に喋った。守備兵は言った。

「変わったな。昔はもっと人がいた。歩けば普通に人がいたんだ。そうか、今はいないのか……」

「軍学校は変わらないんですね」

「変わったのは人が減ったくらいなもんだ。あ、お茶がなくなっちまったな。ワレリー君少し手伝ってもらえるかな?」

「ええ」

 守備兵はワレリーを先に部屋に入れた。ワレリーも無警戒にその部屋に入った。そこは倉庫だった。気づいた時には遅かった。守備兵は扉を閉め、外から鍵をかけた。ローザも異変をすぐに察知した。守備兵が鍵を締める間。武器に向かって走った。守備兵がローザの方を向いた時、彼女はすでに武器を持っていた。そこからの反応は守備兵のほうが早かった。姿勢を低くしたまま守備兵はローザとの距離を詰める。急いでロックを外して銃口を向けた時、守備兵は目の前にいた。守備兵は右手で銃を払い、左手でローザの顔を地面に叩きつけた。

「えらく反応がいいな。あそこじゃ訓練はしないはずだ」

「離せ!」

「威勢がいいじゃねえか。俺も溜まってたんだ。初めてじゃねえだろ」

 そう言うと、守備兵はローザの服を引き裂き覆いかぶさった。ローザは涙を流しながら、助けを求めた。ワレリーはドアを開けようと体当たりをするが、子供の体重ではビクともしない。大きな声で、何度も何度も叫ぶ。その声を聞きながら、歪んだ守備兵は己の欲望を発散させる。


 夜、轟音がニザール公国に響き渡った。空中戦艦が帰ってきたのだ。誰もが空を見上げた。行政局で一日中待機していた。リンマとヤン、ニザール公とその重鎮は窓を開け、空を仰いだ。黒の煙を吐きながら四つの戦艦が空に浮いていた。一番大きな戦艦と一番小さな戦艦だった。ニザール公国に入るか入らないかくらいで、最後尾の艦が制御を失った。地面に引きずられるように、小さな戦艦はニザール公国の外に落ちた。三隻は無事に着艦したが、次の戦いに使えるかどうか、わからなかった。傷を負っていない兵士はいなかった。みんな虫の息だった。救護班が医務局に兵士を運ぶ。整備局は煙を上げる戦艦に冷水をかけ鎮火を急ぐ。リンマは医務局でベルナントを探した。何度も何度も医務局を駆けまわった。足が痛み喉が枯れた頃、ヤンに止められた。リンマは人目も憚らずに泣いた。子供みたいに、大人が持つプライドを捨てて。行政局は騒然となっていた。ニザール公国は今回の戦いでまともに戦える戦力を失った。しかし誰一人降伏という言葉を口にしなかった。独立国であるプライドを守るために、自分の今の地位を守るために戦争を終わらせるわけにはいかなかった。


 ローザは気を失っていた。気が付くと地面に寝ていた。起きようと体を動かした時、下半身に激痛が走った。その痛みが気を失う前の出来事を思い出させた。直ぐ側にいたワレリーはローザの悲鳴を受けた。体を縛られていたワレリーはイモムシのように這って、ローザの顔が見える位置に移動した。

「ローザ、僕を見るんだ。落ち着いて」

 ワレリーの声に反応したが、彼を見たローザは顔を隠し、むせび泣く。ワレリーは何度も何度もローザに話しかける。ローザはワレリーの声に答えない。痛かったから、幸せを掴んでいると思っていたから。

 泣き止んだ時にはローザは下半身の痛みを忘れていた。だが、ワレリーの顔だけは見ることができなかった。

「落ち着いたかい?」

 優しく問う彼の声がローザには痛かった。だから好きになったのに、とあの男を呪った。

「どうしてかな? 私達普通に過ごしてただけなのに」

「戻ろう、学校に」

「もう戻れない」

「僕がいる」

「あなたがいるから戻れないの」

「君を守れなかった僕はいらない?」

「いないのなら、私もいらない。私達終わるの」

「今じゃないよ」

「私は今なの。こんな体で生きたくない。どうせ終わるなら今がいい」

「そうだね。夢から覚めっちゃったんだ、きっと。神様がもう起きる時間だぞって……。頼んでもないのに」

「大人って嫌い」

「だから自由になろう。きっと子供だけの世界があるはずだから」

「うん」

 ワレリーはローザに縛りを解いてもらうと彼女を抱え、中心街に向かって歩いた。二人は泣いてなかった。笑いながら、いつものように他愛もない話をして、少しだけ思い出を語った。


 次の日朝早く、リンスキー達は教室に集められた。深刻な顔をしているリンマを見て、また招集かと誰もが思った。しかし違う。

「ワレリーとローザが心中した。詳細は言えないが、死に顔は笑っていたらしい。何か心あたりがあるものはいるか?」

 みんな、死んだ理由に心当たりはなかった。だが笑って死んだ理由はわかった。プライドを捨てたリンマもなんとなく、想像はできた。それでも彼女には容認できなかった。それは彼女の教官としてのエゴであった。せめて自分が担当する子供だけでも多く生き残らせたい、まだ大人のリンマはそう思っている。

 リンスキー達は思い出を語らなかった。もう彼らはいないから。儀式的なそれを行う意味はなかったから。だからいつもの日常を過ごした。午前は自由時間となったので、リンスキーとレイラは寮に戻った。

「続きを」

 互いに服を脱ぎ、リンスキーはレイラの両手両足を縄で縛った。レイラの体は痣と歯形と切り傷で悲惨なものになっていた。リンスキーは木の棒を持つと、レイラの体を殴った。レイラの痛みに耐える声が響くが、構わなかった。痣が綺麗にできるまで何度も殴った。レイラの体力を考えて休憩に入った。

「ワレリーとローザは幸せだよね」

 リンスキーはレイラの体から噴き出る汗を拭きながら言った。行為が終わった後はいつもリンスキーがレイラの体をケアしている。

「幸せだよ。笑って死んだのが何よりの証拠」

「僕らはどうなるかな?」

「私を残さないで」

「たぶん、君は戦艦に乗れないよ。その体だから」

「無理やり連れてってよ!」

「その前に死ぬ?」

「笑える自信がない……」

「君は贅沢だ」

「面倒?」

「いいや」

 またリンスキーは木の棒を掴む。

「少しだけ、大人になったのかも」

 そう言うと、リンスキーは手に力を込めた。


 午後、リンマは軍務局にいた。

「上からのお達しだ。男は全員召集される」

「お辞めになられないのですか?」

「やめてどうなる?」

「生きることはできます」

「それはシーア共和国に言え。明日迎えが来る。それまでに準備を」

「はい」

「それと、明日でお役御免だ。好きにしろ」

「我々も戦場に行かないのですか?」

「ああ、私達は行くさ。君がお役御免なんだ」

「理由を聞いてもよろしいでしょうか?」

「だるまの親父は元気にしてるか?」

 リンマの家は軍人家系だった。そしてリンマの父も元軍人だ。

「生きています」

「親父さんには悪いことをした。私を庇ってああなったんだ。だから償いだよ」

「知っております。それでも」

「強がりはやめなさい。戦場に行きたい人間などいない。もう終わるんだ。何もかも」

「じゃあ、今まで死んだ子どもたちは!」

「利口に生きるんだ。これ以上話すことはない。帰れ」

「局長!」

「帰れ!」

 ハゲはリンマを追い出し、ため息をついた。今の軍学校を作ったのも、元部下を全員そこに配属させたのも彼だった。自分の部下だけでもと思って設置した軍学校が、部下を苦しませていたことをやっと理解した。



 次の日の朝、教室は緊張感に包まれていた。リンマの口から招集されると聞いたからだ。そして他の軍学校でも同じ処置が行われると言った。それを聞いたナタリアは学校を飛び出した。誰も止めなかった。少しだけ時間を与えると言ってリンマは教室から出て行った。

「じゃあ、私もここ抜けるよ」

 最初に口を開いたのはアナスタシアだった。

「私娼婦として働くから、みんなも元気でやりなよ。それとルスラン、あんた可哀想なやつだからこれは餞別」

 アナスタシアは懐からナイフを取り出すと、自分の髪をバッサリ切った。ルスランは少し笑って、受け取った。アナスタシアは笑っていなかった。

「ルスランのこと好きなんでしょ?」

 レイラが口を開いた。

「私が誰かに固執することはない。自由に生きるのが私のモットーだから。体だけの関係が一番性に合ってんだ。それだけだよ」

「ありがとう。帰ってきたらまたここに来るから。そしたら」

「さようなら」

 ルスランの言葉を遮り、アナスタシアは教室から姿を消した。ルスランは髪を握りしめ、

「リンマ教官が待ってる。僕は行くよ」

 教室を出て行った。残ったのはリンスキーとレイラだけとなった。

「僕達はどうしようか?」

「約束したでしょ」

「逃げられない。でも約束は守る」

「私はローザのようにはなれない!」

「だから僕達なりに生きよう」

「帰ってこないじゃない。みんな、帰って来なかった」

「僕は皆じゃない。君を一人にしないと約束したから。それにきっと成長してしまったんだ。幸せを知ったから、みんな子供のまんまだけれど、僕たちは少しだけ大人になってしまったから、死ぬこともできない」

「ああ、こんなに苦しい。大人って苦しい」

 レイラは泣いた。リンスキーは彼女を優しく抱きしめ、耳を噛む。レイラの耳から血が流れ落ちた。それを舌で掬って飲んだ後。リンスキーは囁く。

「この傷がなくなった時僕は戻ってくる。約束だ。この傷は僕だからね、それを覚えていて」

「きっとよ、きっと」

 リンスキーはレイラから離れた。彼女を見ながら、リンスキーはゆっくりと教室から出た。待って! その言葉を口に出す代わりに涙を流した。伸ばした手は誰にも受け止められることなく、床に落ちた。



 リンマは二人の子供を見送った後、ヤンのもとへ向かった。精神的にまいっていた彼女はヤンを求めていた。

「ヤン!」

 教官室に入ると、ヤンは身支度をしていた。何もおかしいことはなかった。軍学校は男子を全員排出した後、解散されることが決まっている。なのに、リンマは不安を感じた。

「何をしているの?」

 そしてその不安は的中することになる。

「召集された。聞いたよ。軍務局長に逆らってクビになったんだろ?」

「待って、違うわ。そうじゃない」

「そう聞いている。けれど、軍務局長も出るらしい。噂だけれど、君の代わりにね。どうやら本当らしい。僕も行くよ」

「逃げるの。行く必要ない。どこか遠い場所に、二人で逃げるの」

「友人がいる」

「目の前には私がいる!」

「子供が行ったんだ。逃げる訳にはいかないよ」

「男の人って、勝手ね。女を泣かせて戦場に行くなんて。好きなの、代わりなんていないわ」

「時間が解決してくれる」

「時間が病気だったら、私の傷は一生癒えない」

「それをするのが、大人だ。彼らはなぜ泣かなかったのか、今になってわかった」

「諦めないで。一緒に死ぬのも嫌よ、死んだって一緒になれないんだから」

 外から輸送艦の音が聞こえ始めた。子供とは別に教官クラスの人間を運ぶ輸送艦だ。

「行かなきゃ」

「お願いよ、行かないで」

「僕のことは忘れてくれ、たぶん僕達の関係は夢みたいなものだったんだ。そのうち夢が覚める。たまにでいいから、夢に出てきた男のことを思い出してほしい」

 リンマはそれでもヤンを引き止めるのをやめなかった。ヤンは彼女の言葉を無視して、輸送艦に乗った。幸せと諦めを知った男は、いつまでもすがる女を見て少しだけ笑った。それは子供のような無邪気な笑顔だった。


 リンマは行く宛もなく、軍学校に戻ってきた。教室を覗くとレイラはいた。

「あなたも、置いて行かれたの?」

 皮肉で言ったつもりだった。しかし、レイラは静かに言葉を発した。

「待っているんです」

「戻りっこない」

「この傷は明日には完治してると思うんです。だから、明日には戻ってきます」

 そう言い、レイラはリンスキーの愛情の証に触れる。少しだけ痛みを感じ方が、喜びも感じた。

「ここで待つの?」

「ここ以外に行く場所なんてないんです。だからここに連れてこられた。違いますか?」

「偽善でね、利用してたの私達」

「知りませんよ、大人の都合なんて。ただ諦めた人生は幸せだった」

「幸せを知らないから?」

「子供だから知らないんですよ、幸せを。何でも知っている大人は幸せを知っていますよね。だから簡単に手放さない」

「あなた達は死ななかった」

「私達なりの生き方をします。ワレリーたちのように自由になりません。アナスタシアみたいに生きることもしません。大人のように、遅すぎる諦めもしません」

「そう」

 リンマは少しだけ呆れた。そんなにうまくいくはずがない。リンスキーもルスランもヤンも、どうせ死んでしまう。ベルナントの生を願っていた彼女は死んでしまった。会話はなく、戦艦が帰還するその時まで教室は静寂に包まれていた。


 朝、最後の空中戦艦はニザール公国の空を覆った。凱旋門に立つ子供はいない。空を見上げるのは、残された人間。公国の旗を棚引かせ、五隻の空中戦艦は前進する。シーア共和国軍との接敵は少しだけ遅かった。数は十。ニザール公国の二倍。砲火が空を覆った。爆音がこのニザール公国の終わりを知らせるように鳴り響く。シーア共和国の砲火は弱く、前進もしてこない。だから自虐的なニザール公国の指揮官は全艦に前進命令を出した。横縦二列の陣形を維持しながら前進する。艦隊同士の距離は有効射程に入った時、シーア共和国の砲撃は激化した。雨のように砲弾は飛んで来る。ニザール公国の戦艦は黒の煙と火をあげる。動揺した艦隊は隊列を乱した。後ろに下がろうと艦が、他の艦とぶつかった。運悪くぶつかった場所が火薬庫だった。ぶつけられた戦艦は一度膨れ上がると、煙を上げる部分から火を吹き上げた。弱い箇所から次々と火を上げ、そのまま地面に落ちていった。ぶつけた艦も無事ではなかった。艦の半分が黒く焦げ、ほとんど浮いているだけの存在となった。ニザール公国が動揺している隙に、シーア共和国はニザール公国の戦艦を完全包囲していた。

 降伏勧告がシーア共和国から流れる。誰一人降伏に賛成する者はいなかった。終わらない事を知っているから。指揮官は最後の攻撃命令を出すために、無線を全艦隊に繋げた。誰もが無線に耳を傾けた。しかし聞こえた声は指揮官のものではなかった。五代ニザール公が降伏宣言をした。シーア共和国は別働隊を使ってニザール公国の中央を抑えられたことがニザール公から述べられた。歴史的に見れば短かった戦争は、遅すぎる降伏宣言によって幕が閉じられた。


 四つの空中戦艦とシーア共和国軍がニザール公国に着艦した。医務局とシーア共和国の救護班はけが人の手当を急いで行った。ほとんどの人間が傷ついていたが、一番ひどかったのは落ちた戦艦にぶつかったやつだった。乗員のほとんどがやけどを負い、虫の息だった。その中に下半身が黒く焦げになっている男がいる。ルスランだった。手にはアナスタシアの髪が握られている。髪には焦げ一つ、汚れ一つなく美しく輝いていた。ルスランは暗くなる意識の中、アナスタシアを思い浮かべた。彼が思い浮かべたアナスタシアは子供のように、泣いていた。涙を拭こうと手を動かす。初めての事で涙は上手く拭えなかった。

「ありがとう」

 それ以降、ルスランは動かなかった。少しだけ吹いた風にアナスタシアの髪は流された。それは軍学校がある方角へまっすぐに、飛んでいった。


 レイラとリンマはずっと待っていた。戦艦が帰ってきた時、空を見上げた。四隻も帰ってきたと二人の心に希望が湧いた。長く感じる時間を二人はじっと待った。空が紅く染まった頃、教室のドアが開いた。二人が見たのは、リンスキーだった。レイラは目に涙を浮かべながら、抱きついた。リンスキーも彼女を受け止めた。耳を見るとレイラの傷はまだ治っていなかった。

「早かった?」

「もう痛くない」

「約束は守れたね」

「ええ」

「ヤン・ヤシンという男を見なかった?」

 堪らずリンマは聞いた。リンスキーはリンマの目を見て答える。

「落ちました」

 その言葉をリンマは上手く聞き取れなかった。聞きたい言葉ではなかったし、聞きたくない言葉だった。だからもう一度聞いた。

「落ちました。火薬庫が爆発して、戦艦ごと落ちていきました。そう、聞きました」

「嘘よ、ね? 彼が死ぬはずないわ」

 リンスキーは何も言わなかった。リンマの目をじっと見つめていると、彼女の顔は徐々に歪んでいった。目から涙が溢れ、押し殺した声が教室を支配する。二人は同情の言葉をかけることなく、教室出た。三階に行って、窓から外を見る。

「あ」

 軍学校の正門にアナスタシアがいることを二人は確認した。彼女も二人を確認した。

「ルスランは?」

 レイラの質問にリンスキーは無言で答えた。リンスキーはここで約束した日の事を思い出していた。ホコリまみれだった三階は少しだけ綺麗になっている。ここに来る前、二階を通った時の甘酸っぱい臭いはあまりしなかった。

「これからどうしようか」

「これから?」

 レイラの言葉の意味をリンスキーは理解できなかった。今までのように日常をおくればいい、そう思っていたから。

「ここはなくなる、戦争もね。だから私達にはまだ先があってそれを考えないといけない」

「まるで、大人だ」

「これからそうなるんだと思う」

「あの人は何だったのかな?」

「知らない。私達はまだ子供だから」

「大人になっても幸せかな?」

「これから考えましょう。諦めることをやめていいのだから。家族は?」

「あの人たちは勝手に生きるよ。僕がいてもいなくてもね。僕には君が必要だ」

「私は貴方が必要」

 二人は向かい合い、顔を近づける。

「僕の愛情を受け止めてくれる?」

「私を一人にしないって約束して」

 己の魂に刻むように二人はキスをした。これから先の事はわからない二人だけれど、彼らには未来に対する希望があった。大人は大切な者を失い絶望しているが、諦める事を強いられた子供の心は希望に満ちていた。一般的な幸せなど、持ち合わせてはいないが彼らなりの、大人に近づいた子供なりの幸せを掴むだろう。


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