993 地獄への入り口
「今日も贖罪の時間である。いこうか、ファンナベルタよ」
ファンナベルタ! 間違いない! トリスメギストスが持つという、インテリジェンス・ウェポンの名前だ!
フランも気づいたらしい。
「!」
トリスメギストスが手にした白銀のファルシオン――ファンナベルタを凝視した。
「あれが……」
トリスメギストス級になれば、フランの視線にも気づいているはずだ。しかし、金の竜人はフランを欠片も気にする様子はなく、無防備に見える様子で歩き出す。
あえて無視しているというわけではなく、フランに興味がないのだ。敵意を抱いていないからというのもあるだろうが、ここで声をかけるほどの興味を持っていないのだろう。
フランの強烈な視線をその背に受けながら、トリスメギストスは悠然と歩く。一歩踏み出すたびに、ローブの裾から出ている尻尾が左右に揺れた。
その様子は、優雅にさえ見える。
「も、もっと急いでくれ!」
「急ぎたいなら急げばいい。巫女の弟よ。我は止めぬ」
「フレデリックだ」
「覚えてほしければ、もっと強くなることだ」
トリスメギストスは笑いもせず、真顔でそう言い返した。本気で、強い相手でないと名前が覚えられないのかもしれない。
「くっ!」
フレデリックが顔を歪め、やきもきしているのが分かる。
「……先に行く?」
「いや、それは危険だ」
「?」
「この城の地下は、この世で最も抗魔が湧き出る場所。俺だけで突入したところで、無駄死にするだけだ」
フレデリックは焦りつつも、先行しようとはしなかった。核の間と呼ばれる部屋への道中には、驚くほど強力な抗魔が群れを成して出現するという。
それこそ、今のフレデリックであっても、絶対に突破不能と言わしめるほどだ。
まだ属性の確定しない幼いころ、両親たちに連れていかれたことがあるらしい。
竜人の戦士たちは、全員が通る通過儀礼であるようだ。幼い内に最大の恐怖を味わわせることで、ちょっとやそっとで怖れを抱かないようにする目的だろう。
そんな場所を突破するには、トリスメギストスを利用するのが一番安全である。自分たちが消耗をせずに、後をついていくだけでいいのだから。
他者に興味がないトリスメギストスは、一緒に戦えなどとは言わない。付いてくるなら勝手にしろというスタンスだ。
一緒に来てもいいと誘ったことが、途轍もないイレギュラーだったのである。トリスメギストスに認められた数少ない存在である、イザリオがいてくれるお陰だ。
地下の説明を聞き終わる頃、トリスメギストスが城の奥にある、大きなホールへと到着した。装飾などほとんどない、灰色の巨石を組み上げて作られた巨大なドームである。その広さは、直径100メートルを超えるだろう。
ここまでの道中が華麗であった分、その武骨さが際立つ。ダンスホールなどでないことは間違いなかった。
ドームに入った直後、フランもウルシも体を震わせて足を止めてしまう。だが、それも当然だ。
部屋の中央から、巨大で灰色のナニかが床を突き破って突き出していた。間違いない。城の外から見えた、深淵喰らいの肉体である。
ドームの半分ほどは、深淵喰らいによって占められているだろう。これだけ近くで見ても、巨大な樹にしか見えない。
しかし、放たれる異常な魔力がまともな存在ではないと教えてくれている。抗魔の気配を何百倍も濃密にして、攻撃的にしたらこんな魔力になるはずだった。
攻撃的というか、飢餓状態と言った方が正しいか。動かないと聞かされているが、この状態でもこちらを喰らい、貪ろうとしているのが分かる。
こいつの分身が抗魔だというのは、非常に納得できた。貪欲な抗魔の大元に相応しい。
足を止めて深淵喰らいを見つめるフランを余所に、トリスメギストスは部屋の脇にある階段へと向かって行った。そこから、ドームの地下へと行けるらしい。
「嬢ちゃん。大丈夫かい?」
「だいじょぶ」
「ここから先は、地獄だ。気合入れ直せ」
「……わかった」
イザリオが地獄と称するほどの場所? 想像さえできない。ただ、油断した状態で足を踏み込んでいい場所ではなさそうだった。
『フラン。いくぞ』
「ん!」
フランはイザリオと共に、トリスメギストスの後を追う。
階段は、どこにでもある普通の下り階段だろう。しかし、その目の前に立ってみれば、その先が地獄であると確信できた。
「抗魔の、気配」
『ああ。深淵喰らいの気配の中でも察知できるくらい、やべーレベルの抗魔がウヨウヨいやがる……』
この先にいる抗魔が全て解き放たれたら、あっという間にこの大陸は全滅するんじゃないか? そんなことを思ってしまうほどに、強い抗魔の魔力が感じられた。
「大丈夫だ。この城は神の力で守られているって言っただろ? 地下の抗魔は決して外には出てこないらしい」
神様が、深淵喰らいと抗魔を城の地下に閉じ込めているようだった。イザリオが言うところの地獄の入り口である階段を、トリスメギストスはなんの躊躇もなく降りていく。
あの竜人にとっては、日常の事なのだろう。慌ててあとを追っていくと、すぐに変化が訪れた。
「始めるとしよう」
階段を下りながら、トリスメギストスが膨大な魔力を練り上げ始めたのだ。解き放つ前からその身が金色に染まり、周辺の大気が震えるほどに強烈だった。
それでいながら猛々しさはない。あくまでも、平常心だ。戦闘を前に猛るのは、彼ではない。
キィィン!
闘いを前にして武者震いするかのように、白銀のファルシオンの刀身が震え、甲高く鳴った。




