798 おばちゃんの家
微かに感じた気配は、すでに消えてしまっていた。だが、逃げられたわけではない。
気配はないが、いることは分かる。
言葉にするのは難しいが、明らかに何かが近くにいる感覚があるのだ。
『この距離でも、気配がここまで探れんとはな。ただ者じゃないぞ』
(ん)
今は正確に気配を感じられずとも、先程向こうがミスをしてくれたおかげで、その位置は分かっている。
さすがに動けばわかるはずなので、まだその場に留まって息を潜めているはずだった。
『あそこだな』
フランが軽く目を見開き、足を止めた。
俺もその家を見た瞬間、違和感を覚える。
その家は、他の廃屋と比べて、状態がかなりましだった。屋根や壁には、明らかな補修の跡があったのだ。
どう考えても、人の手が入っている。
ただ、フランが驚いたのは、俺とは違う部分であったらしい。
(あそこの家……)
『フラン?』
(……おばちゃんの家)
『おばちゃん?』
(ん。お隣のおばちゃん)
見知った人物が住んでいた家であるらしい。まあ、もうその人が住んでいる訳ではないだろうが……。
『フラン。不法侵入者だとしても、いきなり斬りかかったりするなよ?』
ただ単に、休憩中の冒険者かもしれないのだ。俺たちを敵かどうか判断できず、隠れてやり過ごそうとしている可能性がある。
(分かってる)
ソロリソロリと歩くフランが、家の目の前まで辿り着いた。
入り口の扉まで3メートルほどだ。
『開けるぞ?』
(ん)
俺が念動で扉を開けようとした、その時だった。
(師匠!)
『ああ!』
俺は念動を中断する。なんと、中の人物が動いたのだ。もう、フランに完全に捕捉されていると理解したのだろう。
観念して、自分から出てくることにしたらしい。
こちらを刺激しないためか、ゆっくりと入り口に向かってくる。
「……」
『……』
ギギィィ。
内側から押された木戸が、軋んで音を上げた。同時に、戸の向こうの人物がこちらに声をかけてくる。
「あー、争う気はないんだ。まずは話し合いと行こうじゃないか?」
驚いた。
なんと、現れたのは、長身の中年女性であった。
薄いスミレ色のショートボブは、手入れをしていないせいでボサボサだ。白い肌の至る所に傷が刻まれ、彼女が乗り越えてきた戦いの激しさを教えてくれている。
顔立ちは整っているはずなのだが、どこか疲れた表情と、薄汚れた身なりのせいで女性らしさはあまり感じられない。顔に僅かに目立ち始めた皺の深さを見るに、年齢は40代かな?
こちらを見つめる紫水晶のような瞳は、強い警戒心を放っている。
目の前にすれば、彼女の強さが理解できた。俺たちも迂闊に動けないほどに、強い。
身に付けているのは、ロングコート風の服に、革製のポンチョだ。武器はコートの中に吊るしているっぽい。多分、剣だろう。
「……」
フランが目を見開いて驚いている。相手の強さに驚いたにしては、驚き過ぎじゃないか?
「……おばちゃん……?」
「うん? そりゃあ、あたしもそう言われる年齢だけどね……。いや、その顔……もしかして」
フランの呟きを聞いた女性が、不審そうにフランを見つめる。だが、すぐにその顔が驚きに染まった。
「もしかして、フラン、かい……?」
女性が、掠れた声で呟く。
フランの名前を。
知り合いなのか? さっきのフランの「おばちゃん」発言は知り合いに対する呼びかけ? ということは、さっき言ってたお隣のおばちゃんがまだここに住んでいた?
俺が驚きの余り固まっていると、フランと女性の距離がゆっくりと近づいていった。
互いの顔を凝視している。
そして、ほぼ同時に、相手が自分の知る人物であると理解したらしい。
「おばちゃん!」
「フラン!」
どちらからともなく、2人がひっしと抱きしめ合った。
「フラン……! 本当に、フランなのかい!」
「ん……!」
「よくぞ、よくぞ無事で……!」
「ん……」
フランは、大粒の涙をポロポロと溢しながら、女性の胸にしがみ付いている。
女性も同様だ。覆いかぶさるようフランを抱きしめながら、涙を滂沱と流し続けていた。
言葉もなく抱き合うこと5分。
昂った精神が落ち着いて来たらしい。
2人はその体を放して、ようやく互いの状況を確認し合い始めた。
「フランは、もしかして冒険者をやってるのかい?」
「ん」
「あの日から……どうしていたのさね? 私は、てっきりもう……」
「お父さんとお母さんが化け物に――今は、あれが抗魔って分かる。あいつらに殺されて……」
「やっぱり、そうなのかい……」
どうやらこの女性はフランの両親が死んだところは目撃していないらしい。それでも、村が抗魔に襲われ、2人は姿を消し、誰かが作った墓がいつの間にか建てられていた。
それだけで十分に、何が起こったのか理解できるだろう。
「ん。それで、私は青猫族に捕まって、無理やり奴隷にされた」
「青猫族……! やつらかっ! あのくそ共が!」
「それで、ずっと奴隷だったけど、助けてもらって、それからは冒険者」
「助けられた? 何があったんだい? もし、辛くないなら、聞かせておくれよ?」
女性が優しい声でフランに尋ねてくる。好奇心など欠片もなく、ただひたすらにフランの事を案じているのが伝わってきた。
(師匠)
『ああ。構わないぞ。俺も、この人に興味があるし』
「ん。全部、話す」
「ああ、ここで立ち話もなんだ。入っておくれ」
そうして、俺たちは女性の家へと招き入れられたのであった。
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