504 混沌の女神とのお話し
あー、なんだろうこの感じ……。
体が浮き上がり、圧し掛かっていた重さから解放されていくような感覚。
暗い海底から、ゆっくりと海面に向かって浮上していく? それとも、重力の井戸の底から、無重力の空間に向かって昇っていく?
ともかく、解放感と爽快感。その2つが混在した不思議な状態であった。
そもそも、ここはどこなんだろう。
何も見えない。真なる闇の中にいた。
俺は今まで何をしていたんだっけ?
とても長い間、眠っていた感覚がある。ただ、眠り過ぎてダルイということはない。それどころか、全身が軽い。まあ、少しばかり寝ぼけている自覚があるのは確かだが。
「はいはい、ちょっとお話あるんだけど、まだネボスケさんかしら?」
『え?』
ボーっとしていると、どこからともなく女性の声が聞こえた。妙に色っぽく、それでいていたずらっ子のような、特徴的な声だ。
聞き覚えがある。
『混沌の女神、様?』
「あなたが完全に目覚める前に、少しお話ししておこうと思って」
それは混沌の女神であった。姿は見えないが、彼女の声を忘れるはずもない。
「まず、あなたの記憶の封印を一部解くことにします」
『え? そうなんですか?』
唐突にそんなことを言われた。記憶が戻ったら狂うんじゃないのか?
「あなたは記憶がないことを大分気にしていたみたいだし、これを封印したままにしてしまうと逆に悪影響がでそうだから」
『悪影響って?』
「思い出せそうで思いだせない記憶があると、どうしても気になって何とか思い出そうとするでしょ?」
『ああ、確かに』
それが呼び水になって、一部の記憶の封印が予期しない形で解けてしまうかもしれないという。その結果、それ以外の記憶の封印にまで影響する可能性があるそうだ。
『あなただって、ファナティクスのように狂いたくはないでしょう?』
ファナティクスもそんなことを言っていたな。剣の体に人の魂が入った状態は危険であるらしい。まあ、それは何となく理解できるし、ファナティクスの狂態も思い出される。確かに、ああはなりたくなかった。
「そこで、全てではなく、現時点で戻してもいいと思われる部分に関しては封印を解くことにしました。では、いきますね?」
『え? ちょ――』
女神様に聞き返す間もなく、俺の頭の中に一気に様々な記憶が溢れ出す。
『ぐ……』
何とも言えない感覚だ。痛くも痒くもないんだが、気持ち悪い。なんだろう。ファナティクスを共食いした瞬間に似ているかもしれない。まあ、こちらの方が幾分マシだが。
蘇ったのは人間だった頃の記憶と、車に轢かれた時の記憶。記憶の片隅に残っていた謎の3人の女性の正体。そして、その3柱の女神に記憶を封印されるシーンの記憶である。
記憶が全て戻ったわけじゃないだろうが、一番気になっていた、何故記憶がないのかという大元の部分については理解できた。
まあ、そのせいで逆に辱めの記憶も思い出したわけだが。女神様たち相手に羞恥プレイとか……。
特殊な性嗜好を持たない俺にとっては、ただただ恥ずかしい記憶だった。
「どうしたの?」
『な、なんでもないっす。記憶を一部取り戻したからって、目覚めた後も今まで通りでいいんですよね?』
「ええ。そこは安心なさい」
じゃあ、フェンリルのために魔石を集めればいいってことか。
「それにしても……。見ず知らずの子供を助けようとして車に轢かれ、この世界でも死にかけていた子供を助けて旅をして……。本当に子供が好きなのね」
『なんかその言い方嫌なんですけど! まるでロリコンみたいで!』
「うふふ。冗談よ。ああ、そろそろ時間みたい」
『?』
「お目覚めの時間が来たってことよ」
『じゃあ、修復が終わったんですか?』
そう言えば、こんなに意識がハッキリと覚醒したのは久しぶりな気がする。それこそ、台座の前でフランと別れて以来だ。それでいて、一瞬という感覚ではない。長い間、寝ていたことは自分でも理解できている。だから、久しぶりだと思うのだ。
「うふふ。黒猫ちゃんにもよろしくね。それでは、良き混沌を」
それ聞くの2回目! 混沌の女神様のキメ台詞なのか?
〈個体名・師匠の完全覚醒まで、残り60秒〉
『うん?』
混沌の女神様の気配が去ったかと思うと、今度は無機質なんだが温かみもある不思議な声が聞こえた。以前にも聞いたことがある気がするんだが……。
えーっと……。
『あ! アナウンスさん!』
〈是〉
『え? 話せるの?』
〈今だけ会話が可能となっています。ですがすぐに元通りになるでしょう。今は主人格が休眠している際の、緊急措置として力を借りている状態です〉
『えーっと? 主人格?』
俺のことか? つまり俺が寝ている間だけ、普段俺が使っている力がアナウンスさんに与えられ、少しだけ会話が可能になる?
〈個体名・師匠の覚醒と入れ替わりで、仮称・アナウンスさんの能力域が剥奪されます。その前に……。師匠、あなたには再びの感謝を〉
『え?』
〈再度、装備登録者のために力を振るう機会を得ました〉
『でも、能力域が剥奪って……。それって、前みたいに眠っちまうんじゃ……』
〈今後、仮称・アナウンスさんがフェンリルとともに力を取り戻す確率、77%。また、凍結されていた権限の一部が復活しています〉
『つまり、少しは回復したってことか?』
〈是。廃棄神剣の仮想人格を同化吸収し、その力の一部を得たことで一部必要な演算領域を確保しました〉
えーっと、ファナティクスを喰ったことがいい方に働いたってことか?
〈時間がきたようです〉
『アナウンスさん! 俺がフェンリルの力を回復させたら貴方も復活できるんだろ! 俺、頑張るから!』
〈ありがとう――〉
そして、俺の視界に変化が訪れた。
漆黒に塗りつぶされていた視界に一筋の光が差し込んだかと思うと、その光が爆発したかのように膨れ上がると闇を払拭したのだ。
網膜を持たない俺だからこそ直視していられたが。普通の生物であれば目をやられていたのではなかろうか?
色が戻る。
空の青と、平原の緑。
そして、その中央に立っているのは、1人の少女だ。
黒い髪、健康的な肌。凹凸のない体。そして特徴的な黒い猫耳と猫尻尾に、勝気そうな大きな瞳。
忘れるはずも、見間違えるはずもない。
『……フラン』
「師匠?」
今月の終わり頃から、何日間か夏休みを頂くかもしれません。
その際は小説の更新も停止させていただくことになると思いますが、ご了承ください。




