501 真プロローグ・上
どれだけの時間、俺はそこでそうしていたのだろう。
全身を襲う耐えがたい激痛に呻き声を上げ、助けを求めるために霞む目で周囲を見回す。ああ、目の端に溜まる、自分が流した涙が邪魔だな……。
何の意味もなく天に伸ばされた手には、自分から流れ出た真っ赤な血がべっとりと付着しているのが分かる。
「ぐぅ……ぅあ……助け……」
なんで俺がこんな目に……! ぐぅ、痛い痛い痛い痛い……! いっそ楽になれれば……。
「あ……」
あれ? あまり痛くなくなってきたかも? 俺の身を苛んでいた、骨の芯から侵すような痛みと、燃えるような熱さが急に和らいだ。むしろ寒いような……?
こういうとき、痛みを感じない場合の方がマズいという話を聞いたことがある。
ああ、いよいよなのかもな。
そう思ったら、フッと体の力が抜けたのが分かった。
自分を轢いた車への恨みとか、助けた子供の安否とか、自分がいなくなった後の会社のこととか、余計な思考は頭の中から完全に消えている。
今俺の中にあるのは、安堵の気持ちだ。
「……ぁ……」
もう口も動かない。でも、これ以上苦しまずに済むならその方が――。
ああ、本当にもう最期かもしれん。周囲の視界が真っ白に染まって、まるで宙に浮いているかのような解放感が俺を包んでいる。痛みは全くない。何なら、このまま立ち上がって普通に歩きだせそうなほどだ。
「死ぬ……のか……」
『そうじゃのう。このまま何も起こらなければ、そなたは死ぬの』
「……うん?」
『じゃが、救われる道があると言うたら、どうする?』
幻聴? 初めて聞いたが、こんなに鮮明に聞こえるものなんだな。まるで耳元で女の人が囁いているかのようだ。
しかもなんだこの古風な喋り方。
『気持ちは分かるが、幻聴ではない。そなたを救いにきたのじゃ』
幻聴じゃないっていう幻聴……。はは、俺って余程死にたくないのかもな。
『じゃから、幻聴ではないと言うておろうに。まあ、仕方ないがのう。では、これでどうかな?』
パチン。
指が弾かれるような音が聞こえた。そして、視界が再び変化する。
「え?」
「ようこそ、我が領域へ。歓迎しよう」
地面に転がっていたはずの俺は、いつの間にか床の上に座っていた。思わず視線を周りに走らせる。
周囲の白い空間は変わらないが、その広大で果てがあるかどうかも分からない場所に、いつの間にか小さな大地が出現していた。
学校の校庭くらいの広さの平原。その中心に、石作りの荘厳な建物が建っている。なんと言えばいいか……。神殿? そう、それは正に神殿であった。直接見たことは無いが、ギリシャのパルテノン神殿とかそんな感じだろう。
俺はその神殿の目の前に腰を下ろしていた。
そして、唐突に出現したのは地面と神殿だけではない。
「どうじゃ? これでも幻聴幻覚と言い張るかの?」
一人の女性が神殿の入り口の前に立っている。
不思議な衣装、髪型など、目につく物はいくらでもある。だが、俺がまず最初に感じたのは「美しい」という驚嘆の想いであった。
純和風の顔立ちなのだが、驚くほど整っている。しかもそれだけではなく、侵し難い神々しさのようなものも感じることができた。
生命力にあふれる生物的な美しさではなく、女神の彫像に天使が宿って動き出したかのような、人とは思えぬ美しさだ。
しばし息を呑んで女性の顔に見入り、次いでようやく全身を見る余裕が生まれる。
顔立ちと同じで、その姿も和風であった。ただ、古風という感じでもない。その着物は裾の長い十二単のようなタイプではなく、漫画に出てくるクノイチが身に着けているような形をしていたのだ。端的に言えばコスプレっぽい。
薄手で、体にフィットし、長いスリットが入っている。ともすると安っぽいと言われてしまうようなデザインだが、この女性が身に着けているだけで神秘的に思えるから不思議だ。
長い髪の毛や瞳と同じ、漆黒の着物だが、縁や帯は朱色で統一されている。
「ほれ」
「え?」
女性が俺の手を引いて立たせてくれる。その柔らかで温かな感触は、絶対に幻覚であるはずがなかった。
「幻覚……じゃない?」
「うむ。ようやく理解したか。まあ、この姿に関しては儂本来の姿ではないがな。儂の神格と、お主のイメージが混じり合ったものじゃ」
「つ、つまり?」
「お主の想像する神の姿を模した、仮の姿である。この方が話しやすいゆえな」
つまり、俺の頭の中にある神様のイメージってことか? 薄い衣装を身に纏った美女。うむ、自分の俗っぽさに一言物申したいね。
「ていうか神……?」
「我は、冥府と輪廻を司りし存在。まあ、お主の感覚で言えば冥界の神といったところじゃの」
「め、冥界の神……? ハ、ハデスとか? いや、ここは日本だし閻魔様? もしくはイザナミノミコト?」
「どれも正解であり、間違いじゃ。まあ、儂の神格については置いておけ。それよりも、お主の現状についてじゃ」
ああ、そういえば俺ってどうなったんだ? いや、冥界の神様が目の前にいるんだから、死んだんだよな? でも、救われる道があるとか言ってたような……?
「そうじゃな。まあ、これを救いととるかどうかはお主次第じゃがな。1つお主に頼みがあるのじゃ」
「頼み……? 神様が俺に?」
「うむ。話だけでも聞いてくれんかのう?」
「は、はい」
「そうかそうか。では、こちらへ来るがよい」
「あ、ちょっと待って……」
冥界の神が、身を翻して神殿の中に入っていってしまう。こ、ここって俺が入っていいの? 神域的な場所なんじゃ……。
「ほれ、何をしておる。早くこんか」
「は、はい!」
入っていいらしい。俺は慌てて後を追った。そして、さらなる衝撃と出会っていた。
「ようこそ。私は銀月の神」
「ふふ、私は混沌の神よ」
冥界の神に勝るとも劣らない、美女2人が俺を待っていたのだ。




