1301 破邪の狼
余りにも凶悪過ぎるマレフィセントの毒が、邪神の欠片を溶かし殺す。マレフィセントが味方だと分かっていても震えがくる光景だったが、茫然としている暇はなかった。
凄まじい爆音が連続して響き、衝撃が戦場を揺らしたのだ。
南では赤き光が爆ぜ、北では騎士たちの雄叫びが響き、西では悪魔王の放つ黒と金が混じった光が禍々しく踊る。
直後、邪神の欠片たちの断末魔が轟いていた。
邪神の欠片が黒い粒子に分解されながら、消滅していく。
「勝った……?」
フランが呟く。他の仲間たちも、信じられないといった表情だ。
満身創痍で余裕がないということもあるだろうが、それ以上に驚きが強いんだろう。だが、全員がすぐに自失から立ち直った。
遠くから、大勢による勝鬨の声が上がったのだ。それを聞いて、皆が本当に勝利できたのだと実感したのだろう。
シビュラが感情を爆発させる。
「私たちの、勝ちだぁ!」
その声を聞いたフランたちも、続いて喜びの声を上げた。自力で立ち上がれぬ者たちも、手を天高々と突き上げている。
「勝った! 師匠、勝ったっ!」
「ふはは! 勝利である!」
「うむ!」
「倒したのね……!」
「俺たちの勝ちだ! おじちゃん! やった!」
そこに、マレフィセントたちが降りてきた。マレフィセントは憔悴しきっている。邪神の欠片を倒した毒を生み出すために、凄まじい反動と消耗があるんだろう。明らかに回復の効きが悪いようだ。
「マレフィセント、だいじょぶ?」
「ええ……何とか――」
「!」
回復魔術をかけていたフランが、目を見開いて後ろを向いた。一瞬で全身に鳥肌が立ち、顔に大量の冷や汗を浮かべる。
その顔に浮かぶ感情は、紛れもなく恐れだ。ただ、恐怖しているのはフランだけではなかった。
その場にいる全員が同じ方向を見て、同じ表情をしていた。
「なん、で……」
フランが掠れた声で呟く。その瞳には、王城跡地から立ち昇る漆黒の柱が映っているだろう。
さっきまで立ち昇っていたものよりも、明らかに邪気が濃い。それに、邪神気が混じっている。
あれが出現したということは――。
「!」
『でや、がった……』
邪気の柱が弾けるように消え、怪物の姿が露わとなる。
ルオオォォォォォォォォォ!
戦場にいる全ての者たちから希望を奪い去る、悍ましき咆哮。聞いた者の心胆寒からしめるその叫びは、新たなる怪物の産声であった。
第5の邪神の欠片。あってはならない、情報外の絶望。
なぜ、あんなものがいる? 現れた邪神気を纏う怪物をよく見ると、ある事に気付く。やつは、第5の邪神の欠片ではなかった。
宙に浮く巨大な口と、そこから伸びる眼球付きの触手。背部からは長い内臓のような肉塊が伸び、その先からは鞭のような尾が伸びている。口から吐き出されるのは、真っ赤な炎だ。
そう、奴は今まで戦っていた邪神の欠片の集合体のような姿であった。多分、完全復活しておらず、何割かがまだ封印の中に残っていたのだ。だが、完全復活前に半身が撃破されてしまい、4体が合体してようやく1体分になった。そんな存在なのではないか?
不思議と冷静に、そんな分析をしてしまう。それが分かったところで、何ができるというのだ?
誰もが限界を超えている。
俺たちの周囲にいるものだけではなく、あのデミトリスがその場で大の字に倒れ込み、アスモデウスは姿を消し、マレフィセントはペルソナに支えてもらわなければ立っていられない。チャリオットもボロボロで、再生を始める気配がなかった。
『おおぉぉぉぉ……我に従え! 憎み合え! 殺し合えぇぇ!』
邪気の乗った絶叫のような声が、戦場に鳴り響く。フランが耳を押さえて眉をしかめた。それほどの大音量だったのだ。
直後、遠くに見えていた悪魔たちが、次々と墜落していくのが見える。今の悪心の叫びが、影響を及ぼしたらしい。
『うおぉぉぉぉぉぉ!』
さらに、邪気を帯びた火炎が上空に打ち上げられたかと思うと、戦場全域に雨のように降り注いだ。
やはり、4体の邪神の欠片の能力を使えるようだ。戦場にいる人間全てが、絶望に打ち震えている。
もうこれ以上は戦えない。それは明白であった。
逃げるべきか、玉砕すべきか。最精鋭であるはずの騎士たちは判断を下すことができず、強者たちは指示ができるほどの力を残していない。誰もが立ち尽くしていた。そこに、邪神の欠片の攻撃が再度放たれた。
触手の先に付いた眼球から、黒い光線が幾度も放たれる。その数は百を超えているだろうか。
大地を深く削る幾条もの黒い光は、北征騎士団やベリオス軍を切り裂き、騎士や兵士の命を容易く奪った。
しかも、生き残った者たちの中には、同士討ちを始める者が多数出始める。
これだけ広範囲に邪気をばら撒かれては、俺だけで吸収しきることはできない。そもそも、この周辺の邪気を吸うだけでも、もう気が狂いそうな痛みが俺を襲い続けているのだ。
アナウンスさんの声も聞こえない。
それでも俺は痛みをこらえ、ひたすら邪気を吸い続けた。それ以外のことは考えられない。
正直、心が折れかけている。フランはまだやる気があるようだが、どう動けばいいのか分からないのだろう。
それに、俺はどう動けばいい? 全身全霊を懸けて、フランだけを逃がす? いや、フランがそれを望んでいない。フランの剣である俺が、そんな勝手な真似は……。
そんな中、最初に動き出したのはフランでもデミトリスでもチャリオットでもなく、漆黒の巨狼であった。
「グルル……」
「ウルシ!」
先ほどまでへばっていたはずのウルシが、巨大化して邪神の欠片を睨みつけている。足が時々痙攣するように震え、立っているだけでも精いっぱいなのだろう。
それでも、ウルシは猛々しく咆哮を上げる。
「ウオオオオオォォォォォォン!」
魔力も何も籠らない、ただの雄叫びだ。その声からは、強い怒りが感じられた。その怒りは、敵に対しての怒りではない。ウルシが怒っているのは、自分の弱さに対してだった。
ウルシから、震えるほどの熱い感情が流れ込んでくる。
「オフ……」
自分は強くなったはずだ。牙を研ぎ、力を増し、魔術を操る腕も上がった。しかし、足りていない。
フランを乗せて駆ける体、敵を追跡する鼻、奇襲するための影。役に立っているという自負はある。
だが、足りない。自分には、強敵を必ず殺すための牙が足りていない。邪神の欠片にも、足止め以上の攻撃はできなかった。
悔しい。これでは、また置いていかれてしまう。もっと強い牙が必要だ。そのためならば、邪神の欠片すら利用してやろう。
滅邪の神狼の力を得た自分なら、できるはずだ。邪神の欠片を食らい、それを糧とするのだ。そんな想いを、ウルシは抱いていた。
「グルルルル……」
ウルシが、苦しげに唸る。俺と繋がっているため邪気の影響は受けないが、高位存在というだけで逆に支配されかねないのだ。
体内に取り込んだ邪神の欠片の肉片を自身の力に変え、吸収していく。再び、主たちと並び立つために。
「ウルシ……」
フランが不安げにウルシを見上げる。ウルシの苦しみが、フランにも伝わっているのだろう。その全身が痙攣し始めている。
だが、ウルシは苦痛に耐え続けた。そして、その全身が濃密な邪気に覆われる。
「グゥゥウ……オオオォォォォオォン!」
「ウルシ⁉」
フランが驚くのも無理はない。邪気が内側から爆発するように弾けると、その姿が消えてしまったのだ。影に潜った? 違う。
ウルシの姿は、邪神の欠片の真上にあった。元のサイズに戻ったウルシが、フランすら捉え切れない神速で一気に跳び出したのである。
体は小さくなったが、その分ウルシの全身に邪気が満ちていた。今のウルシには、誰もが目を離せない、強者特有の存在感があるのだ。
そして、その前足を邪神の欠片に向かって振り下ろした。
硬い物同士がぶつかり合う鈍い音が響き渡り、ウルシが前足に纏った邪気と、邪神の欠片の障壁がぶつかり合う。
一瞬の拮抗。その時、ウルシの前足だけではなく、その全身から血が噴き出した。邪気の力に耐えきれず、肉や骨が裂けたのである。
だが、ウルシは痛みを力に変えるかのように、食いしばる歯を剥き出しにしながら前足を振り切った。邪神の欠片の黒い障壁が砕かれ、その肉体に深い爪の痕が刻まれる。
「ルオォォォォォオォォ!」
ウルシの雄叫びと共に、邪神の欠片の巨体に深々と爪跡が残されていた。眼球付きの触手が数本斬り飛ばされ、再生する様子もない。邪神の欠片が上げる悍ましい声は、間違いなく悲鳴であった。
信じられない光景だ。
だが、心震わせられる光景だった。
俺たちだけではなく、戦場にいる誰もが鼓舞され、目に光が戻っている。大量の血とともに落下してくるウルシの姿を、全員が凝視していた。
念動で勢いを殺し、フランが受け止める。ウルシを抱きとめるその手は優しく、しかしその目には強い光が宿っていた。
戦場にいる、仲間たちと同じように。
「ウルシ、凄かった」
「オン……」
満身創痍のウルシが、満足げに小さく鳴いた。




