1053 マールの変異
「……ここは、地獄なのか……?」
「違う。分からないの?」
「ああ、私が覚えているのは、我がシードランがレイドスのクソ共に制圧され、姉上たちともども捕らえられたところまでだ……」
レイドス王国の策略によって内乱が発生し、彼女たちは反逆者である兄によって捕らえられたらしい。だが、その兄もレイドス王国に内通していた配下によって追われ、シードラン海国は実質上レイドスに支配されたという。
『その兄って、もしかしてスアレスか?』
「スアレス?」
「知っているのか?」
「ん、戦ったことがある」
シードラン海国の元王族で、水竜艦を使って海賊行為をしていた男だ。今は――あれ? 今、どうしてるんだっけ?
捕まえて、獣人国に引き渡したはずだが……。その後のことは知らないな。
「捕まえて、獣人国に引き渡した」
「そうか……。愚兄も、落ちるところまで落ちたということか。まあ、こんな体にされた私が言えたことではないがな……」
自分の手を見つめ、自嘲するように鼻を鳴らすマール。
「はは……。意識が戻った時には、化け物になって仲間を殺していたんだぞ? どんな悪夢だ」
気丈に振舞っているが、その内心は悲痛な想いで埋め尽くされているのだろう。
目が覚めたら、化け物になっていたんだから当然だ。俺も気づいたら剣になっていたけど、仲間や家族を手に掛けたわけじゃないしな。
マールの長いまつ毛が、微かに震えている。
「種族が、魔人鬼ってなってる」
「なんだそれは……。だが、隷属の呪いから僅かなりとも逃れることができたのも、この化け物の体故か……」
人に対する隷属の呪いが、完全に人ではなくなったマールには意味をなさなくなったようだ。首輪からはまだ魔力が放たれているのに、彼女が支配されている様子はない。
とは言え、完全ではないようだ。
「ふむ……自死はできんか」
マールが自らの胸に爪を突き立てようとして、体が硬直してしまっていた。自殺禁止などの命令が、まだ残っているらしい。
「見ず知らずの相手に申し訳ないが……。私を殺してくれないか?」
「!」
「頼む……」
「……首輪、外せるかもしれない」
「だとしても、意味はない。今はなんとか理性を保てているが、明らかに自分が自分でなくなっていっているのが分かるのだ。首輪などなくても、いつまで理性を保てるか分からん」
マールは申し訳なさそうな表情で、しかし有無を言わさぬ声色で、フランに自分を殺してほしいと頼んだ。
「お前にしか頼めないんだ。お願いだ。今、人として死なせてくれ」
「……っ」
「無理、か?」
その巨体の上に付いた少女の顔が、懇願するようにフランを見る。口調は偉そうだが、その表情は泣き出す直前の少女に見えた。
「だい、じょぶ。だいじょうぶ。私が、貴女を斬る」
「あぁ、そうか……。ありがとう」
安堵したように息を吐くマール。
『フラン。大丈夫か?』
「ん。だいじょぶ」
マールを前に、トラウマを刺激されていたさっきまでとは違う。力強い頷きだった。
マールに直接哀願されたことで、覚悟が決まったらしい。
「私の名前は、マール。マール・シードランだ」
「私はフラン」
「そうか……。フラン、恩に着る」
「ん」
マールはふっと微笑むと、静かに目を瞑ってその首を静かに垂れた。空中で器用に土下座のような体勢になる。
自分の命を差し出す体勢だ。
そんなマールに対して、フランは静かに俺を振りかぶる。
「ここで、君に――フランに会えてよかった。ふはは、短い……。本当に短い時間だが、似たものを感じたぞ? 初めて会った気がしないほどだ」
「ん。わたしも」
「そうか。ああ、あと、水竜は、解き放ってやってくれんか? 私が死ねば、暴れることなく、去るだろう。国はなくなった。いい加減、解放されてもいい」
「わかった」
「ありがとう……。姉上たち、私は、先に逝っております……」
「……おやすみなさい」
少女たちの別れの挨拶。だが俺は、自身のスキルが妙な反応を示しているのを感じた。まるで、スキルが語り掛けてくるかのような?
使い手であるフランの想いに、スキルが応えようとしているのかもしれない。この反応を信じるべきだと、俺の直感が囁いている。
『フラン。魔石だけを狙おう。心臓の右横だ。わかるか?』
「……わかる」
マールが大人しくなったことで、その内の魔力を感じ取ることができるようになっていた。フランも、魔石の位置を理解したらしい。
上段に振りかぶるのではなく、腕を折り畳んで引き絞るような構えに変える。そして、渾身の突きが繰り出された。
「はぁぁぁぁ!」
「っ!」
確かに、マールの内の魔石を貫いた感触があった。膨大な魔力が流れ込んでくる。しかし、俺はそれを喜ぶ暇もなく、複数のスキルを発動した。
知恵の神の加護や情報処理などの補助スキルを最大限使用しつつ、魔力吸収、精霊察知、精霊の手、大魔法使い、金色を限界まで酷使する。
特に重要なのが、精霊の手と金色だろう。本当に微かだが、マールからは精霊の気配がしていたのだ。同時に、金色も自分を使えと唸り声を上げている。
金色は元々は合魔討ちという、複数の存在を合成した存在に特効を得るスキルが進化したものだ。抗魔だけではなく、マールのような存在にも有効であった。
それに加え、埋め込まれた魔石が精霊に近い何かのものだったのだろう。それ故、精霊の手、金色、双方で干渉が可能なのだ。
人に戻すことは、さすがにできないと思う。しかし、その存在を安定させ、暴走しないようにはできるのではなかろうか?
普通の魔獣は、魔石を失えば弱って死に至る。それは、体の様々な機能の維持に魔力を用いており、魔石がなくなるのは心臓を失うに等しいことだからだろう。
しかし、マールは元々人間だ。魔石がなくとも、どうにかなるのでは? そう思えた。
『魔力が、零れていく……』
「くぅぅあああああぁぁぁぁ!」
だが、一筋縄ではいかない。存在を安定させようにも、マールから流れ出す魔力が止まらないのだ。マールの上げる悲鳴と共に、魔力が噴水のように溢れ出し続けている。
『くそ……』
無理なのか? 俺の考えが浅はかだった? 俺が必死になってマールの魔力に干渉していると、不意にフランとマールが声を上げた。
「これ……マールの魔力?」
「これは……温かい。フランの魔力なのか?」
ど、どういうことだ? フランとマールの魔力が干渉しあって――。
《精霊魔術の発動を確認。個体名・フランと個体名・マール・シードランの間で、契約が結ばれました》
『え? 精霊魔術?』




