終章 夢の中での出会い方
風が、シュテルの頬をなでるように吹き抜け、髪の毛を揺らした。船上の揺れも慣れてしまえば心地よいのである。まるで、揺り籠が揺れるみたいだ、とシュテルは思った。揺り籠に揺られるという記憶をシュテルは呼び起こせなかったが、きっと、こんな感じに違いない。身体が持ち上がったかと思うと下がり、上がって、また下がる。ゆったりとしたその動きに、シュテルは安堵を感じた。
西に向かって帰路に着く船上にシュテル達はいた。アルは、飛行機でさっさと帰ると言っていたのだが、リリヤが船で優雅に帰りたいと言い張って聞かなかったのだ。結局、予算はすべてリリヤ持ちということで、アル達一向はインド洋航路の客船上にいるのであった。
夜明けまではまだ少し時間がある。大きな月が夜空に輝き、星はクリスマスの電飾みたいに満天を彩っていた。
日光浴ならぬ月光浴と称して、リリヤがデッキに置かれた、木枠に布張りのビーチチェアで横になっている。人肌には少し肌寒いくらいなのだが、リリヤは気にもならないようで、水着のまま気持ちよさそうにしている。ピンク色をしたセパレートの水着は、豪奢なレースで飾られているにも関わらず、どこか子供っぽい風でもあった。その滑らかな白肌、黒髪と相まって衆目を集めそうなものだが、この時間、デッキに一般客の姿はなかった。この暗さでいったい何から目を守るつもりなのか、リリヤはご丁寧にサングラスまでかけていた。
遠くの方からかすかに響いて聞こえる、機関の規則正しい音にぼんやり気を取られながら、キリはリリヤの水着姿を、さっきからじろじろと見ていた。
頭の先から足の先まで何度も往復する視線を、最初は無視していたリリヤも、ついに声をあげた。
「何よ?」
「何が?」
キリが、本当に何のことか分からないといった顔をして、リリヤに聞き返した。
「さっきから私のことじろじろ見て、何か文句でもあるの?」
「・・・文句? 文句じゃて? ああ、ああ、大ありじゃわ。なんな、そのボデーは。でっかいグレープフルーツみたいなんを誇らし気にぶら下げて、いい気なもんじゃ。見せびらかすのも大概にせいよ。」
「ぐ、グレ・・・!」
反射的に、リリヤが腕で胸を隠した。
「好きでこうなったんじゃないわよ。だいたい、見せびらかしてなんかない。」
どうにも、キリは自分の胸のサイズについて、一種のコンプレックスを抱いているようだった。リリヤの水着姿を目にすると、イライラしてしょうがない。
「見せびらかしているじゃろぅ。見せるつもりがないなら、いつものもっさいコートを着てればいいのに、なんでそんな露出魔みたいな格好をせねばならんて。アホか。」
「くっ・・・! どこで何を着ようが私の勝手よ。嫉妬するだけならまだしも、悔しさまぎれに、いちゃもんつけないでよね。子供っぽい奴。」
「何をぅ。ふん。いいちゃ。うちはシュテルちんに味方してもらう。なぁー、シュテルちん。」
キリはそう言いながら、シュテルの所に駆け寄るなり背後に回り込んだ。
「ほら。シュテルちんはうちのみか・・・た? 味方・・、あ、あれ?」
シュテルの胸を後ろから両手で鷲掴みにしたキリが、顔を青ざめさせている。眉一つ動かさず、シュテルがキリへ言った。
「どうかしましたか、キリさん?」
「い、いや、シュテルちん、意外と、着痩せする方・・・?」
「キヤセ? ああ、肉体的豊満が衣類によって隠されて見えるという、あれですか。さて? 私がそれに該当しますかどうか、自分では分かりかねますが・・・。一肌脱いでみましょうか。」
いきなりその場でワンピースを脱ぎ出そうとするシュテルへ、デッキに上がって来たアルが言った。
「何をしている、シュテル! やめないか、はしたない。」
「マスター。分かりました。」
素直にアルの言葉に従うシュテルと、味方を失って孤軍となった絶望にしおれるキリの後ろの方で、リリヤはもじもじと身体を縮こませている。
アルは、
「リリヤはそこでなにをもじもじしてる。トイレか?」
と遠慮もなく言う。リリヤはすぐに言い返した。
「違うわよ。何かすると、すぐにトイレ、トイレ言うの、やめてよね。私が四六時中トイレに行きたがってる女みたいじゃない。」
「いや、別に何度も言った覚えはないんだが・・・。じゃあ、何なんだ、いったい。こそこそと隠れて、やましいことでもあるのか。」
「べ、別にやましいことなんて、ない、けど・・・。」
リリヤとアルのやり取りを見ていたキリが、リリヤへの反撃の糸口を見つけたようで、見る間に元気になる。にやにやと顔を崩しながら、キリはリリヤに言った。
「リリヤちゃーん。何な、恥ずかしいようじゃの。アル君に水着を見られるのは。」
「ち、違う・・・。」
わよ、と小さな語尾で言い淀むリリヤへますます気をよくしたのか、キリが続けた。
「アル君の視線を浴びたい! この全身で! 身悶えるほどに! でも、ちょっと、恥ずかしいかも。だって、こんなぴらぴらの布切れで隠してるだけだし。いいえ、ここで悩殺しとかなきゃ、女がすたる。ファイトよリリヤ! 勇気を出して、己をされけ出すのよ! と、いったところかのぅ。ぇえ?」
リリヤが向きになって、キリに言った。
「な、何をわけの分からないことを。そんなこと考えてるわけないじゃない!」
「ほぉう。じゃあ、そんなとこで縮こまってないで、出てきたらええんじゃ。ほらほらぁ。」
キリは、リリヤの腕をつかんで、無理矢理ぐいぐいと引き寄せる。月光の輝く下、リリヤの全身がアルの目の前に引き出された。リリヤの肌は真っ白なのだが、顔だけが燃えるように赤くなって、隠れるべきか、誇示するべきか、うろうろと不審な挙動を取った。
キリが、楽しさの頂点に至ったようで、嬉し気に言った。
「ほれぇ。セクシなポーズのひとつも取ったらええんじゃ、そこで。恥ずかしがっても、おもしろ─、いや、みすぼらしくならんじゃろ。」
「言い直した後の方がもっとひどいじゃないの。みすぼらしくなんて・・・。」
リリヤはそう言いながら、ちらちらとアルの反応をうかがっている。当のアルは、何の感動も、感情も表さず、ふーん、と言わんばかりの興味のなさで、リリヤを見ていた。
シュテルが、アルの耳元へ顔を近づけて囁いた。
「マスター。ここは、何らかの反応を見せるのが肝要かと。ミス・リリヤをお褒めになればよろしいのです。」
「・・・何で?」
鈍感もここに極まれりだ。シュテルはただ、
「どうか、一言。」
と譲らない。アルは、シュテルがなぜそんなことを勧めるのかよく分からなかったが、何か気をまわしていることは理解できたし、そうした気の使い方をすることに、むしろ驚いた。シュテルが人間であった頃の感情が、表面に出てきているのかも知れなかった。スパニダエの言葉に、一度は人であったシュテル、いや、ウルスラに戻ったのだ。シュテルの人としての感情、人性とも呼ぶべき記憶が、現れては消える、を繰り返しているのだろうか。
アルは、間近に寄ったシュテルの顔をまじまじと見つめ、それからリリヤへ言った。
「・・・。いいんじゃないか、リリヤ。その水着、似合ってるぞ。」
途端に、リリヤの顔が林檎よりも赤くなり、それでいて、隠しきれない嬉しさに染まった。
「そ、そんなの、当たり前よ。誉めたって何も出ないわよ。」
そう言うリリヤの口調は、有頂天の、と形容しても過言ではなかった。シャツを水着の上からはおりながら、ぺたぺたと裸足のまま、デッキの端まで歩いて行ったきり、海の方を眺めっきりだ。
リリヤの後ろ姿を見ながら、キリが言った。
「あらら。照れちゃってまぁ。」
勝った、とばかりに胸を張るキリを、アルは見ていた。あれほど萎縮し、落ち込んでいたキリがずいぶんと元気になったものだ、とアルは思うのである。
「何じゃ、アル君。うちも水着になれと思っとるのかね?」
アルに見つめられていたキリが言った。
「いや、そんなものは別に見たくはないが・・。」
「そんなものて! えらい言われようじゃの。まぁ、シュテルちんが水着着た方が、喜ぶのかも知れんが。」
「キリ。」
「何じゃ。」
「お前、自分がヒトではないと知ったわけだが、もういいのか?」
「いいって、何が?」
「一頃、あんなに落ち込んでいたじゃないか。」
「ああ。いや、確かに落ち込みはしたけど、いつまでも落ち込んでいられんて。自分がなにもんか、が大事じゃのうて、どうあるか、が大事なんじゃ。」
「ふん。」
「って、シュテルちんが言うてくれた。」
「何? シュテルが・・・?」
アルは驚いて、シュテルの顔を見た。いつの間にそんな話をキリにしたのか知らないが、シュテルがそうした助言をしたことへ、アルは純粋に驚いた。片腕として、テンペレートの一つの「機能」として造り上げたに過ぎないシュテルが、自分の意志や、考えをもって自分の道を歩み始めている。アルは、そう思わずにはいられなかった。
シュテルが、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「おこがましいとも思いましたが、キリさんの落ち込みようがひどかったもので、つい・・・。いけませんでしたか、マスター?」
「いや、いけないということはない・・・。驚いている。」
「驚いて・・・?」
「お前の成長にだ。」
「私は成長しましたか?」
「そう思う。」
「マスターは嬉しいですか? 私が成長して。」
こく、とアルはうなずいた。ぱっ、とシュテルの顔が明るくなって、微笑みともとれるような表情を浮かべた。
その顔を見たアルは、何だか急に恥ずかしくなって目をそらすと、デッキの先の方へ歩き始めた。ソフィアの笑みが、シュテルの笑みと重なって見えたのだ。
「リリヤ。」
と、アルは呼びかけた。
「そろそろ日が昇る。部屋に戻っていろ。」
「分かってるわよ。・・・もう少し。」
早暁の黒い海が、地平線の縁から少しずつ、青みを増していた。日が昇ろうとしていた。シュテルはアルの半歩後ろに控え、一緒に水平線を見つめている。キリは、手すりに置いた手に顎を載せ、髪の毛を指でもてあそびながら、皆と同じ方を向いていた。
シュテルがアルに言った。
「マスター。」
「何だ、シュテル。」
「最近、夢を見るのです。」
「夢を?」
「はい。マスターや、キリさんや、ミス・リリヤが出てきます。」
「・・・・。」
「そして、マスターが言うのです。行くぞ、シュテル、と。」
「何だ、現実とたいして変わらないじゃないか。」
「はい。でも・・・。」
「でも?」
「私は嬉しく思うのです。以前は夢など、見たことがありませんでした。それが、夢の中でもマスターに会えるのです。」
「・・・ふん。」
アルは、少し赤くなってうなずいたきり、黙った。大洋に浮かぶ白雲が明るくなりはじめ、船首が波を切る音はどこまでも優しかった。朝が来るのだ。




