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人造少女は吸血男の夢を見るか?  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
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三章 吸血少女の出くわし方

 アルとシュテルはバスに乗ってカスピ海南岸を抜け、陸路東へ進むこと十日。ここまでのところ、ハンマーヘッドの追撃はない。

 砂色の大地の上、渇いた丘陵の合間を縫うようにして、古びたバスは進んだ。

 何度目かの乗り継ぎを経て、アルとシュテルはカラコルム山脈にさしかかった。それまで続いた砂の光景から一転して、突如、急峰に囲まれながら瑞々しい葉をたたえた、木々の茂る谷間に入った。

 運転手はそこでバスを止め、身振りを交え乗客に何かを伝える。一番後ろの席で、ぼろぼろのポンチョに身を固めるアル達も運転手を見た。ポンチョは、途中、洋服のままだと目立つものだから、野外のマーケットで調達した。

 シュテルがアルに囁いた。

「運転手の方は、何をおっしゃっているのでしょう?」

「ふぅん・・・。どうも、ここで降りろと言っているみたいだな。燃料が・・もうない?」

 アルはこのあたりの言葉を知らなかったが、その身振り、表情、運転席の燃料計を指し示すしぐさから、そうあたりをつけた。

 アル達はバスから降り、他に数人いた客も四方へ散って行った。砂と荒野が続いたせいか、緑の木々が目に痛いほど新鮮だ。山々の奥には、雪を冠する巨大な峰がひかえ、壮大な光景にアルは見入った。

 シュテルはアルのかたわらに立ち、

「心地よい場所ですね。いわゆる、トーゲムキョーというところでしょうか。」

 と、言った。

「桃源郷。そうだな、悪くない場所だ。」

 次の移動手段を確保するまで、しばらくここに滞在しなければならないだろう、とアルは思った。

 小さな町に入り、この辺りで唯一という宿で泊まることにした。小麦で作ったクレープにチーズのはさまったものや、麺と野菜入りのスープを食べる内、日が落ちる。

 窓の外を見ながら、シュテルが言った。

「峡谷の夜は、太陽が高い峰の裏側に隠れる分、早く訪れるのですね。」

「ああ。僕らにとっては嬉しいことだよ。これ、うまいな。」

 アルは、ずず、と、器の底が見えるまでスープをすすった。

 シュテルは、

「まだ、追ってくるのでしょうか、彼らは。」

 と、皿に盛られた干しアンズを、はぷ、とかじりながら言った。

「分からない。けど、まさかこんなところにまで奴らの影響が及んでいるとも思えない。尾行らしい影もない。僕達を見失ったと見ていいだろう。大きな都市に入るまでは、追っ手の心配はないな。」

「はい、マスター。それでも、一応警戒はしておきます。」

「そうしてくれ。」

 アルも、アンズの皿に手を伸ばした。ほのかな酸味と甘さがあり、アルは久々に、気持ちがやわらぐのを感じた。周囲を、ハンマーヘッドの連中に取り囲まれているという感覚は、屋敷にいる頃から感じていた。味方のいない絶海の孤島に立つような気分は、孤独と焦燥を駆り立てた。周りに脅威がないという安堵に、アルは満足した。

 食堂の隅の方で、客が立ち上がった。砂と埃で汚れたフードを頭からかぶり、顔は見えない。フードの客が店を出かけると、店主が慌てて何かを言った。空になった皿とその客を交互に示しながら、しきりに何かをまくしたてる。

 客は初め、無言で立っていたのだが、やがて思い当たったように言った。

「ああ、お金か。そう言えば払ってなかった。ごめんなさい。」

 若い女の声だった。料金を払わずに店を出ようとするなど、かなりのうっかり者だ。あるいは、あわよくば無銭飲食という腹だったのか。

 店主に料金を払い、フードの客は外を見ながら、ため息まじりにつぶやいた。

「いったい、どこに・・・・。」

 外がもう薄暗いため、フードをかぶる必要もないと思ったのか、それをはずす。流れるような黒髪がさらりと背中に落ちた。

 騒動の一部始終を見守っていたアル達だが、その黒髪に見覚えがあった。

 シュテルが短く、

「あ・・・。」

 と声を上げる。

 その声に、黒髪が何気なく振り向き、アルと目が合った。いったい、どういう巡り合わせでこうなるのか。同じ町に住んでいる知人とて、偶然道端で出会うなんてそうあるものではない。それが、山岳奥地のこんな場所で、同じところで食事をしていたとは・・・!

 リリヤだった。彼女は目を丸くして、アルの方を見つめる。

 アルは、さっ、と視線をそらせ、対面に座るシュテルへも、他人のふりをしろと、目顔で伝えた。

 アンズの皿をじっと凝視しうつむく二人のところへ、リリヤが近づく。身をかがめてアルの顔を覗き込もうとするのを、アルはさらに顔をそらし、見られまいとする。

「・・・・アル?」

 と、リリヤが言った。

「ヒトチガイデす。」

 片言を装ってアルが言ったが、リリヤは顔をみるみる紅潮させて言った。

「アルでしょう! 他人のふりしたって、ごまかしようがないわ、その眼帯は。そっちの連れも、あの娘ね。私の思ったとおりよ。まんまと網にかかったわね。」

 シュテルは、顔を上げてリリヤに言った。

「いったいどこに行ったのかと、沈鬱な表情でつぶやいていました。たまたま、私達を見つけただけなのでは?」

「な、なにを馬鹿な。すべては予想通りよ。ここへ先回りして待ち伏せしてれば、必ずあなた達を見つけられると思ったわけよ!」

 どやぁ、というリリヤの顔にアルはちょっとイラついたものだから、

「ふん。予想通りなものか。とりあえず東に向かったという情報を頼りにここまで来たものの、さっぱり見つかる気配がないものだから、途方に暮れてとりあえず、日没と共に起き出して食事をした。そしたら偶然、僕らを目にして、待ち伏せしていたふりをした、というところだろう。」

 と、リリヤを下からにらんで言った。

「な、なんで分かったの・・・?」

 そう言って、はっ、とリリヤは口をつぐんだ。そう言ってしまえば、アルに言われたことを自分で認めるようなものだ。

 アルは続けて言った。

「その靴と服、ずいぶん埃っぽい。ここで待ち伏せたのではなく、方々を探しまわった証拠だ。それに肌の色も悪い。毎晩、夜明けのぎりぎりまで外にいたものだから、若干朝日にやられたな。」

 言われて、リリヤは顔を真っ赤にしながらコートの埃を払い、片手を自分の頬に当てた。

「だ、だから何だって言うのかしら。あなた達がここで私に追い詰められていることに、変わりはないのよ。前回はたまたま見逃してあげただけよ。もうあんな風には逃げられない。」

 アルは、

「たまたま見逃してあげた、じゃなくて、下着を見られて恥ずかしかったものだから、すくんだだけだろう、このイチゴピンク。」

 そう決めつけた。リリヤは隠しきれていない動揺を見せながら、必死になってアルに言い返す。

「イチゴピンクじゃないわ。今日はリボンの・・・!」

 言いかけたリリヤは、さらに動揺して冷や汗までかいている。今日の柄をアルに言ってどうする、とリリヤは自分にツッコミを入れたかった。

 アルとシュテルを追い詰めたというより、リリヤの方がアルに追い詰められているような、そんな構図となっていた。

 そこへ、店の主人がやって来て何かを三人に言い始めた。どうも、かなり怒っているらしい。身振りから察して、騒ぎなら外でやってくんナ、というところだろう。

 アルは、主人に向かって、

「ああ、悪かった。騒ぎを起こすつもりはなかったんだ。もう出るよ。」

 そう言いながら、食事代をテーブルに置いて席を立った。お互い言葉は通じないのだが、主人もそれで納得したようだった。

 三人が食堂を出ると、気を取り直したリリヤが言った。

「観念したようね。仲間を呼ぶからおとなしくしてなさいよ。」

 リリヤはそう言って、きょろきょろ周りを見渡す。シュテルが不思議そうにリリヤを見て言った。

「何をお探しですか、ミス・リリヤ。」

「電話よ。ここじゃ携帯なんてつながんないし、固定電話で呼ぶしかないのよ。」

 そう言うリリヤを無視して、アルはシュテルに言った。

「行くぞ、シュテル。」

「はい、マスター。」

 自分を無視して歩き始める二人に、リリヤは慌てて言った。

「ちょ、ちょっと、逃げる気ね。」

 アルは振り向き、

「逃げはしない。リリヤ。」

 と言って、続けた。

「僕が観念した、と言ったな。それは間違いだ。観念なんてしていない。」

「観念していないですって? だったら、どうするつもりよ。」

「お前を黙らせて、ここを離れる。」

「私を黙らせる? どうやって?」

 素直に訊いてしまうのが、リリヤだった。アルはそれがおかしくて、思わずにやりと笑って言った。

「もちろん、力づくで、だ。」

 そう言うなり、アルはシュテルの手首をつかみ、リリヤとは反対の林の方へ走り出した。

「あ! 待ちなさい! 全然力づくじゃない。逃げてるだけでしょ、嘘つき!」

 リリヤも叫んで、後を追う。霧にでもなってアル達の行く手を阻めばいいものを、慌てるとそういうところにリリヤは気が回らなくなった。走り出して三歩目でつんのめりながら、態勢を立て直し、リリヤは必死に走った。

 細長く林立する木々の中を、シュテルはアルに手首をつかまれたまま走る。意外と、マスターの手は小さいのだな、とシュテルは思った。でも、温かい、とも思った。

「シュテル、シュテル! 聞いてるのか?」

 アルの言葉に、シュテルは、はっ、と我に返った。

「申し訳ありません、マスター。何でしょう。」

「この辺でいいだろう。リリヤを倒せ(’’)。」

「いいのですか、マスター。あの人は、マスターのお友達なのでは?」

「友達? それは少し違う。ただの腐れ縁てやつだ。そんなこと、お前が気にする必要はない。それに、あいつをここで退けておかないと、仲間を呼ばれてやっかいなことになる。あいつが一人でいる、今がチャンスなんだ。」

 アルがそこまで言ったところで、目の前を急に黒い霧がおおった。霧は急速にその密度を増し、人の形をとった。リリヤが立ち塞がった。

「はぁ、はぁ・・。に、逃げられるわけないでしょう、この私から。」

 と、リリヤが息を切らせながら言う。アルは立ち止まって、

「霧になっていくらでも追いつけたくせに走って追うなんて、相変わらず、間が抜けてるな。」

 とリリヤに言った。

「ちょ、ちょっと食後の運動をしただけよ。でも、ここまでよ。少し手荒だけれど、縛ってでもおとなしくさせる。」

 リリヤは姿勢を低くし、戦闘態勢に入った。普段のドジな言動から、どうにも緊張感をまとえないリリヤであるが、こうして黙ったまま攻撃の態勢を取ると、その圧力は飛躍的に増した。黙って襲ってくれば、はるかに手強いのに、とアルは思った。

 次の瞬間、再び霧となったリリヤは、シュテルのすぐ横に姿を現し、いきなりシュテルのふくらはぎへローキックをみまった。

 砂を捲きながら迫ったキックはまともにシュテルの足へ入り、その衝撃でシュテルは中空で180度逆さまになった。が、腕を伸ばして逆立ちとなりそのまま後方へバク転、態勢を整えざま、リリヤのみぞおちへアッパー気味に拳を突き込んだ。

 リリヤはその拳をバックステップで軽々とかわし、あっと言う間にシュテルの懐へ入ると、そこからサマーソルトでシュテルの顎先を蹴り上げた。

 がっ、と鈍い音が響き、足が数十センチも浮かぶほどの衝撃をシュテルは受ける。足が再び地に着くと、シュテルは一、二歩、よろめいた。シュテルの口から血が流れた。

「シュテル!」

 と、アルが叫んだ。

「へ、平気です、マスター。ちょっと、口の中を切っただけ─。」

 シュテルがそう返事を言い終える間もなく、リリヤが猛然と迫った。攻撃のひとつひとつが重い。高速の鈍器をぶち当ててくるようなものだった。

 シュテルを押しまくるリリヤは、不敵な笑みを浮かべて言った。

「ふふ、ふふふ。いくら抗おうと無意味よ。蟻が野良猫に立ち向かうほど、無意味なのよ。沈黙に沈みなさい・・・!」

 それでは自分が野良猫になるとも気づかず、リリヤはそう言って、渾身の一撃を放つ。シュテルの身体が十メートル近くも吹き飛び、吹き飛んだ先で、アルがシュテルの身体をかろうじて受け止めた。

「やはり、純血相手では分が悪いな。」

 と、アルはシュテルを受け止めたかっこうのまま、その耳元に囁いた。劣勢であるわりに、アルの声は冷静だった。

「は・・い。申し訳ありません、マスター。私の力不足ゆえに・・・。」

「お前の力は不足していないシュテル。」

「しかし・・・!」

 珍しく、シュテルは感情をあらわにして言い返した。アルの右腕たる自分でいるには、力が必要だった。何者にも負けない力が。アルの命令を実現できず、役に立てない自分など、この世界に存在してはいけない。シュテルはそう思うと、泣き出したくなるくらい悲しい気持ちになった。

 シュテルは立ち上がろうとするが、がくりと膝が折れる。人造人間といえど、物理的なダメージを肉体に受ければ、機能低下は免れない。

「待て、シュテル。ちょっと、じっとしてろ。」

 アルはそう言って、シュテルの首筋から服の中へ手を突っ込み、背中をまさぐった。

「はぅ・・! マ、マスター、何を・・・?」

 服の中に手を突っ込むアルと、手を突っ込まれて悶えるシュテルを見てリリヤが言った。

「ちょ、ちょちょ、ちょっと、何やってるのよ、人前で!」

 ぱっ、と両手で顔を覆い、リリヤは実に古典的なスタイルで恥じらった。左手の人差し指と中指の間にわずかな隙間があり、そこからしっかりとアル達を覗いているわけだが。

「確かこのあたりのはず・・・。」

 アルはシュテルの背中に、もぞもぞと手を這わせていた。

「マ、マスター、く、くすぐったいのですが・・・。」

 頬をわずかに朱に染めて、シュテルがうつむく。リリヤはそんな二人を見かねて言った。

「し、信じられない。戦闘中にいきなりいちゃつき始めるなんて。」

 信じられない。もう一度そう言って、リリヤは急に腹が立ってきた。自分がなめられている気がしたから、腹も立つ。リリヤはそう自覚したが、アルが背中に手を入れ、恥ずかしそうにうつむくシュテルを見ていると、それ以上に、単純に、お腹の底の方からイラっときた。黒っぽい炎みたいなものが心の中でわき上がってくるのを感じたが、それが嫉妬であると、リリヤは理解していない。

 アルの手が、シュテルの背中にある小さな窪みにとどいた。そこを指先で押すと、カチっ、と小さな金属音が響く。チュイーン、と、発光した後のカメラのストロボ昇圧回路が立てるような音が、シュテルの背中のあたりから聞こえる。

「マ、マスター、これは・・・?」

 自身から聞こえる音と、溢れ出すような力の感覚におののきながら、シュテルが訊いた。

「バッテリーモード、奥の手だ。」

 アルは、シュテルの耳元へ囁くように命令した。

「シュテル、全力でやれ。五分しかもたない。速攻でけりをつけろ。」

「はい、マスター。」

 アルが、シュテルの背中から手を抜いて、ぽんとその背を押した。さっきから二人が何をやっているのか分からないリリヤは、語気を荒げて言った。

「いきなり服の中に手を突っ込んだかと思えば、いったいどういうつもりかしら。捕まるのを見越して、今のうちにそ、そういうことをやっておこうとでも?」

 リリヤは自分で言いながら、顔が赤くなるのを感じた。

 アルは、

「何の話をしてるんだ、リリヤ。お前はもう、終わりだ。」

 と、リリヤに向かって断言した。

「へぇ? 意味が分かんないんですけど。その子だってもう、立ち上がれないみたいだし─。」

 リリヤが言いかけるのに対し、片膝をついたシュテルが、そのままの態勢からリリヤへ跳躍した。相手がもう立てないものと、シュテルへ無警戒に近づいていたところ、完全に虚をつかれた。

「ぅわ!」

 シュテルの飛び膝蹴りをリリヤはまともに受ける。その突進力。その力強さ。さっきまでのシュテルとは、別人のようなスピードと破壊力だ。

「・・・っく!」

 はね飛ばされたシュテルは、空中で態勢を立て直すと、背後に迫った木へ垂直に足をつき、その反動を利用して、シュテルへ反撃する。いや、反撃しようとした。が、シュテルがいない。

 はっ、と頭上を見上げると、リリヤが空中で態勢を整えていたほんのわずかな隙をついて、シュテルがはるか頭上に飛び上がっていた。

「う、嘘でしょ・・・!」

 リリヤがそうつぶやくのと同時に、シュテルの飛び蹴りがリリヤの背中に炸裂した。霧になって攻撃をかわす間もなく、リリヤは地上に激しく打ちつけられた。

「ぐぁっ!」

 と、肺の中の空気が一気に口から漏れたような声をリリヤはあげる。

 完全に形勢が逆転した。重厚な砲弾が木々の間を飛び交うかのようなシュテルの攻撃を前に、リリヤは防戦するだけで手一杯となった。シュテルの突きや蹴りがいちいち重い。しかも、その体さばきが素人のそれではなかった。リリヤのガードの間をすり抜けるようにして、拳や足が急所へ向かって飛び込んでくる。

「く・・・! うぅ・・・。」

 怒濤のごとく打たれまくったリリヤは、ほとんど棒立ち同然になった。シュテルの顔には何の表情もない。優位に立って調子づいた者が浮かべがちな、勝ち誇った笑みなどとは無縁の、冷静に作業を進めているだけ、という顔だ。リリヤはその顔に戦慄した。この相手は、「最後まで」ヤるつもりだ、と。

 いつの間に手にしたのか、シュテルの片手には彼女の腕ほどの太さがある、木の枝が握られていた。先端は残酷なまでに荒々しく尖り、固く乾燥している。

 一瞬、シュテルの攻撃がやみ、軽く三歩、バックステップした。そこから、ぐん、と勢いをつけ、枝を両手に構えたシュテルが突っ込んでくる。その切っ先は、一直線にリリヤの心臓を目指していた。

 やられる、とリリヤは朦朧とした意識の中で思った。ダメージを追った身体ではもはや、霧になることも、かわすこともできない。

 この極限の状態で、リリヤは向かって来るシュテルから目をそらした。なぜ自分でもそんなことをしたのか分からない。今まさに、自分を殺そうとしている相手から、あろうことか目をそらし、いったい何を見ようというのか。無意識のうちに、その視線はアルの姿を探していたのだが、リリヤ自身、そうとは気づいていなかった。ただ、ゆらゆらと自分の視線が泳ぐのを、リリヤは不思議に思った。

 視界を血しぶきがおおった。リリヤが膝から崩れ落ちる。途切れる意識の間際、リリヤが囁いた。

「な、なんで・・・。アル・・・・。」


 目を開いた。薄暗い室内にあって、すすけた黒い木天井が見える。自分がベッドに寝かされていることを、その感触から理解した。全身に痛みが走る。身を起こすのがおっくうだったので、そのまま横になっていることにした。

 どうして自分がここにいるのか、記憶が完全に途切れている。最後の光景。刺された自分の血で、赤く染まる視界・・・。刺された・・・。刺された?

 リリヤは痛みをこらえながら腕を上げ、自分の胸のあたりに触れてみた。傷はない。トク、トク、と心臓もちゃんと鼓動している。

 突然、頭の上の方から声が降ってきた。

「気づいたか。」

 アルだった。痛みに気を取られて気づかなかったが、リリヤの横たわるベッドの端に、アルが腰掛けていた。

「アル・・・? ・・・・ここは?」

「身動き取れないお前とシュテルをここまで運んだ。大変だったんだぞ。」

 私と、シュテルを・・・? シュテル、と呼ばれているのは、アルにつき従っている、あの娘のことか。私を、あろうことか、純血の吸血鬼である私をのした相手。室内を見回すと、そのシュテルが椅子に座ってうなだれていた。眠っているのかと思えるほど、微動だにしないシュテルだったが、そのままの態勢で口を開いて言った。

「マスター、傷の具合はどうでしょうか。」

 アルは、

「まだ少し痛むが、じきふさがる。」

 と言いながら、右手を握ったり閉じたりしている。

 その手を見て、リリヤの記憶がはっきりと蘇った。あの時。シュテルが木の枝で自分の心臓を貫こうとしたまさにその時、アルが自分とシュテルの間に割って入ったのだ。アルの手を、甲まで貫いて、その勢いは止まった。

 アルが、リリヤへとどめを刺そうとするシュテルを止めたのだ。

「な、なんで・・・。」

 と、リリヤはアルを下から見つめて言った。

「なんで、だって? 僕はけりをつけろと言ったが、殺せとまでは言っていない。」

 そう言うアルの言葉に、シュテルがさらに身を固くしたような気配をリリヤは感じた。シュテルが身を固くしたまま言った。

「申し訳ありません、マスター。私は、相手の活動を止めろ、と命じられものとばかり思って・・・。」

「謝る必要はない。お前のお陰で目的は果たせた。」

 枕頭で喋るアルとシュテルを見ながら、リリヤは小さく言った。

「殺しておけばよかったのに・・・。中途半端に生かして、こんなところまで運んで来て、恩でも売るつもり?」

 憎まれ口をたたくリリヤであったが、アルが身を呈して自分の身を守ってくれたことを、正直嬉しく思った。しかし、同時にそれは、吸血鬼としてのプライドをいたく傷つける行為でもあった。ただの木偶人形たるシュテルにやられかけたところを、血を吞まない軟弱者であるアルに、助けられたのである。純血の吸血鬼として、立つ瀬がないとはこのことだった。

 嬉しくもあり、また、悔しくもある、絡まりきったイヤホンのコードみたいな気持ちを無理矢理押さえ込もうと、シュテルは話題を変えて言ってみた。

「まあ、何でもいいわ。シュテル、と言ったわね。ずいぶんしおらしいじゃない。守るべきご主人の手を貫いて、反省中ってところかしら。」

「! ・・・・。」

 アルを自らの手で傷つけてしまったことが、よほどショックであるのか、シュテルはまた身動きしないまま、黙った。代わりに、アルが言った。

「反省ということもあるが、動けないんだよ、シュテルは。」

「動けない?」

 リリヤが聞き返した。

「そう言えば、身動き取れない私とあの子を運んだ、って言ったわね。どういうことよ。」

「充電中なんだよ。」

「充電? 何の?」

「シュテルのバッテリーをだよ。途中から、いきなり強くなっただろ。」

「ええ、そうね。ほとんど別人よ、あれは。」

「シュテルはバッテリー駆動に切り替えることで、短時間だが爆発的に筋肉の力を強めることができる。バッテリーを使い切ると、その反動で動けなくなるけどな。それをやった。」

「反則じゃない、そんなの。」

「霧に変わるお前に言われたくはない。」

「だってそれは、私の持って生まれた技だもの。」

「だったら、シュテルにとっても同じことだ。持って生まれた機能だからな。正確には、僕が持たせた機能だが。」

「あっ、そう。随分良くできたお人形ね。」

 それまで黙っていたシュテルが、そこで声をあげた。

「お人形では! ・・・・ありません・・。」

 よく見ると、シュテルのスカートの裾からコードが伸び、それが部屋のコンセントにつながっている。おそらくそこから充電しているのだろう。

 リリヤは言った。

「コードでコンセントにつながったり、主人の命令を勘違いして相手を殺そうとしたり、それが人形じゃなくて何だって言うのよ。姿が人間に似ているから(’’’’’’)、だから私は人間です、とでも言うつもり? 冗談じゃないわ。人間の似姿をこそ、人形と呼ぶのよ。あなたみたいな存在をね。」

 リリヤの言葉は辛辣だった。シュテルに負けて、追っていたはずのアルにも命を助けられて、結局自分の無能をさらす結果となったその腹いせを、シュテルに向かってしているようなものだった。シュテル個人へさして恨みがあるわけじゃない分、そんな自分をリリヤは情けないとも思ったが、口から出る言葉は止まらなかった。

「何とか言いなさいよ、人形。」

 しかし、とリリヤは思う。人形、人形と呼んではいるものの、果たして、こんなに悲しそうな顔を人形がするのだろうか、と。シュテルのその表情に、涙の一筋でも加われば、それはもはや人形などとは無縁の、生きた人間そのものの感情を表すような気がしてならない。

 アルは、黙ってしまったシュテルをちら、と見て言った。

「リリヤ、そう言うな。」

 シュテルがかわいそうだろ、と危うく口から出かけたが、それは抑えた。ふさがりつつあるものの、まだ大きな傷が残る右手をリリヤに示して、

「これの借りは、返してもらうぞ。」

 と、アルは言う。

「借りを返す? ま、ままさか・・・!」

 ベッドに横たわって思うように身動きが取れない自分と、同じベッドに座っているアル。このシチュエーションから、リリヤの妄想は躍進を遂げ、エッチな要求を勝手に想像した。いろいろとされてしまうのではないか、と。

「や、やれるものならやってみなさいよ・・・。」

 消え入りそうになる声で、真っ赤になった顔を壁際にそむけながらリリヤは言った。

「? やけに素直だな。いいんだな?」

「だ、誰でもいいってわけじゃないのよ。」

 もはや、アルに聞こえるかどうかすら怪しい、声にならないかすれた声で言った。

 アルは、

「誰でもいいわけじゃないって、僕が言う前からよく分かったな。そうだ。誰でも言いわけじゃない。」

 だ、誰でも言いわけじゃない・・・。その言葉を、リリヤは頭の中で反芻した。で、でも、シュテルが同じ部屋に居座っているままじゃ、ちょっと・・・、恥ずかしい。いや、かなり恥ずかしい。

 リリヤはまた、小さな声で言った。

「・・たり、でよ。」

「何?」

「二人きり、でって・・。」言ってるのよ。

 リリヤのかすれて小さな声を聞いて、アルは、

「いや、シュテルも一緒に、三人でだ。」

 と言うものだから、シュテルは驚いた。

「さ、三人!?」

 三人でって・・・!

「い、いくら何でも三人なんて、こ、心の準備が・・。」

「心の準備があろうがなかろうが、やってもらうぞ。拒むというなら、今度こそ、心臓に杭を突き立ててもいいんだぞ。」

 部屋の隅に立てかけてあった、太い木の枝を見てアルが言う。アルの甲を貫いた枝を、ここまで持ってきていたのだ。

 そこまで言うほどに、三人がイイなんて・・・。アルの嗜好を知った気がして、リリヤはとてつもなく恥ずかしい反面、どこか、期待してしまう気持ちもあるような、もう、どうにでもなれという感情のまま言った。

「・・・勝手にしなさいよ・・。」

「よし。よく決心した。では案内してもらうぞ、スパニダエのもとへ。」

 スパニダエという言葉を耳にして、リリヤは途端に凍りついた。上気した顔が、さっ、と青ざめる。

 スパニダエ。ハンマーヘッドの首魁。その名の持ち主を見た者は、ごく一部の限られた幹部でしかない。極東の島国から世界中の眷族へ命令を出し、政治、経済の枢要にも、その部下達を深く食い込ませている。それまで、手のつけられないごろつきの集団、程度に過ぎなかったハンマーヘッドに、悪の秩序ともいうべき統率を巡らせ、まとめた人物である。その影響力は絶大だった。

 自分の走らせていた妄想と、あまりにかけ離れ過ぎた名前が出てきたものだから、リリヤは耳を疑った。

「え? あ、案内? スパニダエ様のもとへ?」

「そうだ。」

「さ、三人って・・・。」

「だから、僕とリリヤ、シュテルの三人で行く、と言ってるんだ。」

「誰でもいいわけじゃないというのは・・・?」

「誰でもいいわけじゃない。他ならぬ、スパニダエに会うんだ。」

「そ、そういう意味だったんだ・・・。」

「どういう意味だと思ったんだ?」

「べ、別に! いいでしょ、そんなこと。」

 まさか、三人でエッチなことに及ぶと想像していた、なんて、口が裂けても言えなかった。のだが、意外にもシュテルから、

「ミス・リリヤの赤面された表情と態度から、まるで、ベッドの上での素敵なことを想像されていたように見受けられました。ものの本には、あのような態度の描写がありました。」

 と、鋭く冷静な指摘が入った。

「そっちからツッコミが! ものの本て何よ? 違うわよ。そんな想像してないわよ。三人でとか、そ、そんなはしたないこと・・・!」

 アルは、リリヤの動揺の仕方からそれを事実と理解したのか、

「リリヤ、なんて勘違いを・・!」

 と、言いながら、顔を赤らめている。

「ち、ちが・・。絶対に違うから。」

 否定すればするほど、勘違いを認めることになるという悪循環に、リリヤは為すすべがなかった。

 リリヤは話を戻そうと、むきになって言った。

「と、とにかく、スパニダエ様のところに案内するなんて、できるわけないわ。私にとっては、ハンマーヘッドを裏切ることになるのよ。」

 アルは、

「裏切りになろうとなんだろうと、お前に選択の余地はない、リリヤ。なんなら、もう一度シュテルにやられてみるか。」

 と、断定するような口調で言った。

「うぐ・・・! つ、次は負けないわ。」

「それに、恥ずかしい勘違いをしていたと、言い触らす。」

「ぇえ? そ、それは・・・。」

 再び、リリヤの顔が赤くなる。それはまずい。むしろ、シュテルに二度負けするよりもっとまずい。

「・・・・・・。」

 リリヤはそれ以上、返せる言葉がなかった。スパニダエのもとにアル達を案内する。それは、組織に対する裏切り意外のなにものでもなかった。組織が裏切り者に容赦ないのは明らかで、伝え聞いたところでは、裏切った者が、丘の上に立てられた杭へ東向きに縛り付けられ、そのまま夜明けを待つ。朝日が昇ると同時にその全身を焼かれるのだ。すぐには死ねない。傷の再生と身を焼かれる状態がせめぎ合い、そして、徐々に弱っていくのである。

 リリヤは、身を焼かれる苦痛を想像し、思わず顔をゆがめた。

 アルは、黙ってしまったリリヤを見て言った。

「僕に秘密を握られたとでもすればいいだろう。隠れ家の場所をすべて把握された。言う事を聞かなければ、それら隠れ家を日の下にさらす、とかなんとか。そうすれば、裏切りにはならない。」

 吸血鬼にとって、日中身を潜める場所の所在は、致命的といえるほど重要な秘密だった。普段、どこに潜んでいるかを暴かれることは、人間が高速道路で大の字になって横になるに等しい。車が避けて通ることを期待するしかないというのと同じで、吸血鬼にしてみれば、「寝床」の場所がばれれば、いつ、太陽という危険にさらされるか、不安におののくことになる。

「ぅう・・・。」

 と、リリヤはうめいた。隠れ家の場所ではないにしろ、恥ずかしすぎる勘違いをネタとして握られたのは事実だ。それに、ここで断れば、今度こそ自分の身がどうなるか分からない。冷然と自分を見下ろすアルの視線を、いやに冷たく感じた。自分の命を助けたのも、結局、スパニダエのもとに案内させるという取引材料にするためだったかと思うと、リリヤは腹が立ってきた。腹立ちまぎれに、

「分かったわよ。言う通りにするわ。でも、私だってスパニダエ様の正確な居所なんて知らないから、大まかな場所だけよ、教えられるのは。」

 と、言い切ってしまった。

 組織から、ひどい目に合わされそうな気がしたし、秘密を握られたからといって、ほいほい言われるままに行動するのは、無能をさらして歩くようなものだ。歩くようなものだったが、アルの隣を、大手を振って歩けるのを、少し嬉しくも思ったリリヤである。

 リリヤは、痛む身体を無理矢理、壁側に向けてアルに言った。

「私、もう寝る。アルも自分の部屋に戻んなさいよ。」

「自分の部屋? 取ってる部屋はここしかない。」

 とアルが言い、シュテルもリリヤへ言った。

「私達の手持ち資金の残りを考えると、この部屋を借りるだけで精一杯なのです。私達は、貧乏です。」

「・・・・。え、じゃあ、あんたもアルも、ここで・・寝るの?」

「はい。」

「はい、って、それが何か? みたいに言い切らないでよ。・・・ま、まぁ、勝手にしたら。」

 リリヤはそう言って、もぞもぞと身体を壁際に寄せ、ベッドに空きを作った。本人は、アルが横になるスペースを作ったつもりだが、アルはそんな行動に気づく気配すらなく、ソファのところへ言って、どさっ、と横になった。

「そ、そっちで寝るの?」

 と、リリヤがアルに言った。

「そうだよ。ここ以外にどこで寝ろって言うんだ。」

「せっかく・・・。」

 スペースを作ったのに、とは言えない。

 突然、チーン、と電子レンジの温めが終わったような音が、シュテルのお腹のあたりから響いた。

 アルはシュテルに言った。

「充電完了したみたいだな。もういいぞ、シュテル。お前も寝ろ。」

「はい、マスター。」

 シュテルはそう言って、壁のコンセントから電源コードを引き抜いた。もぞもぞとお腹のあたりをまさぐったかと思うと、しゅるるっ、と音を立てながら、コードがシュテルのワンピースのスカートの中へと吸い込まれて行った。

 いったい中がどんな風になっているのかリリヤは気になったのだが、それを口にする間もなく、シュテルがリリヤの隣へ横になりながら、

「失礼します、ミス・リリヤ。」

 と言う。

 こっちの来てほしかったのはあんたじゃない、とはさすがに言えなくて、リリヤは、こく、と小さくうなずくことで返事とし、あとはそのまま眠った。窓の隙間から入る穏やかな風が気持ちよくて、アルとシュテルも、すぐに寝息をたてはじめた。


 翌朝。うっすらと目を開けたリリヤは、はっ、と身を強ばらせ、ベッドの端に身を寄せた。部屋の中に差し込む日の光が、リリヤのすぐ脇まで迫っていたのだ。

「アル・・・、アル!」

 と、リリヤは呼んだ。

「・・・ん、何だリリヤ。トイレなら・・・部屋を出て右奥だ。」

 寝ぼけ眼のまま、アルが言うのだが、

「違う! おトイレじゃなくて。朝日が差し込んでるのよ。これ!」

 と、人間にとっては清々しい朝の光条を、いまいましそうに指差しながら、リリヤが言った。

 アルは、

「ん? ああ、そうか。」

 と言うのだが、リリヤに比べ今ひとつ緊迫感に欠ける。血を吞まないため、吸血鬼濃度と呼ぶべき性質が薄いアルにとって、その程度の光ならどうということはないが、純血にして高濃度のリリヤに、その朝日は致命的だった。

 アルはシュテルに向かって言った。

「シュテル。」

 すぅすぅと寝息をたて、深い眠りについていたはずのシュテルだが、その一声でむくりと身を起こし、まだ目も開けやらぬまま言った。

「はい、マスター。」

「カーテンを閉めてくれ。光が入らないようにな。」

「分かりました、マスター。」

 シュテルは言って、カーテンをぴったりと閉めた。

「しかし。」

 と、アルが言う。

「日中屋外で行動できないのは不便だな。・・・ん。よし。シュテル、朝ご飯を食べたら出かけるぞ。」

「はい、マスター。」

「ちょっと、出かけるって、どこに。私は外に出られないわ。」

「それは知っている。買い物だ。」

 アルとシュテル、リリヤの三人は部屋に食事を運んでもらい、野菜入りスープに小麦を練って丸めたものが入った、朝食を食べた。

 それから、リリヤを残しアルとシュテルが出て行った。日中、特に、天気の良い今日のような日では、リリヤとしても逃げようがない。

 部屋の片隅で足を抱えて座り込み、リリヤはぼんやりと、太陽の下を歩くのはどんな感覚なのだろう、と思った。灼熱の太陽は、想像するだけでおぞましく感じるわけだが、血を吞まないという選択をしさえすれば、血の渇きに耐えさえすれば、明るい日の中へ出て行けるのである。一瞬、それもいいかも、と思ったが、すぐに首を振って否定した。日光に耐えうる体質になるまで、恐らく一年以上、血を吞むことを我慢しなければならない。その辛さは、健康な人間が一週間、水だけで過ごすようなものだった。空腹は、意外なほどに耐え難い。

「アルは何で・・・。」

 血を吞まないのだろう。リリヤは、アルの選んだ選択が不思議でならなかった。生物の、吸血鬼としての節理に、完全に反しているのだ。何かよほどの理由がない限り、容易にできることではなかった。

 そんなことを考えている内に、アルが勢いよくドアを開け、戻って来た。

「待たせたなリリヤ。」

「買い物って、何を買ってたの? お金、あんまりないんでしょ。」

「ああ。これだよ。」

 アルは、シュテルが運んできた、大きな皮のトランクを指して言った。シュテルは軽々と持っているものの、人間一人、中に入れそうなくらい大きい。

 リリヤが首をかしげて言った。

「トランク? 何を運ぶ・・・。」

 そこまで言って、リリヤが察したと見たのだろう。アルが言った。

「お前だよ、リリヤ。これで、日中どこにでも行けるぞ。」


 アルとシュテルは、風雨にさらされ、今にも崩れ落ちそうな木製ベンチに座ってバスを待つ。近所の子供達が歓声をあげながらやって来て、二人の異邦者を物珍し気に見つめたかと思うと、他の数人が、かたわらに置かれたトランクに興味を持って、傾けたり、べしべしと叩いたりし始めた。

 すると、

「こらぁ! やめなさい!」

 がたたっ、とトランクが揺れ、くぐもった大声を出すものだから、びっくりするやら、大笑いするやらして、子供達は大騒ぎで逃げて行った。

 アルはトランクの中に入っているリリヤへ、

「子供をおどかすな、大人げない。」

 と言った。

「アルに言われたくないわよ。だいたい、何で私がこんなトランクの中に入って、荷物みたいに運ばれなきゃならないのよ。」

「しょうがないだろ。これ以外に、日中、リリヤと外を出歩く方法はない。それに、居心地も悪くないだろ。」

「う・・・。それは、まぁ。狭くて暗いのは落ち着くけど・・・。」

 ものすごく快適、とまでは言わないまでも、もともと、棺の中で一日を過ごせるような種族だ。暗くて狭い場所が落ち着くのは、(さが)ともいえた。

「日が落ちたら出してやる。それまで、寝てろ。」

「言われなくてもそうするわ。」

 リリヤがそう言うと、トランクは静かになった。

 ちよちよと、小鳥のつがいが横切ってそれきり、辺りはしんとして、静まりかえっている。

「静かな場所ですね。」

 とシュテルが言った。

「ああ。」

 とだけ、アルが返す。しばらく間を置いて、アルがシュテルに言った。

「好きか? この場所が。」

「はい。静かで、自然の深い場所は、不思議と落ち着きます。なぜでしょう?」

「さぁ・・・。」

 さぁ、としかアルには答えようがなかった。あるいは、シュテルが人間だった頃の記憶がまだどこかに残っていて、故郷のようなところを漠然と思い返すのかも知れなかったが、それもはっきりとはしなかった。少なくとも、シュテルに過去の記憶が蘇った素振りなど、まったく感じられない。

 やがてバスが来た。廃車寸前のオンボロバスではあったが、勢いよく砂煙を上げて走ってくると、盛大なブレーキ音をたててアル達の前に止まった。運転手が、くい、と手で二人を招く。「乗れ」という合図だ。

 豊穣の渓谷を後にし、バスは山々の合間を縫う道へと走った。


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