二章 東に向かう歩き方
燃え上がる屋敷を取り囲むように、かなりの数の人影が見えた。男女とも全員が上下黒のスーツを着込み、こみ上げる嗤いと恍惚をないまぜにしたような、奇妙な笑みを浮かべながら、燃え盛る炎を見上げていた。
ぐっと歯をくいしばり、うめくようにしてアルが言った。
「ここはもうだめだ。行くぞシュテル。」
「はい、マスター・・・・。」
ハグヴィラのことが気にかかったが、この状況では手の打ちようがない。ここで飛び出して助け出そうにも、袋だたきに合うのは目に見えていた。
アルがその場を離れようとするが、シュテルが立ったまま動かない。
「どうした。何をしている。」
アルがいらだたしげに言った。この屋敷はアルに残された唯一の拠点だった。ここを失うと、他に身を隠す場所などない。あの炎に包まれれば、ハグヴィラも助からないだろう。アルがいらだつのも無理はなかった。
「はい。あれは何でしょう。」
「何?」
シュテルの指差す林の少し奥まったところに、白い紙片が木の梢に結びつけられていた。目立たないように結ばれているものの、屋敷を見通すこの位置からは、しっかりと見えるように、という意図を感じる。アルは、紙片のところまで行ってそれを広げ、シュテルも横から覗く。
アル様へ
多勢に無勢、屋敷を取り囲まれましたため、早々に脱出いたしました。悪しからず。
忠実なる召使い ハグヴィラ
「くっ・・・! ハグヴィラの奴、さっさと逃げ出しておいて、忠実なる召使いもないだろう。」
紙片を手にするアルの顔を覗き込むようにして、シュテルが言った。
「怒っているのですか、マスター。」
「ああ、怒っている。」
「それにしては、嬉しそうにも見えますが。」
はっとしてアルは紙片を握りつぶし、ポケットの中へ押し込むと、歩き出しながら言った。
「嬉しくなどない。屋敷を燃されて喜ぶ奴があるか。」
「でもハグヴィラは無事そうです。」
「ふん。この程度で死なれてたまるか。」
怒っていると口では言いながら、どこか嬉しそうにも見えるアルの横顔をじっと見ながら、シュテルは不思議に思った。口に出して言うことと、考えていることが一緒にならないこともあるのだろうかと。アルを見ていると、どうやらそういうこともあるらしい、と思えてくる。
突然、林のすぐそばで声が上がった。
「ひぁっ! いたぜぇ! 奴らだ!」
黒服の一人がアル達を見つけたのだ。
「ちっ。行くぞシュテル。」
「分かりました、マスター。」
屋敷とは反対側の林の奥へ向かって、二人は駆けた。絨毯のように降り積もった落ち葉を巻き上げながら走るが、黒服の方が速い。すぐに二人の背後まで迫って来た。
「お前で最後だ! 骨の髄までしゃぶりつくしてやる。」
闇の中、黒服の両目だけが鈍い赤色に輝いた。
アルは、
「シュテル! 僕を抱えて走れ!」
と命じる。
「はい、マスター。」
シュテルはアルを脇に抱えると、一気に加速し始める。木立の間を矢のように駆け抜け、落ち葉は飛び散る水しぶきのようにあたりを舞った。全力で走るシュテルの速さは、人間並みの速さでしか走れないアルの比ではなかった。
どどぉ、と地響きに近い足音を立てながらシュテルは林を抜け、小川を飛び越え、雑草の茂る野原と林を繰り返し走り抜けて町の近くまで来た。
アルがぜいぜいとあえぎながら言った。
「シュ、シュテル、この辺でいい・・・! 一旦止まれ! ・・・ぐぇ!」
シュテルは言われた通りその場で急ブレーキをかけて止まる。反動で、シュテルの腕がアルの脇腹にめり込んだ。さすがに、黒服も後にはついて来ていない。
地面に四つん這いになったアルが、乱れた呼吸の中で言った。
「はぁ、はぁ・・。走るシュテルに抱えられるのがこんなにつらいとは・・・。」
「大丈夫でしょうか、マスター。少し速く走り過ぎましたか。」
シュテルはかがんで、アルの背中に手を当てながら心配そうに言った。
「へ、平気だ。ちょっと酔っただけだ。」
そうは言っても、シュテルと一緒に走るのは最後の手段にしておこう、とアルは思った。座席のないジェットコースターに安全バー一本で身体を固定し、走るようなものだ。小刻みに襲う振動と衝撃、急激に旋回するときの横Gが半端じゃなかった。
シュテルの腕が食い込んだ脇腹をさすりながら、アルは立ち上がって周囲を見渡した。追っ手の気配はない。アルはかたわらで静かに立つシュテルに言った。
「一旦町中に潜伏する。」
「分かりました、マスター・ロートライヒ。」
とにかく、身を隠さなければならない。アルはなるべく裏通りを選んで町の中を進み、歩き回ったあげく、古びた安宿を見つけた。看板は傾き、ネオンの文字はとっくの昔に壊れて、直す気などさらさらない、といった風だが、人目にはつきにくい場所だ。
宿の薄暗いカウンターに行くと、酒瓶を片手にした男が、ぼんやりとテレビを見ていた。その頭はゆらゆらと左右に揺れ、明らかに酔っぱらっている。
カウンターの位置が高かったので、アルはかろうじて頭の上半分だけカウンターからのぞかせ男に言った。
「一晩泊まりたい。部屋はあるか。」
「・・・ぁあん?」
カウンターの男は酒で濁った目をアルに向け、ついでシュテルに目を向けた。酔った頭の回転は鈍く、しばらくシュテルとアルを交互に見つめる。
子供二人だけで来るような場所ではなかった。時間も遅い。姉弟だとして、なぜ年上である姉ではなく、弟の方が自分に話しかけてくるのか、男は理解できなかった。こんな所へやって来る男女の理由にたいした種類はなく、たいてい目的は一つだった。女の方はかなりの美人であったが、目の前の二人にその目的が当てはまるようには見えなかった。
しばらく考えてみたが男は面倒くさくなって、背後から部屋のキーを出し、がちゃりとカウンターの上に置いた。
「606号室。」
男は短く言った。
「よし。それでいい。」
アルはキーを受け取ろうとするが、男はキーの上に手をかぶせたまま、渡そうとしない。
「キーをくれないか。泊まると言ってるんだ。」
とアルが言うと、男は傲然と言い放った。
「前払いだ。」
男の提示した額は、相場の三倍近い額だった。アルとシュテルが訳ありと見て、ふっかけているのが分かったが、アルは言い値をのむしかなかった。
男は金を受け取ると、にやりと片頬に笑みを浮かべ、乱暴にキーを投げてよこすと、再び酒とテレビへ沈んで行った。
「くそっ。足下を見おって。」
エレベーターのドアに貼られた「故障中」の張り紙、ぼろぼろでずいぶん前から貼られっぱなしのそれを見上げながら、アルは悪態をついた。
「足下を?」
シュテルはそう言って、自分の足のつま先を見た。
「いや、そっちの足下ではない。」
シュテルに至る人造人間シリーズの開発に、資産のほとんどを費やしてきた。長年の内に所有してきた土地や株はほとんど売り払い、アルの資産はほとんど底をついているといえた。
古びて、一歩ごとにぎしぎしと音を立てる階段を昇りながら説明するアルの言葉を聞き、シュテルはアルの後ろから言った。
「つまり、私達は貧乏ということになりましょうか、マスター。」
「むぅ・・。身も蓋もない言い方だが、ひとことで言えばそうなる。活動拠点も失った。当面は手持ちの資金でしのぐしかないのだが、こんな時間に僕らのような二人組が場末の宿で、人目を忍ぶように宿をとる。訳ありとみて、高い金額を要求したのだ。」
「それを指して、足下を見る、と。」
「そうだ。」
アルは606号室のドアノブにキーを差し込む。なかなか開かない鍵を、右に左へ回し、ようやくドアが開いた。
狭い、汚い、陰気であると三拍子そろった部屋だったが、贅沢は言ってられなかった。
「僕はもう寝る。」
アルはそう言いながら、シングルベッドにどさっと身を横たえた。
シュテルは、
「分かりました。おやすみなさい、マスター・ロートライヒ。お怪我の具合はどうでしょう。」
と、部屋の入り口近くに立ったまま言う。小さな電球が一個あるのみで、部屋はひどく暗い。
「もう痛みはない。シュテルも・・・。」
寝ろ、と言おうとして、アルは、はっ、と気づいた。
ベッドがない。深くは考えずに部屋をとってしまったが、狭い室内にはシングルベッドと小さなテーブル、椅子が置いてあるのみで、横になれるソファーなどもなかった。
室内を見回して考えあぐねているアルを見て、シュテルは自分の寝床がないことに気づいたのか、暗がりの中からアルに言った。
「私はここで大丈夫です、マスター。見張りも必要になりましょう。」
「・・・そうか。じゃあ頼む。」
一応、シュテルにも睡眠は必要なはずだったが、用心に越したことはない。見張りがいるのも確かだった。アルは靴だけ脱ぐとベッドに潜り込んだ。
「・・・。」
「・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
がば、と起きてアルが言った。
「眠れないだろう、そんなに見つめられては。」
シュテルは、暗い部屋の片隅に立ったまま、アルをじっ、と見つめたままだった。暗がりから凝視する二つの目・・・。いかに吸血鬼とはいえ、誰かに見つめられたままで眠れないのは人と変わりがなかった。
戸惑いの表情を浮かべながら、シュテルが言った。
「私は見張り役ですから・・・。」
「僕を見張ってどうする。」
「は、はい。では後ろを向いております。」
くるりと背中を向けるシュテルだったが、部屋の入り口で人が背中を向けたまま立っているのだ。依然、気になる。アルは言った。
「そこに立たれると、気になって眠れないんだ。」
「で、では、座りましょう。」
狭い室内で、後ろを向いた女子が体育座りの丸まった背中を見せたまま、という状態も、やっぱりアルには気になってしょうがなかった。
「それも却下だ。」
「え・・? では、私はどこにいればよいのでしょう・・・。ああ。」
シュテルは何かを思いついたような顔をして、一片の躊躇もなくアルのベッドに入ってきた。無表情なシュテルの顔が、心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか、とアルは思った。
思ったし、内心、それどころではなかった。かなり焦った。部屋の中でどこに立たれても気になるわけで、そうするとここが一番しっくりくるシュテルの収まり場所ではある。が、シュテルがベッドに入ってくると、自分でも信じられないほどに心臓の鼓動が早まり、焦ったところを見せまいとして、ますます焦った。口を開くと動揺で声が震えそうになる。シュテルがそこで寝ることを拒めば、あるじとして、しもべの行動に動揺したことを認めるような気がして、それもできない。
そもそも、シュテルの言う、ああ、とは、何に気づいた、ああ、なのだ。立ちも座りもできないから、ベッドに収まればよい、と単純に考えたのか、あるいは、アルが言外に誘っているとでも解釈した、ああ、なのか。いや、後者はない。後者であるはずはないのだが、ハグヴィラに何かを吹き込まれたのではないか、という疑念もある。
ぽすっ、と横になり、シュテルはアルを見つめたまま黙っている。
アルは、
「そこに、い、いてもいいが、せめてあっちを向いてろ。」
と言うのがやっとだった。
「分かりました。おやすみなさい、マスター。」
素直に後ろを向くシュテル。ベッドは狭く、アルとシュテルは背中同士をくっつけるようにして眠った。アルは、シュテルの背中を温かいと思った。
「・・・スター。マスター。」
耳元で囁く声がし、アルは泥のようなまどろみから目を覚ました。朝にしては、外がまだ暗い。
「な・・んだ、シュテル。」
「気配がします。」
「何?」
シュテルの言葉に、アルは一気に目の冴える思いがした。意識を集中すると、確かに部屋の外の廊下から数人の気配を感じる。
部屋に入る時、ルームナンバーの書かれたプレートをシュテルに無理矢理外させておいたのが功を奏したのか、一瞬、部屋の前で気配が戸惑う。間違った部屋を襲えば、その騒ぎでアル達に勘づかれるのだ。部屋は間違えられない。
アルは素早く起き上がると、音を立てないよう苦労しながら窓を開けた。ひどくたてつけが悪い。窓の下の通りに人影はなかった。脱出経路に人を置かないのがいかにも素人っぽく、むしろ罠かとも思えたが、他に選択肢はない。
アルは振り返って言った。
「降りるぞ、シュテル。」
「分かりました、マスター・ロートライヒ。」
シュテルは後ろからアルを抱きかかえると、そのまま窓から飛び降りた。
アルがシュテルの胸の感触を背中に感じたと同時に、ずん、と鈍い音を立てて地面に着地する。
頭上であわただしく気配が動く。今の音で異常に気づいたのだろう。
川が近いせいか、周囲には霧がたちこめている。
「気づかれたようです、マスター。」
シュテルが上を見ながら言った。
「ああ、分かっている。行くぞ。」
「はい、マスター。」
シュテルは短くそう言って、走るアルの背後からついてくる。川べりまで出た所で、背後と左右に、気配があるのを感じた。宿を襲った連中から連絡を受けたのだろう。確実にこちらへ近づいている。
「こっちだ。」
とアルは言って、コンクリートで固められた川縁に下りた。川といっても、どぶ川に近い。
霧がアル達の姿を隠してくれるのは好都合だったが、その分視界が悪い。気配だけを頼りに、相手から遠ざかるのだが、待ち伏せされるとひとたまりもない。
「シュテル。開けられるか?」
不意に、アルが足下を見て言った。マンホールだ。
「できます。」
シュテルはそう言って、人差し指をマンホールの蓋にある穴につっこみ、軽々とそれを開けた。
マンホールから下に降りると、ねずみが鳴き声をあげて逃げ惑う。
「マスター・ロートライヒ。」
アルに続いて下りてきたシュテルが言った。
「何だ、シュテル。」
「くさいです。」
「分かっている。いちいち言うな。」
「はい・・・。」
二人はそれから、地下の水路を抜け、路地裏に身を潜め、ビルの屋上を伝って逃げた。だが、ハンマーヘッドの追跡は執拗で、一カ所に留まることができない。
三日を過ぎると、さすがにアルの顔にも疲労と憔悴が色濃く出た。いつまでも、こんな命がけの鬼ごっこを続けることはできない。古い雑居ビルの裏手にある非常階段に座り、アルは重いまぶたをかろうじて開け、うつむいている。
シュテルがアルの横顔を見て言った。
「マスター。具合が悪いのですか?」
「・・・・・。」
「お腹が空きましたか?」
「・・・・・。」
「どうしますか、マスター。」
「うるさい。今考えている。」
考えてはいるが、アルに良い案などなかった。他のテンペレートのところへ身を隠そうにも、彼らから定期的にあった音信は、途絶えて久しい。きっと、今の自分と同じような境遇にあるのだろう。ハンマーヘッドは眷族を増やしつつ、社会の様々な階層、組織に根を張っている。奴らから逃げ続けるのは至難の技だ。といって、反撃を試みようにも力が足りない。テンペレートにとって激しく劣勢に傾いた今、勢力間の均衡を取り戻すのは容易でなかった。不可能に近い。
不可能、という言葉がアルの頭の中で重く響いた。血を吞まないと決めたときから、苦難と困難の連続だったが、今ほど追い詰められたことはない。あまりにも手の打ちようがない状況にあると、思考が停止するんだなと思い、それがアルにはおかしかった。思考が停止するという感覚は、初めてだった。
「マスター。」
黙ってしまったアルへ、突然、シュテルが言った。
「三角形の頂点はどこにありますか?」
「・・・何?」
シュテルが何を言い出したのかまったく理解できず、アルはシュテルの顔を見た。なぞなぞでも出したつもりなのかと思ったが、シュテルの無表情からは何も読み取れない。
「頂点です。ハンマーヘッドのメンバーは、欲望のままにその力をもてあそんでいるようですが、組織立った行動には一定の秩序を感じます。個々が勝手に動いていないのです。そこに勝算があります。」
「勝算・・・?」
「はい。頂点を狙うのです。組織構成の底辺にいる者達からいくら逃れようとしても、きりがありません。全体の意志決定を担うリーダーを翻意させれば、テンペレートとハンマーヘッドの対立もなくなるのではないでしょうか。」
珍しく多弁なシュテルを、アルはじっと見つめた。ハンマーヘッドのリーダーに話をつけるという発想は、正直、それまでのアルにはなかった。ハンマーヘッドの圧倒的な組織力と財力、強硬な姿勢を前に、いつしかテンペレートは、その劣勢を「根底から」どう覆すか、強迫的に考えてばかりいた。
シュテルはもう一度、同じ質問を繰り返した。
「ですから、三角形の頂点はどこにありますか?」
「・・・極東の島国にあると聞いている・・・。だが・・可能なのか?」
可能なのか? とアルはシュテルに聞いて、すぐにそれが馬鹿げた質問だと思い直した。アルは、可能かどうかなんて質問をするほど、自分が弱気になっていることを恥じた。
シュテルはこくりとうなずいて言った。
「「やる」か「やらない」かの問題です、マスター。可能とするにはどうすればよいか、考えればいいだけです。私もいるのです。不可能という文字がマスターの辞書にあるならば、否定してしまえばいいのです。不可能ではない、と。」
「・・・・。」
アルは、あっけにとられて、シュテルを見た。まさか、自分の造ったしもべにこうまで言われるとは、思わなかった。
隣に座るシュテルへ、アルはにやりと笑って言った。
「生意気なことを言うな。だが、その案は有りだ。いいだろう。極東へ向かう。」
アルは立ち上がり、
「主要な交通機関はハンマーヘッドに抑えられている可能性がある。陸路を行く。長く過酷な旅となるが、覚悟はいいか、シュテル。」
と、言った。そこにはもはや、先ほどまで陰鬱に沈んでいたアルはなく、いつものアルに戻っていた。
シュテルはアルを見上げて言った。
「マスター・ロートライヒ。私はマスターの片腕なのです。いつものようにおっしゃってください。」
「ふん。行くぞ、シュテル。」
「はい、マスター。」
・・・数日が過ぎた。ヨーロッパとアジアを結ぶ海峡まで来たアルとシュテルは、海峡を渡る連絡船の待合室で、隅にひっそりと座っている。アルはダウンジャケットにジーパンにスニーカー、眼帯を隠すため、つばつき帽子のキャスケットを目深にかぶっている。シュテルはショートワンピースの上から黒いコートを着、サングラスをかけていた。なけなしの資金をはたいて買った服装だった。
ハンマーヘッドの包囲網をかいくぐり、どうにかここまでたどり着くことができたものの、海峡がアル達の行く手を阻んだ。
乗船客をチェックするカウンターの男達は、一見すると普通の人間ではあるが、赤黒く沈んだ目が異様だ。他の客達は彼らを不気味に思いながら、チケットを見せると、足早に桟橋へと向かう。
視界の端で男達を見て、シュテルが言った。
「マスター。彼らは・・・。」
「ああ。たぶんハンマーヘッドだ。元から職員として働いている者達を、眷族としたのか知らないが、やっかいだな。」
「泳いで渡るというのはどうでしょう。対岸が見えています。」
「船の往来が多い。泳げば必ず人目につく、それに・・・。」
「それに?」
「お前は泳げない。」
「泳げないのですか、私は?」
シュテルが不思議そうにアルを見て続けた。
「しかし、泳ぎ方は本を読んで知っています。実践することも、それほど難しくはないと思うのですが・・・。」
「そういう問題じゃない。お前の身体は水に浮かないんだ。いくつも浮きをつけなければならないだろう。両腕と胴体に浮き輪をつけ、お前の脚力で激しくバタ足でもしてみろ。あっと言う間に海上警察がとんで来るぞ。」
「そう・・・でしたか。」
自分が泳げないとその時初めて知ったシュテルは、いくぶん残念そうにうつむいた。アルは、待合室の窓の外に見える橋に目をやりながら言った。
「トラックの積み荷に紛れて橋を渡ることができれば、一番いいんだが・・・。」
それは真っ先に考えた方法だったが、警察の検問が厳しかった。アル達の逃亡を阻止するためなのか、あるいはたまたまなのかは分からないが、橋も使うことができない。
「結局、木を隠すには森しかないか。だが、正面から行って、乗れるか・・・?」
アルがしばらく様子を探っていると、乗船カウンターに動きがあった。一抱えもある箱を背負った髭の老人が、カウンターの男と何かもめている。老人は行商のようだった。他の乗客の手続きが滞るからと列から外され、なおも言い合いが続く。持ち込もうとしている箱に何か問題があるらしかった。
シュテルがそれを見て言った。
「何かあったのでしょうか?」
「いいぞ。チャンスだ。」
アルはそう言うなり立ち上がり、カウンターに近づいた。くい、と指で招いてシュテルに耳打ちする。
アルが列に並び、乗船チケットを渡そうとすると、カウンターの男がぎろりと睨みつける。その瞬間を狙ったようにして、もめていた髭の老人がド派手に倒れた。シュテルがさりげなく足をひっかけたのだ。相手の身体の重心を見極めて、足をひっかけながら軽く裾を引いただけなのだが、ひっくり返るように転んだ。
転んだ拍子に箱の蓋が開き、中からぶちまけられたのは、ひよこだった。
百羽以上の黄色いひよこが、ぴよぴよぴよぴよと楽し気にわめきながら飛び散り、周囲にいた乗船客達の悲鳴やら笑いやら、子供達の歓声やらで、大混乱に陥った。
アルのチケットを受け取った男も完全に騒ぎへ気を取られ、作業の惰性でそのままアルを通した。シュテルも、何食わぬ顔でチケットを見せ、カウンターを通る。
「よくやったぞ、シュテル。」
と、アルは言った。背後では老人が大きな声でひよこをつかまえてくれと周りに頼み、ひよこ取り大会が始まっていた。子供達の楽しそうな叫び声が響く。
「箱の中身をぶちまけてくれればそれでよかったが、まさかひよことはな。おかげで騒ぎが大きくなった。あの人には悪いことをしたが。」
シュテルはサングラスを外しながら言った。
「ええ。あの方のポケットへお礼のお金を少し、入れておきました。それで勘弁してもらいましょう。」
芸が細かい、とアルはシュテルを見ながら思った。これもハグヴィラ仕込みというやつだろうか。人に金銭的な礼をする余裕などほとんどなかったのだが、アルは何も言わなかった。
出発の定刻間際だったため、アルとシュテルを最後に船は桟橋を離れた。二人はデッキに立ったまま、海と空を眺めた。海峡を抜ける潮風は冷たいが心地よく、夕闇の近づく空は、澄んだ青から群青色へと鮮やかなグラデーションを見せていた。
手すりに寄りかかって顎をのせ、ぼんやりと海を見るアルへ、シュテルは言った。
「不安なのですか、マスター・ロートライヒ。」
言われて、アルはぎくりとした。拠点を焼き討ちされ、頼る仲間もおらず、前途は暗い。不安なのは確かだったが、それをシュテルに悟られたくはなかった。
「不安なものか。何も問題はない。ハンマーヘッドのトップに話をつける。それだけだ。」
「そうですね。シュテルもおります。前に進み続ける限り、問題はないのです。ところで、マスター。」
「何だシュテル。」
「この空を見て、マスターは美しいと思われますか?」
「何だ、急に。」
「刑期を終え、監獄を出た囚人が空の広さと美しさに涙した、と本に書いてありました。けれども、私にはこの空が美しいものなのか、よく分かりません。」
「分からないのなら分からないままでいい。ものの美しさなど、それを美しいと思う奴がいるかどうかで決まるんだ。初めからこれは美しい、これは美しくないと決まっているわけじゃない。僕は・・・、きれいだと思う。」
「なぜですか?」
「難しいことを訊くんだな。・・・吸血鬼にとって青空など、嫌悪と恐怖の対象にしかならないが、血を吞まないことで得られる日の下の自由というものは、確かにある。太陽を憎悪する反面、あこがれもまた強いんだ。だから・・・。」
「だから、きれいだと思われるのですか?」
「そこまでは一般論だ。結局、視界を遮る何ものもないこの空が好きだから、としか言いようがないな。それに。」
アルはそこで口を閉ざした。
暗い物陰から、つんだ花を手に駆け寄る少女の姿とその笑顔を、じっと見つめる自分。アルの脳裏に過去の光景が浮かんだ。ずっと昔の、自分の肉体と精神が、まだ同じ歳だった頃の光景。その時も、空はこんな風に青かった。
急に黙り込んだアルを見て、シュテルが言った。
「どうかされましたか、マスター。」
「いや、何でもない。お前も色々と知れば、この空に何かの感情を抱くこともあるだろう。」
「はい・・・。」
シュテルは遠い目をして空を眺めた。
太陽は西側に見える街並の向こう側へ沈み、薄い残照が残る西の空を眺めて、シュテルは言った。
「マスター、あれは何でしょう?」
「何だ、シュテル。」
シュテルの指差す方向に、黒い胡麻粒みたいな点が、空に浮かんでいた。それが少しずつ大きくなってくる。
目をこらしたアルは、身構えて言った。
「気をつけろ、シュテル。」
点は、人間だった。いや、人間は飛んで来ない。人間の形をした何かが、放物線状の軌跡を描きながら、船へ急速に近づいていた。潮風が冷たいせいか、甲板にアル達以外の人影はない。
「デッキに降りるつもりだ。」
とアルは言った。海岸から既に数キロは離れていたのだが、ここまで一気に跳躍してきたのだ。当然、人間にできる技ではない。ハンマーヘッドに違いなかった。
アルの目には、その姿がはっきりと見えるまでになった。雪よりも白い肌にルビー色の目をした少女だった。長い黒髪をなびかせ、純白のブラウスに黒い紐ネクタイをつけている。ネクタイの赤い留め具が船上からでも見えた。それ以外は、黒いパンツに黒コートと、ハンマーヘッドお決まりの出で立ちだ。
アルは、飛んで来るその少女の顔を見て言った。
「あれは・・・?」
船まで残り五十メートルを切ったあたりで、飛んで来る少女の顔に、はっ、と焦りの表情が浮かんだ。着地ポイントが、ずれている。船の後甲板に降り立てず、盛大な水しぶきを上げて、少女は海へと突っ込んだ。
シュテルが冷静に言った。
「マスター、落ちました。」
「ああ・・・・。落ちたな。」
颯爽と甲板へ降り立ち、動揺するアル達を前にドヤ顔をするつもりであったのだろうが、その目論みは完全に崩れた。
アル達が手すりに駆け寄り、海を見つめていると、落ちたときの波紋が波に消される間もなく、海中から猛然と少女が躍り上がり、今度こそ、甲板に立った。本人自身、海に落ちてかなり焦ったのか、ぜいぜいと肩で息をしている。
すぅ、とひとつ深呼吸をして、少女は決め顔で言った。
「久しぶりね、アル。逃げても無駄よ! 観念しなさい!」
びっ、と指をさし、そう言うのだが、全身びしょ濡れで、モノはいいであろうブラウスもコートも台無しなその姿では、顔と台詞ほどには決まっていない。
アルは、水濡れ少女へ言った。
「相変わらずだな、リリヤ。」
リリヤ、と呼ばれた少女は、アルよりやや年上、シュテルと同じくらいの年頃に見える。燃えるように赤い目と、口からのぞく牙は明らかに吸血鬼のそれであり、ずぶ濡れになってはいるものの、色白の肌と涼やかな目元、顔立ちは、かなりかわいいと言えた。ただし、存在感の放つ圧力が、これまでのハンマーヘッドの追っ手達とは桁違いに大きい。
シュテルがアルに言った。
「マスター、この方は?」
「リリヤだよ。ハンマーヘッドの吸血鬼だ。純血のな。」
リリヤはアルとシュテルを交互に見比べて、表情を曇らせながら何かを言おうとしたのだが、「は・・・、はくちっ!」
と、大きなくしゃみがそれを遮った。鼻水が片方の鼻の穴から垂れる。リリヤはそのまま続けた。
「何? あなたもようやく血を吞んで、眷族を作ったの? 随分とかわいらしい子じゃない。」
アルはリリヤへ言った。
「いや、血を吞んではいないが・・・、リリヤ。」
「何かしら? 今さらポリシーを破って、血を吞んだことの言い訳?」
「そうじゃない。鼻水。」
アルはそう言って、ハンカチをリリヤに投げてよこす。
「あ・・・!」
リリヤは今になって、自分が鼻水を垂らしていることに気づいたのか、恥ずかしそうに鼻水を拭き、ハンカチを見てちょっと考えてから、自分のコートのポケットへそれを突っ込んだ。
「これは洗って返すわ。そんなことより、血を吞んでいないって、どういうことよ? あんたと一緒にいるってことは、ただの人間じゃあないんでしょう。眷族じゃないなら、何なのよ。」
リリヤに鋭い視線を向けられ、シュテルは言った。
「私はマスターによって生み出されました。名を、シュテルと言います。初めまして、レディ・リリヤ。」
「ミス、よ。ミス・リリヤ。って、う、生み出された・・? え、もしかして、む、娘・・?」
吸血鬼は長命なものだから、年齢と見た目は必ずしも合わない。子が人間とのハーフであるとすれば、本人より年上に見える娘がいることはありえた。
シュテルはリリヤに言った。
「娘といえば、そうなるのかも知れませんが・・・。あ、でも、マスターは私の父でも兄でもありません。マスターはマスターなのです。」
「?? つまり、養子ってこと?」
混乱するリリヤへ、アルは言った。
「娘でも養子でもない。僕が造ったんだ、この手で。」
リリヤは、珍しいものを見るように、まじまじとシュテルを眺めて言った。
「造った・・・。人造・・・人間・・? へ、へぇ、器用なことをするものね。自分好みのお人形を連れ従えて、いい気なものね。」
そうは言うが、リリヤは、シュテルがアルの娘ではないと知ってなぜか安心したようにも見える。リリヤは続けた。
「まぁ、いいわ。人造人間だろうと何だろうと、どっちでもいいわ。アル、あなたの身柄を拘束するわ。」
アルはいぶかしげに、
「拘束? 抹殺の間違いじゃないのか。」
と、リリヤに返す。
過去、ハンマーヘッドのアルに対する執拗な暗殺や攻撃は、かろうじて未遂に終わっているものの、拘束などという生やさしいものではなかった。方針を転じたのだろうか。
リリヤは隠しきれない内心の動揺を見せながら言った。
「い、いいのよ。殺す必要まではないし、血を吞むように、更正させればそれでいいんだから。」
アルはリリヤに言う。
「・・・それは上からの命令か?」
「そう! 命令よ。殺すなって。」
嘘だ。リリヤの目が一瞬泳いだのを、アルは見逃さなかった。なぜそんな嘘をつくのか、アルには理解ができなかったが、リリヤはついた嘘を事実として押し通すかのように、断定的に言った。
「アル。これが命令かなんてあなたにとっては関係ない。そっちの子ともども、おとなしくつかまれ。」
にわかに、リリヤの全身から圧倒的な殺気が放たれる。普通の人間なら、それだけで戦意を失いかねない、いわば虎のいる狭い檻へ、武器も持たずに押し込められるような、生物学的戦闘能力の脅威を、リリヤはアルとシュテルへ向けた。
「マスター・ロートライヒ。」
シュテルはそう言って、アルをかばうように一歩前へ出る。
アルは緊張した面持ちで言った。
「シュテル、まともにやりあうなよ。ハンマーヘッドの下っ端どもと違って、こいつは純血だ。ひどく強いぞ。」
「分かりました、マスター。隙を見て、対岸に飛びます。」
シュテルがそう囁くのと同時に、リリヤがシュテルを襲う。動画を三倍速にしたような、猛烈なスピードで間合いを埋めつつ、
「邪魔よ!」
リリヤが裏拳でシュテルを打つ。当然、シュテルは横に吹き飛ぶ、とリリヤは思っていた。
しかし、シュテルは両腕でがっちりとガードし、デッキに踏ん張った足は、ずず、と数センチ横にずれただけだった。
「何?」
リリヤが驚く間もなく、シュテルの左拳がリリヤの腹部に飛ぶ。リリヤは体軸ごと横にスライドし、避けざま、左ハイキックをシュテルに放つが、それもあっけなくかわされた。
リリヤがいったん、バックステップで距離を置いた。
「まぁまぁね。まぁまぁやるじゃない。アル。あなたのお人形、なかなかの性能よ。」
そう言うリリヤに対し、シュテルがわずかに眉をひそめた。
「ミス・リリヤ。私は人形ではありません。アル様のしもべにして右腕なのです。」
「ん? こだわるのね。あなたの存在意義に関わるところかしら。ふふん。なら、右腕としてその役割、果たしてみなさいよ。」
ぼふ、とリリヤの身体が霧状に変化し、次の瞬間、リリヤはシュテルの背後に回り込んだ。霧状から元の姿を現したときには既に、片足が高々と上がっている。そのまま、シュテルの肩へ、かかと落としが炸裂した。
どず、と鈍い音がし、衝撃でシュテルが膝をデッキに着く。
リリヤが勝ち誇ったように言った。
「右腕どころか、小指にすらならなかったわね。沈め。」
シュテルの側頭部へ、風を捲くリリヤの後ろ回し蹴りがまともに入った。シュテルの身体が船の端まで吹き飛ばされる。
「シュテル!」
シュテルへ駆け寄ろうとするアルに、リリヤは立ちふさがった。
「無駄よ。手作り人形程度で、私をどうにかできると思った? おとなしくつかまりなさい。・・・・・・。」
「?」
アルに立ちはだかるリリヤだったが、その視線が急に、熱を帯び始める。
「つかまえるんだけど、その前に、ちょ、ちょっと、味見くらい・・・。」
リリヤが吐息が荒い。呼吸が乱れ、涎を垂らさんばかりの顔でアルを凝視した。吸血鬼にとって、吸血鬼の血は濃厚にして芳醇なエキスだった。吞んだところで眷族にはできないものの、その味に対する欲求はときに抑えがたい。それに、血を吞むという行為がもたらす充足感は、ある種、男女の間におけるベッドの中の素敵なこと、に相当した。
異様な熱気に満たされた視線を向けられ、アルは後ずさった。
「な、何をする、リリヤ。」
「なにって、ちょっと吞むだけよ、その血を。ちょっとぐらいならいいでしょ。ね?」
火照った林檎みたいな半笑いを浮かべて、リリヤはさらに、にじり寄った。
どうする、とアルは思った。血を吞む者たるリリヤに、力づくは通用しない。赤ん坊が総合格闘技のファイターへ立ち向かうほどに、力の差があった。アルがまともに戦って、どうにかなる相手ではない。
その時、視界の奥、リリヤの背後でシュテルがゆっくりと起き上がるのが目に入る。よし、シュテルはまだ大丈夫だ。少しでも時間を稼げれば・・・!
デッキの端へ追い詰められたアルが、とっさにリリヤへ言った。
「リリヤ、透けてる。」
「え? 何が?」
「ブラウスが透けてる。ブラが見えてる。」
白いブラウスの下に、いちご柄ピンクのちょっと子供っぽいブラが、透けて見える。海に落ちて濡れたせいだった。
リリヤは、
「・・・・、ひぃゃっ!」
と、一瞬間を置いて、背中に氷を入れられたみたいな悲鳴を短くあげ、胸を隠した。みるみる顔が赤くなる。
結局、リリヤはおっちょこちょい、というやつなのである。迂闊、ともいえた。このせいで、純血の吸血鬼といえば即、ハンマーヘッドの幹部候補になるはずのところ、いまひとつ地位が上がらない。今回、アルの追跡に自ら関わったのも、手柄を立てたかったからだ。もちろん、それだけが理由ではなかったが。
リリヤは、真っ赤になった顔をアルに向けて言った。
「み、見た?」
「だから、見えてると言った。」
「見えたフリしただけでしょ。」
「フリじゃない。」
「じゃ、じゃあ、言ってみなさいよ。」
「何を?」
「見えたんなら、どんなのだったか言ってみなさいよ。」
「いちご柄ピンク。」
ぼっ、と赤熱の焼け石みたいにリリヤの顔が赤くなった。これ以上赤くなることはできないという、限界の赤さだった。リリヤがわなわなとふるえながら言った。
「よ、よくも・・、私に辱めを・・・! 許さないわ。」
そして、責任取れ、とつぶやいたように、アルには聞こえたとき、
「マスター!」
と、シュテルが叫び、風のように駆け寄った。リリヤの脇をすり抜けざま、アルを抱えると、そのままシュテルは一気に跳躍した。船はいつの間にか、対岸の岸へと近づきつつあり、町の明かりが灯り始めている。
飛び上がったときの急激な加速に耐えながら、アルが言った。
「シュテル! 怪我はないか。」
「問題ありません、マスター。あの程度では。」
シュテルの言うように、見たところ、大きな傷は負っていない。コスト度外視で高強度に設計したのがよかった、とアルは思いながら、ほっとしている自分に気づいた。自分の手による作品の強度が相手の攻撃に勝った、という冷静な感情よりも、もっと直感的な、無事でよかった、という安堵に、アルは戸惑った。
夕闇の濃くなる空で、アルとシュテルは放物線の頂点に達すると、後は下降し始める。アルが後ろを振り向いたが、リリヤが追って来る気配はない。
ずん、と地響きを立てながら、シュテルは海峡沿いの道路を越えたところにある、白い砂地の空き地へと降り立った。幸い、人気はない。
「・・・追ってきませんね。」
船の方を見ながら、シュテルが言った。
「ああ。だが、ここでぐずぐずしてるわけにもいかない。行くぞ、シュテル。」
「はい、マスター。・・・・・。」
シュテルは何かを言いかけるのだが、そのまま黙った。アルはそれに気づいて言った。
「どうした。さっきの戦闘で、調子が悪くなったか。」
「いえ、そうではありません。ただ・・・。」
「ただ?」
「マスター。私は人形なのでしょうか。」
「人形ではない。僕の右腕にしてしもべだ。」
「でも、その前提として、人であるとか、吸血鬼であるとかが決まっていて、その上でしもべや右腕という役割が、与えられるのではないでしょうか。私のとっての前提とは、何なのでしょう・・・・。」
「僕の造った、人造人間だ。だが、どのように生まれたかなんて、たいして重要なことじゃない。シュテル、お前がいなければ、屋敷から逃げることも、今の船上から脱出することもできなかったんだ。それは誇れ。アルドゥンケルハイト・フォン・ロートライヒ第一のしもべにして右腕だと。」
「・・・・、はい・・!」
シュテルは少し嬉しそうに先を行くアルへ追いつき、その半歩後ろを歩くのだった。