一章 人造少女の造り方
固く、鋭い鉄の先が土を穿った。厚く積もった粉雪と共に、土は漆黒の砂糖のごとくやすやすと、シャベルに掘り出されてゆく。
その夜は、激しく吹雪いた。
横なぐりの雪が吹きすさぶ中、枯れきった教会裏手の共同墓地にあって、そのうごめく影は一心に墓を掘り下げつつある。そばに置かれたライトの光が、濃密な雪のカーテンを前に、鈍く明滅した。
影は、老いた墓守達が囁く言葉を思い出していた。人生の終わりに近づいてなお、彼らは死に対して鈍感足りえず、きれぎれに聞こえた粗野な言葉の端ににじみ出るのは、心の底からの同情と、死がまだ自分に訪れなかったことへの安堵だ。
「今時、行き倒れ・・・よ・・・。」
「野垂れ・・・。まだ・・・娘・・・・。」
「食いぶちの一つや二つ、どこにでもあったろうに・・・・。あのツラなら・・・。」
「雪の下・・・、靴屋・・・アレクが見つけた時には・・もう・・・・。」
シャベルの先端が、虚ろな響きを立てて止まった。
影は思う。娘だろうと行き倒れだろうと、何にせよ死は避けられない。誰にでも訪れる。いつだって訪れうる。それが早いか遅いか、ベッドの上で子と孫達に囲まれてか、それとも冷たい石畳の上で気高い孤高のうちにあってか。そこに至る過程は様々だが、そんなものは、大いなる生命停止の現実を前にして、些細な事柄なのだろう。
死は残酷だが、その絶対的事象がどこまでも平等の地平にある限り、そこが安らぎの場であることもまた確かだった。自分は今、その深遠なる安らぎを乱そうとしている。
粗末な棺にかかった土を払いのけると、影は蓋の釘をシャベルで緩め、そしてゆっくりと棺を開けた。舞い散る雪が、棺の中に入り込む。
横たわる死者の顔についた雪を指の裏で優しく拭いながら、その小柄な影は、ライトを近づけた。光に照らされた死者の顔は、青白く輝く月のような肌をした、十九に満たない少女のそれだった。
「上々・・・。」
フードを被ったその奥から、影は無機質な声でつぶやく。
まるで、死者の眠りを妨げまいとするかのように、影はそっと、少女を棺から抱き起こす。少女は美しかった。雪がまた、激しいうなりを上げて突風と共に舞い上がる。
「今度のはまたえらくぺっぴんですなぁぁ、アル様。」
天井が異様に高い地下室に、老婆の言葉が響いた。老婆はかなりの高齢であることを皺の深さは物語るが、伸びた背筋と、広い肩幅が年齢を曖昧に見せている。
「アル様のご趣味ですかなぁ。」
老婆の声が大きい。
声が大きいのは耳が遠いせいか、それとも元々の地声が大きいせいか、アルにはどちらかよく分からない。
アル。年の頃は13、4というところだが、少年と呼ぶには老成しすぎた陰が、その横顔からにじむ。左目を覆う黒い眼帯が、愁いを帯びた右目の陰鬱を、余計に強めているかのようだ。
アルと呼ばれた少年は、眉をひそめるようにして老婆に言った。
「趣味じゃない。身寄りのない死人なんて、そうそう出ないんだ。対象を選ぶ余裕なんてない。」
「おやぁ、そうですか。わたしゃまたてっきり、アル様が見初めた死者を、運んできたのかと思いましたよ。」
「そんなんじゃない。外見なんて、どうだっていいんだ。」
アルはそう言いながらも、じっ、と少女を見た。その隻眼は、少女に見蕩れている気配をすら漂わせる。
縦に置かれた金属製の台に、磔刑のごとく腕を左右に広げた状態で、墓から運び出した少女が固定されていた。少女の腕や足には幾本ものコードが直結されており、それらは地下室内に所狭しと置かれた、古びた装置群へと伸びている。地下室はさながら、古い変電所の様相を呈していた。
時々明滅する切れかけた電灯の下、光がまたたくたびに、少女の白雪みたいな肌が暗闇に浮かび上がる。ぼろぼろの布切れ同然な服から、腕や腹、素足が伸びているのだが、その所々に、大きな傷の縫い目がついている。縫い目は、腹部や胸部、その顔にすらもあり、うつむいた顔にかかるシルクめいた金毛ショートカットの陰で、大きく顔を斜め縦断する線が痛々しい。
老婆が顔をしかめて言った。
「アル様。わたしゃ年は取りましたがね、同じ女として言わせてもらいたい。この娘の傷、どうにかならなかったんですかねぇ。死したる身体とはいえ、顔にまでこんな傷をつけて。かわいそうだと思うのですよ、わたしゃ。」
アルは老婆の言葉を聞き流すように、無言で手元のパソコンを操作している。モニターには、複数の折れ線グラフや円グラフが並び、ATPやBPなど略語表記が並んでいる。
老婆はさらに続けた。
「せめて顔くらい、もうちょっと傷痕が目立たないようにするとか、それくらいの配慮をしてあげてもよかったんじゃあないですか、アル様。これじゃ、鏡を見るたびに悲しむでしょうに。年頃の娘が鏡を前にして沈む様子を、私は見たいとは思いませんね。」
アルはパソコンを操作する手を止め、老婆に向きなおって言った。
「ハグヴィラ。言いたいことはそれだけか。」
「言いたいことなら山ほどありますが、まずはこれくらいにしておきますよ。」
「骨格や臓器の大半を入れ替えたんだ。縫合の痕が残るのは仕方がない。これでも、できる限り目立たないようにしたんだ。それ以上言うな。傷痕が残って、かわいそうだとは僕も思っている。」
「アル様がそう思っていらっしゃるなら、私も追及はしませんがね。そもそも、この行為自体、冒涜のような気がしてなりませんよ。」
「冒涜とは、何に対して。神?」
「この娘にですよ。この娘の死に対する冒涜だと言ってるんです。」
アルは、ハグヴィラのつぶやくような訴えを聞かなかったことにして、再び、作業に没頭し始めた。
ハグヴィラもまた、それ以上は何も言わない。今さら言ったところで、アルがその目的達成を諦めるようなことはないと、ハグヴィラも分かっていた。
アルは少女の前に立つと、少女から目を離さないまま言った。
「よし、いいだろう。ハグヴィラ、始めるぞ。」
「はいはい。」
「ATP活動惹起。電流微弱から開始。」
「ほい、と。」
アルの合図で、ハグヴィラは大仰なレバーをオフからオンに入れ、ダイヤルを少しずつ回す。電流と電圧を示す目盛りが、ゆっくりと数値を上げた。
地下室内の機器が、ブゥン・・・、と低いうなりを上げ室内灯が不規則に明滅し始めた。
「電圧上げろ。」アルの声が響く。
繰り返される光と闇の交錯の中、少女の指がかすかに、動いた。
にや、とアルの片頬に笑みが浮かぶ。
アルは一瞬「溜めた」後、手にしたノートパソコンのエンターキーを押した。わずかな間を置いて、HB、ハートビートと、BP、ブラッドプレッシャー、拍動と血圧を示すグラフ上一線の横棒に、突如、山が生まれた。びくっ、と少女の身体が一回、痙攣する。
「さあ、黄泉返るのだ、この電撃で!」
アルは、Hochspannung Vorsicht(高電圧注意)と下に書かれた大きな赤いボタンを、拳で叩きつけるように押した。
地下室のライトがすべて消え、雷鳴のような轟音と共に少女の身体が数秒の間、青白く光る。激しい音が地下室内に反響し、十本分の落雷が一カ所に集まったかのような、地響きとも、爆裂音ともつかない咆哮が室内を満たす。きな臭い匂いが、一瞬で充満する。
やがて、静寂が訪れた。
ライトがその光を取り戻し、うっすらと白煙を上げる少女の姿が再び浮かび上がる。
「やったか・・・?」
アルが少女に向かって、一歩近づいた時、突然、少女の身体が激しく痙攣を始めた。アルは慌ててノートパソコンの数値を確かめ、ハグヴィラに向かって叫んだ。
「まずい! ニューロンの過剰発射だ。スイッチを切れ、ハグヴィラ!」
ハグヴィラはその年に似ず、電光のような速さでスイッチに寄ると、ガツッ、と大きな音を立てながらレバーをオフに入れた。
だが、少女の痙攣が止まらない。少女は金属台に後頭部を激しくぶつけはじめた。アルはとっさに駆け寄ると、少女の頭の後ろに手をやり、その身体を抱きしめるようにして痙攣の衝撃から少女を守った。あまりの痙攣の激しさに、少女の右腕を固定していたぶ厚い金具が、弾けるように外れた。
数十秒の時が、アルにとって永遠の長さにも思え始めた頃、何の前触れもなく、少女の痙攣が止まった。再び訪れる静寂。アルの腕の中にあって、少女はもはや微動だにしない。
背後からハグヴィラが言った。
「アル様・・・。また、失敗でしたか。」
死者からしもべを造り出す、数えて十三体目のこの実験も、失敗に終わった。
アルは沈痛な無言の内に思う。調整血中濃度も組成も、前回までの失敗をふまえて改良してある。各人工臓器も、これまでにない出来映えだった。何が足りない。なぜ、目覚めない。この試みは結局、不毛な試行なのか。死者から生み出す「人造人間。」作為的に、精巧な有機活動体を生み出すなど、所詮何年かかっても実現しない、夢物語なのだろうか。
ハグヴィラは、完全に沈黙した少女の亡きがらから目をそむけるようにして言った。
「アル様。同じことを言うのが、これで幾度目になるか分かりませんが、血を吞まれればよろしいのではないでしょうか。そうすれば眷族も増やせます。奴らへの対抗手段も持ち得ましょう。吸血鬼の身にありながら、血を吞まないというのは、やはり無理で無茶なのですよ。」
「僕が血を吞まないのは理由があってのことだ、ハグヴィラ。そう言われて、今さら信念を曲げるつもりがないことは、お前も分かっているだろう。くどいぞ。」
「くどいと言われましてもね。こうして毎回毎回、哀れな死者を掘り起こしてきては、アル様の実験に供され、失敗したあげく再び墓に返す。眠りを妨げられた死者の身にもなりなさい、と申し上げているのですよ。いくら身寄りがない者を選んでいるとは言え、罪深さにもほどがあるのです。血を吞まないとあくまでもおっしゃるのなら、この実験以外の方法で、眷族をお増やしになることですね。わたしゃもうみてられませんよ、こんなむごい行い。」
一気にまくしたてるハグヴィラを、アルは、ぐっ、と睨んだ。吸血鬼たるアルの炯眼に睨まれれば、並以上の人間でも恐怖に立ちすくむ。だが、ハグヴィラはアルを睨み返し、ひるむ様子はまったくなかった。ハグヴィラ、この老婆もただ者ではない。
ハグヴィラの言うことは正論だった。だが、血を吞まないアルにとって、眷族を増やす手はこれ以外にない。「血を吞む者達」に抗するためには、この道以外を取りようがなかった。
数秒の睨み合いの後、アルの方から目を逸らして言った。
「成功すればいいんだろう。次はうまくいく。」
ハグヴィラは腕を組みながら、
「前回も前々回も、そんなことをおっしゃっていましたがね。」と、まだ鼻息は荒い。
「次はうまくいく。絶対だ。」
アルはもう一度言い切った。
「この娘を冷凍室に保管しておけ。明日の夜、墓へ戻しに行く。」
そう言って、アルが立ち去ろうとしたとき、服の裾が何かに引っ掛かった。引っ掛かったように感じた。装置の突起にでも服を引っ掛けたのかとアルは振り返り、はっ、と息を飲んだ。
金属台から力なくぶら下がる少女の右手が、アルの服の裾をつかんでいたのだ。
「あ・・・、ぁあ・・。」
少女の口から、吐息とも、うめきともつかない声がもれる。アルが素早く少女の胸に耳を近づけると、かすかに、弱々しくはあるが心臓の鼓動が聞こえてくる。
アルは、
「成功した・・・。」とつぶやいた。
ハグヴィラは、何かに夢中になるとはじまる、いつものアルのひとり言、と気に止めなかったが、アルの硬直した背中にただならない気配を感じた。
「どうかされましたか、アル様。」
と、ハグヴィラはアルの背に向かって聞いた。
「成功してるんだよ。この娘が、稼働している。」
「ぇえ? 何ですってぇ?」
ハグヴィラも慌てて駆け寄って来た。少女の目がゆっくりと開き、アルの目と合った。アルはその目を、美しいと思った。波一つない、火口湖の水面のようだ、とアルはその目を見つめ返しながら思った。
少女の指から力が抜け、そのまぶたが、眠るように再び閉じられていった。
翌朝。屋敷の一画にある空き部屋にアルは向かう。いや、「元」空き部屋か。少女に部屋をあてがい、身の回りの世話をハグヴィラに任せてある。広大な屋敷にはアルとハグヴィラしかおらず、昼であっても廃墟に近い沈黙が屋敷内に漂うのが常であったが、「三人目」がいるという感覚が、アルには不思議だった。
直線に続く廊下の窓から朝日が差し込み、なるべく窓から離れた側をアルは進む。血を吞まないアルは、いわゆる、吸血鬼性とも呼ぶべき特徴が薄れている。日光が苦手であることに変わりはないが、日の光に触れただけで全身が燃え上がる、というほど致命的なものではない。
部屋の前まで来て、アルは扉をノックしながら言った。
「ハグヴィラ、いるか? 入るぞ。」
「どうぞぇ。お入りください、アル様。」
どうぞぇ? ハグヴィラのイントネーションは時々、理解しにくい。
ドアを開けると、少女が椅子に座り、その後ろからハグヴィラが髪の毛をくしけずっていた。
少女は黒いミニワンピースに黒ニーソ、赤いエナメルのパンプスを履いている。胸元には赤いリポン、ニーソには黒薔薇の刺繍が入り、ニーソの上辺にある白いラインが目を引きつけた。
女っ気のない、ハグヴィラも一応女と言えば女だが、「若い」女っ気のない生活が長いアルにとって、少女から、一陣の春風みたいな息吹を感じたのは、気のせいではなかった。
ハグヴィラが、入り口で立ちすくむアルに向かって言った。
「おやぁ。アル様、お顔が赤いですなぁ。この娘、なかなかのものでしょう。私の若かりし頃にひけをとりませんよ。」
「外見はどうだっていいと、言っているだろ。どうしたんだ、その服は。」
「私のお古ですよ。」
お古、と言うわりに、その服には古びた感じがない。つい最近も、ハグヴィラが着ていたのではという疑念に、アルは寒気を感じた。老婆のニーソってどうなんだろう、と。
アルは、
「よ、よくこんな服、持っていたな。ま、まぁ、この娘には似合っているからいいが・・・。食事はどうだ。食べたのか?」と、ニーソを履いたハグヴィラのイメージを振り払うように話題を変えた。
「ええ、そりゃあもう、今朝も美味しくいただきましたよ。」
「お前じゃない、この娘がだ。」
「あ、ああ。ほほほ。この娘がね。」
勘違いをごまかすためか、髪をくしけずるハグヴィラの手が早まる。
「この娘も、パンとスープを少々、まだ量は少ないですが、きちんと食べましたよ。」
「そうか・・・。」
アルは、椅子に座ったまま、じっ、と動かない少女を見た。無機質な表情で、何を思っているのかまったく読み取れない。アルはハグヴィラに言った。
「言葉はどうだ。どこまで通じる? 生前の記憶はほとんどないはずだが・・・。」
「私の言うことをだいたい理解はしているようですが、知能はかなり退行しているかも知れません。アル様のしもべとして働くには、再教育が必要でしょうな。」
「ああ・・・。よし、娘。」
アルは少女に向かって声を掛けた。少女がアルの方を向く。その顔にはあどけなさが浮かび、幼子が初めて猫を見るような、純真なまなざしでアルを見つめた。
「娘。いや、名前が必要だな。そうだな・・・・。今からお前をシュテルと呼ぶ。シュテル。それがお前の名だ。」
「シュ・・テル・・。」
少女が、アルの言葉を反復して言った。
「そして僕が、アルドゥンケルハイト・フォン・ロートライヒ。お前の主だ。」
相変わらず長、呼びにく、というハグヴィラのつぶやきを無視して、アルはシュテルの反応を待つ。
「アル・・・ド・・?」
「呼びにくければ、アル様とでも呼べ。こっちの婆さんが、ハグヴィラ。お前の身の回りの世話をする。」
シュテルは、アルとハグヴィラの顔を交互に見つめ、不意に、こぼれるような笑顔で言った。
「アル・・・サマ。ハグ! アルサマとハグ!」
その笑みがあまりに無垢で、アルは思わずひるんだ。これほどあどけない笑顔を向けられたのは、アルの長い人生の中でも初めての経験だった。
ハグヴィラはにこにこと嬉しそうに、
「そうですよー。私がハグで、こっちのうぶな少年がアル様です。」と言った。
「アルサマ、ウブ! ウブ!」
と、シュテルが繰り返す。
「おい、ハグヴィラ、変なことを教えるんじゃない。僕はうぶではない。」
「おやぁ。シュテルちゃんのあどけない笑みを受けて、たじろいだではありませんか。」
ハグヴィラもよく見ている。アルは語気を強めて言った。
「たじろいでなどいない。もういい。書斎から歴史と数学、語学、物理、化学、ありったけの本を持ってこい。僕がきっちり教育してやる。」
「はいはい、分かりましたぃよ。」
うぶなアル様、とハグヴィラが囁いたような気もしたが、アルはそれ以上むきになって反応するのをやめた。シュテルは子犬のような目をして、いつまでもアルを見つめている。
シュテルの教育を初めてから一ヶ月。その知能発達の速さには、アルも驚かされた。一から知らないことを覚えていく、というより、既に知っていることを、アルに指摘され思い出している。アルにはそんなふうにすら思えた。
小さなテーブルの上に、辞書から歴史書、絵画の目録まで、所狭しと置かれている前にシュテルが座っている。シュテルの姿勢のよさは、ハグヴィラ仕込みだ。
アルがシュテルを中心に、その周囲をぐるぐると歩いて回る。
「このようにして。」
シュテルも身をよじるようにして、アルの姿を追う。
「太陽系における地球は、太陽を中心とした円軌道を描きながら、さらに自身も回転している。」
アルはそう言って、さらに自転を始めた。
シュテルはアルに向かって言った。
「アルサマ。それではワタシ達も、目がマワりませんか。くるくると自分がマワりながら、タイオウのマワりをもマワっていたら。」
アルはぴたりとその場に立ち止まって言った。
「実際には、自転周期と公転周期、それぞれ二十四時間と三百六十五日だ。その程度の回転周期では、目はまわらないよ。地球上の物体はことごとく回転に乗っているわけだし、視覚情報と内耳で感じるバランス感覚に齟齬が発生することもない。」
シュテルはアルの言葉にじっと耳を傾けると、一呼吸置いて、こくりとうなずいた。シュテルは分かったふりをしない。分からないときは何度でも聞き返してくるものだから、アルにしてみると閉口する場面がないでもなかったが、その分、スポンジが水を吸収するようにシュテルの知識は増えていった。
シュテルがふと、思い出したようにアルへ訊いた。
「アルサマはタイオウが嫌いですか?」
「嫌いだ。なぜそんなことを訊く?」
「この前お屋敷の中を一緒に歩いたとき、日の当たらない場所を選んで歩いていましたカラ。なぜアルサマはタイオウが嫌いですか?」
「生まれながらにそうだとしか、言いようがないな。」
「ヒトは皆、タイオウが嫌いですか?」
「そうとも言えない。光合成生態系において太陽は生命の源だ。太陽信仰は世界中至るところにある。極東の神話では、酒盛りをしてわざわざ太陽神を洞窟からおびき出したという話もあるらしいし、太陽が嫌いなのは、むしろ僕らの宿命といったところだ。」
「シュクメーとは?」
「自らの力では変えることのできない運命。吸血鬼として生まれたことの代償だろう。」
「アルサマは。」
シュテルはそこで少し首をかしげて言葉を切った後、続けた。
「ヒトではありませんか?」
「人ではない。」
「では、シュテルはヒトですか?」
「シュテルも・・・、人ではない。」
かつては人だった、とは言わなかった。
「では、シュテルは何ですか?」
「僕の造り出した人工生命、といったところだろう。」
「アルサマがつくりだした・・・。では、アルサマはシュテルのオトーサマですか?」
「お父様? む・・ぅ・・。」
アルは思わず、言葉を失った。シュテルの「第二の」生みの親である以上、アルは父といえば父であったが、アルの外見に対する自覚上、自分が娘を持つような年ではないとも思っていた。つまり、自分はどこまで生きても子供だと思っているふしがある。
シュテルにお前は父親かと問われ、そうだと即答できる心の準備が、アルにはまったくなかった。
「お父様・・・ではないな。せめて、兄とでも思え。」
「兄・・。アルサマはオトーサマではなく、オニーサマ。」
「いや、待て待て。兄でもない。お前は僕の造り出したしもべだ。だから僕はお前にとって、あるじだ。」
「あるじ。マスターということですね。」
「そうだ。父でも兄でもない。しかし、なぜ突然、父だのと言い出したんだ。」
アルは、テーブルの上にあったコーヒーカップを取ってすする。
「ヒトが生まれるシンピ。」
「何?」
「ベッドの中でステキなことをすると、コドモが生まれると聞きました。」
「むぐっ・・! 誰からそんなことを・・・・!」
コーヒーを吹き出しそうになりながら、アルは訊くまでもないと思った。
「ハグから。」
予想通りの答えがシュテルから返る。
「ハグヴィラめ・・・。僕の目の届かないところで、シュテルに何を吹き込んでいる。」
「アルサマ。」
シュテルはどこまでも澄んだ瞳で、アルを見つめながら言った。
「ベッドの中のステキなことって、何デスカ?」
「・・・え?」
「何デスカ?」
「そ、それは・・・、お前にはまだ早い。」
「ワタシにはまだ早いのは、ナゼデスカ?」
シュテルが身を乗り出すようにして、アルに問い重ねた。
アルは、
「早いものは早いのだ。いずれ分かるときがくる。時期がくれば教える。」
と、シュテルのワンピースの胸元からのぞく白パンみたいな二つのふくらみから、あえて意識をそらすようにして、早口で言った。
シュテルが一段とアルに顔を近づけて言った。
「ジキというのはアシタデスカ?」
「違う。」
「では、その次のヒ?」
「違う。もっと先の話だ。」
そこまで聞いて、シュテルはしおれたようにうつむいて言った。
「アルサマ、セーメーのシンピをカクすのですね。ワタシはザンネンです。では、町にでかけたとき聞いてみます。ベッドの中でやる、ステキなこととは何デスカ、と。よかったら、ワタシと一緒にシテみませんかと、皆さんに頼んで─。」
「それだけはやめてくれ、シュテル。」
アルは、シュテルが言い終わる前にその言葉を遮った。冗談ではない。そんなことを言い触れて回られでもしたら、ろくでもない連中にからまれるに決まっている。
アルはシュテルを指差しながら、釘をさすように言った。
「いいか、シュテル。一緒にシテみませんかなんて、人には絶対に言うなよ。特に男にはな。」
「なぜデスカ? ヒトではない、アルサマになら言ってもいいデスカ?」
「それもだめだ。主従の関係にそんな要素を持ち込んではだめだ。」
アルが必死になってシュテルを説得しているところへ、ドアの陰から声が聞こえた。
「おやぁ、アル様。お固いですなぁ。若い内には火遊びの一つや二つ、あってさしつかえるものでもありますまいて。」
いつの間にか、ドアが少し開いて、隙間ができている。ハグヴィラだ。
「ハ、ハグヴィラ! いつからそこに。」
「人が生まれる神秘のあたりから。」
にやにやと怪し気な笑みを浮かべながら、ハグヴィラが、ぬっ、と部屋に入って来た。
アルはその吸血鬼性が薄れているとはいえ、感覚は常人よりもはるかに鋭敏だ。そのアルが、気配に気づかないハグヴィラという老婆も得体が知れない。長くアルにつかえているにも関わらず、時に、この老婆の底が知れないとはアルも思うところだった。
ハグヴィラは、
「私が若い頃には、そりゃあもう。ブダペストの黒百合といって知らぬ者はありませんでしたよ。」
と、得意気に語り出す。
シュテルが興味深そうにハグヴィラへ訊いた。
「ハグはワカい頃、すごかったデスカ?」
「ふふふ。美男、イケメン、細マッチョ、あらゆる種類の殿方をいただきましたものよ。」
「イタダキマシタ? ハグは食べてしまったデスカ?」
「食べたといえばそうだやね。思い出すわぁ、燃え盛るようなあの夏の夜を。」
「もういい。」と、うんざりした顔でアルがハグヴィラの言葉を遮った。
「お前の武勇伝など聞きたくはない。何の用だ、いったい。授業の邪魔だ。」
ハグヴィラは、
「邪魔とはまた失礼な。お食事の用意ができたから、呼びに来ただけですのに。私の不敗神話を聞きたくないとは、アル様ももったいないことをいたしますな。」
と、アルの不満顔を気にするでもなく言った。
アルは、
「不敗神話などと、馬鹿馬鹿しい。」とハグヴィラを相手にせず、なんだ、もうこんな時間か、と懐中時計を見てから続けて言った。
「では、今日の授業はこれまでとする。片付けておけ、シュテル。」
アルはそう言って、部屋の外へと向かう。
ハグヴィラはシュテルの耳のそばへそっと顔を近づけ、
「今度たっぷりと教えてあげるよ。私の秘手をね。」
ぼそりとそう言った。シュテルは何を教えてもらえるのかよく分かっていない様子だが、とにかく教えてもらえるのが嬉しいらしく、こくこくとうなずいている。
アルは首を横に向けて振り返りはせず、
「ハグヴィラ! 余計なことをシュテルに教えるな。」
と鋭く言い放った。
「はいはい、分かっておりますよ。ささ、スープが冷める前に、食堂へどうぞ。」
ハグヴィラはそう言いながら、そんなだから、いつまでも独り身なのですよ、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
シュテルは机の上に広げた本を閉じ、きれいに積み重ねながら、一人囁いた。
「ワタシはもっと知りたいのです。この世界のことを。ワタシのことを。それに、ステキなことって、気になりマス。」
シュテルの教育を始めて三ヶ月が過ぎた。彼女の成長は著しく、その理解力と知識は人間の大人と同等か、時に、それ以上のこともある。
シュテルは、テーブルの上へきれいに広げた新聞を、両手を膝の上に置き、食い入るように読んでいる。
アルは腕を組んで、シュテルの反対側から見下ろすように新聞を見ている。紙面のかなりをさいている、連続誘拐事件の記事が気にかかったのだ。
若い女性ばかりが狙われて、立て続けに六人、こつぜんと姿を消している。この屋敷がある町から、それほど遠くはない場所だ。わずか二日の間に、半径三百メートルのごく限られたエリアで、六人もの人間が姿を消している。これは確かに異常な事件だったが、アルの目には、単なる誘拐事件とは映らなかった。何者かが闇に潜んでいる。警戒を強めなければならない、とアルは思った。
「マスター・ロートライヒ。」
アルの黙考を破るかのように、シュテルがアルを呼んだ。シュテルは新聞を既に読み終えたらしく、分厚く古めかしい革表紙の書物を開いている。この頃は、アルのことをシュテルはそう呼ぶようになっている。
「何だ、シュテル。」
「バルタザールは満腹より空腹を選べと言いました。満たされた欲求よりも、十分には満たされない欲求にこそ価値があると。それは事実でしょうか。」
「ふん。事実でないとは言えないだろうな。何かを望み続けているときにこそ、幸福を感じるのは否定できない。」
「しかし、満ち足りた欲求を目指すからこそ幸福なのだとして、価値があるのは、やはり欲求の充足そのものにあるのではないですか。結果が伴わなければ、いずれ歩みも止まるでしょう。」
「・・・何が言いたい。」
「マスター・ロートライヒ。あなたはなぜ、血を吞まない選択をされましたか。吸血鬼は血を吞みさえすれば、幸福だと本に書いてありました。」
「それは嘘だ。信じるな。僕がなぜ血を吞まないのか、だって? なぜ、そんなことを聞きたがる。」
「あなたは反目する者達に、つけ狙われていると聞きました。私を造り出したのも、血を吞むことで眷族を増やせないからこそ、取った手段だと。」
「ハグヴィラめ。またぺらぺらと。その通りだ。ハンマーヘッドの奴ら、僕を血眼になって探している。」
ハンマーヘッド、血を吞む者達。吸血鬼にとっての吸血は、人の食事にあたる、ごく自然な行為であったが、彼らは一部の血を吞まない吸血鬼と自らを区別する意味で、自分たちの属する集団をそう呼んだ。
対する血を吞まない者達は、テンペレートと呼ばれた。ハンマーヘッドとテンペレートの反目は、最初こそささいな主義の違い、という程度のものであったが、いつともなく始まった報復と復讐の怨嗟の中で、両者の対立は激しく先鋭化した。理解しがたい、相容れない者達を排斥しようとするのは、人も吸血鬼も変わりない。
アルもそのテンペレートに属するわけだが、組織として、テンペレートはもはや風前のともしびといってよかった。もともと少数派であるに加えて、繰り返される復讐の中、テンペレートは著しく衰退した。アルのところにも、他のテンペレートからの連絡が途絶えて久しい。
アルは先ほどの新聞記事とハンマーヘッドの連中を、何らかの関連あるものとして考えていた。奴らの「食欲」は旺盛だ。奴らが行動を起こす時、決まって、その近辺の人間が数人、ひっそりと姿を消す。
アルは、不意に起こった焦りを自分自身に対してごまかすように、ハンマーヘッドとテンペレートのいきさつを早口に説明し、最後に付け加えた。
「つまり、シュテル。お前はテンペレートにとっての、そして僕にとっての切り札なんだよ。眷族を持たない僕にとって、お前はいわば、最初のしもべだ。」
知能が発達するにつれ、どういうわけか、表情の変化を失っていったシュテルなのだが、静かな無表情のまま、アルを見つめてシュテルは言った。
「最初のしもべ・・・。ハグヴィラは?」
「あいつは召使いだ。この屋敷つきのな。僕のしもべとは少し意味合いが違う。」
「シュテルは、マスター・ロートライヒの右腕にして、道具となりましょうか。」
一瞬、かげりを見せたシュテルの表情を不思議に思いながらも、アルは言った。
「そうするべく教育をしている。何だ、不満なのか。」
「いえ・・・・。それで、マスター・ロートライヒ。なぜ、あなたは血を吞まないのか・・・。」
「それは・・・。」
アルが血を吞まない理由は、確かにあった。気分や思いつきではない理由があったが、それをシュテルに話すのは、自分の致命的な弱さをさらすような気がして、アルは理由を明かすのを躊躇した。
アルは、
「お前には関係ない。」
と言ったきり、黙った。沈黙が下りた。柱時計の時を刻む音だけが、部屋の中で妙にはっきりと響いた。
「マスター・ロートライヒ。」
再び、シュテルがアルに訊く。
「何だ、シュテル。」
「シュテルの欲求とは何でしょう。」
「僕がその答えを持つとでも思ったか。自分の胸に手を当てて、よく自問してみろ。」
「シュテルはどこから来たのでしょう。」
墓の中から、とは言えない。
「地下、かな。」
「シュテルはどこに行くのでしょう。」
「僕の行くところ、どこでもだ。」
「シュテルは幸福になれますか。」
「お前次第だ。」
「シュテルは何者なのでしょう。」
「シュテルはシュテルだ。今こうして、僕が話している相手が、シュテルだ。」
「そう・・・ですか。」
シュテルは無表情な顔をうつむけ、黙った。
まずい、とアルは思った。
知識が急速に蓄積される一方、情操がまったく追いついていない。無理もなかった。書物やアルの教育で物事の形式は知ることができるが、実際の経験を得ることはできていない。生まれてまだ三ヶ月しか経っていないという事実が、ここにきてシュテルの精神形成に響いている。いわば、頭上に掲げた知識という名の巨大な重りを、貧弱な身体で支えているようなものだ。足下がふらついて当然だった。
外の空気でも吸わせるか。アルは、うなだれるシュテルを前に思った。知識だけでなく、人と触れ合い、その耳で聞き、その目で見る。シュテルにはそれが必要なのだろう。
だが、シュテルを連れ出すまでもなく、事態は起こる。もっと早くそうするべきだったと、アルは悔やむことになる。
「シュテルがいないだと?」
翌朝、日の昇らないうちからハグヴィラが騒ぎ立てるのに起こされ、アルは一気に目の覚める思いがした。
「そうですよ、アル様。シュテルがいないのです。」
「黙っていなくなったのか。」
「私には一言も。置き手紙のようなものもありません。」
「地下室は? 屋敷のどこにもいないのか。」
「ええ、おりません。」
ハグヴィラはきっぱりと言い切った。いつもトラブルが発生すると、ハグヴィラは必ず断定口調になる。そして、断言した言葉が間違っていることは、一度もなかった。ハグヴィラが屋敷にいないと言うのだから、シュテルは確かにいないのだろう。
「くそっ。こんなときに。」
アルは悪態をつきながら、ベッドから飛び出した。
こんなとき、とは二つの「とき」を意味している。
一つは、シュテルの教育がまだ不完全なとき。シュテルに、外の世界の一人歩きはまだ早い。少なくともアルはそう思っている。
もう一つはハンマーヘッドが近づいているとき。まだ確信には至っていないものの、新聞、ニュースなどの情報を見る限り、ハンマーヘッドの濃厚な気配をアルは感じていた。屋敷にこもって息をひそめるべきときに、シュテルの逃亡とはタイミングが悪すぎる。
アルは灰色のパーカーに黒いズボン、スニーカーというラフな出で立ちで屋敷の玄関に向かいながら、ハグヴィラに言った。
「奴らが近づいている気配がある。僕が留守にする間、屋敷を頼むぞ。」
「ええ。お任せください。軟派な吸血鬼ヤロー共など、一歩たりとも屋敷には入らせませんぞ。」
ハグヴィラはそう言って、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
こういう時のハグヴィラは頼もしかった。
ただの老婆ではさすがにこうはいかない。危機に合って異常なほどに動じないのは、ハグヴィラの性格がなせるわざか、あるいは経験のなせるわざか、アルには分からなかったが、それはどちらでもよかった。この不敵な冷静さこそ、ハグヴィラを屋敷婆として置いている最大の理由だった。
「よし。行ってくる。」
そう言い残して、アルは屋敷を出た。このときばかりは、ハグヴィラも召使いらしく丁寧に礼をしてアルを見送った。
幸い、外は曇りだった。直射日光に当たって焼死するわけではないにしても、さすがに照りつける太陽の下を歩くのは苦しいアルにとって、鈍色の曇天は嬉しい。
フードを目深にかぶって、アルは足を早める。地方小都市のさらに郊外となるこの辺りは、ヨーロッパの辺境と呼べるほどうらさびれていた。車の通りもまばらな道を、町へ向かってアルは走る。
シュテルはいったいどこへ行ったのか。
アルには、シュテルが向かった先として思い当たる場所などなかったが、ただ、人の多く集まるところへ行ったような気がしてならない。
どうして屋敷を抜け出したのか、その理由はシュテル本人に問いただすしかないとして、ひとけのない森の中や、山中へシュテルが向かうとは、考えられなかった。シュテルに今あるのは、好奇心と、それに匹敵する、自分自身の存在に対する疑問じゃないのか。自分が何者であるかを知る為に、無意識の内に他者へ寄り添おうとするのは、ありえることだ。
「人のいるところ・・・か。」
アルは近郊の町へ向かって、足を早めた。
シュテルにとって、外の世界にあるすべてが刺激に満ちあふれていた。風の運ぶ草の匂いからアスファルトの感触、時々聞こえる鳥のさえずり。
町に近づくにつれ、多くなる人、人、そして人。皆一様に、どこか目的地へ向かって歩いているようだったが、シュテルにはそれが不思議でならなかった。
「皆、どこへ向かうのでしょう・・・。」
どこかに向かうということは、目的地があるということだ。目的地があるということは、つまり、その時点において行動する意味、言ってしまえば生きる意味を持っていることに他ならない。立ち止まっている人間が誰一人としていない光景は、無言の圧迫をシュテルに与えた。
「これは・・・?」
パン屋の前に立つ。焼きたてのパンの香りが食欲をそそった。
「あれは・・・?」
花屋の前に立つ。ハグヴィラの育てるゼラニウムを思い出した。
ブティックの前に立つ。華麗に着飾ったマネキンのたたえる沈黙の笑みに、シュテルは自分自身を見た気がした。
銀行の前に立つ。スーツを来た人間がいかめしく働き、並んで待つ人々は放心したようにテレビを見ている。彼らも、目的があって並んでいるのだろうとシュテルは思う。
シュテルは町を見て歩いた。
人と物と車と、あらゆるものがぐるぐると動き続け、シュテルはそこに、回転する歯車のイメージを見た。歯車の外に立って、自分の居場所がないとシュテルは感じた。
いつの間にか、夕方になっていた。黄昏時のラッシュが始まる中で、シュテルは気になる者を目にした。
歩道脇にうずくまる、ホームレスの前に立つ。じっとシュテルが見つめていると、見つめられていることに気づいた初老の白ひげ男が鋭く言った。
「何見てやがる。見せもんじゃあねぇ!」
シュテルは眉ひとつ動かさず、男に言った。
「見せ物でないことは存じております。あなたは、ここで何をなさっているのですか?」
何の躊躇もなく自分の隣に座るシュテルを見て、男は狼狽した。道を行く人々が、何事かと好奇の目を向けた。若い娘が、ホームレスの隣に座り込んで話をしている。男とシュテルの組み合わせは異様だった。
男は自分が狼狽したことを隠すように、さらに邪険な態度で返事をする。
「俺が何をしようと勝手だろうが。何もしてねぇんだよ。」
「何もしていないということは、どこにも向かっていないということでしょうか。」
その言葉に、男は激高した。
「てめぇ! なんなんだよ! どこにも向かってねぇのがいけないってのか! どこかに向かってなきゃ、生きてる意味がねぇって言うのか!」
シュテルには、男がなぜ怒ったのか理解できなかった。
「怒らせてしまったのであれば、謝ります。ただ、私はどこにも向かわないことが、いけないことだとは申しておりません。」
慇懃に謝るシュテルの態度に、男はますます興奮して、口の端からつばが飛ぶ勢いで言った。
「腹の立つ女だ! 俺にいったい何の用がある。金か? 俺から得られるもんが何一つねぇことは、見りゃわかるだろうが! とっととどっかに行け! 行けって!」
シュテルは黙って男を見つめ、男の怒気にまったく動じることなく言った。
「何かを得ようと思って話しかけたのではありません。ただ、皆が一心に動き続ける中にあって、あなただけが動いていない。あなたは特別だと感じたのです。」
自分が激しく怒っているのに対し、シュテルがあまりにも冷静なものだから、男は大きく息をついた。久々に怒鳴ったものだから疲れた、とでも言いたげだった。
「なんなんだよあんた。何かがほしいわけじゃないなら、どうしたいんだ。」
「お話を。」
「話?」
男はそのとき初めて、シュテルを見た。それまで、男はシュテルの目を見て話していなかった。顔に大きな傷が縦走しているものの、美しい娘だと男は思った。その傷を不憫に思ったわけだが、同時に、冷たい寂しさをその表情に見た。まるで、真冬の大理石に触れたみたいだと、男は思った。
「・・・・。ここじゃあ人目がうるさい。こっちに来な。」
男はそう言ってのそりと立ち上がると、せまい路地裏に入って行った。シュテルもその後に続く。
「で?」
男は面倒くさそうに、シュテルへ促し、シュテルはこくりとうなずいて言った。
「私は・・・、どこへ向かったらよいのか分からないのです。自分が何者かもよく分からない・・・。どうしたら、自分の行く先が分かるのでしょう。どうしたら、自分が何者か分かるのでしょう。」
「はん。それを俺が知るわけないだろう。よりによって、どこにも向かっていない俺にそんなことを聞くなんてな。聞く相手を間違えているとしか思えねぇ。いや、そもそも、人に聞くこと自体が間違ってんだよ。その手の疑問の答えは、結局自分で見つけるしかねぇんだ。」
男は、ぼそぼそとひとり言のように続けた。
「最初から自分がなにもんかなんて、知ってる奴はいやしねぇ。人や社会と関わってるうちに、自分がどういう人間なのか、気づいていくもんだ。」
「関わっているうちに・・・? あなたは自分が何者か、知っておりますか?」
「ああ、分かってる。無力で、脆弱で、無価値な人間だってことがな。結局俺は、困難を乗り越えることができなかった。どぎつい困難を試練だとか何だとか呼んで、嬉々として克服しちまう連中も周りにはいたが、俺にはそれができなかった。挫折に埋もれ、酒に溺れ、気がついたら家も家族も失くして、路上に這いつくばっていた。それが俺だ。」
「・・・・それでも。」
と、シュテルは男を見つめて言った。
「あなたはご自分が脆弱だということを知っています。兎はライオンと戦っても勝つことはできませんが、草食という選択で食べる物の競合を避け、戦うのではなく、逃げるという選択で、繁栄を続けています。弱いこと自体は問題ではないのです。どう生きるかを選ぼうとしないことが、問題なのではないでしょうか。」
「な・・に・・・?」
男は、年端もいかない少女にそう言われ、目を丸くしたまま黙った。返す言葉がなかった。男はやがて、
「何が分かるっていうんだ。お前みたいな小娘に。」
やっとのことでそうつぶやきながら、人が悪い、社会が悪いという敵愾心によって、かろうじてたもってきたプライドが、自分の中で崩れてゆくのを感じた。
空き缶や生ゴミが散乱した地面に向かってうつむく男の顔を覗き込むようにして、シュテルが言った。
「あなたは素晴らしい人です。」
「ぁあ?」
「人や物事との関わりの中でしか、自分を見つけることはできないと教えてくれました。そのことは、物理の本にも書いてありませんでした。」
「はっ。物理の本に、人生の生き方は書いてねぇな。」
男はそこで初めて笑った。日焼けとしわと汚れにまみれた顔だったが、その笑みだけは、男が少年だった頃のそれと変わらない。
不意に男は、はっと顔色を変えた。シュテルの肩越しに何かを見ながら、
「お前、もう行け。早く。」
早口にそう囁いたのだが、すでに遅かった。
「おいおいおいおい。汚ねぇおっさんに女の子がからまれてると思って来てみたんだが、こりゃあ、からまれても文句言えねぇなぁ。」
「へひゃっ! 見ろよ。上ものだよこいつ。」
「さっさとうせろ、ゴラぁ!」
三人連れの、強い者に弱く、弱い者に強い卑屈で誇大妄想的不良を絵に描いたような男達がよたよたと近づいてきた。男の一人が、ホームレスの男を蹴り倒した。
「ぅぐ!」
ホームレスの男は、薄汚れた水溜りへ頭から突っ込み、水しぶきをあげて倒れる。
三人組の男が座ったままのシュテルを取り囲んだ。
「へっへへ。もう大丈夫だぜ。悪い奴は俺達が倒してやったからよ。」
「そーだぜぇ。もう安心していいんだぜぇ。」
「そんなに黙っちゃって、とっても怖かったんでちゅねー。なーに、お礼なんていいってことよぉ。でもどうしてもって言うなら、いろいろとお礼してくれて、いいんだぜ。ふへへ。」
にやにやと下卑た笑いを浮かべながら、安心しろと言う口とは裏腹に、男達は三方からシュテルを囲み、逃げ出せないようにしている。
ホームレスの男がよろよろと立ち上がり、三人組に向かった。
「こ、このドサンピンどもが! そいつをほっときやがれ!」
三人の中で一番体格のいい男が、向かってくるホームレスを突き飛ばした。
「ドサンピンなんてよぉー、久々に聞いたぜ、このじじぃ。俺の心は傷ついた。ドサンピンとか言われて、ひどく傷ついたぜぁ!」
ぜぁ、の語尾に合わせて、地面に倒れたホームレスを、男は激しく蹴り始めた。
シュテルを囲む二人は、ホームレスが痛めつけられるのを満足そうに一瞥すると、再びシュテルに言った。
「ほれほれ、ああして悪い奴はこらしめてるところだからよ。それより、俺達ともっと安全なところに行こうぜ。こんなところじゃ、ああいう奴らがまた寄ってくるからよぉ。」
「ひへへ。そうそう。安全なところになぁ。」
男がシュテルの肩に手を乗せた。その感触が、意外とかっちりしていることに気づいたが、筋肉質な少女なのだろうと男は思った。
シュテルが無言のまま立ち上がる。
「おっ! 行く気になったか? 素直なのは、いいことだぜ。」
「そうそう。素直なのはいいこと。」
機嫌をよくした男達は、立ち上がったシュテルの頭の先から足先までを、舐めるように見渡した。
シュテルは目の前の男二人を無視して、ホームレスを蹴り続ける男に言った。
「蹴るのを止めなさい。」
その言葉が意外なほどに鋭く、拒むことを許さない断固とした命令として響いたものだから、蹴り続ける男はぴたりとその動きを止め、男達の笑みも凍りついた。
一瞬間を置いて、男達の目が据わった。さっ、と周囲の空気が冷たい殺気に包まれる。シュテルの前にいる、小柄な男が言った。
「何命令してんの? なぁ? 助けてやった俺達に向かって、何で命令すんの?」
シュテルは表情を変えないまま言った。
「あなた方は勘違いをしています。私はその人にからまれていたわけではありません。」
「勘違いだぁ? こんな汚ねぇホームレスじじぃとあんたが仲良くおしゃべりなんて、ありえねぇだろ。助けてやったのにでかい態度取ってんじゃねぇよ。」
「あなた方は勘違いをしています。私はその人にからまれていたわけではありません。」
シュテルは相手が理解していないと見て、同じことを二度言ったが、それが男達の感情を逆なでした。
「勘違いじゃねぇって言ってんだよ!」
「うだうだ言ってねぇで、もう連れてこうぜ、こいつ。」
中背の男がそう言ってシュテルの左手首をつかみ、強引に引こうとする。
シュテルは若干の狼狽の色を顔に浮かべながら言った。
「何をなさるのです。私を無理矢理連れて行くつもりですか。」
「そうだっつってんだよ! オラ、来い!」
シュテルを連れ去ろうとする男達に向かって、地面に這いつくばったままのホームレスの男が切れ切れの声で言った。
「や・・・めろ・・!」
だが、その全身には蹴られた痛みが走り、立つことすらできない。自分の無力を感じると共に、なぜ怪我までしてこの娘をかばおうとするのか、自分自身の行動が男にはよく理解できなかった。ただ、とにかく気に食わなかった。力と人数に任せ、弱い者をないがしろにするその者達の態度に、男は怒りを覚えていた。
男はふと、自分の後ろに人の立つ気配を感じた。ぴちゃり、と水溜りに足を踏み入れた音がする。
痛みをこらえて見上げると、夕闇の迫る曇天を背景に、パーカーのフードをかぶった男が立っている。いや、その大人びた雰囲気に男であると感じたのだが、その年恰好をよく見れば、まだ少年だ。フードの下の顔は影にあってよく見えない。
パーカーの少年が口を開いた。
「そいつはうちの身内だ。その手を離せ。」
ああん? といった顔で眉間にしわを寄せ、男達が一斉に少年を見た。
シュテルが、自分でも驚くほどふくれあがる歓喜の感情を、叫びに換えて言った。
「マスター!」
シュテルを連れ去ろうとしている男の一人が、アルの姿を値踏みするように見て、にやにやと笑みを浮かべて言った。
「なんだ、この女の知り合いか? 身内つったな。弟か。」
アルは不機嫌な声で答えた。
「弟ではない。あるじだ。」
「アルジ、だぁ? メイドごっこでもやろうってのかよ。怪我したくねぇなら、あっち行─。」
男が言い終わらないうち、アルは疾走するジャーマンハウンドのように男の懐へ飛び込むと、拳をその腹に叩き込んだ。
「うげっ! ・・・こ、このガキ・・!」
腹パンを受けた男は身体をくの字に折り、一瞬その動きを止めるが、素早くポケットからナイフを取り出すと、横一線で薙いだ。アルが一歩飛び退ってそれを避ける。避けざま、アルはつぶやいた。
「ちっ。やはり軽いか。」
血を吞まないアルの膂力は、結局、人間の少年とさして変わらない。体重があるわけでもない以上、拳ひとつで相手の戦闘能力を奪うのは至難だ。
シュテルを抑えていた男達も加わり、左右からアルの両腕をつかんだ。残りの一人が、アルをつかんでいる男へナイフを投げて渡し、メリケンサックをはめた拳でアルの顎先に、打ち上げるようなアッパーを放った。
「オラぁ!」
「ぐっ・・・!」
アルの顎が跳ね上がり、フードが背中に落ちる。
「マスター!」
再び、シュテルが叫んだ。アルを殴った男が、勝ち誇るように言った。
「なんだよ、こいつ。偉そうな態度を取るくせに、大したことねぇよ。大人の怖さを、思い知らせてやるよぉ! オラ、オラ、オラ!」
調子づいた男は、立て続けにアルの顔や腹を殴る。口から血を流すアルが、しかし、不敵な笑みを浮かべてシュテルに言った。
「シュテル。許可する。死なない程度に、ヤれ。」
その言葉を聞いた途端、アルが殴られるのを目の当たりにし、動揺していたシュテルの顔から、表情が消えた。シュテルの冷たい無表情は、硬質のサファイアを思わせた。
「分かりました、マスター・ロートライヒ。」
シュテルへの教育、その最も初めに教え込んだのが、暴力の封印だった。電場応答性高分子を応用した人工筋肉と、高密度炭素繊維からなる骨格、意図的に低下させられる痛覚伝達のコンビネーションがもたらす威力は、ワンパンでコンクリート壁に穴が開く相当だ。
当然、シュテルのボディにも負荷がかかる。許可なくして力を振るわないよう、アルはシュテルへ暗示をかけ、今、それが解かれた。
シュテルはメリケンサックでアルを殴った男へつかつかと歩み寄ると、その肩をつかみざま振り向かせ、左足で男の足を引っかけるようにしつつみぞおちへ、右フックを入れた。
男の身体が360度空中回転し、再び直立する。崩れかける男の顎に掌底、腹へ拳、こめかみへ肘を、三カ所ほぼ同時とも思える一瞬で入れた。既に男は気絶し、膝から崩れ落ちる。
唖然としたままアルの腕をつかんで硬直している二人に対し、それぞれ顎先と眉間へ、ばねのように弾ける蹴りを入れた。しなやかな足が地面に再び着いた時には、どさりと音を立てて男達は倒れていた。
やれと命じたアル自身、驚いたような表情でシュテルを見ながら言った。
「シュテル・・・、今の身ごなしをいったいどこで・・・?」
力があることと、格闘術ができることはまったく別の話だ。力任せに組み伏せるなり、放り投げるなりしてくれればそれでいいと思っていたのだが、シュテルの動きは軍隊で教えられるCQC(近接格闘術)に近く、素人のものではなかった。
シュテルは、蹴った時に乱れたワンピースの裾をなおして答えた。
「ハグヴィラから教わりました。筋がいいとほめられました。」
シュテルの頬が笑みでわずかにゆるんだ。
ハグヴィラの奴、また余計なことを、とアルは思わずにはいられなかった。いつの間に教えたのか知らないが、シュテルは今、渇いたスポンジのように知識を吸収しつつある。格闘術だけならまだしも、大人の常識だとか称して、おかしなことを教え込んでいないか、それがアルには気がかりでもあった。ハグヴィラに格闘の心得があるのも意外だ。通信教育ででも学んだのだろうか。
シュテルはそれから真顔に戻ると、傷を確認するようにアルの顔へ手を添えた。
「マスター、お怪我を・・・。」
「たいしたことはない。すぐに治る。それより、シュテル。こんなところで何をしていた。しんぱ・・、困るぞ、しもべが勝手に出て行ったら。」
心配した、と言いかけたアルはごまかすように早口で続けた。
「僕の右腕となるべく教育中なんだ。外に行きたかったらそう言え。屋敷に閉じ込めておくつもりはないんだ。」
不機嫌そうに言うアルを見て、シュテルは手を身体の前で重ね、うつむいて言った。
「はい・・・。申し訳ありませんでした。少し心が乱れておりました。」
「ふん。」
腕を組んでそっぽを向くアルだったが、心が乱れた、という言葉がシュテルの口から出るのを聞き、内心驚いた。それは、乱れるだけの心があるということで、シュテルの自律は確実に進歩している。人工の筋肉と骨格で構成されたただの人形、という範疇を既に大きく越えていた。
アルは、
「それで、勝手に外に出た成果はあったのか?」
と聞きながら、まだ地面に座り込んでいるホームレスの男をちらりと見た。
「はい。ありました。」
シュテルはそう言って、男のそばにひざまづいた。
「痛みますか?」
手を伸ばすシュテルを、振り払うようなしぐさで男は拒んだ。
「どうってことねぇよ。あの程度でどうにかなるほどやわな身体はしてねぇ。」
「そいつはどうしたんだ。」
と、アルがシュテルの背後から声をかける。シュテルは答えた。
「いろいろと教えてくださいました。それに、私のことを身を呈して守ろうとしてくださいました。」
そんなご大層なもんじゃねぇよ。そいつらが気に食わなかっただけだ、と男はぶっきらぼうにつぶやいた。
アルは男に前に立って言った。
「そうか。身内が世話になった。礼をしたいがあいにくたて込んでいる。後日、ここに来てくれるか。たいしたことはできないが、食事くらいは出せるだろう。」
そう言って、屋敷の住所を書いた紙片を男に渡した。子供のくせに、偉そうな態度を取るもんだ、と男は思ったが、その態度が妙に板についているせいで、違和感がない。男はおとなしく紙片を受け取って、うなずいた。
「シュテル、行くぞ。」
アルはそう言って、表通りへと向かう。シュテルは男へ深々と頭を下げてから、アルを追って通りの光の中へと消えて行った。
変な連中だ、と男は思った。それにあの娘、人間とは思えないほどの、尋常じゃない力だった。人間とは思えない。力の強さといい、自分のような者に物怖じしない態度といい、どこか人間離れしていたが、久々に、人間らしい会話ができたような気もしていた。悪くはない。そう思いながら、男もまた夜の喧騒の片隅へと溶け込んで行った。
アルとシュテルは町を出て、屋敷に向かっている。街灯のない道路は、既に深い闇で包まれていた。走り出す一歩手前の早足で歩くアルへ、シュテルが言った。
「マスター・ロートライヒ。なぜこのように急ぎますか。」
「前に話しただろう。ハンマーヘッドの連中だ。奴らがこの近辺に近づいている。屋敷に戻って対策を立てなければならない。」
「ハンマーヘッドは危険ですか。」
アルはぴたりと足を止め、シュテルに向き直って言った。
「危険だ。日に当たらない限り、死なないのをいいことに、やりたい放題やっている。特に奴らの眷族がひどい。夜の間だけとはいえ、死の恐怖から解放されるんだ。傲慢、無謀、暴虐、快楽と怠惰をむさぼるその態度は、吸血鬼の悪い要素をすべて体現している。ひとことで言って、たちが悪い。」
それを聞いて、シュテルは肩をすぼめるように言った。
「申し訳ありません、マスター・ロートライヒ。そのような時に、勝手に屋敷を抜け出すなど・・・。」
「それはもういい。過ぎたことを言っても始まらない。それより、屋敷へ急ぐぞ。」
アルには、嫌な予感がしてならない。今夜はちょうど新月だ。うすく張り出した雲のせいもあって、星も見えない。事を起こすにはうってつけの夜だった。
屋敷に近づくにつれ、不意に、焦げ臭い匂いが風上からただよってきた。ざわつく風に普段とは違う気配を感じたアルは、屋敷正面の道を避け、近くの林から身を隠すようにして屋敷に近づく。シュテルが囁くように言った。
「マスター・ロートライヒ。この匂いは・・・!」
「ああ。戻るのが遅かったみたいだ。」
木立が途切れたところで、二人は目にした。夜の闇に轟々と上がる炎を。屋敷は既に、大炎上していた。