空中分解
《警告》流血します。人が死にます。
鳥になって、空を飛んでいた。頬をなでる風は少しひんやりとしている。
見下ろす景色はビル街。多分、通学路にしている所。なかなかと高くを飛んでいるみたいで、濁った空気が邪魔で、小さな物はよく見えず、四角形や半球型の屋上が、狭い所にぎっしりと敷き詰められている事しか分からない。あそこの隙間を滑空すればそこは、焼けた魚の目のような白や、シックな黒や、目が焼けるほど明るい黄色であふれているはずだ。
そこに木霊するのは、車、信号機、そして、スピーカーから流れる宣伝と言った喧騒。耳を澄ませば、行き交う人の会話は聞こえるけど、意外と小さい事に気付く。黙々と歩く人が多いから。連れがいてもいなくても同じ。会話も、ぼそぼそと話す人が、ほとんどだ。街中って言うのはもっと活気のあるものだと思ったけど、大した事ないな、と気付いた時、薄暗い気持ちになった事を覚えている。
それに比べ、住宅街は静かだけど賑やかだ。車だとか、信号機だとか、そんな物が極端に少ないせいか、人の声がよく聞こえる。井戸端会議の声や子供が駆け回る声、犬の鳴き声や猫が威嚇する声。耳を澄ませば、人や動物の声はいくらでも拾える。特に上を向いて話す人が多いから、会話が放物線を描いて耳に入って来やすい。カラスとかハトとか、そんなのしかいない動物静音域の街中からしたら、こっちのほうがずっと街中らしい。
そう思っている内に、ビル街が途絶えて、その先に広がる景色は閑静な住宅街となった。空気が澄み始めて、下がよく見えてきた。今は秋になり始めたばかりだから、街路樹はまだまだ緑を湛えている。屋根はぬるい黒を基調とした物ばかりだけど、思い出したように、粘土質の赤土色だったり、道端の雑草が実らせている果実の、毒々しい青色だったりする。
風が頬をなでる五階の窓際で、そんな今朝の夢を思い出していた。
夕陽がさして、子供たちが宿題もそこそこに友達を誘って走りたい時間。人通りの途絶えた廊下。サッシにかけた手にはじりじりと力が篭っていく。いつもなら、気付いたら力を抜いていたのに、今日は気付いても力を抜こうとはしなかった。
いけないな。今日はいつもより酷いみたいだ。うん、すごく酷い。きっと、飛びたいんだろうな。夕日に向かって、僕はばっと飛んで行ってしまいたいんだろうな。そんな風に自分を客観視しても、あんまり意味はない。主観で分かりきっている事だから。
“人は落ちるために飛び出すのではない。飛ぶために飛び出すのだ。”
そう言ったのは誰だっただろう。自殺についての何かだったと思う。とにかく、僕はその一文に、痛いほどの衝撃を受けた。印象に残っているとか、その程度ではなくて、脳に焼き付いてしまっているようで、強迫観念というのだろうか、いつも思考の末尾について回る。おかげで最近の授業は、まったく集中できない。
それからと言うもの、窓から外の景色を眺めていると、決まって手がサッシに伸びて、ぎゅっと握り締める。この壁を飛び越えて、空へと、高く、遠く、飛び立つために。
いや、おそらく僕は飛ぼうと思っていない。と言うよりは、飛べないと思っているのかな。手をかけるたび、力を込めるたび、床を蹴り、壁を越えてサッシを踏みつけて、空に飛び出した先にあるのは、落下するイメージだけだから。
反転する景色が。眩しい青が下へ、むせ返る緑が上へ。霞み流れ行く色彩が。硬いコンクリートへ、数秒足らずで墜落する、鮮明な映像が。眼前に迫り来る灰色が。体から消え去る重力と、落下を妨害する風圧が。全身から血潮が引いてゆく感覚が。走馬灯が浮かび、そして流れる事も許されない。そんな思考は全て凍結されるんだろう。
そんな感覚に襲われ、次の瞬間窓から離れる。その時その時で気付く。必ず地面を凝視している事を。
毎日、毎日、その繰り返しだった。単純な調べで流れ行く生活に入り込む、一種のノイズ。消える事のない、レコードの傷。そのくらいだったのに。
これは酷い。必要ないのにもう一度思うと、状態はさらに悪くなる。無理に使いすぎたレコードが、ついに割れる時が来たんだろうな。そう思った。
この原因は悩み。そう、悩み。しかも、すごく単純な物。
僕は学校が嫌いだった。小学校も中学校もそうだけど、特に高校が嫌いだ。変化を続ける環境について行けない。なんで、こんなにも変わっていくのかが分からない。だからいつも頭が重くて、体はだるくて、自分の席に座っているだけで億劫になる。何をするにも手足が動かず、ずっと、色んなものを投げ出してきた。こんな僕を、世間では諦観主義者というはずだ。
そんなものかとか、我慢しろとか、きっとみんなは思うんだろう。しかし、僕にとっては重い。僕は耐えられない。重くて重くて、投げてしまいたいのに、それでも、どうしても離れてくれない。
だから、飛び立つ。全てを放り出して逃げだすために、飛ぼうとする。
そして、落ちる。
実際にする勇気はないし、こんな僕でも多少なりの未練があって、このまま落ちるのは嫌だ。
でも、このまま地べたを転がり回るのも嫌だ。
この板ばさみがずっと続いて、傷が直る事も無く、旋律を止める事も無く、ずっとレコードは回っていた。その内に日々、傷は広がり、どんどん深くなり、ついにはひび割れが入り、限界を迎えたようだ。
手だけではなく、腕にも力が篭る。両足の筋肉が今か今かと脈打つ。荷物を背負わず、ペンの一本も持っていない今の僕なら、力強く床を蹴り、軽やかにサッシを踏みしめ、両手を広げて空へと飛び出し、無様に落下する事ができるだろう。それでも、体を思いっきり伸ばせばあるいは……自由になれるかもしれない。
幸い、勇気とか恐怖とかためらいとか、そんな崇高な物を僕は今、持ち合わせていない。多くの事に打たれ打たれ叩かれた心はそんな、上等でちっぽけなものを、受け付けなくなっていたみたいだ。
気付なかった。もう何も感じない、完全でないけど、完全に最も近い無関心。そんな事すら、もうどうだっていいと思う。自分がそんな風になっていたなんて。
ついに、手と腕と足に、最後の力を込めた。
「そこじゃダメよ。」
その声に、ぴたりと止まってしまったのは、なんでだろう。僕にかけられた声かどうかも分からないなのに。他の誰かに向けた言葉かもしれないのに。後からやっと、この場に僕しかいないことに、気付いたくらいなのに。
「聞こえた? そこじゃダメなの。」
全身に力の入ったまま、首をぎこちなく左右に振って、それでも見つからないから後ろを向いて、やっと見つけた。髪の長い彼女。着飾っている感じはしないけど、野暮ったい感じもあまりない。オレンジに当てられた黒い髪が、なんだか不憫だ。けど夕陽の加減なんだろか。不思議ときれいに見えるから、少しだけドキッとしてしまった。
この廊下には、僕と彼女だけ。
「ここ、下に木があるでしょ。枝に引っかかって、勢いが殺されちゃって、骨折で終わるかもしれないわ。悪い事ってよく起こるの、知ってるでしょ?」
聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような、そんな口調だった。つまらなさそうだった。だけど、流れ出るような言葉だった。前々から考えてあって、何度も何度も練習した決まり文句と言えばしっくり来る。
だから僕は、その口調に押されてしまった。いつの間にか体の力は抜け、立っているのもままならないほど足が震える。彼女に悟られないようと、今度は立っているために手に力を込める。体の側面を彼女に向けて、片手をサッシに突いたまま、体重を腕に預ける。これが精一杯だった。
「もう時間ないし、明日の昼休み、屋上に来てみれば? たぶんいるから。」
それだけ、それだけ言って、彼女は立ち去った。スタスタとしっかりと歩く彼女の後姿は、長い廊下の向こうにいても、すぐ目の前にいても、とても遠いように感じさせる。凛然とした背筋。首を振るように左右に揺れる長く黒い髪。やがて、壁が作る影に入ってよく見えなくなった。
彼女が廊下の角を曲がって、黒い髪が見えなくなる頃には、僕の足も腕も、限界を超えていた。肘ががくっと折れると、制服を壁にすりながら、へなへなと床に崩れる。きっと、今の僕はこの上なく無様だろうが、そんな事を気にする余裕なんてない。頭の中はさっきの事で一杯だ。
「……帰ろう。」
何も考えられない頭から、辛うじてひねり出した逃避策。だけど、最高の選択だと思う。ここからロッカーの荷物を取って自転車置き場へ向かうまでに、少しは気が落ち着いているだろうから。
***
僕は多分、幻を見ていたのだろう
そんな事が、街中を通り過ぎている時に頭の中に浮かんだ。相変わらず機械の音しかない歩道を、人の障壁の合間を縫いながら、のろのろと進んでいた時だ。
飛ぼうとした時、後ろから引き止められて、ああ、結局飛べずじまい。いや、僕が本当に飛びたかったのなら、彼女の声も気にせずに、飛び立てたんじゃないか。それをしなかったのは、きっと、僕が誰かに引き止めて欲しかったからなのか。僕は、まだ飛びたくないのか。
それでも彼女は、こんな落胆を消し去ってくれるほどきれいな黒い髪を持っていて、僕とは違いすぎる凛然とした姿をしていて、幻の人のようだ。こんな事、こんな特別な事、起こるはずがない。
でも、この高揚感と、彼女の言葉と、あの長い黒髪を幻の物にするには、すごくもったいない気がした。
***
屋上は閉まっている物。そんな常識を、彼女の言葉が打ち砕いたかのように、ドアの鍵は開いていた。重いドアが重々しい音を立てて開くと、当てつけのように眩しい光が、僕の顔を焼く。
「あ、来た来た。」
先客は本当にいたらしく、彼女は屋上の真ん中、ぬるいコンクリートに直接座って僕を待っていた。その傍らには未開封と思しき菓子パンの袋が、雑然と置いてある。屋上は高い鉄柵に囲まれて、せっかくの風景が台無しになっている。
「そんな所でぼけっとしてないで、ほら、座って座って。」
「あ、はい……。」
彼女は自分の隣を指差して、僕をせかす。僕は人生で初めて、屋上に足を踏み入れた。
ドアノブから手を離し、僕が彼女の隣に腰を下ろす頃には、ゆっくりと動くドアは完全に閉まっていた。
「ここは私と君だけが知っている、二人だけの舞台。広いし、いい眺めでしょ?」
彼女がそう、上を仰ぎながら言うから、つられて僕も上を見上げてしまった。そこには、今更ながら気付いたのだけど、青い空が広がっていた。雲がひとつ二つあって、太陽を手で遮って、吸い込まれるような青さに、ただただ見入る。このまま吸い込まれてしまえば、本当に飛べるんじゃないかって思うくらいで、首が痛くなるのも気にならない。空いている手を温められたコンクリートに押し当てて、もっと体を傾けて、ずっと見上げ続ける。
ふと、視界の端に、小鳥の影がよぎった。
「鳥がうらやましい。」
不意に、彼女が呟いた。
「こんなきれいな空を、自由に飛んでいってしまうんだもの。人なんてすぐ落ちてしまうのに。わたしも自由に飛びたい。」
飛びたい。その言葉に、僕は敏感に反応した。彼女も飛びたいのだ。
「飛べますよ。」
そんな僕の声に、彼女は小さく、驚いたような声を上げた。
「落ちる事なんて考えないで、飛ぶことだけを信じて、そうして、踏み出せば。」
きっと、と口の中で呟いて、それから僕は後悔した。何でこんな事を、よくも知らない彼女に話したのだろうか。これはいわば、一つの秘密。大切な宝物。傷つけられたくない頼り。それを、易々と誰かに明かしてしまうだなんて。
「素敵ね。」
はっと、彼女に視線を移した。癖のついた首が痛む。
「本当に素敵。空を飛ぶためだなんて、考えた事無かった。だけどそうよね。落ちるだなんて、最初っから考えてたって嫌になるだけ。飛ぼうと思って飛ばなきゃ、飛べるはずないもの。」
彼女は、楽しそうに、嬉しそうに、青い空を見上げながら、微笑みながら、光に目を細めながら、さっきの僕と同じ体勢で、言った。その言葉に僕は、なんだか僕は、何とも言えない、でも嬉しくて泣きたいぐらいの気持ちになった。そんなにもきれいに微笑む彼女に、そんなにも嬉しそうに褒めてもらえたのだから。昨日、夕陽に当てられて不憫に思った髪が日光に当てられて、僕は嬉しく思う。
「ねえ、飛ぶならさ、どんな天気で、どこに行きたい?」
「そう、ですね……。」
天気と、場所。考えた事が無かった。でもなんだか、元々答えを持っているような気がする。心の奥底に、ゆっくりと、ゆっくりと形作られてきた物。今はそれに、名前を付ければいいだけなのかもしれない。そうだ。多分そうなんだ。
「青空に雲を添えたような日、ずっと山奥に、飛んで行きたいです。」
僕は、正面を指差す。学校の裏。グラウンドを超えたその先には、緑の稜線をさらけ出す山々。屋上からだと、下よりもよく見える。
「あそこの、もっと奥に、飛んでいってみたいです。」
「へえ……。」
彼女は首を戻して、目の前の山を同じように眺める。幾重にも重なる山々。遠くには雪を被った山脈が顔をのぞかせる。昔から姿を変えない山々を大空から見下ろすと、どれほど美しいだろうか。
「今日の放課後も来れる?」
「放課後なら、来ます。」
絶対ね、とだけ。そう彼女は、嬉しそうに答えた。
***
楽しい、と、久しぶりに思った。彼女と一緒にいて楽しい。少なくとも、気楽ではいる。多分、この学校で唯一、僕の理解者になってくれる。そう思う。だから放課後も。初めて見つけた、気の休まる場所へ。
「一緒に飛ばない? あの山へ」
僕が屋上に着いて開口一番、彼女はそう誘ってきた。鉄柵を両手で握って、緑の稜線を一心に見つめて、顔に夕陽を受けて。彼女の黒い髪がまた、かわいそうだった。
「なんで?」
「え? 飛びたいからよ。前々からしたかったんだけどさ、一人じゃ寂しいじゃん。誰かいないかなーって思ってたの。それで君を見つけてさ、やっと飛べるって思ったの。」
僕は唖然としていた。彼女がそうだとは思わなかったから。凛として、きれいで、素敵で、僕とは大違いの彼女が、なんでこんなことを言うのか、僕の頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。そんな僕に構わず、彼女は、だからさ、と続ける。
「空が赤くて雲が多くて、今は君の好きな天気とは違うけど、それでもさ、一緒に飛んでくれるよね?」
君なら大丈夫だよね。そう、言われた。途端に胸が張り裂けそうになった。唯一の理解者が初めての安穏が、こんなことを言うなんて。とても苦しい。胸にはすでに風穴が開いてしまったのか、どれだけ排気をしても、胸の奥の違和感を拭い去れない。歯を食いしばって目を閉じて、制服に爪を立ててかきむしる。手放したくない。そんな思いが、痛む胸からあふれ出す。
「嫌、です。飛びたく、ないです。」
ここで彼女を止めなければ。目を見開いて、震える声で、彼女へ続けた。
「飛ばないでください。お願いします。飛ばないでください。ここにいてください。」
「どうして?」
彼女は僕を振り向いて、僕と同じように目を見開いていた。
「あなたも飛びたいんじゃないの。わたしは、あなたが飛びたがっていたから、飛ぶのは止めなかったじゃない?」
違う。違う。あの時、あんなにも凛とした彼女に止められて嬉しかったんだ。僕はあの姿に引き寄せられたんだ。生きることに立ち向かっているような、あの姿に。だから。
「あなたは特別なんです。僕と全く違う、すごく特別なんです! 飛ばないで下さい!」
足りない。もっと言葉を。どうすれば彼女を引き止められるんだ。ああ、僕だったら何を言って欲しいかな。変化する日々。表を見れば、明日には裏返る。そんな中、僕はどんな言葉を望んでいるのだろう。
「信じて、僕を信じてください!」
そうして弾き出した。これは、心の底からの望み。明日も明後日も変わらないと、何かをそう信じたい。
「無理ね。」
それなのに彼女は、とても簡単に、しかし軽んじる様子は無く一蹴した。その口元には、何がそうするのか全く見当もつかない、綺麗な笑みが浮かんでいる。
「信じれないわよ。みんなみんな裏切って、誰も信じさせてくれないし、私も信じようだなんて思わない。」
彼女の言葉は、本当に純粋で、透き通っていて、きれいで。だから僕は、なんだか怖くなってきた。
「でも、一緒に飛んでくれるなら、それは信じられる。」
最後だもの、と彼女は、首をかしげて綺麗に明るく本当に楽しそうに笑った。その笑顔が、僕の胸に重くぶつかる。そして、その奥で何かが折れた。
「僕は今、飛びたいわけじゃないんです!」
そう叫んで、すぐ後ろのドアを押し開くと、わき目も振らずに階段を駆け降りる。
怖い。
ただそれだけが、僕の衝動を占めていた。
***
翌日。昨日からの陰鬱な気分は天気に引き継がれたようで、南からやってきた低気圧が空を覆って雨を降らせた。雨だから、屋上に彼女はいないと思う。それに昨日のこともあったし、全く行く気にならなかった。
あのあと、彼女がどうしたか、全く想像がつかない。飛んでいないとは思う。それは、学校で騒ぎになっていないからもあるけど、僕が彼女に期待していたところも、あるんだと思う。
それから雨は三日ほど続き、僕はずっと屋上に行かなかった。その間僕は、柄にもなく学校中を歩き回って、もしかしたら彼女と会えるかもしれないという願いを、自ら打ち砕いていた。
雨が上がった日の昼休み。空が全てを吸い込む青色をして、太陽が久しぶりにコンクリートを温めて、真っ白な雲がひとつ二つ浮く日。僕は急いで屋上に向かった。階段を一段抜かしで駆け上がって、息を切らせながら重い扉を開け放つと、そこに彼女の影はなかった。その代わりに何かがある。彼女が立っていた場所。薄青色の便箋がきれいに折りたたまれて、小石が乗せられている。彼女のだとかそんなことは考えず、掴み取って乱暴に開いた。小石は柵の外に転がり、そのまま落ちてしまった。
手紙にはただ、「放課後に下の道で待っています。」の一文が。まだ飛んでないことにホッとして、待ち合わせがここでないから安心する。
人は地面からは飛び立てない。そう思った。
***
放課後。僕は約束の場所へとすぐに向かった。内履きのまま玄関を通り抜けて、荷物を教室に置き去りにして、ほとんど乾いたコンクリートを踏みしめて。しかし、影の降りるそこに彼女はいない。
「早いね!」
そんな彼女の声が降ってきた。間違いなく頭上から。よろめくほどの勢いで仰視すると、彼女が屋上に立っていた。そこは、鉄柵の外側。
「本当は、君が来る前に飛ぼうと思っていたのに、早すぎるよ。」
彼女は後ろ手に柵に摑まっているようで、危なげなく身を乗り出してくる。にわかに運動部の声が遠くなった。彼女は何であそこにいるんだ。何で柵を越えてるんだ。何であんな事を言っているんだ。何であんなにも楽しそうなんだ。
「今日は君の好きな天気だね。景色もいいし、ほら、山のずっと向こうまで見えるよ。」
飛びやすそう、と彼女は遠くを見つめ、穏やかに、独り言のように言った。それから吹く風を全身で受け止めるように、両手を使って大きく伸びる。そうして彼女の長い髪が風になびくたび、僕の口の中はカラカラになっていく。
やがて、彼女は満足したのか、足首を回して、首をぐるぐると回して。
「さ、行こう。」
まるでランニングを始めるかのようにそう言うから、その言葉は僕の耳に深々と突き刺さる。
「待ってください!」
声が戻る。それに負けないよう、力一杯叫ぶ。彼女はつまらなさそうに、僕を見下ろしてくる。
「飛ばないでください! 僕の理解者はあなただけなんです。初めて見つけた安らぎなんです!」
「しーらない」
彼女は、太陽に負けないぐらい眩しい笑顔で、弾むように返した。
「わたしはなーんにも興味ない。せっかく君を誘ったのに、付き合ってくれなかったし、一人で飛ぶよ。」
やめろ。口の中で反響する。彼女の体はすでに、うつ伏せで空を舞い、鳥のように広げられた両手が一瞬空をつかみ、そして彼女は、切り捨てられたように墜落を始める。
後ろにまとめられて、風に弾かれる黒い髪。空気に押し付けられる、毒々しく青い胸元のスカーフ。思い切り広げられた、小さなてのひら。そして、静かな微笑みを浮かべた、彼女の顔。それらがゆっくりと、地面に近づき、そして、墜ちた。
卵が床に落ちて周囲に広がるような、そんな風に飛び散る。それは地味なコンクリートに新たな印象を与えた。そう、役者を際立たせる舞台のような。僕ら二人だけの舞台。顔のない役者は倒れたまま、動こうとはしない。明るい屋上から、影の地面に引き連れられた黒い髪は、日に当たることはもう二度となく、だんだんと汚れてゆくそのさまが、どうしようもなく悲しかった。
きっと彼女は、遠くへ行ってしまったんだろう。この様を眺めていると、そう思ってしまう。ここに縛られない、ずっと遠くに、ここにある全てを、捨ててしまって。しかし、飛ぶことは無かった。だから、彼女だけはここに残ったんだ。
ごめんなさい。ごめんなさい。僕は何て事を考えたのだろう。何て事を言ってしまったんだろう。結局僕は、自分自身の手で安穏を消してしまったんだ。
飛んで、落ちて。
僕たちが飛ぶことなんてできないんだ。鳥だって地面の上で眠る。地面から離れきることなんて不可能なんだ。だから飛んでも、自由にはなれないんだ。
怖い。これほどの血を流して、どれほど痛いんだろう。彼女を見ていると、同じことをするのが怖い。胸の奥が勢いよく、恐怖に埋め尽くされる。
ここで初めて、僕はまだ地を這っていたいと願っていることに気付いた。彼女のように飛びたくない。何がなんでも、まだ、地べたを転がり回っていたい。そんな欲が出た。
これは僕も彼女も持っていなかったもの。これは意志。生きるための欲。
裏切られてもいい。追いつけなくてもいい。
僕はまだ、ここにいたいんだ。
どうも、紅炎です。
これも落選作品です。結構時間かけましたけどダメでした。やはりテーマがダメか。しかし一番は私のじつりょ(ry
一応青春物で、青春の皆さんが抱えていないであろう極々一部の人が思っているであろう思いを書いてみました。極々一部の人って言うのは、つまり私のことです。はい。
これも批評とか感想とか批評とか評価とか欲しいです。切実に。
読んでくださりありがとうございました。
では、失礼します。