「君なら一人でも大丈夫だろう?」――婚約者の言葉の意味が分からなすぎてキレそうです
「君といると、自分が駄目な男に思えるんだ」
向かいに座る婚約者のルーカスは、ひどく真面目な顔をしていた。意味が分からず、しばらくその顔を見るしかなかった。
「彼女は僕を信じて、何でも頼ってくれる。僕がいなければ困ると言ってくれた」
彼女。
最近ルーカスが夜会で親しくしている令嬢のことだろう。名前を出されなくても分かる。
「それに、君なら一人でも大丈夫だろう?」
なるほど。
いや、私が一人で大丈夫だったんじゃない。あなたまで大丈夫でいられるように、私が二人分考えていたんですけど?
「その方と結婚なさりたいので、私との婚約を解消したい、というお話でしょうか」
「ああ」
「でしたら、最初からそうおっしゃってください」
深いため息が出た。悲しくないわけではない。婚礼まで半年もない。招待客の名前を並べて、あの方は呼ぶ、この方にも知らせなければと二人で話した。式に使う花も、一緒に選んだ。結婚後に住む屋敷では、どの部屋をどう使うかまで話した。窓辺には小さな卓を置こうと、そんなことまで決めていた。
あの時は、本当にそこへ二人で住むのだと思っていた。全部なくなるのだから、悲しくないはずがない。
けれど、それより先に腹が立った。ルーカスが夜会の日を忘れれば、私が知らせた。返事を出していない手紙を見つければ、相手に失礼になる前に思い出させた。訪問先の好みを調べ、贈り物を選び、必要な物が足りなければこちらから届けさせた。誰かが考えなければ困る。
だから私が考えた。忘れていることはないか。このままで誰かに迷惑をかけないか。次に何が必要になるか。そうやって私が先に考えていたから、ルーカスの日々は何事もなく回っていた。
それをしてきた結果が、一人でも大丈夫だから捨てても問題ない、らしい。
「彼女となら、僕も必要とされる男になれると思う」
「分かりました」
「分かってくれるのか?」
「ええ。あなたが人として最低だということだけは、よく分かりました」
ルーカスの顔が固まった。
「それでは、両家へ正式に婚約解消を申し入れてください。私の家からも必要な手続きを進めます」
「トリーシャは、本当に一人で何でも決められるんだな」
褒めているつもりなのだろう。今度こそ、何も答えなかった。
◇
婚約解消は、両家の話し合いを経て正式に成立した。ルーカスの家からは何度か謝罪があった。けれど、本人が別の令嬢との結婚を望んでいる以上、婚約を戻す話にはならなかった。
正直に言えば、せいせいしていた。もう、次の夜会を覚えているか気にしなくていい。返事を忘れている手紙はないか、訪問先への贈り物は用意したか、婚礼の準備で伝え忘れていることはないか。ルーカスの分まで、私が先回りして考えなくていい。それだけで、驚くほど楽だった。
ただ、少し寂しくもあった。二年分の習慣まで、婚約と一緒に消えてくれるわけではない。
ある午後、いつものように机へ向かい、手帳を開いた。以前なら、この時間にはルーカスの予定を確認していた。今日は何もない。手帳に残っているのは、私自身の予定だけだった。
……いや。
明日の欄に一つだけ、ルーカスの予定が残っている。王妃主催の慈善晩餐会。私の伯母に頼まれ、ルーカスが準備を手伝うことになっていた。
……あの人、本当に行くのかしら。婚約がなくなった以上、伯母との付き合いまで続ける義理はない。行かないなら、それでいい。でも、断りの連絡は? 来る前提で人手を数えているのに、何も言わずに来なければ困るのは向こうだ。
嫌な予感がした。
◇
翌日の午後、王妃主催の慈善晩餐会が開かれる宮殿へ向かった。ルーカスが来ているか、確認するだけのつもりだった。来ているなら、それでいい。私はそのまま帰ればいい。
大広間では、夜の客を迎える準備が進んでいた。使用人たちが椅子や食器を運び、準備委員たちは名簿や会場図を手に行き来している。ざっと見回す。ルーカスはいない。
「伯母様。ルーカスは来ていますか?」
「ルーカス様? まだいらしていないわ。もう来てくださっている頃なのだけれど」
「何か連絡は?」
「いいえ。何も」
やっぱり。
「困ったわね。今日は名簿と席次の最終確認を手伝っていただく予定だったの」
ほら、困っている。
「分かりました。私が代わります」
「いいの?」
「ここまで来ましたから」
「助かるわ」
伯母はほっと息をつき、広間の一角へ目を向けた。
「では先にご紹介するわね。トリーシャ、こちらが今回の準備を取りまとめているクリストファー公爵よ」
そこにいたのは、若くして公爵家を継いだクリストファー公爵だった。準備委員や係の者たちが次々と彼のもとを訪れ、変更や確認について指示を仰いでいる。私は一歩進み、礼をした。
「トリーシャ・ハーディングと申します。本日は伯母の補助を務めます」
「名前は知っている」
思いがけない返事に、顔を上げた。
「以前、何度か夜会で見かけたことがある」
「そうでしたか」
「こうして話すのは、今日が初めてだな」
それだけ言うと、すぐ仕事の話へ移った。
「席次の最終確認を頼めるだろうか。変更が一件あったはずだ」
「承知しました」
そう答えたところで、クリストファー公爵は別室の確認に呼ばれた。伯母から担当する卓の名簿と会場図を受け取り、席順を確認していく。最後まで目を通したところで、手が止まる。
名簿は九人。なのに、用意されているのは八人分しかない。最後の一人には「本日午前追加」とある。どうやら、変更がここまで届いていないらしい。椅子を一脚増やせば済む話じゃない。席次も、給仕も、料理も、一人増えれば全部変わる。開宴まで、もう半刻もない。クリストファー公爵が戻るのを待っていたら、間に合わない。
なんで誰も気づかないんだろう。とはいえ、見つけてしまった以上、このままにはしておけない。
「こちらの名簿は、最終版で間違いありませんか?」
近くにいた若い係へ尋ねると、係は名簿をのぞき込んだ。
「はい。先ほど届いたものです」
卓上へ目をやると、つられて見た係の顔から血の気が引いた。
「申し訳ございません。私が確認を――」
「まだ始まっていません。今そろえれば大丈夫です」
今ここで誰が悪かったのかを考えても、椅子は九脚にならない。
「隣室に同じ椅子はありますか?」
「ございます」
「では一脚お願いします。それから予備の資料と、席札用のカードも」
「承知しました」
係が隣室へ駆けていく。会場図と席札を見比べる。端に一席増やすのはよくない。追加された夫人だけが、同格の客から大きく離れてしまう。三席を少しずつ動かせば、最初から九人で決められていたように見える。椅子が届くまでに席札を動かし、予備の資料と新しい席札もそろえた。あとはグラスと給仕への連絡。それから料理の数も確認して――
「何をしているの?」
鋭い声に振り返ると、朝から会場準備に加わっていた年配の夫人が、動かした席札を睨んでいた。
「その席は、私が朝から整えたのよ。後から来た補助の方が、勝手に触らないでちょうだい」
「最終名簿が九名になっておりました。用意は八名分でしたので――」
「そんなことは聞いていないわ」
「ですが、このままでは一席足りません」
「だからといって、あなたが好きにしていいわけではないでしょう」
夫人は動かした席札を指した。
「いきなり出てきて、勝手に席を動かして。せっかく整えた会場をぐちゃぐちゃにしないでちょうだい」
……はい?
一席足りないことより、私が席を動かしたことの方が問題らしい。
「開宴まで時間がありません。今のうちに整えなければ――」
「もうよろしいわ。すぐ元へ戻しなさい。余計なことをして、これ以上会場を乱さないで」
さすがに腹が立った。もういい。好きにしてくれ。
そう思った時だった。
「彼女の判断で正しい」
背後からクリストファー公爵の声がした。夫人はその姿を見るなり、姿勢を正した。
「公爵閣下。ですが、この方が勝手に――」
「一名の追加を認めたのは私だ。名簿には反映されたが、会場への連絡が漏れていた。責任は私にある」
夫人が今度こそ名簿を受け取り、最後の一行を確認する。
「では、本当に九名……」
「ああ。席は戻さなくていい。これで正しい」
クリストファー公爵は卓上を確認した。
「だが、グラスはまだ八客だな。給仕にも変更は伝わっていないだろう。厨房も確認した方がいい」
思わず顔を上げた。今、私が考えていたことだった。
クリストファー公爵は夫人へ向き直った。
「給仕責任者と厨房へ、九名に変更したと伝えてくれ。グラスと食器を一人分追加して、料理の数も確認してほしい」
「……承知いたしました」
「会場図も九席に直して、関係する者へ回してくれ」
「はい」
夫人は一礼して歩き出し、途中でこちらを振り返った。
「事情を知らなかったとはいえ、失礼なことを申し上げました。申し訳ありません」
「分かりました」
それだけ答えた。今度こそ夫人が去っていく。
「すまなかった」
「公爵様が謝られることではありません」
「いや。私はこの準備の責任者だ。本当なら私もこちらを手伝うべきだったのだが、別室の確認を先に済ませる必要があった。戻るのが遅れた」
彼は、九席に整った卓上へ目を向けた。
「私が戻った時には、君はもう動いていた」
「あの程度でしたら、誰かが気づけば同じようにしたと思います」
「だが、誰もしていなかった」
クリストファー公爵は私へ視線を戻した。
「君だけだった」
返事ができなかった。そんなふうに言われたのは初めてだった。
「以前にも、君が同じように動くところを見たことがある」
「以前にも?」
「昨年の冬の夜会だ。君が使用人を呼び止め、壁際の飾り布を直させていただろう」
覚えていた。誰かが通った拍子にずれたのだろう。飾り布の端が炎のそばまで垂れていたので、近くの使用人へ伝えたことがある。
「君が動いたので何事かと思って見れば、燭台の火に触れかけていた。あのままなら、火が移っていたかもしれない」
「よく、そんなところまで見ていらしたのですね」
「君は、なぜか目に留まった」
「私が、ですか?」
「ああ」
少しだけ間が空いた。
「最初に見かけたのはもっと前だ。その後、君に婚約者がいると知った。だからこちらから近づくつもりはなかった」
まったく知らなかった。
「それは……存じませんでした」
「言っていないからな」
それはそうだ。
◇
晩餐会は滞りなく終わった。昼間に整えた主卓の九席には予定どおりの客が座り、追加された夫人も何事もなかったように会話へ加わっている。ひとまず安心した。
やがて隣の広間から楽団の音が聞こえ始め、客たちが舞踏へ向かい始める。私も伯母と一緒に移ろうとして、足が止まった。使用人たちが、壁際の椅子まで片付けようとしている。全部なくしたら、踊らない方や年配の客が休めない。
「その椅子は何脚か残してください」
「何脚ほどでしょうか?」
「そうですね――」
「六脚ほど残せばいいだろう」
横からクリストファー公爵の声がした。その視線が、さらに給仕台へ移った。
「あの台も柱の向こうへ移そう。今の位置では舞踏へ入る客の邪魔になる。水差しは残してくれ。踊った後に必要だ」
「承知いたしました」
使用人たちがすぐに動き出す。私は椅子のことしか言っていない。でも、彼はそこから先を自分で考えていた。
「……ありがとうございます」
「君が言い出したから気が付いたんだ」
あっさりそう言われた。なぜだろう。少し嬉しかった。給仕台が移り、壁際には椅子も残った。見回してみても、もう気になるところはない。
「これで問題なさそうだな」
「はい」
「なら、今度は仕事ではない」
クリストファー公爵が私の前へ手を差し出した。
「一曲、踊ってもらえるだろうか」
「喜んで」
その手を取る。踊り始めると、不思議なくらい気持ちが軽かった。さっきまで次に何が必要になるかを考えていたのに、今は何も考えなくていい。会話が途切れても気まずくない。久しぶりに、一曲をそのまま楽しめた。
「晩餐はいかがだった」
「とてもおいしかったです。つい、いつもより食べてしまいました」
「それは何よりだ」
思っていたより、ずっと話しやすい人だった。
「今日は、昼間のことがあったから誘ってくださったのですか」
「きっかけにはなった」
「きっかけ?」
「君と話してみて、もっと話したいと思った」
……そんなこと、普通に言うんだ。
「それで、一曲?」
「ああ」
曲に合わせて向きを変える。
「今は仕事ではない。私が君と踊りたかった」
視線が重なった。少し困る。嫌ではなかった。
返事を考えているうちに、曲が終わった。伯母のところまで送ってもらう。
「随分と楽しそうだったわね」
「そう見えましたか?」
「ええ」
否定する理由はなかった。実際、楽しかった。
◇
それから、私たちは夜会や、互いの家を通じた茶会で何度か顔を合わせた。最初はクリストファー様から声をかけられることの方が多かった。けれど、いつからか私の方から彼を探すようになった。見つければ話しかける。家へ戻れば、次に会ったら何を話そうかと考える。そんな時間まで、いつの間にか楽しくなっていた。
手帳に次の約束を書き込む。今度は、誰かの予定を忘れないためではない。私自身が、その日を待っていた。
その間、ルーカスが招待状への返事を忘れ、侯爵家の晩餐会へ出向いたものの、自分の席が用意されていなかったという噂も耳にした。
……まあ、もう私の知ったことではない。
◇
そして、一か月後。夜会の庭園で、ルーカスに呼び止められた。少し痩せたように見える。目元にも疲れが残っていた。
「少し話せないか」
「ここでなら」
回廊には従者が控え、庭園にもほかの客がいる。二人きりになるつもりはなかった。ルーカスはしばらく言い淀んでから、ようやく口を開いた。
「君と別れてから、何をしてもうまくいかないんだ。今までならしなかったようなミスまで増えた」
おめでとう。それを望んだのは、あなたですよね。
「君と婚約していた時は、こんなことにはならなかった」
「私が確認していましたから」
「ああ。今になって、君がどれだけ僕を支えてくれていたのか分かった」
一歩近づいてきたので、同じだけ後ろへ下がった。
「僕には君が必要だ。やり直せないか」
「お断りします」
「まだ怒っているのか?」
怒っているからではない。単純に、もうこの人とやり直したくない。それだけだった。
「今度は違う。君がしてくれることを当然だと思わない。ちゃんと感謝する」
どうやら、これで分かったつもりらしい。
「何かあれば言ってくれ。僕も手伝うから」
手伝う?
散々、私をお手伝いさんのように扱っておいて、今度は自分がその役をすればうまくいくと思っているらしい。私は、お手伝いさんが欲しいわけではない。
本当に、くだらない男。
「私は、あなたを必要としていません」
「そんなはずはない。僕たちは二年も婚約していたんだ。まだやり直せるはずだ」
私が断った理由より、どうすれば私の気が変わるかを考えているらしい。
「頼む、トリーシャ。君がいないと駄目なんだ」
声が上ずっていた。そして、とうとう私の前で膝をついた。
「もう一度だけ考えてくれ。今度はちゃんと君に感謝する。君がしてくれることを、当たり前だなんて思わないから」
一人でも大丈夫だと言った人が、今は私がいなければ駄目だと言っている。だから何だというのだろう。
めんどくさい。
何て言えば、この人には伝わるんだろう。
「彼女は断った」
背後から、聞き覚えのある低い声がした。振り向くと、クリストファー様がこちらへ歩いてくる。さっきまで膝をついていたルーカスが慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。
「クリストファー公爵閣下。これは、私とトリーシャの問題です」
「そのトリーシャが断った。話は終わっている」
「ですが、私たちには二年もの付き合いが――」
足音が近づき、クリストファー様が私の隣で止まった。
「彼女は私の婚約者だ」
ルーカスの時間が、ピタリと止まった。もちろん、そんな事実はない。
「これ以上付きまとうな」
ルーカスの視線が、私と隣のクリストファー様を何度も往復する。何か言いかけたものの、結局何も言えなかった。クリストファー様へもう一度深く礼をすると、私には何も言わず、そのまま庭園を去っていった。回廊の向こうへ姿が消えて、ようやく息が抜けた。
「ありがとうございました」
「いや」
すぐに首を横に振った。
「先ほどはすまなかった。君の了承も得ず、婚約者などと言ってしまった」
「私を助けるためだったことは分かっています」
「それでも、君が望んでいないことを私が勝手に決めていい理由にはならない」
そう言って、一歩だけ距離を取った。今度は何も決めず、私の返事を待っている。
「だから、改めて聞いてもらえるだろうか」
「はい」
「これからも君に会いたい。夜会でも、茶会でも、何でもない日でも」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「……私も、お会いしたいです」
口にした途端、顔を見ていられなくなった。
「それなら、もう一つ聞いてもいいだろうか」
「はい」
「私と結婚してほしい」
そこまで言われるとは思っていなかった。
「……私で、いいんですか」
「君がいい」
返事はすぐだった。
「ずっと、おそばにいさせてください」
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