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第1話 毒の匂いは、蜂蜜の香りに似ている

断罪の朝、大広間には蜂蜜の匂いが満ちていた。


もちろん、本物の蜂蜜ではない。それはトリカブトの根を三日三晩、蜜蝋と煮詰めたときに立ちのぼる、あの独特の甘ったるい匂いだった。ヴァロワ公爵家の長女セレスティアは、シャンデリアの下でその匂いをそっと吸い込み、ほんの少しだけ眉を寄せた。


(あら。今日の会場、随分と物騒ですこと)


しかしそれ以上の感慨はなかった。社交界とはそういう場所である。花の香水と、毒の匂いと、嘘の匂いとが等しく漂う場所。十九年間、彼女はそう教えられて生きてきた。


「セレスティア・ヴァロワ! 貴様の悪事、もはや疑いようがない!」


中央階段の踊り場から、婚約者である王太子アルヴィス・レイフォードが声を張り上げた。金糸の刺繍が施された純白のマントを翻し、傍らには春の妖精のようなミレーヌ男爵令嬢。二人の登場に、招かれた貴族たちが期待のこもったざわめきを漏らす。


ああ、と、セレスティアは内心で頷いた。この匂いの正体は、この茶番のためのものだったのか。


「そこな令嬢、ミレーヌを毒殺せんとしたる罪、この場で明らかにしてくれる!」


衛兵が銀盆を捧げ持ってきた。その上には、小指ほどの透明な硝子瓶。中には、うっすらと桃色に濁った液体が揺れている。


――その瞬間、セレスティアの世界の解像度が、ぐんと上がった。


瓶の中の液体からは、微かな鉄錆の匂い。混ぜられた植物油の粘度、光の屈折率、沈殿している微細な結晶の色。前世で幾度となく顕微鏡の向こうに見た記憶が、生まれてから今日まで一度たりとも役に立ったことのない"知識"が、ゆっくりと、まるで長い眠りから覚めるように、彼女の中で目を覚ましていく。


(――前世、というのは、こういう時に使うものでしたのね)


断片的な記憶。白衣。ステンレスの実験台。「法医学教室・毒物分析研究室」と書かれた扉。


思い出しても、驚きはなかった。むしろ、腑に落ちた。ああ、だから私は毒の匂いが分かるのか。ずっと、みんなも同じだと思っていたけれど。


「――申し上げてもよろしいでしょうか、王太子殿下」


セレスティアはドレスの裾をつまみ、教科書通りの角度でお辞儀をした。声は、氷を張った湖のように静かだった。


「発言を許す! 最期の弁明くらいは聞いてやろう!」


「では、ひとつだけ」


顔を上げ、彼女は真っ直ぐに、その硝子瓶を指差した。


「それ、毒ではございませんわ」


しん、と、大広間が静まり返った。


「……なんだと?」


「桃色の濁り、油分の分離、沈殿の粒径から見て、それはタンポポの根と山桜桃の樹皮を煮出した咳止めでございます。子供の百日咳に効く、平民のあいだで一般的な民間薬ですわ。飲んでも、せいぜい少しお腹が緩くなる程度で――」


「――だ、黙れ! 貴様、往生際が悪いぞ!」


「――ですが」


セレスティアの声が、初めて、ほんの少しだけ、鋭くなった。


「本物の毒は、そこにありますわ」


彼女の白い指先が、するりと動いた。差した先は、王太子アルヴィス・レイフォード――その手に握られた、飲みかけの紅茶のカップだった。


「……は?」


「殿下。その紅茶、いつからお持ちですの?」


「な、何を突然……この茶会が始まる前から、ミレーヌが淹れて――」


「トリカブト、ですわ」


セレスティアは目を細めた。


「加工されたトリカブトの根。蜜蝋で丁寧に包んで、蜂蜜の匂いで気配を消してある。この会場に入った時から、ずっと匂っておりました。私、てっきり誰かの香水かと」


「……」


「殿下がその紅茶をお召し上がりになったのは、もう、三口目でしょうか?」


王太子の顔から、血の気が引いた。


カップを持つ手が、震え始めた。


「そ、そんな、馬鹿な、ミレーヌが、ミレーヌが淹れて――」


「あら」


セレスティアは、まるで庭園の花の名前でも呟くように、当たり前のことを口にした。


「では、ミレーヌ様が犯人ですわね」


――ぐらり、と、王太子の身体が傾いた。


悲鳴、椅子の倒れる音、貴婦人の絶叫、駆け寄る侍医。ミレーヌ男爵令嬢の、蒼白な、しかしどこか予定調和的な悲鳴。


その騒乱の中で、セレスティアだけが、静かにその場に立っていた。


(それにしても、変ですわ)


倒れた王太子を見下ろしながら、彼女は首を傾げる。


(ここまであからさまな毒の匂い、貴族の皆様なら気付かれると思ったのに。どなたも指摘なさらないなんて)


彼女は、まだ知らない。


毒の匂いが分かるのは、この世界で彼女ただ一人だということを。


そして、この一件が、王家を三代にわたって蝕んできた巨大な毒殺網の、たった一本の糸に過ぎないことを。


――さらに言えば、この騒動を、大広間の二階回廊の陰から、ずっと冷たい灰色の瞳で見下ろしていた男がいたことを。


「……見つけた」


その男は、口の端をわずかに持ち上げて呟いた。


三年前、暗殺されかけた父の命を、名も告げずに救っていった謎の令嬢。あの日以来、探し続けていた、たった一人の鼻。


ラングリッジ公爵家次期当主、テオドール・ラングリッジ。


二十四歳。「氷の貴公子」と呼ばれる男が、この夜、十九歳の悪役令嬢を口説き落とすと決めた瞬間であった。


――だが、それはまだ、少し先の話。


いまはただ、大広間の中央に、一輪の白い花のように、セレスティア・ヴァロワが立っている。


彼女の身柄は、この日のうちに辺境送りと決まる。


毒物鑑定士として。


王家の目の届かぬ、遠い、遠い、運命の公爵領へ。

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