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2話 空気に透けて映るもの

 昇降口まで続く長い廊下。少し夕焼けに溶けて染まったようで、来た時よりも色が濃くなっている。

 僕の後ろを正確なリズムを刻み込むような足取りで、瀬南さんが歩いて着いてくる。


「……本当に良いの? 逆方向って言ったのに」


 僕は前を向いたまま、後ろに向かって声を投げた。

 僕の声はやっぱり平坦で、差し込む光に溶けて消えてそうだった。


「もう、良いよって言ったのは私だよ? それにほら、さっきも言ったけど……今日は遠出したい気分なんだ」


 瀬南さんはそう言って大きくステップを踏み出すと、僕の横に並んだ。顔は何だか晴れやかに思えた。

 手には僕が渡した『炉心融解』が大事そうに抱えられている。


「分かった。じゃあ僕、行きたい所あるんだけど。そこ行っても良い?」


「もちろん。大丈夫」


「門限とかは?」


「もぉ、そんな事気にしないで大丈夫だって!」


「……ごめん」


 確かに、僕は何でそんな事を気にしてるんだろう。いつもなら着いてこようが、なんだって気にしない。そのまま僕は帰っていたはず。今までそうしてこようとしたし、実際に僕は帰ると思う。いや、それ以前に僕と帰るなんて言い出した人が居ない。前代未聞だ。しかし、今こうやって帰ることになった訳だし……。じゃあ僕が変な事を気にしてる理由は……。


「おーい。大丈夫?」


 肩をトントンと叩かれる衝撃で僕の意識は弾けるように世界へと飛び出した。

 声が大きく感じる。それになんか妙に湿っぽい。

 閉じられた目蓋を差し込む光に怯えながら開く。

 ぼやけた視界の先には、いつの間にか僕の眼前に瀬南さんの顔があった。

 息を呑む音すらも聞こえそうな程、あまりに近すぎる距離。

 心臓の鼓動が少し速くなったのを感じる。

 僕は反射的に体が後ろに下がった。


「おぉ、動いた。宮木君、ずーっとボーッとしてたから」


「あぁ、ごめん少し考えてて」


「何考えてたの?」


「つまんない事だよ。誰でも考えるような事」


「ふぅん」


 僕はさっきまでずっと自分の世界に入り込んでいたようだ。昔からの癖だが、人前ではやめておこう。

 変な目で見られるし、変な心配もかけられる。

 僕は人に迷惑をかけてまで、考え事はしたくは無い。

 次からは、サッと流そう。考えるのは後だ。

 僕はそう思うことにして、前に歩き出した。


 僕たちは昼間に僕が開拓した裏門へと向かうことにした。

 錆びついた門までの道は、校舎の影が長く伸びていて、足元が少し暗い。


「わっ、すごい……ここ、本当に学校の敷地内?」


 廃材置き場の横を通り過ぎる時、瀬南さんが声を上げた。

 積み上げられた古い机や椅子が、夕陽を浴びて墓標のように静まり返っている。少し埃っぽい匂いが鼻腔を満たす。

 僕はくしゃみの衝撃を力で何とか緩和して、クチュンという気の抜けた情けない音が曇色の空にしっとりと響く。


「ズズッ。……埃だらけで褒めてられるような場所じゃないけどね」


「でも、冒険みたいで楽しいかも」


「ポジティブで良いね。僕は埃っぽい所は苦手なんだ」


「確かに。でも意外とアクティブなんだね、宮木君。こういう道探すの好きなの?」


「アクティブっていうか……ただの暇つぶしだよ。ずっと同じとこに居るとなんか息苦しいから」


 自分の口から出た言葉が思っていたよりもずっと気取ったものに聞こえて、僕は少しだけ後悔した。

 透明なはずなのに、なんか色が付いたようだ。

 でも、瀬南さんは軽く微笑んでいた。


 錆びついた裏門の前に着く。

 僕は昼間の教訓を活かして、なるべく手のひらが汚れないよう、制服の袖で指先を覆いながら門を掴んだ。


「……っ、ふん!」


 ギギギ……と、またあの嫌な音が響く。

 腕の筋肉が強張り、呼吸が止まる。門は相変わらず強情で、僕の細い腕力ではなかなか動こうとしない。


「手伝おうか?」


「……大丈夫。これくらい、一人で……っ!」


 意地になって力を込めると、一気に門が開いた。

 勢い余ってよろけそうになった僕の背中を、瀬南さんの手がそっと支えた。女の子に支えられるなんて、少し恥ずかしい。


「お疲れ様。宮木君。顔、真っ赤だよ?」


 イタズラな笑みを浮かべて瀬南さんはそう言う。

 うん。これは間違いなく僕をからかっているな。


「……うるさいな、ちょっと錆びてるだけだよ」


 僕は汚れを払うフリをして、彼女の手の感触が残る背中を丸めた。


 門を抜けた先には、住宅街の裏路地が続いていた。

 アスファルトの隙間からタンポポが顔を出し、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。

 1人で歩くとそんな時間の流れを感じなかったのに、2人で歩くと時空が歪んでいるかのように、やけに時間の流れが遅く感じる。

 1秒が重く、1歩が遅い。

 2人で話す事も尽きて無くなり、時間がひたすらに溶けていく。


「……ねぇ、宮木君」


 2人に沈む静けさを破ったのは瀬南さんだった。


「わざとゆっくり歩いてる?」


 図星だった。けれども、僕は平静を装って極めて平坦な喋り方で答えた。


「……いや、そんな事ないよ。ただ坂とか段差が多いからちょっと疲れただけだよ」


「ふぅん。そっか」


 そう言ってまた、口元で笑った。

 多分だけど、バレていると思う。確証は無いけど。

 僕はただこの空間を少し味わいたいと思った。多分だけどもう2度とこういう経験は出来ないと思うから。

 僕みたいな透明な存在と瀬南さんみたいな鮮やかな存在。

 正反対の2人が並んで歩いている、その不自然なコントラストを、陽に溶けていく2人の影を、僕は少し感じてしまいたくなった。


 ひたすらに歩いて辿り着いた先は、線路を跨ぐように架けられた、鉄錆の浮いた古い跨線橋だった。

 そこからは2本の線路が錆びながらものびのびとしていた。まるで脈動のらように街を貫き生きているようだ。


「わぁ、すごいね。なんか秘密基地みたい」


 夕暮れに照らされながら、驚いたような顔で瀬南さんは言った。

 そんな彼女を視界の端に捉えながら隣に立ち、遠くに伸びる線路を眺めて呟くように僕も応える。


「ここは、この景色が1番僕にとって落ち着くんだ。街も空も僕自身も景色に溶けてるみたいで」


 この景色は僕にとっても思い入れのある場所で、昔によく来ては景色に耽ていた。

 どんな時に来ていたかはもう覚えていないけど、僕の心の拠り所だったのは覚えている。


「宮木君はさ、いつもここから消えちゃいたい。とか思ったりしてるの?」


 そう声が聞こえて、隣に視線を向けてみる。

 さっきとは打って変わって、少し淋しそうな顔でそう言う瀬南さんがそこに居た。さっきまでのワクワクした面影は無かった。

 そんな顔を見て、僕は言葉が詰まった。

 瀬南さんは構わず、言葉を続ける。


「宮木君は言ったよね。『炉心融解』の結末をバットエンドじゃ無いって。世界を塗り替える物語だって」


 僕は静かに頷く。


「じゃあ、宮木君は誰かの世界を塗り替えたいとか、思ったことはある?」


 そんな、少し突拍子もない質問だった。

 瀬南さんは少し俯いている……気がする。

 深く考えなても、答えは1つだ。


「僕はそうは思わない」


「何で?」


「僕は空気だからだよ。昔から」


 瀬南さんは少し戸惑ったような顔を浮かべて頭を傾げている。

 そうだよな。と僕は思い、言葉を紡ぐ。


「僕には特別な才能も無い。好きな事も無いし、嫌いな事も無い。言ってしまえば居てもいなくても変わらない、特徴のない人間なんだよ。瀬南さんみたい子とは本当は真逆の存在だ。そんな僕が人の世界を塗り替えれるとは思わないし、塗り替えたいとも思わない」


 真っ直ぐ目を見て僕は喋る。瀬南さんもそれに応えてくれているようで、琥珀の瞳が視界の正面に映る。

 沈む夕陽が彼女の瞳の中で、小さな灯りを付けたように見えた。

 瀬南さんはじっと黙ったままで、僕の言葉を咀嚼するように小さな瞬きを繰り返す。

 しばらくの沈黙。

 空気に漂う鉄の錆びた香りと、下を度々通る貨物列車の轟音が一緒に僕らの静寂を塞ぐように奏でて、僕らの足元を微かに揺らす。


「……そっか。宮木君は『空気』か。自分でそう、思ってるんだね」


 ようやく動いた唇から発せられたのは否定でも無く、肯定でも無い。ただ、僕の言葉を優しくなぞる様な、言葉だった。

 瀬南さんは手元の本ーー『炉心融解』をまるで壊れそうな陶器を扱うかの様に手つきでそっと撫ぜる。


「でも、空気が無いと人は生きていけないよ? 普段は確かに意識して無いけど、本当は1番近くにあって、無いと誰も彼も成り立たないよ」


『炉心融解』を両手でギュッと抱きしめながら瀬南さんは俯いてそう言う。

 僕もそう思えたら、少しは幸せになれるのだろうか。瀬南さんのような真っ直ぐな考え方になれたら……。

 ……僕には、出来やしないな。


「それは、科学の教科書とかに書いてあるような理屈だよ。僕が言いたいのは、もっと……主観的な話。僕がここにいてもいなくても、世界の誰も困らない。例えば、今日の数学の授業。僕は答えたけど、何も起こらなかった。笑いも、関心も何もかも。僕が居なくたって、他の誰かが答える。僕はその景色の一部で、ピントの合わない、静かな背景なんだ」


 もはや僕は、自分で言っていてなんだが、喋り過ぎたと思い、自嘲気味な笑いが湧いてくる。

 誰に言ったって、何も変わらないのに。別に変えたいとも、思いはしないけど。

 視線を逃すように、水平線に伸びる線路に目を向けた。


「僕にとって、それは嫌なことでもないんだ。自分を決める枠組みが溶けて無くなる。僕はただ、そこにいるだけ。それ以下もそれ以上ない。だから僕は『空気』なんだ。僕はこれが僕の正解だと思う」


 本当は、全部そういう風に思っている訳では無い。

 僕は昔からこんな性格だったと思ってはいるが、最近考えてみて、少し分かってきた事がある。

 ただ、そう思い込んでいる方が楽なんだ。きっと。

 誰からも期待される事は無いし、僕自身にも期待する事は無い。『空気』として、ただ透明な存在として生きていく。

 それはある種、僕の護身術なんだと思い始めてきた。


「ふふ、そっか。そうだね。やっぱり、宮木君は理屈っぽい」


 瀬南さんは小さく笑うと、跨線橋の欄干に身を乗り出した。

 腰まで伸びた綺麗な銀色の髪は風に揺られて、そこからシャンプーのような、清潔だけど、どこか作りこまれたような、そんな香りがする。


「……じゃあもし、私が明日急にいなくなっても、宮木君はこの景色をみたら私を思い出す?」


 突拍子もなく、そんな質問が僕に飛んできた。

 僕はただ、ひたすらにたじろくばかりで言葉を失い、心臓の拍動が嫌というほどに耳の奥で鳴っている。

 何故ならその言葉は、あまりにも『炉心融解』の少女と重なりあっていたからだ。

 目の見えない少年に、最後まで健気に語りかけたあの少女に瀬南さんが少し重なって見えた。

 唾を静かに飲む。


「僕は……。ごめん、分からない……」


 少し、うつむきながらそうやって言うのが精一杯だった。

 そんな僕に構うことなく、声が聞こえてくる。


「私は、きっと忘れないと思う。本を貸してくれたことも、宮木君が今日一緒に帰ってくれたことも……この景色も、全部。……ふふ。あの錆びた門を開ける時、顔真っ赤だったね」


 少し顔を上げてみると、クスッと笑った瀬南さんがそこに居た。鈴を転がしたように、軽やかな笑顔だった。

 その時、貨物列車が重々しく線路を走り、去っていく。

 風で彼女の銀色の髪が夕焼けの色に溶けて煌めき、ゆらゆらと流麗にたなびく。

 貨物列車の大きな音は、別の音でかき消されて、何も聞こえなかった。

 僕はなんだか恥ずかしくなって、咄嗟にさっきの言葉に言い返す。


「そ、それはちょっと錆が付いただけだよ!」


「あはは、ごめんごめん。ちょっとからかっただけ」


 でもね。と続けて彼女は言う。欄干に身を委ね、さっきと打って変わって凛とした雰囲気をまとう。


「さっき言った事は、本当だよ。宮木君は自分を『空気』だって言っていたけど、空気ってね、誰かの中に残るものなんだと私は思うな」


 瀬南さんの声は、さっきよりもずっと静かで、でも確かに届く強さを持っていた。


「残る……?」


 僕は思わず聞き返す。


「うん。例えばさ、朝の匂いとか、雨が降る前の空気とか。ふとした時に思い出すでしょ? ああ、こんな感じだったなって」


 彼女は遠くの線路を見つめている。


「それって、誰かの記憶の中に残ってるってことだと思うの。形はないけど、確かにあったって分かるもの」


 瀬南さんはそう言うと、欄干に預けていた体をゆっくりと起こした。

 西日に透ける彼女の銀髪が、一筋一筋、精巧な細工物のように美しく流れる。その立ち居振る舞いはどこを切り取っても絵画のように完璧で、隙がない。

 彼女の言葉は、まるでリハーサルを重ねた舞台役者の台詞のように、淀みなく、そしてあまりにも綺麗に僕の耳へと届いた。あまりにも自然に。

 僕は言葉を失った。

 そんな風に考えたことなんて一度もなかったからだ。

 心を支配する淡い何かが、スッと解けた気がする。

 陽だまりの草原で寝転んでいるような、包み込まれるような温かみを体が覚えた。

 寝転んだ事なんてないのに。


「……でも、やっぱり僕は『空気』だよ。誰の記憶にも残らない。ただそこにいるだけで、僕は僕の形を知らないから」


 僕は逃げるように視線を線路の先へと戻した。

 自分の声が、情けないほどに平坦であることを願う。


「ふふ、理屈っぽいなぁ」


 瀬南さんは、抱えていた『炉心融解』の表紙を愛おしそうに指でなぞった。

 その動作ひとつをとっても、彼女は「瀬南さん」という配役を完璧に演じているように見えた。

 学校での彼女は、常に『誰もが憧れる、明るくて優しくて完璧な少女』だ。今の彼女もまた、その延長線上にあるように思える。

 けれど、ふとした瞬間に漂う、あのシャンプーの香り。

 清潔で、それでいてどこか作り込まれたような、鈍い痛みを持つ香料の匂いが僕の鼻腔を微かに突いた。


「瀬南さん。……君はいつもそうやって誰に対しても『完璧』な格好をしてるの?」


 何かに突き動かされたような勢いで放った僕の問いに、彼女の指がピタリと止まった。

 一瞬の静寂。

 貨物列車が通り過ぎた後の線路が、熱を帯びたまま静まり返っている。

 瀬南さんは何事も無かったかのように、僕の方にゆっくりと視線を向ける。その時の瞳はいつにも増して琥珀色に輝いて、燃えている。


「『完璧』……ね。それはちょっと違うよ。宮木君」


 私はさ。と続けて彼女は言う。

 その言葉が僕には少し重さがあるように思えた。


「ただ、私が『私』であるために、1番綺麗で可愛い格好をしていたいだけだよ。誰だってそうだよ。好きな人の前では、愛らしくいたい、可愛くいたい。友達の前では頼もしくいたい。当たり前でしょ? それは『完璧』とかじゃなくて、努力だと私は思うな」


 瀬南さんはそう言い切ると、いつものように軽く微笑んで僕から視線を外した。

 つけ入る隙がないほどに正論で、完璧な答えだった。答えなんて無いはずなのに、彼女の言葉が正解に聞こえてくる。

 けれど、その微笑みがあまりに一定の角度を保っていることに、僕は奇妙な違和感を覚えた。

 まるで、今にも壊れそうな薄氷の上に成り立っているように見えて、僕は息を呑んだ。


「……努力、か。そうだね。瀬南さんがそう言うなら、そうなんだろう」


 彼女はその銀髪を整え、完璧な微笑みを貼り付け、誰からも愛される『瀬南さん』であろうとしている。

 不特定多数の視線に合わせて自分自身の形を歪めている。

 僕は彼女のことはよく知ってないけど、それはとても大変な事だろう。自我を殺すのはいい行為とは思えない。

 それでも、瀬南さんは僕のその曖昧な返答に満足したのか、それとも僕の心の機微を読み取った上で敢えて深追いしなかったのか。そんな事はわからないけど、彼女はふいっと前を向き、線路の先にある、今まさに夜の闇に飲み込まれようとしている街並みを見据えた。


「……そろそろ帰ろっか。宮木君」


「あぁ、そうだね」


 そう会話を交わした僕らは歩き出す。

 明日も学校だし、きっとまた会う。まぁ、次に会う時があっても多分何も起こらない。物語で言うところの「主役」と「背景」の関係に戻っているはずだから。

 けど、僕の鼻の奥にはあの作り込まれたシャンプーの香りが深く刺さってトゲのように離れず残っている。

 もし、それが彼女の言う「空気の記憶」なのだとしたら。

 僕はこれから、夕焼けを見るたびに、この錆びた匂いと、琥珀色の瞳を思い出してしまうのかもしれない。

 忘れもしない思い出として、僕の心に残っているから。


「もう、暗くなってきたね」


 彼女の声が、錆びついた空気を震わせた。

 振り向いた瀬南さんの顔には、相変わらず一点の曇りもない。夕闇が迫る街を背景に、彼女の銀髪だけが白く浮かび上がっている。


「そうだね、暗い。暗いと、足元が見えなくなるし、早く帰ろう」


 僕は、ポケットの中で汚れた袖先を隠した。

 彼女は「私であるために努力している」と言った。その言葉はあまりに正しく、強固で、僕のような『空気』が踏み込める隙なんてどこにもないように思えた。


 その時、遠くから重低音が響いてきた。

 地響きを伴って、巨大な貨物列車が僕らの足元を通り過ぎる。

 鉄が擦れる甲高い音、空気を切り裂く風圧。

 世界が轟音に塗り潰され、二人の間にあった沈黙が強制的に剥ぎ取られる。

 僕はその音から逃げるように、彼女の横顔を盗み見た。

 そこで、僕は息を止めた。

 彼女の瞳は、沈みゆく太陽と同じ琥珀色に燃えていた。

 けれど、その奥に湛えられた光は、熱を持たない液体となって溢れ出しそうに震えている。


「……」


 彼女は笑っていた。

 口角は理想的な角度を保ち、頬のラインは彫刻のように美しいまま。

 けれど、その完璧な「瀬南さん」という仮面の裏側で、彼女の瞳からは大粒の涙が、音もなく零れ落ちている。

 貨物列車の強く轟く音が、彼女の嗚咽をすべて飲み込んでいく。

 彼女は泣き声を上げることも、目を伏せることもしない。

 ただ前を見据えたまま、世界にバレないように、自分にすら気づかれないように、その端正な顔を濡らし続けていた。

 鼻を突く、あのシャンプーの香りが、いつもより鋭く感じられた。

 それは彼女を清潔に保つための香りではなく、自分を清潔に見せるための香りなのかもしれない。


「…………」


 轟音の中で、彼女の唇が動いた。

 音は聞こえない。けれど、その震えが僕の網膜に焼き付いて離れない。

 誰の目にも止まらない『空気』である僕だけが、今、この世界で唯一、彼女の壊れた真実を目撃している。

 列車が去り、再び静寂が跨線橋を包み込む。

 彼女は何事もなかったかのように、指先でさっと目元を拭った。その動作すら、あらかじめ決められていた振り付けのように鮮やかで、酷なものだった。


「あはは。宮木君、そんな顔してどうしたの?」


 彼女が振り向く。

 そこには、僕の知っている瀬南さんが、いつものイタズラな笑みを浮かべて立っていた。

 けれど、僕は想像をしてしまう。

 夕焼けに溶けていく彼女の背中が、どれほど必死に、その形を保とうとしているのかを。

 琥珀色に煌めく透き通った瞳は、どんな景色を、どんな色で、どういう風に見てきたのかを。


 この跨線橋に来てから、僕は自分を『空気』だと瀬南さんに言った。彼女も自分は努力しているだけだと、『完璧』を演じている訳ではないと。そう言っていた。


 何も言えなかった僕は黙り込んで、彼女の斜め後ろを歩き出した。

 せめて、彼女の視界を汚さない「空気」のままでいられるように。


 僕は今日、この日に、久しく忘れていた、自分の色を少し思い出したような気がする。
























 

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