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1話 琥珀の瞳に映るもの

「…じゃあ行ってきます」


玄関を振り返り、そう口元でつぶやくが、やけに響いたように感じる。

返事は返ってこないけど、もう慣れた。

扉を開けて外に出る。


外からは春の訪れをひしひしと感じる暖かい風が体を優しく包み込む。いや、いつもよりも風が強いかも。

僕はその風に逆らうようにして学校へ向かうレールを辿る。


しばらくの間1人でコツコツと歩いていると後ろから異様な速さで接近してくる足音が聞こえてくる。


「おっはよぉ〜誠!今日も一日がんばろぉ〜!」


肩に重い衝撃が走り、脳を直接揺さぶるような明るい声が鼓膜を叩く。


「おはよ、颯汰」


「今日もそっけないねえ、誠は。俺らはもう高校生なんだよ?花の高校生活、薔薇色の青春!可能性は無限大!宇宙よりも遥かに広い!考えるだけで楽しくないかい?ワクワクして夜も眠れなくないかい?」


「ご自由に青春してどーぞ。僕は遠慮しとくよ。それに、眠れないのはただの不眠症だよ」


「もう、そんなこと言ってさ。彼女の1人でも作ってみなよ。そんな事考えられなくなるからね!」


「出来たら分かるかもな。…で、き、た、ら、な」


「くっ…この卑屈人間が!もう少し自分に自信を持て!」


「自信どうこうの話じゃないんだよ」


「…まぁ、いいや。それよりも誠!昨日のテレビでさ」


颯汰の屈託のない、底抜けの明るさ。

それは僕の存在を大きくかき乱してくる。

昔から、ずっと。


学校までの軽い道すがら、学校に最近入学してきた転校生のことり昨日のテレビで見た芸能人のスキャンダルから、最近駅の周りでできたカフェの事まで幅広く語りかける。それはもう僕が相槌できない程熱中して。


「…って感じで、そのカフェの待ってる人がほぼ女の人でさでいかにも映え!…って感じで近寄り難いんだよね。だからさぁ、一緒に行こうぜ。もしかしたら運命の出会いがあるかも知れないだろ?」


「もちろん、お断りだ。そんな場所に行ったら僕は眩しさで消える。致死量の光は凶器だよ」


「大袈裟だなぁ誠は。でもその達観した感じ、俺は意外と好きだぞ?かっこよくてさ」


「そりゃどうも」


「まぁ、余談だよ。ほら、もう学校に着いたぞ」


私立銘華高校。それが僕の通っている学校だ。

全校800人程度のどこにでもあるフツーの学校。

強いて言うなら、ここらの学校の中では進学実績が多い方だ…


この高校を選んだ理由は…特に無い。

近かったから。これに尽きると思う。

あ。あと、部活が強制参加じゃなかったからかな。

まぁ、なんでもいいけど。


校門を抜けると騒がしさが一層増す。

新入生を部活に勧誘しようと声をかける先輩。自転車のブレーキをかける音。そして何より、新しい春に足浮き立ち、熱気を帯びている新入生。

その荒波に揉まれながら、昇降口に向かい、上履きを履き替える。


「誠!俺が居ないからって寂しくなんなよ!」


「なんねぇよ」


「あぁ、そうだ。今日の昼さ中庭集合な。めっちゃ良い場所見つけたんだよ」


「え、ちょ」


そう言って肩を軽く叩くと「じゃあな!」と言い残し、クラスの扉に吸い込まれていった。


僕の返事はお構いなしかよ。

いや、そもそも返事なんて聞いていないな。

僕はA組で颯汰はB組。ここで一時お別れだ。


颯太は太陽みたいなやつだ。いつのまにかいるし、いつのまにかいなくなっている。それに周りを照らしてどんどん同化していく。

僕の真逆みたいな奴だ。

磁石でいうとS極とN極みたいな。

真反対で交わることはないけど、それぞれが引き合い、繋がる。

だから、喋れるのかもしれない。



教室のドアを開ける。

喧騒が波のように押し寄せてくるが、僕が足を踏み入れた瞬間、その波は僕を避けるようにして左右に分かれる。

僕が波を静めたわけではない。

僕の心が凪いだだけだ。

おはようと声をかけてくる者はいない。

僕も誰の目も見ない。


自分の席に座り、カバンから2冊の文庫本を取り出す。

1冊は昨日の途中から。もう1冊は新しく買った本。新しく買った方はもう絶版になった。ずっと気になってたけど、探すのが大変だったんだよなぁ。

席に着いて本をひたすらに読む。これが僕の毎朝のルーティンだ。

こうしていれば誰からも大抵話しかけられないし、僕も好きなことに集中して取り組める。一石二鳥だ。


活字をなぞっている時は僕は生きていると実感する。ここの世界じゃなくてもどこかに僕の心はある、と。


そんな沈んだ考えでボーッとして、本を読もうと思ったその時、教室の扉前で騒めきが聞こえる。

そっちの方に目をやると、1人の女子に対しておおよそ10人くらいの女子が囲んでいる。


「みんな、おはよう。今日はどうしたの?」


(ひじり)ちゃん!今日も1人で学校来てるの?」


「そうだよ。それがどうしたの?」


「もし良かったらさ、私達と一緒に行かない?」


1人の女子がそう言うと、後ろに立っているその他多勢の女子はうんうん、と頷く。


「…いや、私は1人で行くよ。こっちの方が性にあってるんだ。それに、桃ちゃん達は私と逆方向でしょ?」


「あちゃーだめかぁ。なら一緒には帰ろうね!」


「それも大丈夫」


そう言って自分の席に座る、大人びて見える1人の女の子。

名前は瀬南聖(せなみ ひじり)

最近転校してきた子だ。

腰元まで垂れる銀髪と琥珀みたいに丸々として綺麗な目に整った顔。容姿端麗さに加えて、本人の人当たりのよさから男女問わず人気が高い。


それに、勉強にも秀でているようでこの前の数学の小テストでもただ1人、満点を取っていた。

カリスマ、美貌、頭脳、人なら誰でも欲しがる全てを兼ね備えている。いわゆる「完璧人間」というやつだ。


僕のような人種とは、一生縁のない存在。

さっき颯汰の事を磁石に例えて言ったが、それになぞらえていうなら月と太陽みたいだと思う。

互いに真反対にいて、一瞬だけ重なる事はあっても交わる事は無い。

同じとこを巡っていても、巡っている場所が違う。

つまり、住んでいる世界が元から違うのだ。


  ーーー


本を読む。活字をひたすらに追っていく。

そんなこんなでいつのまにか時間が経ち、HRを過ぎて一限のチャイムが重々しい幕を引くように鳴り響いた。


数学教師が教室の戸を開き、みんなが教科書をパラパラと音を立てて開き始める。

黒板に並ぶ数式。

x や y といった文字が僕みたいだなと思った。

何にでも代入可能で、それでいて、何にでもなれない空白の記号。


「ここをじゃあ……宮木。分かるか?」


変な親近感を感じていたのに不意に名前を呼ばれ、心臓が一瞬だけ不規則なリズムを刻む。

教師の視線が、教室後方に座る僕に向けられた。

クラスメイトたちの視線が、まるでサーチライトのように僕を捉える。

一瞬の静寂。

僕が立ち上がると、椅子が小さく鳴いた。その音さえも、この静かな教室では異物のように響く。あってはならないように。


「……813。だと思います」


「おっ…正解だ。そう、ここは3乗の公式を使うと解けてだな…」


ノートに書かれた数式の答えを抑揚のない声で読み上げる。

僕の声は、教室の空気に溶けていく。誰の耳にも残らず、ただ鼓膜を震わせるだけの振動。

読み終えて座ると、サーチライトは一斉に消え、また黒板の方へと戻っていった。


今の数秒、僕は確かにこの世界に「存在」したはずだ。

けれど、座った瞬間にその感触は霧散する。

改めて僕はモブNなんだということを改めて実感した。


前の席の子は真面目にノートを取っている。色ペンを使い、とても分かりやすく。

右の席の子はうとうととしていて今にもまぶたが閉じられそうだ。

左の席の子は答えが違ったのか一生懸命に消しゴムを動かし、机を揺らしている。

それぞれに「色」がある。それに「温度」がある。

勤勉、怠惰、失敗。どんな色でも輝いて見える。

どんな汚い鉛だって光を当てれば煌めくから。


僕にはそれがない。

無色透明。無彩色。そこら辺で代用が効く。光を当てるための物を1つも持ってないからだ。

僕を包む透明な膜は僕が思っているよりも厚く、僕が僕であることを証明してくれている。


昨日、桜の下で付き合ったあの2人は今何をしてるんだろう。

デートの予定を立てているのだろうか。

それか、授業の中で恥じらいながらも目を合わせている?

僕には少しも関係ない。なんなら会ってすらいない。いないのに…。

不意に、なんか、考えてしまう。


  ーーー


四限終了のチャイムが鳴ると同時に、教室は一気に沸き立った。

弁当を広げる者や購買へ走る者、そして男子グループの騒がしい笑い声。

僕はそれらから逃げるようにゆっくりと教科書を机にしまい、手に弁当を持って一人で教室を出た。


向かったのは、中庭だ。

ここは校舎に囲まれていて、少しだけ風が穏やかだった。植え込みにはツツジが赤く色づき始め、中心には古びたベンチがいくつか並んでいる。


途中で購買に立ち寄ってパンを買ったが、あまりの盛況ぶりに一個も買えなかった。

なのでベンチに座りながら、目の先に見える景色をボーッと眺めている。

優しく頬をなぞる風、それにつられてゆらゆらとたなびく木々。


「……きれいだなぁ」


よもや、自然と同化しそうな時。

左側からタッタッタと小走りでこちらに向かってくる足音が聞こえた。

まぁ、颯汰だ。


「遅いぞ、颯汰」


「いやーごめんごめん!購買込み過ぎてさぁ。今日は焼きそばパンの日だったからかな?」


彼は購買の焼きそばパンを口いっぱいに頬張りながら、僕にそう言った。

こいつ…。


不満さを顔で示すと、颯汰は口角を上げて反省の色を少し浮かべながらニヤけた。

こいつッ……!


「まぁまぁまぁ、そんな顔すんなよ。ほら、お前の分も買っておいてやったから。メロンパン、好きだろ?」


放り投げられたパンを、僕は片手で受け止めた。

パンを包む紙袋のザラザラとした感触が、現実味を帯びて掌に伝わる。

まぁ、許そう。


「…で、良い場所ってどこなの?」


「こっからちょい歩くんだよ。まぁ、着いてきて」


そう言い、僕の手を掴んだ。

僕はなるがままで颯汰に引かれるまま歩き出す。

知らない道をどんどん歩いて進んでいく。

誰も通らないような廃材置き場を横に抜け、錆びついた裏門の近くを通り過ぎていく。


数分後、颯汰が言う「良い場所」に着いたようだ。

そこは高校の隅っこにある少し広い広場のような場所で、木漏れ日が肩を穏やかになぞるような優しさを感じる不思議な場所だった。


隅には、木製ベンチがポツンと一つだけ待っているように佇んでいた。

2人してベンチに腰掛け、空を見上げる。


「ほら、ここの眺め」


颯汰が指差した先には、校舎の隙間から切り取られた、真っ青な春の空があった。


「綺麗だろ?」


「そうだね。学校じゃないみたい」


中庭の静けさと、校舎から漏れ聞こえる喧騒。その対比が、不思議と居心地を悪くさせない。


「ここならお前も少しは空気を吸いやすいだろうし。良い場所だろ?」


「……皮肉か?」


「褒め言葉だよ。お前と一緒にいると、俺も少しだけ落ち着けるんだ」


「僕といて出る言葉がそれ?物好きだね、颯汰も」


「…っははは!お前らしいな。言い方がまるっきり!」


「なんだその感想。きもちわる」


「いやぁ、何でもないよ。ただ、昔からやっぱ変わってないなぁってさ」


綺麗な空から目を逸らし、真っ直ぐを見つめる。

そこには特に何も無かった。


「僕は…変わってるよ。昔から。色々と」


颯汰もそれに合わせるように、落ち着いた雰囲気を纏い前を向く。


「まぁ、そうかもな。でも、根っこというか、お前(・・)自身は変わって無いと思う。俺はな」


「そっか。そうだといいね」


「そうだな」


多分僕は変わって無い。昔から。

人は経験を重ねるうちにどんどん自分が変わっていく。イニシエーションというやつだ。

確かにそれはその通りだと思う。大なり小なり人は経験を重ねて自分を作り、それがいつしか本当の自分になる。

間違っている訳が無い。


でも僕は思う。

変わっていくのは外郭だけじゃ無いか、と。

その作られていく自分は、きっと世界に染まる為の自分だ。


本当の自分が傷つかない為に必死に足掻いて、苦しくて吐きそうな時にギリギリで生まれた自分だと思う。

それは皆がよく言う、成長ってやつと同じだ。

そしていつか、その生まれた自分が本当の自分になって環境に適応していくのだろう。

まぁ、つまり何が言いたいかというと。


大事なのは何を経験してきたかってことだと思う。


 ーーー


昼休みも程なくして、終わりのチャイムが鳴り響き全員が各々の教室へ戻っていく。

授業はいつも通りボーッとしていたら過ぎ去っていく。


「…はい。以上で帰りのHRを終わります。皆さんまた明日。元気に学校に来てください」


先生がそう言い、日直が挨拶をする。

そうしたら、学校はもうおしまい。

部活がある人は知らないが、僕はもう帰る時間だ。


机にしまった教科書と一冊の小説をバックにしまい、帰る準備を終える。

後はこのまま帰るだけだ。

ちなみに颯汰は陸上部の練習があるから1人で帰る。


…さて、今日はどのルートから帰ってみようか。

僕は最短ルートとは違うルートで家に帰る、というチャレンジをしている。これも日課だ。

家の大体の方向は分かっているので、その軸から逸れないように良い感じに道草を食って帰るというまぁ、一種の暇つぶしみたいな感じだ。

今日は…そうだな。昼に行ったあの場所の道中で見た裏門から帰ってみようかな。


廃材置き場を横に抜けて少し歩く。

するとそこには昼に見た時と変わりなく裏門があった。

長年使われていないのか酷く錆びついていて、ところどころ門に穴が空いている。

もう使われていないという事が、否が応でも分かる。

錆の感じから絶対に手が汚れる。絶対に。嫌だが、ここまできた以上引き返すのはなんか癪なので、無理やりこじ開けてやる。


ギィギィと鈍いのか甲高いのか曖昧な悲鳴を上げながら、門はゆっくりと開いていく。

錆のせいか、とてつもなく門が固かった。額に少しを汗をかく程度には疲れた。


手も赤褐色に汚れたし、汗もかくし。

何だか少しやるせない気持ちになりながらも新ルートの開拓に向かった。


結論から言おう。

特に心躍るような建造物や場所は無かった。

強いて言うなら、本屋があったくらい。

個人経営の小さな本屋で、店主のおじいちゃん1人で店を切り盛りしている。

店の中には僕1人だけ。


初めて入る本屋なので何が置いてあるか、どんなジャンルが置いてあるか、新刊は何があるか、見てチェックしている。

うーん。覚えきれない。

まぁ、スマホで写真撮ってもう帰ろうかな。

欲しくなったらまた来たら良いし。


「さて、スマホは…っと」


右手でバックの中を漁る。ゴソゴソと音が聞こえる。

静かな本屋の中で物と物がぶつかり、擦れる音がひしひしと乾いて響く。


…バックを置いて両手で探してみよう。

何も変わらない。ただ音が響き、吸収されていく。

もう一度探してみよう。

もしかしたら勘違いかもしれない。

何も変わらない。それどころか少し惨めな気分だ。


「…っ」


あぁ。スマホ、学校に忘れてきた…。



   ーーー


忘れ物に気づいて、帰ってきてしまった学校。

いつもの間にか日は落ちてきていて、窓から見える空は少し赤みがかった色に変わろうとしている。


この時間ならもう誰もいない。静まり返った廊下は陽に照らされて長い影を描いていた。

教室の扉を開けようと手をかけると、微かだけど中から音が聞こえてきた。


紙をめくり、擦れる音。

静かに、息を呑む音。

椅子が少し引かれて、床が少し軋む音。

静謐な空間の中で、ただひっそりと淡く響く。


扉の隙間から中の様子を覗くと、そこには1人の女の子が座って本を静かに読んでいる。その横顔が見えた。

その人は、瀬南さんだった。

普段から白い輝きを放っている彼女だが、今日は夕陽の穏やかな橙に染まっている。


小説に書かれた活字を目だけでゆっくり追う、少し疲れたのか瞬きを数回する、1ページを味わうようにめくる。

僕は人のことをジロジロ見るタイプではない。断じて。

しかし瀬南さんは一つの所作取っても、その姿があまりに絵画的で自然と目が向いてしまう。

ずっと見ているあまり、呼吸も忘れそうだ。


不意に手に力が入る。もっと瀬南さんを見たいと思ったのか、ただバランスを崩しただけなのか、僕には分からない。

ガコッ。…扉に掛けていた手が扉を音を立てて揺らす。

当然、顔を上げて皿になったような目でこちらを見る。

瀬南さんと、目が合った。


颯汰以外の人と目が合ったのはいつぶりだろう。

僕はという透明な存在を彼女の透き通った、宝石のような目が捉える。


「……えっと。みや、き君?」


困ったような顔で瀬南さんはそう小さく言った。

そんなやつ居たっけ?あぁ、居たなぁ。って顔だ。

…まぁ、そんなもんか。そういうもんだ。


「はい、宮木です。一応同じクラスの。スマホ忘れちゃって。取りに来たんだ」


「宮木君ね。ごめん、私人の名前覚えるのちょっと苦手で…」


「大丈夫。そう言う事、誰でもるし。こっちこそ邪魔してごめん。すぐ帰るから」


「ううん、そんな事ないよ。私もこれ読んだら帰るつもりだったし」


「そうなんだ」


そう言って会話切り、一歩目を踏み出す。

すると、同時に新しく気づいた。触れづらい事実に。

瀬南さんが座っている席。教室の後方の真ん中。

そこの席は僕の席だ。

何でよりによって僕の席に座っているんだ。

言葉にどよみながら声をかける。


「……そこ、僕の席なんだけど…」


僕がそう言うと、瀬南さんは小さく「あっ」と声を漏らし、弾けるように椅子から立ち上がった。


「ご、ごめんない!日当たりが少ない席がいいなぁって思って、そしたらこの席がいいなぁって思っただけで、何となくで座っただけで、別に他意はなくて!」


その拍子に、彼女が読んでいた本が膝から滑り落ちる。


「そんなに慌てなくても…。別に気にしてないよ」


僕はそう言って、手助けに行こうと自分の机の側まで普段通り歩く。


瀬南さんはしゃがみ込み、慌てて本を拾い上げた。

拾い上げて、顔を上げると少し困ったような、微笑んでいるような顔をただ浮かべるだけだった。

ふと、彼女の頬が少し赤くなっている気がした。

恥ずかしかったのだろうか。

まぁ、早くスマホを取って帰ろう。


「ちょっとごめんね」


「えっ、あぁ」


軽く会釈をした後、机の中に手を突っ込んでみる。 

見えない暗闇の中で、手探りで探していく。

するとやはり、指先に硬い感触が手に伝わってくる。それに薄い。


…あと、何かもう一個忘れてるな。

これは何だ?…あぁ、あれだ。

両手を机に入れて、中の物を取り出す。

左手にはスマホ。右手でには、朝読んだ本が入っていた。しかも絶版になったやつ。

危なかった。今日、家に帰ってこれを読むつもりだった。

中々に面白いラストだったな。見返すのが少し楽しみだ。

バックの中にその2つをしまって、扉の方へと歩き出す。

スタスタと歩き、扉の取っ手に手をかけた。

…このまま黙って帰ってもいいけど、なんか感じが悪い気がする。

モヤモヤした気分で帰るのは、ちょっと嫌だ。


そう思い、言葉を頭の中で巡らせていると、後ろの方から声が出て聞こえた。


「その…本。知ってるの?」


その声に応えるように振り返ると、瀬南さんはとても驚いているような顔をしていた。


「…この『炉心融解』のこと?知ってるけど…」


ついさっきバックに入れた本を取り出して、掲げて見せる。

タイトルは『炉心融解』不治の病を患い、余命があと2ヶ月の少女と、生まれつき目が見えない少年。そんな2人の青年が紡ぐ、小さな恋物語だ。


「それもう絶版になった本なのに、よく買えたね。…私も好きなんだその本」


オレンジに焼けたこの教室に僕と彼女の声だけが微かに波紋を広げる。

手に持った『炉心融解』の表紙が、夕陽を反射して鈍く光った。


「…好き、なの?この本」


僕の質問に、瀬南さんは少し目線を泳がせる。

その後、意を決したようにゆっくりと小さく頷いた。


「昔の友達がその作家さん、好きなんだ。その影響で私もなんか好きになっちゃって。…なんか変かな?」


「変では無いよ。理由はどうであれ、好きことは自信を持って好きだと言って良いと思う」


初対面の人に向かって何熱く語ってるんだ、僕は。


「ふふ、そっか。そうだね、」


僕を宥めるかのように瀬南さんはそう言って、軽く微笑みを浮かべた。

僕は振り返り、少し俯いて言った。


「…じゃあ僕はこれで」


僕は再度扉の取っ手に手を掛ける。

扉を少し横にスライドさせたところで、また声が掛かる。


「宮木君はさ、あの最後のシーンどう思った?」


『炉心融解』の結末。

不治の病の少女が、最後の一瞬だけ目が見えるようになった少年に自分の姿を見せようとする。

けれども、少女はその直前に力尽きる。

目を開いた少年が初めて見たのは、彼女の姿ではなかった。

彼女が最後に零した一滴の涙が反射した、世界の光だった。

少年はそばで倒れ込む彼女を抱えながら、空を見上げる。

空な残酷な程に青く、少年は静かに涙を流す。

それで物語は幕を下ろす。


「バットエンドなんてよく言われてるけど僕はそう思わない」


「へぇ、何で?」


「確かに救いようが無い。少女も少年もどちらも何かを失っている」


「うん、そうだね」


僕は、自分の取っ手の角を指先でなぞりながら言葉を紡ぐ。


「少女は死んだけど、少年は初めて『光』を知った。それは彼女が命を削って教えた色だ。…ただの悲劇じゃない。誰かの存在が、別の誰かの世界の色を塗り替える。そういう話だと、僕は思ってる」


瀬南さんは、僕の言葉を一つ一つを噛みしめるように、静かに目を閉じた。

夕陽が彼女の長いまつ毛に影を落とす。


「……塗り替える、か。素敵な解釈だね」


瀬南さんは再び目を開けると、僕を真っ直ぐに見つめた。

それは何だか暖かく感じた。それと同時に何かを見透かされているような落ち着かない感じもした。


「…その、もし良かったら」


そう言って口を噤む。

瀬南さんが、少し照れくさそうに指先を動かした。


「宮木君のその本……貸してくれないかな? 私が持ってるのは、表紙がボロボロになっちゃってて。宮木君のは、すごく大切にされてるのが分かるから。……あ、もちろん、私のと交換でもいいし、今度何かお礼するから!」


「…いいよ、交換じゃなくて普通に貸すよ」


そう言うと、瀬南さんは弾けるような笑顔でこちらへと小走りで向かってくる。


僕は、右手に持っていた本を彼女に差し出した。

彼女がそれを受け取る。指先がほんの一瞬だけ触れた感覚は妙によそよそしかった。


「本当にありがとう!えっ…と、いつまでに返せば良いかな?」


「いつでも良いよ。読んで満足したら返して」


「うーん。じゃあ、明日までに読んで返すね!明日の放課後!またここで返すから」


そう言って、素直な目でこちらを真っ直ぐ見て来る。

しばらくの間、目を合わせ続けていると、次第に僕は恥ずかしくなって、扉の方へと体を翻す。


「…じゃあ、僕はこれで」


今度こそ、ともう一回取ってに手を掛けた。

扉を完全に開き、外へと一歩を踏み出そうとしたその時、また後ろから声が掛かる。


「ちょ、ちょっと待ってよ!」


「…今度はどうしたの」


驚いたような、少し困ったような顔でこちらを見ていた。

少し微笑んで瀬南さんは言う。


「一緒に帰らない?」


「え」


「え?」


「僕と?」


「そう。宮木君と」


「分かった…けど。僕と帰っていいの?」


「何で?」


「だって、瀬南さん。僕と家の方向逆じゃん」


静謐な空間に僕の言葉はよく響いて聞こえた。

しばらくの沈黙の後、僕が振り返ると同時に、瀬南さんは口を開いた。


「…たまには遠出も良いかなって」


瀬南さんはイタズラっぽく微笑む。


「……はぁ、遅くなっても責任取らないからね」


結局、僕は彼女のペースに流されるまま、二人で歩き出すことになった。


…そういえば、瀬南さんって。

こんなに明るく喋ってたっけ?


ふと、そんな事が頭をよぎった。

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