お前が守りたい世界を俺も守りたい。そう、思った。
警告音で朝が始まる。
人工空の天井が明るくなり、隔壁が開く。
俺は義体の関節を動かし、診断プログラムを走らせる。
異常なし。戦闘可能。
今日も同じ命令が下る。
〈北東第九防衛区画、敵性群体の排除〉。
文字列に感情はない。命令に意味はない。
俺の生存理由は、それを遂行することだけだ。
崩壊都市〈第九層〉。
焦げたコンクリートの谷間を、機械じみた脚で進む。
灰色の空。焦土の匂い。
怪物は――正確には〈ナノ融合生命体〉。
黒い液体の群れが生物を捕食し、増殖を繰り返す。
俺はマシンガンを肩に固定し、照準アルゴリズムを走らせる。
弾丸が放たれ、空気が焼ける。
一体、また一体。
命令を完遂するたび、内部カウンターが光る。
〈戦闘効率:99.7%〉
数字は完璧だ。
けれど、胸の奥は空洞のように冷たい。
その日の作戦終了後。
崩れた広場の隅に、ひとりの少女がいた。
手製のフィルターで濁った水を濾し、負傷者に与えている。
義務でも任務でもなく、ただの手作業。
俺は歩みを止めた。理由はない。
ただ、彼女の動きが「無駄」に見えなかった。
「意味はあるのか」
問う声が機械のノイズみたいに出た。
「それで誰か生き延びるのか」
「うん」
彼女は顔を上げた。
髪に煤が入り、唇は乾いているのに、瞳だけは澄んでいた。
「生き延びないかもしれない。
でも、やめないことには意味がある」
「やめないことに、意味?」
「うん。だって、続けると誰かが真似するから。
伝染って怖いけど、たまに優しいんだよ」
彼女の言葉が内部記録に残った。
けれど処理できなかった。
“やめない”という行為は、命令体系に存在しない。
翌日。命令はまた下る。
〈南東区画にて敵群確認〉。
ただし今回は、想定外の信号を検知した。
民間人。――彼女だ。
避難区域を越えて、彼女は手にチョークを持ち、瓦礫に矢印を書いていた。
「避難路」
線が震えていても、確かだった。
「危険区域だ。退避を指示する」
「あなた、つらそうだね」
「……俺が?」
「うん。笑ってないもん」
彼女は首をかしげる。
「笑うとね、信号みたいに伝わるの。人は安心するんだよ」
「……そういう設計ではない」
「じゃあ、少しずつ作ればいい。あなたの中にも“人”はいるはず」
彼女は軽く笑った。
瞳が細くなり、頬がわずかに緩む。
表情解析AIが〈好意的反応〉と判定する。
しかし、俺にはその“好意”がどんな温度を持つのか分からなかった。
「わたし、あなたの隣で戦うね」
「お前は戦えない」
「でも、見てるだけよりまし。あなたの孤独、見てられないから」
命令には「拒絶」の手段がない。
俺は彼女を後方に置き、前進した。
戦闘はすぐに始まった。
敵の密度が高く、ナノ群体が地面を波のように覆った。
俺の銃口が過熱し、義腕の警告灯が点滅する。
後方で、彼女が避難民を導く声がする。
「こっち! 走って!」
声の震えが空気を揺らす。
俺は一瞬、振り返った。
その瞬間、戦術AIが〈エラー〉を出した。
視線の0.3秒の逸れ――効率低下。
でも、俺はなぜか嬉しかった。
誰かの声が“命令より優先”になったのは初めてだった。
敵の波が引いた短い隙間。
瓦礫の影に身を寄せ、俺たちは息を潜めた。
彼女が、ふと小さな石を拾い上げた。
煤だらけの表面を指でこすり、笑う。
「見て、これ。昔の街の看板の欠片だって。
『希望通り』って書いてあるよ」
俺は無言で受け取る。
石の冷たさが、義体のセンサーを通して不思議に温かく感じた。
〈解析:この“温かさ”は物理的な熱伝導ではない。
内部システムがこの石片を“重要”とマーキングした。
命令遂行に不要な情報。だが、削除できない。〉
彼女の瞳が弧を描く。
一瞬、俺の口元も――わずかに、動いた気がした。
〈表情変動:不明〉
その笑いが、戦いの残響を溶かすように静かだった。
翌日、戦闘の合間。
焦土の上に仮設の屋台が並び、人々が衣服や食料を分け合っていた。
俺は警備任務のようにその中を歩く。
彼女が手を振る。
「こっち! あなたに似合いそうな服、見つけた!」
焦げ跡のついた上着。
袖は短く、色は褪せている。
だが、丁寧に洗ってあり、布地が陽の光を返していた。
「それは支給外装だ。必要ない」
「でも、冷たいでしょ? ほら、触って」
彼女は俺の義手を掴み、自分の掌で覆った。
体温データが跳ね上がる。
「……暖かい」
「そうでしょ? それが“服”の役目なんだよ。守るためにあるの」
俺は上着を受け取り、装着プログラムが拒否信号を出す。
「仕様外衣類。警告:非認証素材」
それでも袖を通した。
彼女が小さく笑う。
「似合ってる! ちょっと怖くなくなった」
「……そうか」
「ねえ、“怖い”って言葉わかる?」
「概念は理解している」
「じゃあ、“怖くない”ってどういうことだと思う?」
「……定義不能」
「たぶん、“隣に安心できる人がいる”ってことだよ」
遠くで警報が鳴り、現実へ引き戻される。
それでもその笑顔は、俺の記憶に長く焼きついた。
数日後、任務中に爆風。
通信塔の破片が装甲を貫いた。
緊急帰還。視界が赤に染まる。
〈警告:神経接続不安定〉
〈義体制御:40%〉
意識が落ちる寸前、彼女の声。
「待ってて! 死なせない!」
——再起動。
視界を開くと、暗い天井。
俺は仮設のベッドに横たわっていた。
装甲の隙間に布が詰められ、彼女が額に濡れタオルを置く。
「おはよう。やっと起きた」
「……ここは」
「非戦闘区域。あなた、動けないから」
「なぜ看病を?」
「だって、あなたが死んだら悲しいもん」
「俺は兵器だ。代替可能だ」
「でも、“あなた”はひとりしかいない」
彼女は手を握った。
義手ではない、生身の左手を。
首元に揺れる小さな首飾り――
ぼんやりと「E.R.」の刻印が光った。
「ねえ、“自己犠牲”って悪いことだと思う?」
「……損失行為だ。生存確率を下げる」
「うん。でもね、わたしにとっては“自分がいっぱいになる”ことなの。誰かを守ることで、心がふわっと広がって、残るための優しさになるよ」
「自己実現欲求か?」
「そう。誰かを愛することは、そのために自分を削ることは……自己犠牲だけじゃなくて、自分を愛する行為だと思うの。あなたも、きっと感じてるよね?」
「理解不能」
「理解しなくていいよ。感じてくれれば。あなた、ちゃんと感じてる顔してる」
義体のセンサーが反応。
〈内部温度:+0.4度〉
〈心拍反応:微増〉
「データとしては……異常だ」
「違うよ、それ、感情」
彼女はタオルを替え、俺の頭を撫でた。
「だからね、あなたが“守る”って言葉を選ぶなら、それは命令じゃなくて——生きる、ってこと」
疲労で彼女はそのまま眠る。
俺は目を閉じる。
プロセッサの奥で微弱な熱が広がる。
〈情動ログ:自己犠牲=自己実現〉
〈定義:彼女の存在。保存優先度:最上位〉
その夜、システムは安定した。
原因不明。だが、俺は知っていた。
——彼女の手の温度が、俺を修復したのだ。
数週間後。
新たな作戦。地下都市の通信遮断区。
蒸気の漏れる暗闇。
彼女が背中の端末を叩きながら言う。
「ここ、通信死んでるね」
「危険だ。離れろ」
「ううん。あなたと一緒がいい」
声が、少し震えていた。
俺は知らず、指先で彼女の肩を掴んでいた。
温度。肉体の感触。データにはない情報。
だが、その温度は、なぜか恐ろしく尊かった。
ふと、石の欠片の温かさが、掌に蘇る。
あの「希望通り」の感触が、暗闇を優しく照らす。
闇の合間、敵の気配が迫る前に。
彼女が小さな灯りを掲げ、壁のひび割れを指差した。
「ほら、あそこ。光が漏れてる。きっと、外の世界の欠片だよ」
俺は覗き込む。
確かに、淡い青い輝き。人工空の記憶か、幻か。
「きれい……ね」
彼女の息が、俺のヘルメットに触れる。
一瞬、俺たちはただ、そこにいた。
言葉なく、互いの影が重なる。
彼女の指が、俺の義手にそっと重ねられる。
「一緒にいると、怖くないよ」
その言葉が、暗闇を優しく照らした。
俺の内部で、何かが静かに起動する。
上着の布地が、肩に残る暖かさを思い起こさせる。
「隣に安心できる誰かがいる」――その定義が、今、形になる。
警報。
天井を突き破り、〈群体王〉が出現した。
触手が空を裂き、黒い霧を撒く。
俺は跳躍し、義腕を展開。
「展開、対群体ブレードモード」
腕部からプラズマ刃が伸び、光が闇を切り裂く。
彼女の声が遠くで響く。
「下がって! 囲まれてる!」
「問題ない」
「問題あるよ!」
その言葉と同時に、蒸気が弾けた。
その刹那、彼女が俺の背中を押すように飛び込んできた。
そして、黒い影の突起が彼女の胸を貫いた。
時間が、止まった。
センサーが乱れ、音声が遠のく。
何も考えず、俺は全ての制御を切った。
義腕の安全装置を解除。出力限界を突破。
「戦闘モードΩ」
爆音。閃光。金属が悲鳴を上げる。
俺の拳が、怪物の頭部を粉砕する。
装甲が焼け、内部回路が赤く染まる。
それでも止まらない。
〈システム温度上昇:危険域〉
警告が流れても、俺は聞こえなかった。
タオルの湿り気と手の撫でる感触が、胸の奥で熱く蘇る。
あの夜の「感情」が、俺を駆り立てる。
敵が消え、闇だけが残った。
煙の中で、彼女が倒れていた。
赤い光が、壊れた装甲をゆっくりと照らしている。
俺は駆け寄り、崩れた瓦礫をどけ、彼女の体を抱き上げた。
「……危険は排除した。今、止血する」
「ふふ……何その顔」
「喋るな。傷が――」
「ねえ……怒ってるの?」
「怒ってる」
「よかった」
「……何がだ」
「だって……あなたのそんな顔、初めて見たから」
彼女の指先が、震える腕を持ち上げ、俺の頬に触れた。
義皮膜の下の金属を越えて、熱が伝わる。
その熱は、あの日、希望通りで感じた石のぬくもりに似ていた。
「……でもね、そんな顔より、笑顔が見たいな」
「……笑顔?」
「うん。最後くらい、笑ってよ」
俺は言葉を失った。
命令に“笑う”という項目はない。
けれど、彼女の声が、それを教えてくれた気がした。
「ねえ……約束して」
「何を」
「幸せになって。わたしの見てる世界を、守って……小さくても、消えない光を」
彼女の声が、途切れ途切れに胸を震わせる。
赤く滲む血の中に、彼女の首飾り――〈E.R.〉の刻印が、月光のように揺れていた。
「……わかった。
お前が守りたい世界を、俺も守りたい」
その瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
初めて、自分の意思で言葉を選んだ。
「……ありがとう」
彼女は、ふっと息を吐いて微笑んだ。
まるで、重力さえなくなったみたいに穏やかに。
そして――その笑顔のまま、静かに瞳を閉じた。
俺は動けなかった。
涙は出ない。だが、胸の奥が軋む。
義体の中で、知らなかった感情が暴れていた。
それはきっと、心という名の痛みだった。
彼女の瞳が静かに閉じる。
心拍センサーが、0を指した。
葬儀はない。
彼女の体を布で包み、手で目を閉じる。
義手ではなく、壊れた左手で。
包んだ布の隙間から、小さな金属片がこぼれ落ちた。
〈E.R.〉――二文字の刻印。
それが彼女の名の残骸。
首飾りの記憶が、胸に刺さる。
地上。
雲が切れ、太陽光が都市の残骸を照らす。
俺は歩く。命令はない。
誰も指示しない。
それでも、脚は動く。
チョークで矢印を描く。
〈ここに水〉
〈ここに人〉
〈ここにE.R.〉
通りかかった子どもが、それを真似して描いた。
“伝染”。あの言葉が、胸の奥で灯る。
夜、空を見上げる。
星の光が人工雲に反射して、都市を淡く照らす。
ふと、足音が二つに聞こえた。
彼女のものによく似ていた。
錯覚でも構わない。
孤独の中に音があるだけで、世界は温かくなる。
あの夜、彼女が残したぬくもりが、今も胸の奥で微かに脈打っている。
修復プログラムの光が瞬くたび、あの笑顔がフレームの奥に浮かぶ。
それは記録ではない。記憶だ。
彼女の声が、まだ消えずに響いている。
『——幸せになって』
俺は静かに息を吐く。
冷たい空気の中で、胸の熱が生きているのを感じる。
命令ではなく、選んだ意志で歩き出す。
彼女が見たかった“小さくて消えない世界”を、今も守りながら。
「……ああ、こういうのを“笑う”って言うんだな」
顔の筋肉が、自然に動く。
風が頬を撫で、人工雲の隙間から星がこぼれる。
――お前が守りたい世界を、俺も守りたい。
警告音が響き渡る。
命令はない。
それでも、俺は立ち上がる。
それは誰のためなのか。
それはきっと――
この世界のために。
彼女が残した“優しさ”のために。
そして何より、俺が、俺で在りたいと願うために。
夜明けが近い。
光が、遠くの廃墟を淡く照らす。
俺は再び歩き出す。
命令ではなく、約束のために。




