新生活6日目
夜早く眠ると、自然と朝も早く目が覚めるものなのね。
柔らかな朝の光を感じながら目を開けた私は、思わず「人体の不思議ね」と小さく笑った。
井戸へ行って、冷たい水で顔を洗う。ひやりとした感触が気持ちいい。
昨日は、手作り洗剤を作るための壺を探したけれど、結局ちょうどいいものは見つからなかった。
だから今日は買い物の日にしよう。
「壺……。桶でも代用できるかしら?」
そう考えながら、押し車のことも思い浮かべる。大きな荷物になるだろうから、持っていったほうが良いわね。
転移陣を使えば一瞬で運べるけれど……。誰かに見られる、という危険がある。
「……やっぱり、転移陣は封印ね」
少し、ため息が混じった。
買い物に行くなら、縫い糸も補充しておきたい。ついでに食料も――魚を捕まえる道具なんかも売っていれば、買ってみようかしら。
そんなことを考えながら、朝ごはんの支度を始める。
玉ねぎに似た野菜をじっくり炒め、香ばしい匂いが広がったところで細かく切った肉を加える。少し炒めたら水を注ぎ、じっくりと煮込む。
「……うん、いい香り」
スープが出来上がったところで、一口飲む。……やっぱり、胡椒が欲しい。
バターなんてあれば、もう少し深い味になるのに。
「宝石を少し売って、買えるかしら?」
小さく呟きながら、パンを細かく切って軽く焼く。
玉ねぎと肉の風味はついたけれど、やはり少し物足りない。
それでも、噛むほどに味が出て、なんだか落ち着く朝食になった。
食後、片付けを済ませて出かける支度をする。
町娘風の服に着替え、肌を少し茶色く見せる粉をはたき、頬にそばかすを描いた。
鏡の前で目薬をさし、赤い瞳を茶色に変える。
「いつ見ても、不思議な目薬ね」
フードをかぶり、宝石を3つ小さな袋に入れて腰に結ぶ。
押し車を押しながら、私は小屋を後にした。
初めてのときよりも、今日は周りを見る余裕があった。道沿いの家々を眺めながら歩くと、ふとある庭の木に目がとまる。
「……あの家の木、もしかして果樹? 木の実が見えるわ」
少しだけ気になって、立ち止まりそうになる。
この辺りの住人は、どうやら皆、畑で何かを育てているらしい。青々とした葉、白っぽい実、どんな野菜を作っているのかしら――そう思うと、少し胸が弾んだ。
そんなことを考えているうちに、町の屋根が見えてきた。
「あら、もう着いたのね」
思ったよりも早い。二回目の道は、何となく時間が短く感じた。
さて、まずは宝石をお金に換えなくては。
……でも、どこで売るのが正解かしら?
宝石商? それとも衣装屋?
キョロキョロと周りを見回す。
見慣れない店の看板が並び、通りの人々の声が重なる。
「……やっぱり、もう少し勉強しておくべきだったかも」
小さくため息をついた。
散々悩んだ末、私は宝石商に売ることに決めた。
ドレスに縫い付けられていた小さな宝石は、台座付きで、そのままでもちょっとした飾りになるほど品が良い。これなら、きっと価値がつくはず――そう思いながら、通りを歩く。
通りの奥に、落ち着いた雰囲気をまとった店を見つけた。飾り気はないのに、窓越しに見える宝石がどれも美しい。並べられた棚には、どこか上品さと自信が漂っている。……直感だけど、こういう店はきっと外れない。
「ここにしましょう」
そう呟き、扉に手をかける。
カラン、と柔らかな鈴の音が響いた。
店に入ると、奥から髪を丁寧に撫でつけた年配の男性が現れた。落ち着いた衣服、控えめな宝飾、そして何より――動きのひとつひとつに滲む品格。宝石ひとつで人を見抜いてきたのだろうという、長い年月の重みがあった。
「いらっしゃいませ」
低く、よく通る声。
――ああ、やっぱり良い店を選んだ気がする。そう思いながら、私は持ってきた宝石を一つ、そっと取り出し、男性に差し出した。
「これを、お金に換えたいのですが」
声がわずかに震えた。……出所を聞かれたら、どうする?喉の奥に緊張が張り付く。
男性は無言で懐から小さなルーペを取り出し、宝石の表面、色、大きさ、台座……ひとつひとつを丁寧に確認しはじめた。
しばらくすると、男性はゆっくり顔を上げ、私をじっと見た。
……違う。私の瞳ではない。
視線は――フードの影に隠したはずの、赤いイヤリングへまっすぐ向けられていた。
(……気づかれてる……?)
背中に冷たい汗が流れる。
男性は何かを考えるように沈黙し、やがて息を吐いた。
「――良いでしょう。買い取りしましょう」
そう言うと、手元の紙にさらさらと金額を書き記す。
差し出された紙を見て、思わず息をのんだ。
平民がひとり、四ヶ月は生きていける金額。
「ありがとうございます……」
声がかすれる。私は震える指でお金を受け取った。
帰ろう、と思った瞬間、男性が静かに口を開く。
「次、来るときは――イヤリングは、きちんと隠したほうがいいですよ」
「……わかりました」
胸が跳ね、嫌な汗が噴き出す。
気づかれている。いや、知られている。
この人の“目利き”は誤魔化せない。
私は慌ててフードを深くかぶり、店の扉を押し開けた。
カラン、と鈴の音。
陽の光が差し込む外気の中、私は早足で人混みに紛れ込んだ。
――鼓動が、まだ止まらない。
しかし、お金は、できた。
胸の奥に、ほっとした温かさが灯る。
さて――まずは糸だ。
物を作ってみて気づいた。糸の色ひとつで雰囲気が変わる。それに、差し色の刺繍があるだけで、ぐっと印象が上がる。私は期待を胸に、糸を扱う店へと足を踏み入れた。
店内の棚には、色とりどりの糸がぎっしりと並んでいる。赤、青、緑、淡い桃色、深い藍色……視線が忙しいほど。
あれも、これも素敵。
しかし――財布は正直だ。
悩みながら糸を手に取っていると、ふと銀色の糸が目に映った。きらりと光るその色に、アレクシス皇子の髪を思い出す。
……高い。桁が違う。
けれど、これで「N」を刺繍したら、どれほど映えるだろう。
胸が、熱くなる。
しばし迷い、私は結局、銀糸をそっと籠へ入れた。
次に向かったのは、壺が並ぶ店。外にずらりと置かれた壺の中から、程よい大きさを選ぶ。桶も一つ、追加する。ついでに、「魚を採る道具、何かありますか?」と聞くと、店主は釣竿と糸、それに針をすすめてきた。
……釣れるの? 本当に?
半信半疑だったが、割引するよ、と言われて気づけば購入していた。
そのまま食料品店へ。
胡椒らしきものがあったが、あまりの高値に目が泳ぐ。
財布と商品を交互に見て――今日は諦めた。
代わりに雑穀や粉を眺める。
粟、稗、黍、小麦……奥にはライ麦?
小麦粉は色が茶色っぽく、ざらついていた。
だから今食べているパンは黒っぽいのだ、と腑に落ちる。
令嬢時代、毎朝食べていた白いふわふわのパン。
――あれは贅沢だったのだ。
……白い小麦粉にするには、何回もふるいにかけて不純物を取り出さなくてはならない。それに、細かく粉にするのも大変な作業。
日本で普通にあった、さらさらの真っ白な小麦粉は、技術の賜物なのだ。……今さらながら、気がつく。
雑穀は少しずつ試してみることにした。
肉に野菜、果物、おそらくオリーブ油?も買い足す。
そして――出会ってしまった。
卵。
白く、美しい曲線。儚げな光沢。
……欲しい。
割らずに帰れる?
考える間もなく、身体は動いていた。
卵を籾殻のようなもので包み、押し車にそっと置く。押し車は重いのに、心は軽い。
帰り道、休憩のため道端に腰を下ろしていると、通りがかった農夫のおじさんが、ふと足を止めた。
「重そうだな、頑張れよ」
そう言って、りんごのような果物を一つ渡してくれる。
「ありがとうございます……」
胸の奥がじんわり温かくなる。
服でごしごしと拭いて、かじる。
しゃく、と歯ごたえ。
林檎と梨を足して割ったような、みずみずしいさと甘さ。身体に沁みる優しさ。
――他人の善意って、こんなにも尊いのね。
何故だか涙が滲んだ。
押し車の取っ手を握り直し、私はゆっくりとまた歩き出した。
夕焼けに染まる道が、やけに優しく感じた。
夜は、朝の残りのスープに、粟?を入れた。木べらで静かに混ぜながら火にかけると、とろり、とろみが出てくる。湯気がふわりと鼻先を撫で、疲れた体の隙間という隙間に、やさしく入り込んだ。
「……リゾット、みたい」
ひと口すすると、素朴な穀物の甘みがじんわり広がる。胃がほっとして、思わず肩の力まで抜けた。
食器を片づけ、寝る支度を整えたあと、ふと思い出して袋の中から銀色の糸を取り出す。月明かりを受けて、細く、静かに光った。
――アレクシス皇子の髪の色。
胸が、少し痛む。届かない人。手を伸ばしても、触れられない光。
そのきらめきをそっと枕元に置き、ベッドにもぐり込む。寝返りを打つたび、糸がちり、と小さく揺れて、月光がそれを拾った。
まぶたを閉じたのに、思い出す。凛とした横顔。届かない距離。
気づけば、ひと粒、またひと粒と、涙がこぼれていた。
「……おやすみなさい」
返事のない呟きが、暗い部屋に消える。
やがて、疲れに包まれるように、静かに眠りへ落ちていった。
枕元の銀糸だけが、小さく、優しく、夜の闇に光り続けていた。
---皇子視点
俺は統治者代行任命の手続きに追われていた。大綱こそ作り上げたものの、細部はまだ手付かずのままだ。
王国での男の住居、助手の選定、護衛の確保
(襲われたりしたら、こちらが困る)
そして執務室の用意。
考えるべきことは山ほどある。
それに、王国へは彼と同行した方が良いだろう。転移陣を使えば一瞬だが、あえて道をゆき、彼の目で王国の現状を見せる必要がある。
――現実は、甘くないのだと。
男が退職の手続きを終え、旅支度が整い次第、出発という段取りになるだろう。
俺は側近にその旨を伝え、必要な準備を指示した。
すると
「すべて、既に用意してございます」
落ち着いた声が返ってきた。
……これだから、俺の側近は有能すぎる。
驚くどころか、もう笑いが込み上げてくる。
「助かる」
そう告げた瞬間、肩に乗っていた重みが少し軽くなった気がした。
外では夕陽が城壁を赤く染めていた。
意識をふと、遠くにやった。
……道をゆくなら、――もしかしたら、彼女に会えるかもしれない。
そんな可能性は、指先ほどの小さな望みでしかないと分かっているのに、
心は勝手に鼓動を速める。
もし、偶然が重なって、視線が触れ合ったなら。
それはきっと――運命だ。
……我ながら、何を考えているんだ。
頭の中に咲き乱れる妄想を深く息で押し込み、肩をすくめて反省する。
だが。
――ほんの一瞬だけ、夢を見た心の温度は、まだ冷めなかった。




