新生活5日目
今朝も、柔らかな陽の光がまぶたをくすぐるように差し込み、私は自然と目を覚ました。
「……いい天気ね。今日は作品作りの一日にしようかな?」
ふわりと伸びをしながら、そんな独り言をこぼす。
けれど、すぐに別の考えが浮かぶ。
「でも、一日中作るのは疲れるし……半日だけにして、午後は家の中を掃除しようかしら」
頭の中で今日の予定を組み立てていく。
ふと、寝間着の袖を見て、小さく眉を寄せた。
「……その前に、洗濯ね」
こちらの世界では、「毎日洗濯する」という習慣はあまりない。
下着も数日着てから、もしくは明らかに汚れた時だけ洗う。
布は貴重で、洗えば痛むし、洗濯そのものが重労働でもあるからだ。
洗剤も安いものではなく、香りの良い高級品は石鹸ひとつで大金が飛んでいく。
令嬢時代には、使用人が洗ってくれていた。
それが今では、自分の手で洗うのだ。少し大変だけれど、どこか新鮮でもある。
「そういえば……この辺り、小川が流れてたわね」
思い出して、窓の外を覗く。
幸い、この小屋の裏手を少し下ったところに、透き通るような小川が流れていた。
水音がさらさらと優しく響き、陽の光が水面で跳ねていたのを思い出す。
洗濯をするには、これ以上ない場所だ。
「今日は、天気もいいし……ちょうどいいわね」
そう呟くと、籠を手に取り、洗うものをまとめはじめた。
令嬢時代には、香りの良い石鹸を使っていた。
それは薔薇に似た香りがほのかに漂う上等なもので、肌に触れるたび優雅な気分になれた。
――貴族、だからね。
けれど今は違う。庶民の暮らしでは、石鹸も貴重品。香りどころか泡立ちさえままならない。
私は、令嬢時代から大切に愛用していた石鹸をひとつ、生活のために持ち込んだのが、服の洗濯に使うには、どうにも惜しい気がした。
服の洗濯を失念していた、というのが正しい。
「……今日は、汚れのひどいところだけに、少しだけ使いましょうか」
そう呟きながら、石鹸をほんの少しだけ削り、水で濡らした汚れた部分の布にこすりつける。
柔らかな香りがふわりと立ち上る。
それを籠に入れ、私は川へと向かった。
小道を歩きながら、思考は自然と“次の工夫”に向かう。
「……やっぱり洗剤、必要よね。確か、シャボン草とか、サポニンを含む植物があれば泡立つはず。もしくは、アルカリ性の洗剤なら……灰を使って作れるんだったかしら?」
うろ覚えの知識を辿りながら、私は小さく頷いた。
「そう、確か草木灰にお湯を注いで混ぜて……三日ほど置けば、アルカリ液ができるって読んだ気がするわ。
それを洗剤代わりにできたはず……」
頭の中に浮かぶのは、日本で読んだ“暮らしの知恵”の数々。
「幸い、竈も灰もあるし……使ってない壺さえあれば、試せれるわね」
そう考えているうちに、小川へと辿り着いた。
小川の水は澄んでいて、底まで見えるほど透き通っている。
水面には陽光が反射して、きらきらとまぶしい。
「……綺麗ね。これなら気持ちよく洗えそう」
川辺にしゃがみ込み、手でごしごしともみ洗いをする。
「洗濯板、欲しいなあ……」
ぽつりとこぼす。しゃがんだ姿勢で洗うのは、想像以上に腰にくる。
ふと視線を上げると、川沿いに大きめの平たい石があった。
「あれを使えば、少しは楽かも」
立ち上がって服を石の上に置く。私は裸足になって服を踏み始めた。石が程よい硬さで、汚れがよく落ちる。
「……なるほど。昔の人が洗濯物を棒で叩いてた理由、わかる気がするわ」
しばらくして、ようやく洗い終えた。
「ふう……終わった……!」
背伸びをして、空を見上げる。
雲ひとつない青空。
川のせせらぎと、鳥の声。
それらが混ざり合って、静かで心地よい時間が流れる。
……この世界が常春で良かった。
「洗濯機って、本当に神器だったのね……。誰か、くれないかしら?」
そう呟きながら、私は手で服をぎゅっと絞る。
冷たい水が指の間から流れ落ちていく。
「……重い。これを持って帰って、干すのね……?」
空を見上げて、小さく笑った。
青空の下、少し疲れたけれど――心は不思議と軽かった。
洗濯物を、小屋にもともとあった干し場に並べて干す。
木の枝を組んだだけの簡素な造りだけれど、風通しは悪くない。
濡れた布からぽたりと水滴が落ち、陽の光を浴びてきらめいていた。
見上げれば、もう太陽はかなり高い位置にある。
「……あら、もうこんな時間? 少し、かかりすぎたかしら」
腰を伸ばして背中を軽く叩く。慣れない労働に、体のあちこちが主張していた。
そのせいか、お腹の奥からぐうと音がする。
「これは、何か食べないと駄目ね」
私は室内に戻り、保存箱から果実水を取り出した。
瓶の中には、薄く切った果実が浮かんでいる。
「……保存箱、ありがとう。本当に助かるわ」
口に含むと、すっきりとした甘酸っぱさが広がった。
――どこかの国のペットボトル飲料を思い出す。懐かしい味。
干し肉を少し齧りながら、次の作業を考えた。
「さて、何を作ろうかな?」
噛み切るのに一苦労する干し肉に苦笑しながら、
「……歯が強くなりそうな生活ね」と呟く。
しばらく休んでから、手を洗い、作業台に向かった。
今日の午後は小物入れを作ることに決めていた。
ドレスのレースの部分や、刺繍の部分を組み合わせ、ワンポイントとして縫い込んでいく。
針を進めるたびに、頭の中の雑音が消えていく。
ちく、ちく、と静かな音だけが小屋に響く。
「この刺繍、とっても素敵。このレースも……可愛いわね」
夕方、窓の外がオレンジ色に染まるころ、ようやく針を置いた。
机の上には、小物入れが5個。
一つ一つ、色も形もそれぞれ違う。
「初日に比べて、指がずいぶん動くようになったかしら」
私は小さく息をつき、完成した品々を眺めた。
どれも、自分らしい温かみのある仕上がり。
「疲れたけど……うん、良いのができたわ」
頬を緩めながら、窓の向こうに沈む太陽を見つめた。
夕飯は、朝に作った具沢山のスープの残り。
温め直すと、野菜と肉の香りが小屋の中にふわりと広がった。
そこに、昼間小川のそばで見つけたクレソンのような植物を、指でちぎって添えてみる。
「……クレソンとは、やっぱり違うかしら」
口に含むと、少し青みのある香りが鼻に抜けた。
苦味もあるが、どこか爽やかで、野草らしい力強さを感じる。
「何の香りだったっけ……」
首をかしげながらも、スプーンを口に運び続けた。
「まあ、新鮮な味だし、毒でもなさそうね」
そんな独り言に、思わず小さく笑ってしまう。
スープにパンを浸して食べると、固くなった生地が程よく柔らかくなり、今日一日の疲れをゆっくりと癒してくれるようだった。
食後の片付けを終えるころには、外はすっかり夜の色。
ランプの明かりが小さく揺れる中、ベッドに倒れ込んだ。
「……ふぁ……もう、だめ……」
呟いた言葉は最後まで形にならず、
まぶたを閉じると同時に、静かな寝息が小屋の中に満ちていった。
ーーー皇子視点
朝、まだ陽が高く昇りきらない頃だった。
執務室の扉が叩かれ、面会を希望した昨日の男が姿を現した。
「……おはようございます」
その声には疲労が滲んでいた。
顔色は悪く、目の下には濃い隈――間違いなく、ろくに眠っていない。
その腕には、昨日渡した書類にびっしりと書き込みをした紙束が挟まれている。
……原因は、俺か。
気づかないふりをして、問いかけた。
「仕事はどうしたのだ?」
「今日は休みを取りました」
短く答えた男は、すぐに真剣な表情で続けた。
「幾つか、質問があって参りました」
俺は頷き、席を勧める。
男は書類を広げ、次々と項目を指し示していった。
「この“王族は全て平民にする”というのは、決定事項ですか?」
「そうだ。例外はない。それで浮いた予算を他の事業にまわす」
「……有能な王族がいたら?」
「統治者の権限で爵位を与えればいい。それほど有能ならば、な」
男は一瞬だけ黙り、次の頁をめくる。
「“王城と一番豪奢な別荘以外は民間に売り渡す”……これは本気ですか?」
「本気だ。維持費がかかりすぎる。民間なら保養地や貴族向けの会場として活用できるだろう。その方が金も人も動く。新しい雇用も生まれる」
男は深く頷いた。
「“職業斡旋事業”というのは?」
「王族に仕えていた者たちは職を失う。家に戻る者も、新しい道を探す者も出るだろう。 補助金、相談、支援――まとめて行う。希望者は皇国に来ても構わん」
「……なるほど」
男はまたページをめくる。指先は紙で赤くなっていた。
「この数字の根拠が、いまひとつ見えません」
俺は机の横の資料の山から、一冊分ほどの分厚い紙束を抜き出し、
どんと男の前に置いた。
「ここの数字を参照している。他のも必要なら、それぞれ分けてやるが?」
「……拝見します」
それからの応答は、ほとんど戦いのようだった。
議論は延々と続き、外が夕陽に染まる頃、ようやく一区切りがついた。
男は最後に、静かに言った。
「……皇子が、直接統治されるのが一番では?」
……なんで、そんな面倒なことを俺がせねばならんのだ。
「有能な人物は、その能力に見合った仕事をすべきだ。 して、それに相応しい報酬を受けとるべきだと思っている。責任は俺が取る。――皇国の利益に繋げられるか否か、その答えを聞きたい」
男は黙り込んだ。
沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに俺を見つめて言った。
「……お引き受けします」
その声には、覚悟の響きがあった。
俺は満足げに微笑み、短く告げた。
「頼んだぞ」
窓の外では、夕陽が沈みゆく空を金色に染めていた。
王国の統治は――あの男なら、きっと何とかしてくれるだろう。
少なくとも、俺が手を下すよりもずっと堅実に、冷静に。是非、頑張ってくれ。
だが、王族の浪費は本当に酷いものだった。
金の流れを辿るたびに、胸の奥で彼女の言葉が蘇る。
――「このままでは、国が傾きます」
あの時の真剣な瞳。
まるで、未来を見透かしていたかのようだった。
「……その通りだな」
独り言のように呟き、机に置かれた資料を閉じる。
彼女はいま、どこで何をしているのだろう。
どこかの静かな図書館で、本を積み上げながら、また新しい何かを探しているのか。
それとも、俺の知らない空の下で、自由に笑っているのか。
――どちらでもいい。
ただ、彼女が望む場所で、穏やかに生きているのなら。
けれどいつか、もし風の流れが再び俺のもとへ彼女を運ぶなら――
その時は、必ず迎えよう。
……そして、決して離さない。
そう思いながら、俺はそっと目を閉じた。
胸の奥で、消えぬ想いが、静かに灯り続けていた。




