新生活4日目
今朝も、太陽の気配で目が覚めた。
「……おかしいわ。もっと寝ていてもいいのに」
まだ眠気の残る頭で小さく呟きながら、ノエルはのそのそとベッドから抜け出した。
今日は孤児院へ行く予定の日。
そう思うと、自然と身体が動く。
井戸に向かい、桶を引き上げながらふと気づく。
「……あら、手が荒れ始めてる」
よく見ると、指先の皮が少しささくれていた。
ハンドクリームなんて便利なものは、この世界にはない。
「代わりになるものを探さないとね。……令嬢時代はこんなこと、なかったのに」
思わず苦笑する。
けれど、それだけ今は自分の手で生きているということでもある。
少しだけ誇らしいような、くすぐったいような気持ちだった。
朝ごはんは、できるだけ簡単に済ませることにした。
昨夜のうちに仕込んでおいた、少し大きめに切った肉と野菜のスープを温め直す。庭でちぎった、ミントの香りに似た葉を細かく刻んで少しだけ入れてみる。……すっきりした匂いだけど、スープには合わないかしら?これは、お茶で試すのが良さそう?
固くなりかけたパンをざっくり切り、スープに浸して食べる。
スープを吸ったパンは柔らかく、ほんのりとした塩味が優しい。
「パンって、日が経つと固くなるのよね……。日本だったら、フレンチトーストにするのに」
ふと懐かしい記憶がよぎる。
砂糖と卵と牛乳――今の自分には少し贅沢な材料だ。
「砂糖は、当分無理ね」
そう呟きながらも、心のどこかで手に入れる日を夢見る。
食べ終わると、さっと食器を片付けて、今まで作ってきた小物を鞄に詰めた。
巾着袋に小物入れ、リボン、そして小さな御守り袋。全てに小さく"N"のイニシャルを飾り文字風にして刺繍をしてある。
見ているだけで、ちょっと心が弾む。
次に、身だしなみを整える。
髪を三つ編みにしてお下げにし、肌を薄く茶色にする。いつかは、日焼けしてこれも不要になるかもね、と思いつつ。
目薬をさして、瞳を赤から茶色に変える。
頬にはそばかすを描き、耳の赤いイヤリングはフードを深く被って隠した。
「よし。町娘、完成」
軽く息を吐くと、ノエルは笑った。
心の中の緊張とわずかな期待が、静かに混ざり合っている。
「さて、行きますか」
外は、柔らかな朝の光で満ちていた。
風がカーテンのように木々を揺らし、世界が一日を始めようとしている。
ノエルはその光の中へ、一歩を踏み出した。
一度歩いた道だから、なんとなく覚えている。ノエルはてくてくと歩いた。
すり減った靴の底が土を踏む音が、心地よく響く。
「……野の花も、意外と可愛いわね」
白や黄色の小さな花。どれも控えめだけれど、眺めていると心がほぐれていく。
「庭に植えようかしら。でも……今は掘る道具も無いのよね。次回にしましょう」
そう呟きながら、花を見下ろして微笑んだ。
「帰りに少し摘んで、押し花でも作ろうかな?」
空は高く、雲は流れ、緑は陽を受けて鮮やかに光っている。
ノエルは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
――自由、だ。
思わずそう感じて、口元が緩んだ。
やがて、孤児院の白い建物が見えてきた。
この姿で来るのは初めて。
事前連絡も取っていない。
「……さすがに、ちょっと緊張するわね」
胸の奥がきゅっと締まるような感覚を覚えつつ、ノエルは門をくぐった。
庭で遊んでいた小さな子どもがこちらに気づき、駆け寄ってくる。
「こんにちは。あの、院長先生のところに行きたいのだけど」
「こっちです!」と元気に案内してくれた。
子どもの後をついて行くと、簡素な木の扉の前にたどり着く。
扉を軽く叩くと、中から落ち着いた声が聞こえた。
「入りなさい」
ノエルは深呼吸して中に入る。
部屋の中は整理され、古びた机の上には書類が整然と並んでいた。
院長と思われる女性が椅子に座り、じっとこちらを見ている。
「……あの、あちらの家に住み始めたノエルと申します。今日は、ご挨拶とお願いに伺いました」
町娘らしく、少しおどおどとした口調で頭を下げる。
院長は、ゆっくりとノエルを上から下まで見た。
なめるような視線。
まるで鎧の隙間を探るような目だ。
(……絶対、令嬢だって気づいてるわね。目が怖いわ。歴戦の戦士みたい)
ノエルは心の中でひやりとしながらも、鞄を開けて作ってきた小物を取り出した。
「……これは?」と院長。
「私が作った物です。これを、こちらの孤児院の子どもたちが作った品と一緒に、売っていただけないかと」
院長は黙ってひとつ手に取り、布を撫でるように見つめる。
指先の感触を確かめるようにして、小さく息をついた。
「ここで出すには、布が上等すぎるのではなくて?」
「ある貴族が寄付してくれた、ということにしてはどうでしょう。その分、少し価格を上げていただければ」
院長は眉を上げた。
「孤児院のメリットは?」
「売上の二割を孤児院に納めます。……それで、どうでしょう?」
沈黙。
院長は目を細め、しばらく考えるように机の上を指で軽く叩いた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……三割にしたら、他の販売方法も探すこともできるわよ? 孤児院だけだと、どうしても売れる機会が少ないの」
(三割……痛い。でも、これは……悪くない話よね)
ノエルは少し考えたあと、小さく頷いた。
「少しずつしか作れませんが、それでもいいですか?」
「欲しい人には待たせればいいのよ。問題ないわ」
「……わかりました、三割でお願いします」
こうして、緊張の交渉は終わった。
価格の設定は院長に一任した。
――この世界で長く生き抜いてきた人なら、きっと私よりも市場に詳しい。
部屋を出た時、ノエルは小さく息を吐いた。
肩の力が抜けて、微笑みが浮かぶ。
少しずつだけど、生活の輪郭が形になっていく――そんな気がした。
帰り道、ノエルは野に咲く小さな花をひとつ、またひとつと摘んで歩いた。
白色で五枚の花弁、黄色でジャーマンカモミールを彷彿させる形。色々ある。どれも控えめで可憐な花たち。
「やっぱり、自然の色はきれいね」
思わずそう呟きながら、鞄の上の方に場所を作ってそっと並べていく。
家に着くと、まずは摘んだ花を机の上に並べ、かつて運んでおいた本を取り出した。
厚めの紙を開き、花の形が崩れないように丁寧に広げて挟む。
「数日後には、きっと綺麗な押し花になるはず」
小さく笑みを浮かべる。……前に作ったのは、いつだったのかしら?懐かしい。
残った花のいくつかは、小さなお皿に水を張って、その上に花だけを浮かべた。
水面に映る花の色が、ゆらゆらと揺れる。
寂しかったテーブルが、少しだけ華やかになった。
「今日の夕飯の話相手は、この花たちなのね。ふふ」
夕飯の支度をしながら、ノエルはほっとした気分で鼻歌を口ずさんだ。
鍋でスープを温め、大きめに切っていた肉を取り出し、一口大に切る。
そこへ、トマトに似た野菜を刻み、塩を混ぜてソースのようにしてかけた。
湯気とともに、朝のミント系の香りがほんのり立ち上る。
「……これなら、意外と合うかも?」
固くなったパンをスープに浸す。少し、クルトンのような香ばしさが広がった。
静かな家に、スプーンの音だけが響く。
外では虫の声。
「今日も……よく頑張ったわね」
自分で、自分を褒めてあげる。
片付けを済ませると、疲れた身体をベッドに沈めた。
柔らかな布に包まれ、まぶたが自然に落ちていく。
微かに香る花の匂いに包まれながら――ノエルは静かに、夢の中へと落ちていった。
ーーー皇子視点
ふと、国王の言葉が、妙に鮮明に思い出された。
――「属国となった王国をどうするのか、委せたぞ」
……いや、どうするも何も、それ丸投げだろう。
さすが父上、責任だけは見事に俺に押しつけてきたな。
正直、面倒この上ない。だが、現実に目の前の机には、王国に関する膨大な収支報告書と資料の山が積み上がっていた。
書類の高さが、俺のやる気を低下させている。
「……よし。誰かに任せよう」
俺は椅子に深く背を預け、頭の中で候補者を思い浮かべた。
野心があって、能力もあり、そして今の職務に不満を抱いている――そんな人物。
すぐに一人の男の顔が浮かんだ。
子爵家の出ながら、己の努力だけで皇国の財務局に上り詰めた稀有な人材。
あの貴族主義の中で地位を築いたのだから、相当な才覚の持ち主だ。
おそらく、いまの待遇には満足していないだろう。むしろ、鬱憤を抱えているはずだ。
「……彼だな」
俺は側近を呼び寄せ、彼の名を告げる。
「至急、面会の手配を頼む。できるだけ早く」
側近は頷き、静かに部屋を出ていった。
静寂が戻る。
俺は積まれた資料の束を一つ手に取り、読み進めながら改善の方向を探り始めた。
数字は嘘をつかない。
それが救いでもあり、残酷でもある。
やがて窓の外が赤く染まり始めた。
……もう夕方か。昼食も食べていなかったことに気づく。
腹は減っていたが、奇妙に満足感があった。
机の上には、分厚い本のような紙束が積み上がっている。
俺が考えついた事を書き綴ったものだ。
一日で、これだけ進んだのなら悪くない。
「さて……ここからが本番だな」
俺は深く椅子に座った。
吐いた息とともに言葉が溢れた。
「彼女が――いつでも戻れる場所を、作っておくか」
……もし彼女が、また前の場所に帰ってくることを望むのなら。
……もし、彼女が、俺の隣を望むのなら。
その時は、迷わずに辿り着けるようにしておきたい。
心のどこかで、そんなあり得ない願いを抱いている自分に気づく。
俺は疲れた頭を軽く振り、ふと浮かびかけた彼女の微笑みを――そっと、胸の奥に押し込めた。




