転移陣のある世界
私は、静かに周囲を見渡した。
見知らぬ森の中――風が冷たく頬を撫で、夜はしんしんと深まっていく。
「……とりあえず、寝る場所が必要ね。着替えも。」
独りごちて、息を吐く。
三年という時間があった。
その間に何の対策もしていなかったのなら、それはただの愚か者だろう。
――だが、私は違う。
万が一の時に備え、練りに練った。
この世界でどう生き抜くか、どう姿を消すか。
前世は日本で暮らしていた。料理もできるし、接客業も経験がある。
語学も得意だ。翻訳業をしてもいいし、小さな飲食店を開くことも考えた。
けれど――この世界は甘くない。
身元も保証もない“どこからともなく現れた女”が簡単に職を得られるはずもない。
そう考えていたとき、ひとつのひらめきがあった。
それは、かつて孤児院を慰問していたときのことだ。
――ドレスを解体して、小物にして売ればいい。
宝石類は取り外して、少しずつ換金する。
それをとりあえずの生業にしては?
今の私なら、街外れの一軒家を購入できる財力がある。
だが、問題は手続きだった。
貴族の私が動けば、すぐに足がつく。どうしても協力者が必要だ。
そして、私は目をつけた。
あの孤児院の女性院長――いつも穏やかに微笑んでいるが、その孤児院の子供たちは、他のどこよりも優秀だった。
読み書き、礼儀、態度、すべてが整っている。
表面だけの慈善家ではない。確かな教育者、そして……切れ者だ。
私は彼女に交渉を持ちかけた。
礼は弾む。だから、秘密裏に街外れの一軒家を購入してほしい――と。
次に訪問する時、その場所を案内してもらえると嬉しい、と。
院長の仕事は見事だった。
次の訪問の折、彼女は地図と鍵をそっと私に渡した。
「この孤児院から、そう遠くはありません。
町娘の服と靴、そしてフードも用意しています。」
なるほど。――あとは自分で何とかしてね、ということか。
私は静かに笑って礼を述べた。
「ありがとうございます。……くれぐれも秘密にしておいてくださいね。」
そして少なくない金貨を渡しておいた。
私は夜中に静かに起きて、行動を起こした。まず、場所の確認。次に、物資の運び込み。この行動は、無駄になるかもしれない……、しかし、保険は必要だわ。
まず始めは、孤児院まで転移をした。孤児院には、前回の時に印しておいた。その後、徒歩で一軒家を確認。……暗闇は危険ね。少し恐怖を感じたが、女は度胸。……その日は月明かりがあって、良かった。
鍵を使って中に入る。こじんまりとして、掃き清められていた。……院長、良い仕事をするわ。
私は、一軒家に転移の印をした。これで、私の部屋から直通で行ける。あとは、少しずつ必要な物を運ぶだけだ。
回数を重ね、保存食、普段着、ドレス、小さめの宝石、裁縫道具、糸、色々運び込んだ。
寝不足は、仕方ない。
あの断罪の朝、私は自分の部屋の転移陣の痕跡を消した。一軒家に続く転移陣。それはもう、念入りに。
そして今、夜の闇に紛れて、私は一軒家へと繋がる転移陣を作り出す。
市販の転移魔道具は誰でも使える。普通は、転移陣とは転移陣を書き込みした魔法具を指すのだ。
しかし、私は違う。
自らの魔力で空中に転移陣を描き、行先を直接指定できるようにした。
これは、私の最大の秘密。
慎重に、指先で魔力を流し込みながら、空中に陣を描く。
淡い光が線を結び、やがて複雑な紋様が浮かび上がった。
完成までに、どれほど時間が経っただろう。おそらく一時間ほど。
青白く輝く転移陣の前に立ち、私は小さく息を吐いた。
――そして、ナイフを取り出す。
皇国は、魔力の痕跡を辿る術を持っていると聞く。
ならば、私の“痕跡”を消さなければ。
長い髪を肩のあたりで掴み、ざくざくと切り落とした。
夜風が切り口をなぞり、ひやりと肌を撫でる。
「……悪役令嬢は、ここで本当に終わりね。」
切り落とした髪には魔力が宿るという。
私は、それを布に包み、そっと置いた。
封印箱を開ける。
中には、赤い宝石のついた小さなイヤリング。
どこから見てもただの飾りだが――実は魔力を覆い隠す強力な魔道具。
これを手に入れるために、どれほど苦労したことか。
けれど、今、この時のためなら、それも報われる。
私はイヤリングを両耳につけ、深く息を吸った。
指先で転移陣の中心に触れる。
――光が広がる。
静寂の森が、一瞬にして溶けていった。
そして私は、過去をすべて捨て、新しい場所へと消えた。




